第18話 ★命月~魏武の命日をめぐる徐晃と曹洪

 王が亡くなって、一年になる。

 昨年、禅譲が行われ、我々の国は「魏」となった。

 王は、「武皇帝」と呼ばれるようになった。けれど我々は、「武祖様」と呼んでいる。

 拙者にとっては、思い出したくない上に、口にしたくない名だ。

 死んでくれてよかった。

 そう思っていることは、誰にも言わずにいる。

 今は、黄初二年(221)春正月である。


「公明どの」

「――何でしょう、子廉どの」

「お疲れなのですか。もう、今日は、お休みになりますか」

 細い銀の腕輪から即座に視線をはずす。

 肌と肌を接する時も、それは子廉どのの左手首で鈍い銀の光を放っている。指でつまんで少し力を入れればかんたんに折れてしまいそうな細さだ。

「いえ、ご心配には及びませぬ」

 まるで肌の一部であるかのようだった。主張しすぎない、しかしそれでいてそこに在ることを見る人にはっきりとわからせるその細く鈍い光は、交合の最中であっても忍びやかに光っていた。

 その腕輪が誰かから贈られたものなのか、それともご自身であがなわれたものなのか、答えはおのずと出ている。

 しかしほんとうのことを知ることが怖くて、いまだに聞けずにいる。

 そのまま知らずにいれば拙者は、胸の内側が痛むこともなければ、涙がにじみ出ることもない。


 急ぎすぎたのだろうか。

 もっと時をおけば、よかったのだろうか。

 帝が、明確な理由もなく子廉どのを投獄した。すぐに卞太后たちが働きかけ釈放されたが、拙者はそのあとすぐに訪れてしまったのである。

 子廉どのは、拙者を受け入れてくれた。

 しかしそれは、拙者を想ってのことではない。

 きっとご自身と拙者を重ね合わせたのだ。ご自身が長い間叶わぬ恋に苦しんでおられたからこそ拙者の想いがわかり、その体をひらいてくださっただけ――

 そう考えると、また胸に痛みが、波紋のように広がってゆく。

 体はひらいてくださった。しかし、心はそうではない。

 あの鈍く細い銀の光。その細い部分だけ、拙者には閉じられている。

 拙者が決して入り込めない、細い光。

 その光の中にいるのは――

 考えたくない。


 ほんとうは今日、訪れないつもりだった。

 今日は命日だから。

 きっと、お一人でいたいはずだから。

 一人で、想っていたいはずだから。

 それでも一人でいると、あの肌の温かさを思い出す。声を聞きたくなる。

 体は素直だ。目の前にあの方がいるように、反応している。

 月は見えない。

 澄んだ夜気が部屋の中にまで染み渡る。

 袍をかけ、借り住まいから出た。


 会ってくださらないかもしれない。

 もう、休まれているのかもしれない。

 あの銀の腕輪をつけたままそうしていると思うと――二人の関係を終わらせたくなる。


 恋しては、いけなかったのだ。

 想うことさえ、許されない相手だったのだ。

 あなたへの想いをかかえたままでいれば、あんな腕輪のことで悩むことはなかったのに。

 あんな腕輪――偶然を装って壊してしまうことだって、できるのに。


 そんなことをすれば、あなたは、きっと――


 雪だ。

 降ってきた。

 そういえばあの日も、雪だった。

 知らせを受け、急いで来た。

 なきがらは寝台の上にあった。

 ひざまずいている人々の中で、ただ一人あなただけが、立ち尽くしていた。

 なきがらをじっと見つめていた。

 その瞬間、安堵した。

 ようやく死んでくれたのだと。

 むろん、そのことは誰にも言わずにいる。


 子廉どのの借り住まいの前にいる。

 扉を叩こうかどうしようか迷う。

 室内は暗いようだ。

(もう、お休みになられた?)

 息を吐く。白い。

 どのくらい、扉の前で立っていただろうか。

 すっかり冷たくなった手のひらを握り、拙者は扉を叩いた。

「どなたですか」

 子廉どのの声がする。

「徐公明です」

 いつもはすぐに開けてくださるのに、今夜は妙に間が空く。

 拙者は、待つことにした。

 もし、開かないままなら、帰ろう。

 そんなことを考えていると、かんぬきを上げる音がした。

 扉が薄くひらく。

 端整な顔立ちが、細い隙間からのぞく。

 暗がりでよく見えないが、その切れ長の目は、泣いたあとのようにも見える。

「夜分遅く、申し訳ございません」

「――いえ」

「中へ入っても、よろしいですか」

 また、間が空いた。

(どうせ、考えていたのでしょう)

