第16話 ★終わらない熱~徐晃と曹洪

 曹洪に想いを寄せる徐晃の物語です。

 pixiv掲載の『淫らなほほえみを』及び『月光~静かに優しくあなたを愛したら』を統合し、カクヨム用に加筆修正しました。



 見てしまった。

 あの方が男を犯すのを。

 袁紹と事を構えていた時、拙者とあの方は二人で派遣された。

 ここは拙者たちの本陣だ。「徐晃」、そしてあの方の姓名「曹洪」が刺繍された軍旗が並び立つ。

 あの方の端整な容貌。鍛え上げた厚い肩と胸を鎧のような筋肉が覆う。腹は割れて引き締まり、腰から下はすらりと伸びている。

 あの方の瞳はうつろで、今にも泣き出しそうだった。そして、何も見ておられなかった。

 端整な横顔は、もうすぐ自分は砕け散ってしまうのだと、誰かに訴えているようだった。

 犯された男が体を起こした。あの方のたくましい首に腕を巻きつける。

 あの方はしかし、虚空を見つめておられるだけだ。声ひとつ上げない。

 男が動きを止めたその時、あの方はまるで首を落とされたように、こちらに顔を向けた。

 目が、合った。

 しかしあの方は、拙者を見ていなかった。


 拙者は胸が痛い。

 そして、切ない。切なくてたまらない。

 どうしてそんなに、ご自身を汚すような真似をなさるのだろうか。

 拙者には打ち明けられないお悩みでも、あるのだろうか。

 妻の蒋氏がけげんそうに拙者の顔をのぞく。

「いかがなさいましたか、あなた」

「おまえには関わりのないことだ」

 妻から顔をそむけ、つっけんどんに答える。妻は拙者に聞こえるようにため息をつく。

「心配してさしあげているのに、相変わらずでございますね。徐家の殿方はどうしてこう、無愛想なのでしょう。その点、蓋は人当たりがよくて、わたくし、ほっとしております」

 こんなところで一人息子の話を出さずともよかろうが。相変わらず嫌みたらしい女だ。物静かなあの方のほうがよりいっそう好ましい。

 あの方は拙者が仕えるあの男の従弟ぎみ。そしてあの男の命を救った功労者なのだ。

 敵方から降った将である拙者などが、軽々しく口をきいてよい方ではない。

 何を悩んでおいでなのだろう。

 代われるものなら代わってさしあげたい。


 あの方に初めてお目にかかったのは、拙者が投降した時だった。

 痛みを治すことを放り投げてしまったような瞳。

 その瞳に拙者は、魅せられた。

 共に出陣した時は、胸の内でどくどくと騒がしく音が響き渡り、体じゅうを血が駆けめぐって熱かった。

 いくさが首尾よく終わったあの日の夜、あの方は拙者の見知らぬ男と天幕の内に消えた。拙者はいけないと思ったのだが、こっそりあとをつけた。そして見てしまったのだ。あの方がその男と交合する一部始終を。

 その時に拙者が感じた絶望は、とても言い表すことができない。

 あの方の見事な体に目が行って、そして、あの方の瞳だけが記憶に残った。

 その後、拙者はあの方に話しかけることすらできなくなった。

 残念ながらあの方も、必要が生じない限り拙者に近づいてくることもなくなった。

 あとになって、あの方ご自身が拙者に打ち明けてくださった。

「俺は孟徳兄を、幼い頃から恋い慕っていたのです」

 あの男のあざなを耳にすると、拙者は穏やかではいられなくなる。それでも黙って次の言葉を待った。

「しかし、兄はもう、俺の想いを受け取ることはないのだと、思い込んでしまったのです。あとから考えれば、俺の勝手な思い込みに過ぎませんでした。奉孝を亡くして、兄はひどく落胆した。だから俺への関心が薄らいだ。ただそれだけのことだったのです。俺は自暴自棄になって、見知らぬ男と寝るようになりました。兄はずっと俺を心にかけてくれていたのに」

