第13話 志~諸葛孔明の妻・黄氏
「婚約を破棄させていただきます」
これで通算五十六回目の婚約破棄をわたしはくらった。
わたしは黄承彦の娘である。
のちに「赤毛で色黒で醜い」と、野史に書かれる女である。
「まあ、気にしなさんな」
父はいつもと変わらぬ調子でわたしに声をかけた。
「おまえはある意味名が知られているからなあ」
黄承彦の醜い娘。それがわたしだった。
父はわたしを縁づかせようと、あらゆるつてを使い、あらゆる場所へ出向いた。それは父が娘であるわたしの将来が安泰であるようにという純粋な親心と善意で行っていることである。
今回の縁談は蜀に住む方との話だったのだけれども、婚約相手がわたしを見に来てしまったのだ。即、その場で、「申し訳ございませんが、今回の話はなかったことに」と、渋い顔で断られた。
わたしと父の先祖は、南から来たのだと聞いている。だから周りに住む人たちとは、髪や肌の色が違うし、体つきや顔つきも違う。
わたしと父は、目がぱっちりと大きい。鼻も丸いし、口も大きくて唇もぽってりしている。体つきも豊満だ。加えてわたしは背が低い。
そんなわたしたちに対してこの国の人たちは総じて目が細めだし、鼻はまっすぐで口も小さい。体つきは細く、背は高い。
つまり今挙げた「違い」をこの国の人たちは「醜い」という言葉で表現しているにすぎないのだ。
わたしは却って清々していた。
もともと結婚する気はなかったし、子供を産みたいとも思わなかった。ただ学問は好きなので、まだ読み終えていない父の数ある蔵書を読み終わりたいと思っていた。
そんなわたしを、隣近所に住む人たちは変人扱いした。またわたしは思ったことや感じたことをそのまま口にする子供だったため、同じ年頃の子供たちから敬遠され、たしなめられ、発言を許されなくなり、やがてわたしの周りからは子供がいなくなった。
それからはずっと家で父の蔵書を読んで過ごした。父はわたしに文句を言わなかったし、説教をしてわたしを無理やり変えようとはしなかった。それはわたしを尊重していたというよりも、自分の学問を修める方を優先していたからである。父にとってわたしは、生きてそこにいればよい者だったのだろう。
そんな毎日が突然変わった。
父がめずらしく頬を紅潮させ、いつもよりも高い声でわたしに告げたのである。
「おまえの夫になってもよいというお方が現れたぞ」
父にうながされるままにわたしは荷物をまとめた。そして父はわたしを車に乗せて、結婚相手の家に送り届けた。
その人は背が高く、秀でた容貌をしていた。
「諸葛孔明どのだ」
父は上機嫌だった。
その人はわたしを見ても、顔色ひとつ変えなかった。むしろほほえんで、わたしに一礼した。
こうしてわたしは、諸葛孔明の夫人となった。
「あなたは読書家だとうかがいました」
孔明どのは――彼はわたしに自分のことをそう呼んでくれと望んだ――わたしを自宅の書庫に案内してこう切り出した。
その蔵書の量たるや、父の比ではない。父よりも数多くの書物や竹簡が整理整頓されている。
ぼうぜんとするわたしに孔明どのは爽やかなほほえみを投げてよこした。
「ここにあるものはすべて、読んでいただいて結構ですよ。むしろ、お読みになってください。いつもは弟が話し相手になってくれるのですが、最近は弟の読む量が私に追いつかなくてね。あなたと話ができれば私もありがたいので」
「お申し出はありがたく存じますが、拝見したところ下働きの者がおらぬ様子、身の回りのことはどなたがなさいますので」
「それは私と弟と、それにあなたでやりたいと思っております」
少しならわたしも、食事の支度や洗濯などはできる。出来はともかくとしてだ。
「そこで、あなたにお願いしたいことがあるのです」
「どのようなことですか」
「わたしの仕事を助けていただきたい」
「何をすればよいのでしょうか」
「私の仕事は、主君に漢室を復興していただくことです。あなたも私に協力してもらいたい」
「漢室は許昌にあるではありませんか」
眉間に縦じわを刻んだわたしに孔明どのはにこりと笑って、言った。
「我が主君にも漢室の血は流れております。ですから曹操に代わって我らが帝をお助け申し上げる」
「大それたことをお考えですね」
「あなたのその率直なご意見は今後役に立つ。これからは頼りにしますよ」
以来、わたしは孔明どのの留守宅を守りつつ、彼が帰宅したあと、彼が手がける仕事に対して意見を求められるようになった。
曹操が率いてきたおびただしい数の軍船が長江に停泊している。
「孫権の家臣たちと話をしてくる」
孔明どのは江東へ向かった。
わたしと、彼の弟も同行した。
わたしは孔明どのに尋ねた。
「孫権の家臣たちに何を話したのです」
「我が主君と同盟を結び、共に曹操と戦おうと」
「戦うまでもないのでは。孫権側に利があるでしょう。それにご主君はこのいくさにどのように関わるのですか」
「戦うのは孫権側ですよ。我らが目指すのは蜀です。同盟を結ぶのは、我々の後ろを襲わせないようにするためです」
