第10話 ★想いの行く末~曹洪と曹操
今年の曹操の命日に書いた、曹洪と曹操のお話です。『雨音が消えた夜』、『月だけが光る空の下』につながります。
このお話は精神的ですが男性同士の恋愛要素がありますので、苦手な方はご注意ください。
思い出すのはいつも、俺が五つで、兄上が二十歳の時の記憶だ。
父も母も死んだ。
俺はずっと涙が止まらなかった。
子孝兄からはいつも叱られていた。
もう泣くな、と。
そんな俺を、兄上は、自分の前に乗せて、遠くへ駆けてくれた。
ある日、兄上は、俺に聞いた。
「洪は、おとなになったら、何をする」
俺は兄上を見上げて、答えた。
「あにうえみたいにする」
兄上は、笑って、俺の頭を手のひらで撫でた。
今、兄上は、あの時のように、俺の頭を撫でてくれている。
ここは、兄上の寝室だ。
俺は、寝台に座る兄上の腿の上に、頭を乗せている。
建安二十五年(220)の、正月。
樊城からやっと出てこられた子孝兄と、子孝兄を救いだしてくれた公明どのと一緒に、俺たちは洛陽へ帰還したばかりだ。
公明どのは、長いこと、俺に、恋していたのだという。
俺は、子孝兄を助けてくれた礼をまだ、公明どのに伝えていない。
単純に会う機会がなかった。加えて、俺が、彼に会うと、気持ちが揺らいでしまうのを恐れていたからだ。兄上から離れたくなかった。
なぜなら兄上は、俺と一緒にいるために、俺が兄上を想う気持ちを守るために、これまで共に戦ってきた身内までも、欺いてくれたからだ。
兄上が魏王の位についた時のことだ。
俺と兄上のもとへ、元譲兄と子孝兄、それに妙才が来た。
三人とも、苦い顔つきだ。
言いたいことはわかっている。
元譲兄が、腕組みをした。
唇をゆがめ、歯を食い縛り、そうしてやっと、俺と兄上に顔を向けた。
「ほんとうは、こんなこと、俺は言いたくない。だが、もう、おまえたちの耳にも入っているだろうから」
いったん言葉を切る。
もう、わかっている。
伏皇后が広めた、あの、おぞましい噂。
けれど、真実を言い当てている、噂のことだ。
元譲兄はさらに言葉を継ぐ。
「孟徳。子廉をそばに立たせることは、やめられないのか」
俺は兄上を見た。
十二旒――冠から前後に垂れ下がる十二の玉がその、整った白い顔を隠している。
玉と玉の間から見える切れ長の目が、すうっと細められた。
「俺を疑うのか、元譲」
元譲兄があわてる。
「いや、そんなことは……」
次に口を開いたのは、子孝兄だった。
「南郡の城で、孟徳兄の寝室につけた護衛たちが、皆、戻ってきた」
赤壁の戦から、俺と兄上だけ、先に逃げてきた時のことだ。
俺は耳をふさぎたくなる。
あの夜、俺は、やっと兄上に、受け入れてもらうことができたのだ。
その、俺にとっては何よりも大切な夜のことが、語られようとしている。
また俺は、兄上を見た。
十二旒が隠す顔は、動かない。
子孝兄が、言う。
「聞くと、孟徳兄の命だと言った。それから、あの噂が立った」
伏皇后に、俺と兄上のことを漏らしたのは、兄上の侍従や、護衛たちだった。
兄上が一人一人見つけては除いていた。
それ以来兄上は、侍従も、護衛も、置かなくなった。
だから俺がいつも寝室に入るようになったのだ。
兄上は、身の回りのことはすべて自分でした。いざとなれば、自分で自分の身も守ることができる。
それにもかかわらず俺をそばにいさせてくれるのは、俺に護衛をさせるためでも、身の回りのことをさせるためでもない。
そのことを、元譲兄も子孝兄も、わかっていない。いや、わかろうとしない。
兄上は、唇だけを、笑うかたちにした。
子孝兄が、眉目をひそめた。
「孟徳兄。俺は真面目に話している」
「すまない。子孝ほどの男が、そんなくだらぬ噂を信じていると思ったら、可笑しくなったのだ」
「確かにくだらぬ噂だ。しかし、よからぬ噂でもある。子廉と孟徳兄の名誉に関わる」
「よからぬ噂が立つから、身内をそばに置くのだ」
「護衛なら、仲康がいるだろう」
