第15話 生~荀彧の孫・荀節
「誠に申し訳ございませぬが、このたびの婚約は破棄させていただきます」
最後にそう相手に告げてからもう二十五年が経っていた。
祖母は残念そうにしていたが、今は亡き母ならばきっと、わたしの決断をほほえんでお許しになったはずだ。
わたしの名は荀節。
わたしの父の名は荀粲、武祖さまの軍師荀彧の五男である。母の名は曹祥、魏の皇室の一人、曹洪の娘だ。
そう、わたしは、妻や母となるより、殿方と同じように、働きながら生きることを選んだのである。
わたしは今、魏の後宮で、郭皇太后――明帝の皇后であられたお方の女官として勤めている。そしてわたしの母は、明帝と同じ曹氏の出だ。
しかしわたしの仕事場は後宮だけにとどまらない。今回も筆と紙を手に、あるお方のお屋敷へと歩いて向かう。ほんとうは馬にも乗れるけれど今日は歩いて行った方がよいのでそうしている。伺うお屋敷の前の道は、馬が通るには狭すぎるからだ。
郭皇太后は、明帝がおかくれ遊ばしたあとの帝たちが皆お若いために、法令などを発布する際のよりどころとなられている。
先だって、わたしたちの魏は蜀に進攻した。蜀の帝は自ら降伏なされ、つい先日ここ洛陽へお移りになられたばかりだ。
郭皇太后は蜀が滅びた年に崩御なされた。
「節や、蜀の方々のご様子を見て参れ」
郭皇太后は亡くなる直前、わたしにそうお命じになられた。
「お国がたいへんなことになり、ましてかつての敵地に移られるのじゃ。わらわはできるだけお助け申し上げたい」
お屋敷は、大通りから離れた、閑静な一画に建てられていた。
すでに約束を取りつけてあったので、すぐにわたしは迎え入れられる。
わたしをひと目見るなり、その方々は、おお、と感じ入ったように声を上げられた。
「なんとお美しい」
わたしは軽く微笑する。
切れ長の目は黒目がちで、鼻筋はすっと通り、色白で豊かな黒髪。母の美貌をわたしも受け継いでいる。
「荀節と申しまする」
「劉公嗣と申します」
「張氏でございまする」
わたしたちは挨拶を交わし、席に着いた。
「慣れぬ土地柄、ご不自由はございませぬか」
わたしが聞くと、公はお隣におかけになる夫人を優しくご覧になった。
「おかげさまで心安く暮らしておりまする」
夫人がお答えになる。
「蜀の地も夏の暑さがきびしいと伺っておりますが、ここ洛陽の暑さも相当のものでございます。お疲れが出てはおられませぬか」
今度は公が柔和なまなざしでおっしゃった。
「確かにきびしい暑さですが、蜀よりはいくぶん過ごしやすいと感じております」
わたしはお二人にほほえみかけた。
「実はわたくしの母の兄たちは、公と夫人のお父上に、ゆかりがあるのでございますよ」
身を乗り出されたお二人にわたしは、母の兄たちの話を始める。
「まず、上の兄曹震は間者でしたが、母の父曹洪が養子に迎えました。間者であった時に郭奉孝軍師の依頼を受け、劉表のもとにいた公のお父上のご様子を探りに参りました」
公はお目を大きく開かれた。
「そして母の実の兄曹馥は、赤壁の戦いから逃げる折り、夫人のお父上に向かって走る馬の上から振り返って矢を放ち、その矢はお父上の頬をかすめました」
夫人が目を丸くして両手のひらで口を覆われる。
わたしは楽しくなった。
「しかもなんと曹震と曹馥は武祖の命により公のお父上の陣に忍び込み、蜀を攻め落とす一部始終を見て参ったのでございます」
公も笑顔になられた。
「きっと父のことです、そんなお二方をまるで我が子のように遇したのでしょうね」
「はい、おっしゃる通りです」
夫人もわたしに顔を寄せる。
「もっと聞かせてくださいませ」
わたしはうなずく。
「曹馥と曹震は雒の城を攻め落とす際に公のお父上の軍勢を助けました。その後、張魯を従えるために漢中へと入った武祖と合流いたしました」
「逃がしてあげたのだね」
公の口調がくだけたものに変わる。
「公のお父上は別れる際にこうおっしゃったそうです」
公は嬉しそうにほほえまれた。
「わかりますよ。『おれにもこんな息子がいたらなあ!』でしょう?」
わたしは驚きを隠せなかった。
「ご存じでいらしたのですか」
「ああ。わたしに何度も話していたからね」
「わたしも公のおそばで聞いておりましたよ」
夫人も目を細める。
公のまなざしはまるでご自分のお嬢さまを見つめるようだった。
「あなたとお話しできてよかった。私はようやく、この地に移り住んだ意味がわかった」
「詳しくお聞かせくださいませんか」
わたしの問いに、やわらかな表情と声音で、公はお答えになられた。
「ここ洛陽は漢の都。 ここに来ることは父たちの長年の夢だった。父たちは武の力でそれをなしとげようとした。ところが私は棺を背負い自ら両手を縄で縛り上げ、破れた国の君主としてここに移るよう命ぜられた」
夫人が目頭を押さえられた。
公は目線をやや天井に向けられた。
「父が望んだ形ではなかったが、私は洛陽へ来ることができた。そのことに意味はあると私は思っている」
公の言葉は湯のようにわたしの胸に沁みる。
わたしは結局、持ってきた紙と筆を取り出すことはなかった。書き残すよりも耳に残したいと思ったからだ。
お二人のお屋敷を辞する頃にはもう日が沈みかけていた。
公と夫人はわたしの手をしっかりと包んでくださった。わたしたちは互いにこう言い合った。
「どうぞお元気で」
橙色に家々が、路地が染まる。
涼しい風に吹かれながらわたしは歩いて後宮へ向かった。
翌年、帝は亡き司馬仲達さまのお孫さまに禅譲を執り行った。国号は「晋」となった。
わたしたちの曹魏は滅びた。
国は滅びたけれど、わたしたちが生きた事実は滅びることはない。
文字で書き残し、言葉で言い伝えるからだ。
たとえ伝えられた言葉が失われても、わたしたちは確かに生きていた。生きて、そこにいた。
だからわたしは悲観しない。
わたしは今も、晋の後宮で、女官の職にある。
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