第17話 ★月のような誰か~曹洪と曹植

 この物語は、 「魏書」任城陳蕭王伝 第十九 、「陳思王植伝」の記述と、その注『魏略』の記述から、着想しました。



「子廉、おまえさんにしか頼めないのだよ」

 義姉上――卞氏は疲れきっている。

 ここは司馬仲達どのの邸だ。ひそかに設けられた場だった。

 今は黄初四年(223)。

 卞の義姉上が兄上との間に設けた四兄弟、丕、彰、植、熊。そのうち丕が今の帝だ。弟たちは王に封ぜられたが、ひんぱんに領地を動かされている。勢力を築かせないようにしたいという、丕――子桓の思惑が、あからさますぎる。

「陛下に知られるわけには参りませぬので」

 仲達どのはそう言った。

「彰も突然亡くなったし、熊なんぞは孟徳が亡くなってすぐ丕に呼び出されたとたん、首をくくっちまっただろう? 残ってるあたしの子は、丕と、植だけなのだよ。子孝も呉の征伐から帰ってきたら体を壊して、あっという間に亡くなっちまった。おまえだけが頼りなのだよ、子廉」

 俺は義姉上に確かめる。

「子桓が子建を除こうとしているというのは、確かなのですか」

 義姉上がうなずく。

「仲達の間者が知らせてきた」

「何ゆえ」

「それがわかりゃあ、こんなにあたしは悩んでないよ」

「確か、王族には軍を持たせておらぬと聞いておりますが」

「だからおまえさんにしか頼めないのだよ。子廉、植を守ってやっておくれ」

 仲達どのが言葉を添える。

「雍丘王をお守りする武官はおりませぬ。陛下に知られてはならぬゆえ、正規の将兵は動かせませぬ。それゆえ無官の子廉将軍にしかお願いできないのです」

 雍丘王。植の新たな領地だ。昨年は違う国だった。その時の領邑は二千五百戸。王が所有する戸数としては少なすぎる。子桓の悪意を感じた。

 仲達どのがさらにつけ加える。

「雍丘王は都に参内なさるご予定ですが、まだお見えになっておられませぬ」

「自らくびれたのじゃないだろうね」

 肝が太いはずの義姉上が泣き出す。

 俺は仲達どのに尋ねた。

「子建はどこにいます」

「都の郊外にいらっしゃいます」

「場所を教えてください」

 公明どのの顔が頭に浮かんだ。毎夜訪れてくれる。彼と体の関わりをもつようになってもう二年が過ぎた。

 しばらく会えないことを伝えたい。

 しかし、務めは秘匿しなければならない。

 仲達どのから場所を聞く。書き残さない。隠密行動の際は証拠を残してはならないことを、養子で、もと兄上の間者であり庶子だった暁雲から教わっている。

 俺は立ち上がった。

「支度をしますので、これで失礼します。明朝には発ちます」

 義姉上が身を乗り出した。

「礼は必ずするよ」

「結構です。義姉上のおかげで財産はすべて戻りましたから」

 俺の財産は官職と共に、子桓がすべて没収した。義姉上の口添えがあったから、財産だけは戻ってきた。

 今日も公明どのは訪れるだろう。

 彼の笑顔を、早く見たかった。


 明日からのことを考えると気が重い。

 子建の居場所はわかった。妙なことを考えていなければ良いのだが。

 外はもう暗い。

 月は、出ているのだろうか。

 戸を叩く音がした。

 胸が痛い。

 兄上とむつみあっていた時と同じ、締めつけるような、甘い痛みだ。

 戸口へ足早に向かう。

「どなたですか」

「徐公明です」

 戸を開けた。

 彼が、立っていた。

「公明どの」

「子廉どの」

 彼の笑顔を見たとたん、何も言えなくなる。

 俺は今、どんな顔をしているのだろう。

 彼は優しい目で聞いてくれた。

「何か、お話がありますか」

「――はい」

「拙者でよろしいのなら、お伺いしましょうか」

「……中へ、お入りください」

 戸を閉める。かんぬきを下ろした。

「――公明どの」

「何ですか、子廉どの」

 上ずった声で、俺は告げた。

「また隠密の務めを、いたすことになりました」

「甲冑を脱ぎます。お待ちください」

「手伝います」

「かたじけない」

 公明どのの甲冑をはずす。指先で触れる彼の体は温かい。そのぬくもりで俺は泣きそうになる。

「お身内のことですか」

「どうして、おわかりになるのですか」

「だてにあなたと時を共に過ごしておりませぬよ」

「――おっしゃる通りです」

「幾日か、お留守になさいますか」

「ええ」

「お一人のお務めですか」

「はい」

 俺一人で仕留められるだけの刺客ならば、ありがたいのだが。あの、猜疑心の強い子桓のことだ、刺客の三、四人は送り込んでくるだろう。

 彼が、俺の頬に、そっと手のひらを添えた。

「拙者もおつれください」

「しかし、軍務が」

「どうとでもなります」

「これは内密なので――」

「仲達どのに取り次いでくださいますか。拙者から願い出ます」

「どうして……」

 彼は言った。

「言ったでしょう? ずっと、離れないと」

 どうしたと言うのだろう。いつになく体がざわめいている。何も考えられなくなる。背骨を快感が駆けのぼる。

「公明どの、もう……」

「子廉どの、いかがなさいましたか」

 声にならない。言葉さえ浮かばない。

 彼はそんな俺を、いとおしそうに見つめる。

 頭が、とろけるようだ。

 彼が感無量だという感じでほほえむ。ほほえんでいるのに、彼は無言で泣いていた。


 仲達どのは不快そうな顔をしている。