蜀と言えば、わたしとの婚約を破棄した相手が住むところではないか。
あとひと月で建安十三年(208)が暮れるその夜、突然その軍船に、孫権の部将黄蓋の船が突っ込んでいった。
わたしは孔明どのの隣に立ち、見守った。
突如黄蓋の船が燃えた。
そして曹操側の軍船も炎に包まれた。
真っ暗な夜空に橙色の炎が燃え上がるさまは、いくさについてこのような表現をすることは不謹慎なのであろうが、美しかった。
「さあ、行きましょう」
孔明どのとわたしは、孔明どのの主君――劉備のもとへ旅立った。
次の行き先は蜀であった。
劉備は、蜀の家臣たちの内応にも助けられ、その地を獲得した。
わたしとの婚約を破棄した相手が誰なのか、結局わたしにはわからずじまいだった。
蜀を手に入れてそれでおしまいとは、わたしは思わなかった。
孔明どのはわたしに、中原の様子を調べるよう頼んできた。
わたしは市場や、長江沿いの街へ出かけた。そこでよそから来た商人たちと雑談した。彼らは移動しているため、様々なことを見聞きしているからだ。
帰宅した孔明どのに聞いた話を伝えると、彼は急に眉目を引き締めた。
「いよいよ洛陽を奪う道筋をつける時が来たか」
「以前おうかがいした、漢室を復興させるというお考えのひとつですか」
「そうです。今後は漢中を我らが維持する。そして我が君にはその王となっていただく。そして帝をお救い申し上げるため進軍する」
結果として、劉備は曹操を漢中から引き揚げさせた。そして劉備は漢中王を名乗った。むろん、劉備が帝に断りを入れた上である。
ところが、荊州を守っていた関羽が孫権に斬られた。劉備側の武将たちの中には孫権に寝返り、関羽を見捨てた者たちも少なくなかった。
「我が君に私の言葉が届かない」
孔明どのは肩を落とした。
「ひげどのが斬られたことで頭がいっぱいになっておられる」
「復讐に走るのでは」
わたしが言うと、孔明どのは血の気が引いた顔でうなずいた。
「私は何としてもお止めしなければ。確かにひげどのは我が君の重要な家臣だった。しかし厄介なことに我が君にとっては、同じ日に死のうと誓った義兄弟でもあるのだ」
曹操も死んだ。建安二十五年(220)の正月であった。
しかもその翌年、曹操の後を継いだ曹丕が帝から禅譲を受け、皇帝となった。
最初わたしたちには「帝は殺された」という知らせが届いた。あとでその知らせは誤りで、帝は山陽公に封じられてかの地へ向かったと判明するのだが、劉備は激昂した。
孔明どのはその機を見逃さなかった。
「今こそ漢室復興の時です。帝位におつきください」
劉備はこうして帝を名乗るわけだが、直後に彼がしたことはわたしが危惧した通り、関羽の復讐だった。無謀にも長江を下り、孫権にいくさをしかけたのだ。
「私の言葉が届かない」
孔明どのは下を向き、またわたしにそう言った。
孫権とのいくさに敗れた劉備は、生きて帰ったものの、病を得て死んだ。
後を継いだ劉禅はまだ十七歳だった。
孔明どのは蜀の内政も外交も担うようになった。
もともとが処理能力に優れた人なので政務は滞りなく進んだが、家臣たちの意識は、現状が維持されればよいというものであった。このことはわたしが街に出て市場などで世間話をする中でつかんだ情報だ。
「だって我々はあの曹操を漢中から追い出したのだぜ。ここは山に囲まれ崖も多く、騎馬を進めるのも難しい。どこも攻めては来ぬだろうよ」
政庁に勤める役人さえこう言ってのんきに構えていた。下っ端がこれでは、上役たちの意識は推して知るべしだろう。
しかし孔明どのはまだ、当初の志を捨ててはいなかった。
「陛下に書を奉る。推敲をお願いします」
孔明どのはわたしの前で、書き上げたその書を声に出して読んだ。
「漢室を復興させる。洛陽を取り戻す」
書には、その言葉がしっかりと入っていた。
「どうだろうか」
わたしの目をまっすぐに見る孔明どのに、わたしは、もうこの人は止められないと思いながら、答えた。
「お見事です」
そしてついに孔明どのは魏をせん滅するべく、兵を進めたのだ。
わたしには嫌な予感しかしなかった。
曹操は死んだとはいえ、魏の将兵はいくさ慣れしている。確かに漢中ではわたしたちが勝ったが、今回は魏の領土に進攻するのだ。果たして勝てるのか。
いくさから帰るたびに、孔明どのは痩せていった。
帰宅してからも夜遅くまで机に向かった。
そしてまた、建興十二年(234)に出撃した。五回目の進攻だった。この年の八月、司馬懿と対峙している最中、病を得ていた孔明どのは陣中で帰らぬ人となった。
定軍山に孔明どのは埋葬された。
つまりわたしのもとに、孔明どのは帰ってこなかった。
それでもわたしは思う。
いつか定軍山へ行ってみよう。
孔明どのが見た景色をわたしも見よう。
長い人生のたったいっときだったが、孔明どのはその志をわたしにも分けてくれたのだと、わたしは考える。
しばらくは魏も攻めてこないだろう。定軍山へはだから、安心して行けるはずだ。
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