 初めのうちは、あの方は拙者がどんなに愛撫してさしあげてもご自身を必死で抑えていらした。

 あの男への義理立てなのか。

 あの男は死んだあとでさえあの方の中に巣くっている。

 泉下からあの男が、冷たい笑いを浮かべながら拙者を見ている。

 そう思うと涙が勝手ににじみ出る。

 涙をこらえながら愛撫する拙者を、あの方はただ、その静かな瞳で、見つめるだけだった。


 あの男が魏公になり魏王にのぼった頃から、あの方の名誉を損なう噂がじわじわと広がっていった。

 ――魏王の男は、曹子廉将軍だ。

 あの男とあの方が、毎晩のようにいずこかへ消え、朝まで姿を現さないのだと言う。

 拙者の眼裏に浮かんだのは、あの晩見た光景。

 唯一違ったのは、あの方の瞳。

 嬉しそうだった。息づいていた。そして――淫らに輝いていた。

 拙者も一度だけ見たことがある。

 その淫らなほほえみを。

 あの方の端整な容貌に、おぞましいくらいにぴたりとはまった、淫らなほほえみを。

 そのほほえみを、いつか拙者にも向けてくださるだろうか。

 そしていつの日か拙者と、二人きりになってくださるだろうか。

 そんな願いを誰にも知られぬように胸にいだいていた頃、あの方のお住まいに訪れる機会を得た。

 きっかけを作ったのは、皮肉なことに、あの男だった。


 呼ばれたのは真夜中だった。

 あの男は一人で待っていた。

 ほんとうは主君だなどと思いたくもないし、呼びたくもない。口もききたくないし、同じ部屋にいたくない。

「樊城へゆけ」

 ゆけと言われればゆくつもりだった。あの方の実の兄上が関羽に包囲されて久しかったからだ。あの男はどうせあの方を手放さない。あの方は兄上を助けたいと思っておいでだろうに。ゆかせてあげればよいのに。

 それなら拙者があの方の身代わりとなって兄上を救い出してさしあげればよい。そうすることであの方のご心痛が少しでもやわらぐのであれば、拙者にとって何物にも代えがたい喜びだ。