 公明どのは無表情だ。

 仲達どのは俺を睨んだ。

「子廉将軍」

 俺は、仲達どのの目を、ちらと見る。

「何でしょう」

「何度も申し上げますが、これは極秘のことなのです」

「承知いたしております」

「ではなぜここに徐将軍がおられるのですか」

「雍丘王に危険が迫っておることを聞き及びましたゆえ」

 仲達どのが、頭が痛いとでも言うように額を押さえる。

 彼はきっぱりと言った。

「皇族の方々の御身をお守りいたすのは武官の務めでございます」

 仲達どのが盛大にため息をつく。

「首尾がわかればご報告くださいませ」

 俺の小さな声と、嬉しさを隠せない彼の声が、重なった。

「心得ました」


 子建は関所の近くにいた。

 俺を見ると、驚いて、声を上げた。

「子廉のおじ上――」

「久方ぶりだ、子建」

「何ゆえ、ここへ」

「子桓がおまえの首をとろうとしていると聞いたものでな」

 子建は、細面の顔を伏せる。

「姉上に、陛下にお取り次ぎくださるよう、頼んでおりました。しかし関所の役人がそのことをどこからか聞きつけ、足止めされました」

「なぜおのれで会いにゆかぬ」

「会いになど――私になど帝はお会いにならぬからですよ」

 子建は、さげすむように笑う。

「おわかりでしょう? おじ上」

「何がだ」

「あなたも私たちと同じではありませぬか」

 子建は、子供の頃から、他人にわかるように話をしない。察しのよい者なら子建の言葉はわかるのだが、俺のようにさしてつき合いのない親戚には、伝わらない。

 兄上とは似た者同士で、だから兄上はいっとき、子建を後継ぎにしようと本気で考えていた。だいぶ話もしてやっていたようだ。

 しかしなぜか兄上が子建に失望することばかりが続いた。子建が酒に溺れたことが主な原因だった。

 そうは聞くが、それが事実かどうかは、俺にはわからない。

 子建は、嫌な笑いを貼りつけたまま、言った。

「誰が告げ口いたしたかは存じませぬが、私は兄上からの使いに会いませんでした。会えるわけがないでしょう。だって私は、兄上をこの手で殺そうとしているのだから」

 俺は、言葉が出なかった。

 真相は逆だったのだ。

 子建は泣いた。

「私が何をしたというのですか。ただの同腹の兄弟、それだけです。兄上はおかしい」

 子建が血走った目を上げた。

「私たちがどんな目に遭っているか、わかりますか。何度も国がえされ、もてる戸数は列侯にも及ばない。軍ももてない。これでは生殺しだ。おじ上、あなたはいい。官職と財産を没収されただけでしょう。私たちは日々、死に追いやられてゆくのです。だから殺すのです。異腹の弟たちのぶんまで私が。急に亡くなった子文の兄上の無念を私が――」

 俺は、子建に言った。

「恨み言を言う相手は、俺ではなかろう」

「会いにゆきますとも」

 子建は涙をおさめた。

 俺は、外で待っていた公明どののところへ戻った。

 彼は明るい笑顔で俺を迎えてくれた。

「よかった、子廉どの、ご無事でしたか」

「命の危険はないようです。王は帝にお会いになると仰せになりました」

「では、同行いたしますか」

「いえ――」

 俺は、言った。

「その必要は、ないと思います」

「何ゆえ」

 子建は、子桓に何もできない。

 そのことだけは確信できた。

 子建はただ、おのれの不遇を、兄に訴えたいだけなのだ。

 それを回りくどいことをするから、周囲は、「子桓が子建の命を狙っている」と、理解してしまうのだ。

「子廉どの――」

 公明どのは心底、俺を心配してくれている。

 子建も、俺たちと同じように、わかりやすいところで生きていればよかったのかもしれない。

 以前に兄上が、子建が書いた文を見せてくれたことを思い出した。言葉を尽くしてあったが、俺には、さっぱりわからなかった。

 俺は、彼にほほえんで見せた。

「身内のもめ事です。巻き込んでしまい、お許しください」

 空には月が、静かにやわらかく、光っていた。

 彼は、そんな月光によく似た笑みを浮かべる。

「無理をいたしましたが、ご一緒できてよかった」

 顛末を話すと、彼は、静かに言った。

「子建様にも、あの月のような誰かがいれば、よかったのかもしれませんな」

「月のような誰か?」

「そうです。いつも静かにそばで、見守ってくれる誰かです。その人に見てもらえるだけで落ち着いて、気持ちを整理できるような誰かが」


 仲達どのから聞いた話だ。

 子建は、冠もつけず裸足で、鈇と首切り台を背負い、宮門の前に出た。

 子桓は終始、厳しく弟を、眺め下ろしていたそうだ。

 子建は、王服も着けずに、泣いたという。

 卞の義姉上は、子桓を睨みつけた。

 子桓はやっと、子建に王服を着けることを許した。


 子桓が亡くなった後、子建は、帝に上奏文を何度か奉っている。

 自らを取り立てて欲しいこと、親戚を見まわせて欲しいこと――皇族が兄弟同士で交流することも禁じられていたから――、能力ある者を使うこと。

 なぜ俺がそれを知っているかと言うと、子建が俺に、手紙をよこすようになったからだ。

 その文章は、以前に兄上が見せてくれたそれよりも、ずっとすっきりとして、わかりやすくなっていた。

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