仲康では、だめなのだ。
仲康には、わからないのだ。
兄上が背負う、漢という国の行く末が、どれほど重いのかが。
その重荷を、黙って背負う兄上の痛みが。
いつまでこの話を続けるつもりなのだろう。
妙才は居心地が悪そうな顔をしている。
兄上は、子孝兄に答えた。
「仲康は、身内ではない」
子孝兄は、兄上に、まっすぐに目を当てた。
「率直に言う。俺は、俺の実の弟と、これまで信頼してきた従兄が、あんな醜悪な噂を立てられているのが、我慢ならんのだ。しかもその噂が真実かもしれないと思わせることをさせている孟徳兄に、俺は、怒りを禁じ得ないのだ」
子孝兄はきっと、心底から、俺たちを心配してくれているのだろう。
その心配が、却って、俺と兄上を苦しめていることになど、思いも及ばないだろう。
子孝兄の心配を取り除くとしたら、俺と兄上は、離れるしかない。
そんなことを、俺も、兄上も、望んでなどいないのに。
俺の長年の想いを、その体を痛めてまで、受け取ってくれた兄上。
痛みにさいなまれながら、俺に、ほほえんでくれた兄上。
そんな兄上のために俺ができることは、命をかけて戦うことしかないのに。
兄上は、子孝兄の目を正面から見返した。
「俺が王になったのは、おまえたちを守るためだ。朝臣どもと戦うためだ。仲康にもこれまで通り護衛をさせている。しかし万が一のため、子廉にもそばに控えてもらっているのだ。子廉は身内、ただ、それだけの理由だ。子孝、わかってくれるな」
「では、なぜ、孟徳兄と子廉がねんごろだという噂になったのだ。二人がいつも離れないからではないのか」
聞きたくない。
俺はただ、兄上といたいだけなのに。
兄上は、俺の願いを、叶えてくれただけなのに。
十二旒が隠す顔が、一瞬、険しくなった。
「子孝。おまえの言葉は、子廉も聞いている。その子廉の心痛に、考えが及ばぬおまえではないはずだ。身内ならば、まして実の兄ならば、信じてやれ」
子孝兄は、口をつぐんだ。
俺たちの関係は、明かされずに済んだ。
しかしそれ以来、元譲兄、子孝兄、妙才は、俺や兄上と距離を置くようになってしまった。
さらに悪いことには、妙才は、定軍山で戦死した。
兄上は、俺の頭を、ゆっくりと、撫でている。
俺は、まどろみかける。
兄上の腿の上に置いた俺の手に、兄上の手が重なる。
「おまえに想いをかけているやつは、今、どうしている」
頭を撫でてもらっていると、兄上のことしか考えられなくなる。
だから答えずにいた。
手のひらが、撫でるのをやめた。
俺の頭に手のひらを当てたまま、兄上は言った。
「哀れなやつだ」
哀れとは、誰のことを言っているのだろう。
考えてみれば、俺も、兄上も、元譲兄も子孝兄も妙才も、公明どのも皆、あてはまる。
誰もが、誰かを想っている。
けれどもその想いが、本人が想うかたちで、相手に正しく伝わるとは限らない。
俺は、兄上の手を、そっと握った。
俺の想いは、俺が想うかたちで、あなたに、伝わっていますか。
兄上は、また、俺の頭を撫でてくれた。
ああ。
伝わっているぞ、洪。
建安二十五年、正月二十三日。
兄上は、息を引き取った。
俺の想いをその体に閉じ込めて、俺より先に逝ってしまった。
そして俺は、兄上の想いを体に刻み込んだまま、公明どのの腕に包まれている。
それが公明どのを、少しずつ、深く、痛めつけることになると、兄上はわかっていた。
現に、公明どのは、俺を抱きながら、時おり、俺を探すように目線をさ迷わせる。
子廉どの。俺を見ていますか。
兄上を、想っておられるのではありませんか。
俺はそんな時、無理をして、ほほえむ。
見ていますよ、公明どの。
しかし俺の体に刻み込まれた兄上の想いは、公明どのと交わるたびに、ひとつ、またひとつと、薄らいでいく。
兄上は、それさえも、わかっていたのだろうか。
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