 あの男の顔は見えない。ろうそくの灯りが一つずつ、あの男の左右にあるだけだ。

「御意」

 あの男に投げる言葉すら惜しい。

 あの男の耳に拙者の声を入れるのすらいとわしい。

 今までこの男は、あの方と何をしていたのか。

 拙者に命をくだしたその舌で、あの方を舐め回していたのか。

 その肌を、あの方の肌に押しつけていたのか。

 その指先で、あの方の感じやすい場所をまさぐっていたのか。

 そして汚ならしいそれを、あの方に――

 あの男が拙者に、印綬と剣を授ける。

 その時になぜか、左手首を拙者に見えるように持ち上げた。

 細い銀の腕輪が、鈍く光る。

「申し述べることはあるか」

 拙者は言った。

「子廉将軍においとま申し上げてから出立いたします。今、いずこにおいでになりましょうか」

 どうせおまえが寝床に縛りつけているのだろう。持参しなかったが、拙者愛用の大斧で、今すぐこの男を肉片ひとかけらも残さず叩きつぶしたい。

 あの男は連なった玉が何列にもぶら下がる冠をかぶっていた。

 玉のすき間から見える口の端が引き上がる。

 しかし垣間見えた目は、笑っていなかった。

 その視線に拙者は捕まる。

 動けない。

 戦場でもここまで肝が冷えたことはない。

 ――俺が何も知らぬとでも思ったのか。

 笑わない目がそう告げる。

 まばたきひとつできない拙者にあの男は言った。

「伝えておく」

 あざ笑うその声に拙者は殺された。


 あの男が拙者に用意したのは将兵だけだった。

 あの男が手を回したのかと邪推したくなるほど物資を集めるのに手間取った。

 あの方がお住まいになる区画をあの男は早口で一度だけ拙者に伝えた。拙者はそれを頼りに走る。

 お伺いできたのは、出陣前の深夜だった。拙者があの方のもとへゆけないように画策したのであろうあの男の悪意を感じずにはいられない。

「樊城へ参ります」

 扉を細く開けてくださったあの方は、疲れきった様子だった。

 あの男と肌を重ねておられたのか。

 あの男が体に無遠慮に入り込んでいたのか。

 住まいにはあの方お一人だけだった。そして拙者に、ほんとうに申し訳ないというように、頭を下げてくださった。

「兄をお助けください」

 拙者は、優しくほほえんでさしあげた。

「必ず助けてさしあげます」

「それがしが参りますと、王には申し上げたのですが」

 入り込んでくるあの男を振り払うように拙者は優しく笑ってさしあげようとした。けれど頬も口もうまく動かせない。

「あんな噂を立てられて、さぞかしご心痛でいらしたのではありませんか」

 ――魏王の男は、曹子廉将軍だ。

 嘘だと言って欲しかった。

 あの方が整った眉をひそめる。

 ご不快にさせてしまったか。

 あの方が面を伏せる。

「そのようなことはございません。道中お気をつけください。ご武運を」

 扉を閉めるその左手首にあったのは、鈍く光る細い銀の腕輪。

 あの男の左手首にあったのと同じ物だ。

 いつから、つけておられるのだろう。

 なぜ、つけておられるのだろう。

 あの方の手を取り、あの鈍く光る銀の腕輪をはめたのは、一人しかいない。

 その時あの方は、どんな顔をしたのだろう。

 眼裏に浮かぶ。淫らに輝く瞳。淫らなほほえみ。

 拙者の目が熱くなる。頬に生あたたかいものが伝う。止めようとしても止まらない。

 あの方が驚く。

 拙者は一言だけお伝えすることにした。

「ずっと、お慕いしておりました」

「公明どの」

 あの方が顔色を変える。

 あの男は拙者を、ここでも殺した。


 関羽の首を葬って間もなく、あの男が死んだ。

 そして次の帝は、明確な理由もなくあの方を投獄した。

 幸いすぐに釈放されたので、拙者は会いに走った。

 拙者が前触れもなく現れたので、あの方は戸惑っておられた。しかし語り合ううちに、お心がほぐれたようで、表情がやわらいだ。

 拙者が安堵したのもつかの間、あの方は暗い面持ちでおっしゃった。

「子孝兄を助けにゆかれる前にそれがしと話したことを覚えておられますか」

「忘れたことなどありませぬ」

 あの方は端整な顔をうつむける。

「それがしもです。あなたに応えることができず、申し訳ございません」

 拙者は息をのんだ。

「いえ、あなたは、兄上を――」

「それがしは、ひとから愛されることを、おのれに許すことができないのです」

「何ゆえ――」

「俺のような者は、愛されるに価しません。息子には恵まれましたが、男しか愛することができない。その上、実の兄さえこの手で救うことができなかった」

 拙者はかぶせるように声を出した。

「抱きしめても、よろしいですか」

 あの方が戸惑う。

「――え」

 拙者はあの方のたくましい肩を手でつかむ。

