第14話 恥~間者の蘇から于禁へ
『我ら曹魏の男』に登場する女間者・蘇と、于禁の物語です。
于将軍。
心配してたのですよ、樊城で、関羽に降ったのだって聞いて。あたしの息子たち二人が徐将軍の軍にその時ついていって勤めておりましたからね。帰ってきてからあたしに話してくれたんです。
悔しかったでしょうね。
普段の将軍なら、絶対にあきらめないで、戦っておりましたもんね。
でも、それができなかったってことは、あたしにはよくわかりました。
将軍は、水攻めで生き残った兵隊さんたちの命を助けようとなさったのですよね。
ほら、前にあたし、申し上げたじゃありませんか。将軍は、お強い方だって。
いざという時におのれを曲げることができるってことが、その証拠ですよ。おのれかわいさにあの時戦ってたら、兵隊さんたちも戦わなきゃあいけませんでしょ?
孫権は手ずから将軍の縄をほどいて、客分として遇されたのだそうですよね。きっとそれだって、将軍が恥を忍んで降ったってこと、認めたからですよ。
将軍がお帰りになられたって聞いて、あたし、昔の仲間に頼んで、居場所を突き止めてもらったんです。
びっくりしちゃいましたよ、なぜって、お髪もおひげも全部、真っ白になってらしたんですもの。
でもそれだけ、お辛かったってことですよね。
体も心もすり減らして、生きてこられたってことですもんね。
将軍、あたしを見て、すごく驚いていらっしゃいましたよね。まあ、いきなりあたしが押しかけたのだからそれも当たり前ですよね。
でも将軍は、忙しそうにしてらっしゃいましたよね。お荷物をまとめておいでだった。その時にした話、あたし今でも、覚えているんですよ。
「于将軍。蘇でございます。覚えておられますか」
「――ああ。もちろん。そなたも私を、覚えてくれていたのか」
「もちろんですよ。宛城から一緒に逃げました」
「ああ。懐かしいな……」
「ほら、味方の兵隊さんたちを身ぐるみはいだ青州兵を、将軍が処罰なさいました」
「その時に、身ぐるみはがれた兵たちを背中にかばったのが、そなただった」
「無茶をいたしました」
「とても勇敢だと、私は感心した」
「将軍はあたしを、その背中にかばってくださいました。将軍がおいでになってあたし、どんなにか心強かったことか」
あたしその時に泣いちゃいましたよね。
将軍は、優しく、でも寂しそうに、笑っておられましたね。
「実はこれから、都を去るのだ。だから荷物をまとめている」
「どちらへゆかれるのですか」
「鄴だ」
「ずいぶんと、遠くですよね……」
「私はこれで、表舞台からは姿を消す」
「どういうことでございますか」
「陛下のはからいだ。都にいては、私を裏切り者とあざける者たちに常に顔を合わせなければならない。そこで陛下が一計を案じてくださったのだ。私が呉へ使いとして赴くということにして、都から出られるように」
「なにゆえ鄴にゆかれるのですか」
「武祖様の御陵がある。陛下はそこを守る役目を私に仰せつけられた」
武祖様。あたしを間者にとりたててくださった曹司空。ほんとうはそのあと官職が変わるのだけど、あたしの中ではずっと「曹司空」のままだ。
「そなたの言葉を支えに、どうにか生きてこられた。礼を言う」
「あたし、何か申し上げましたか」
于将軍は、最後にあたしに、優しく笑ってくださいました。
「そなたは私にこう言ってくれた。将軍は強い方だと、あたしは思いました。ご自分を弱いとおっしゃる方ほど、お強いのですよ」
あたしはもう――涙がこぼれて、止まらなかった。
于将軍の、お年を召されても大きくて広い胸が、あたしに近づいた。
于将軍はあたしを見て、静かに言ってくれた。
「これまでそなたは、男の欲望を満たすために抱かれてきたのだと想像する。それはそなたにとって恥であっただろうとも想像する。ゆえに私は尊敬と感謝、親愛の情をもって、そなたを抱擁したい。受け入れてくれるか」
あたしは、うなずいた。
こんな風にあたしの心の内を考えてくれたのは、そしてそのことをあたしに伝えてくれる人は、于将軍が、初めてだった。
涙声であたしはお答えした。
「はい」
将軍の腕が、あたしを優しく、そっと、抱いた。
「将軍」
「何だ」
「あたしも……抱き返しても……よろしゅうございますか……」
「そうしたいとそなたが思うのであれば、そうすればよい」
あたしは将軍の広い背中をぎゅうっと抱いて差し上げた。
あたしは体を売る女だった。だから男にしがみつくとしたら、そうすればそいつが喜ぶからだった。
でも今は違う。
于将軍のお気持ちにお答えするために抱いている。
「ありがとう」
于将軍の声も、涙声だった。
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