 胸に浮かんだ暗い言葉は口にせず、胸の奥深くへ押し込む。

 ところが、返ってきた言葉は。

「はい」

 さらに扉が開く。

「では、失礼します」

 中へ入ると、ろうそく立てを持った子廉どのがいた。

「ずいぶん、遅かったのですね」

 拙者は袍を脱いだ。

「――用事がありまして」

 嘘である。

 拙者を見る目は、いつもより静かだ。

「寒かったのではありませんか」

「ええ……」

 子廉どのが尋ねる。

「このあと、ご自宅へお戻りになりますか」

 ――正直に答えたものだろうか。

 拙者は、薄笑いを浮かべる。

「戻った方が、ご都合がよろしいですか」

 ろうそくを持つ手は――左手だ。

 細い銀の光。

「そんなことはありません」

(その腕輪をつけているのに、そんなことをおっしゃるのですか?)

 拙者は笑みを消さない。

「お一人では、お寂しいですか」

 子廉どのは目線を落とした。

「――いえ」

 その腕輪があるから、寂しくないのでしょう。

 そう言おうとした。

(拙者はただ、あなたに知ってほしいだけだ)

 拙者はあなたに、ずっと、恋をしている。

 それなのにあなたが想うのは、拙者ではない。




 兄上が逝った。

 その時のことはよく覚えている。

 今日のような、雪の降る日だった。

 整った白い顔は、わずかにほほえんでいた。

 俺の腕に抱かれて兄上は息を引き取った。

 まだ温かいなきがらを、俺は抱いていた。

 横にならせるよう、司馬仲達どのや賈軍師に言われ、なきがらを横たえた。

 何も考えることができなかった。ただ、兄上の顔を見ていた。

 次々と人が駆けつけた。

 その中に――彼もいた。

 視界の片隅に彼をとらえた時、胸が切なく疼いたことを、俺は、誰にも告げたことはない。

 そして彼が、人知れず――俺にはなぜか遠くなのにはっきりと見えた――ほっとしたように笑ったことも、今でも胸の奥にしまったままだ。

 左手首につけた、細い銀の腕輪を見る。

 冷たく、鈍く、光っている。

 外して、手のひらの上に載せた。

 兄上が作り、贈ってくれたもの。

 互いを常に感じるためのもの。

 でもそれは弱くて細い。つまんで少し力を入れれば、すぐにぽきりと折れてしまうだろう。

 ある時、彼の指が、この腕輪をそっとなぞった。

 体が冷たくなる。

 今すぐに起きて服を身に着けたい。

 彼から早く離れなければ。

 言わなければ――もう、お帰りください。

 そう思ったが、深い官能は俺の体を甘くむしばんでいた。体が重くて起き上がれない。

 低く静かな声で彼が言う。

「以前からお尋ねしようと思っていたのですが、これは、何なのですか」

 答えずにいた。

 彼の前で言えない。まして、交合した直後なのに、兄上が互いを感じるために贈ってくれたものだなどと、口にできない。

 彼はさらに問う。

「どなたがあなたにお贈りになられたのですか」

 言えない。言えるわけがない。

 見下ろす彼の目は、暗く、静かで、そして、凶暴だ。

 恐ろしかった。

 戦でも恐怖を感じたことはなかったのに。

 彼から、なぜか目をそらせない。

 やっと気づいた。彼が怒りを感じているのは俺ではなく、この腕輪を俺に贈った兄上だということに。

 彼は俺の左手首にある銀の腕輪を外す。

 そのまま寝台の上に座り、細い月明かりにそれをかざした。

 俺も起き上がる。

 返してください。

 なぜかその一言が出なかった。

 彼は腕輪を指でつまみ、力を入れる。

 俺はただ、彼がそうするのを、見ていることしかできなかった。

 このまま彼の手の中で腕輪が折れたら。

 折れたら――その時は。

 そんなことを考えた。

 むしろ――折ってくれた方が楽になるのに。

 兄上が逝った時に、その腕輪も折ってしまえばよかったのに。

 なぜかそれをしないまま、彼と体を交わしてしまった。

 緊張しながら、会いに来たと告げた彼をはっきりと思い出せる。

 汗に濡れた肌と肌を重ねた時、即座に快楽を感じた。兄上のことを完全に忘れた。

 その時も銀の腕輪は、俺の左手首で鈍い光を放っていた。快楽に溶けていく俺の体の中でただひとつだけ、溶けずに残っていた。

「折ってください」

 彼は俺を見る。その目は熱く、そして暗い。

 彼は俺の左手首に腕輪を戻した。

 俺は彼にただす。

「どうして、折らないのですか」

 面を伏せたまま彼は問う。

「本心でいらっしゃいますか」

 黙っている俺の左手首を彼は右手でゆるく握る。

「拙者にできるのは待つことだけです」

 その声は凶暴で暗くて切なくて、哀れだった。

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