「抱きしめても、よろしいですか」

 あの方の目に、涙が光る。

 互いに、ぎこちなく、腕を回した。

 月光が部屋に入り込む。

 拙者は震える唇をあの方のそれに重ねる。

「抱きますが、よろしいですか」

 あの方がわずかにほほえんでくださった。

「――どうぞ」

 いとおしさが募る。

 指で探ると、思いのほか柔らかい。まるで拙者を待っていてくれたかのような――考えすぎか。

 月光が、明るい。

 加減がわからない。妻は、息子の蓋が生まれて以来抱いていない。

 正直、女には興味がなかった。家のため、嫁をとり、子をなした。それだけだった。もしかしたらこの方も、同じだったかもしれない。

「子廉、どの……」

「何ですか……公明どの」

「ご不快では、ありませんか」

「……いえ」

 気がつけば、月光が明るい。

 格子窓の向こうを見てあの方がつぶやく。

「あなたのようだ」

「な、何が――」

「あの月光」

「拙者が、月光?」

「はい」

 汗みずくになり、肩で息をする拙者に、子廉どのがまたほほえむ。

「――静かで、優しい」

 子廉どのの言葉を頭の中で何度か繰り返す。その言わんとするところを理解した時、拙者は思わず居ずまいを正してしまった。

「かたじけのうございます」

 子廉どのが微苦笑を浮かべた。

「これからも、来てくださいますか」

 答えはこれしかない。

「喜んで」


 しかしそれはぬか喜びでしかなかった。

 子廉どのは拙者と交合したあと、格子窓から漏れる月光を見ながら、物思いにふけることが多くなった。

 気持ちの整理をつけているのかもしれなかったが、肌を重ねている時ですらその瞳は切なそうで、体は十分に感じているのに、声で、言葉で、それを拙者に伝えてくれることはないままだ。

 一番許しがたいのは、一糸まとわぬ姿になっても、銀の腕輪をはずさないことだった。

 拙者は黙って耐えた。

 子廉どのが自分からそれをはずしてくれる日を、黙って待ち続けた。

 しかし、はずさない。

 はずさないわけも拙者に言ってくださらない。

 拙者はあの方の前から姿を消した。

 あの方を大切にできない、そう思ったからだ。

 どんなに抱き合っても、あの方が想っておられるのは、あの男だけなのだ。

 あの方も拙者に弁解しなかった。拙者を追いかけなかった。一度は罪人となったご自分のお立場をわきまえられ、表に出ることを避けていた。

 耐えられなくなったのは、拙者の方だった。

 お住まいを訪れた。

 毎晩のように通っていた頃と変わらぬ表情で子廉どのは迎え入れてくださった。

 月光が差し込む部屋で向かい合う。

「あなたが今でも兄上を想っておいでなのでしたら、拙者は潔く身を引きます」

 言って、拙者は目を疑った。

 子廉どのは、静かに涙を流していたのだ。

「好きだから、あなたが」

 ぬぐいもせずに続ける。

「兄はもうおりません。あなたを追い詰めた俺を許してくださいますか。あなたに包まれていると、安らぐのです。どうか、終わりにしないでください」

 左手首に目を向ける。

 銀の光は、そこにはなかった。


 銀の腕輪は交合した際に二人で手のひらに挟んで折り、黄河に流した。

 子廉どのを投獄した帝が崩御したのはその後だった。新たな帝が立ち、子廉どのは復権した。

 晴れ渡った青空の下で、子廉どのが爽やかに笑う。

「あなたが支えてくださったおかげです」

 子廉どのがいとしい。

 子廉どのは甘い。

 その爪が拙者の結い上げた髪に食い込む。その痛みさえ嬉しい。

 切ない声を聞きながら、喜びにうち震える。

 子廉どのの手がさ迷う。そっと抱きしめた。さ迷っていた手が、拙者の広い背中にふわりと降りてくる。

 互いの瞳を見る。拙者は動きを止めた。そこは熱く、柔らかい。

 口づけを交わし、尋ねた。

「こうしていて、いい?」

 子廉どのがほほえみ、うなずく。

 二人で抱きしめ合う。

 穏やかな熱が重ねた胸から伝わる。

「まだ、終わっていないだろう、公明?」

 子廉がささやいた。その瞳は淫らに輝いている。

 笑い返す拙者を子廉がからかう。

「そんな風に笑えるのだな」

「淫らか?」

「ああ、とても淫らだ」

「終わらせてくれるのか、子廉」

「ああ」

 長い脚が拙者の腰にからみつく。

 淫らなほほえみを浮かべながら、子廉が身を起こし、あお向けになった拙者を見下ろした。

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きみと語る三国志 亜咲加奈 @zhulushu0318

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