第9話 涙~夏侯淵と王異

 王異の物語です。

 魏書「楊阜伝」の注に引用された皇甫謐の『列女伝』に沿って書きました。ところどころ史実を変えない程度に脚色しています。



 ――私は、今から死ぬ。

 長安の城の中、ろうそくの灯りが一つ。卓の上に乗った小さな杯には水が一口分注いである。

 王異は卓の前に座ると、襟に縫い込んだ小さく四角い布の包みを取り出した。

 それは毒である。

 それはかつて彼女が、反乱で息子二人を亡くしたあとに飲んだものと同じ毒である。

 王異は手のひらの上に乗せた毒の包みをゆっくりと開ける。

 さらさらとした粉である。

 すると、大きな分厚い手が、彼女の手を包み込んだ。

 王異はゆっくりと顔を上げる。

 夏侯淵が、真面目な顔で、彼女を見下ろしていた。

「話してもらいたいんだが」

「何を、でございますか」

 夏侯淵の手は、温かい。

 夏侯淵は照れくさそうに言った。

「おまえさんの、これまでをだよ」

 その前に、と夏侯淵は王異が持っていた毒の包みをそっと取り外した。

「こいつは俺がしばらく預からせてもらう」

 王異のななめ前に夏侯淵はどかっと腰かけ、腕組みをした。

 王異は、口を開いた。



 王異は夫の趙昂と離れて子供三人と暮らしていた。男の子が二人、女の子が一人。三人の上にも一人男の子がいた。姓名を趙月という。この時趙月は父に従って、城にはいなかった。

 そこへ反乱が起きた。相手は王異たちを攻撃した。

「母上、英を頼みます」

 上の子はそう言って剣を抜き、敵兵に向かって走った。

「兄上に負けないように戦って参ります」

 真ん中の子も剣を抜き、兄のあとを追った。

 王異は下の子、娘の趙英を背中にかばい、弓を取った。

 しかし矢をつがえる間もなく、真ん中の子が片膝をついた。上の子が真ん中の子をかばうように立ちはだかる。

 二人の子は、王異の目の前で、斬られた。

 王異は矢を射た。

 二人の子を斬った敵兵の喉をその矢は射貫いた。

 そこからはただ、射続けた。

 背中にかばう趙英がどうしているか、振り返るいとまはなかった。

 味方の兵が駆けつける。

 二人の子は血だまりの上に倒れたままだった。



 息子二人、亡くなった兵たちの埋葬を終えた。

 夫が迎えをよこしたが、とても姑に会う気にはなれなかった。あとつぎになるはずだった息子を死なせた。反乱を予測できなかった。

 いや、それよりも、おとなになっていない年齢の息子たちに剣を取らせてしまった。

 だから娘だけを夫の実家に行かせ、王異は毒をあおった。

 ところが娘が、六歳の趙英が、父の部下たちの前で騒ぎ立てたのだ。

「お母様を助けて!」

 すると彼らは王異にすぐさま解毒作用がある薬湯を飲ませた。

 王異が目を覚ました時、夫の趙昂の顔が目の前にあった。その隣には趙英も、姑もいる。

「おはよう」

 夫は笑って、涙を流した。



 馬超が挙兵した。漢中の豪族たちが彼をかつぎ出したのだ。

 馬超は王異と趙昂がいる街を攻撃した。

「曹丞相が軍を率いて向かっておられる。我らはここを守り抜こう」

 告げた趙昂に王異はうなずいた。



 趙昂と二人で街を守った。

 王異は弓を取り、矢を射た。

「恩賞が足りぬ」

 嘆く趙昂に王異は申し出た。

「私の佩玉や衣服をお使いください」

「いいのか?」

 王異は笑った。

 二人の息子を目の前で殺されてから、初めて笑えた。

「惜しくも何ともありません。もともと飾り立てることを私は好みませんから」

 王異の装身具や衣服をいただいた将兵たちが喜ぶ姿を見ると、趙昂も相好を崩した。

 しかし趙昂の上官はこう言って馬超との和議を考えた。

「これ以上将兵が傷つくのを見るに忍びない」

 帰ってきた趙昂は肩を落として王異に言った。

「お諌めしたが、聞き入れられなかった」

「馬超は漢の帝にそむいているのですよ。正義は我々にあります。我々だけでもやつと戦いましょう」

 ところが趙昂の上官は和議を結んでしまった。そして馬超に殺された。

 馬超は従わない趙昂をおどし、息子の趙月を人質にとった。

「どうする」

 困り果てる趙昂の背中に王異は手をそっと当てた。

「馬超の夫人に取り入りましょうか」

「おまえ、どうやって」

「簡単なことです。女同士、話をして参ります」

 王異は馬超の妻の楊氏に言った。

「中原の軍勢に対抗できるのは、馬将軍率いる涼州の人馬だけでございます」

 楊氏はすぐに嬉しさを眉目に表した。

「夫が聞けばどれほど勇気づけられるかわかりません」

「むろん私も、夫も、お力添えいたしますよ」

「あなた様のこと、夫に伝えますね」

「ええ、ぜひお願いいたします」

 楊氏のおかげで趙昂と王異は馬超からの信頼を勝ち取った。

 その上で馬超を除く算段を立てたのだが、趙昂はまた王異に相談した。

「月をどうする」

 王異の眼裏に、血だまりの上に倒れた二人の息子が浮かぶ。

 月はもう、おとなだ。

 両親が馬超にそむけば自分が馬超に殺されることは、わかるはずだ。

 ――いくさ世の習いとはいえ、武門に生まれた者の定めとはいえ、また私は、息子を死なせることになるのか。

 王異は表情を失う。

「異」

 趙昂が心配そうに王異の顔をのぞき込む。

 趙昂の目を真正面から見て、王異は感情の消えた声で答えた。

「捨て置いてよろしいと思います。あの子も武門の生まれ、おのれの身に何が起こるか、覚悟を決めていると思いますから」

 趙昂たちは馬超に反逆した。

 馬超は趙月を殺した。

 趙昂と王異たちが曹操に従ったのは、そのあとだった。



 聞き終わると夏侯淵は、腕組みを解いた。

「それでおまえさんは、自分を責めてるってわけか」

「いかに世の習いとはいえ、息子を死なせたのは、私です」

「おまえさんがどう頑張ろうと、息子は死んでいたよ」

 王異は夏侯淵を見た。

 そんなことをはっきりと言われたのは、初めてだった。

 夏侯淵の大きな目鼻と口を見ていると王異の心はなぜか落ち着いた。

「男ってのは、どんなに年端がいかなくとも男なんだ。覚悟を決めてる。男が一度覚悟を決めたら、周りはそれを認めるしかない。おまえさんの息子たちだ。覚悟はとうに決めてたと俺は思う」

 王異の目に涙がにじむ。

「だからおまえさんが一人で責めを負うことはない。そんなものはおまえさんの独りよがりにすぎない。だから息子たちを誇りに思ってやれ。そしておまえさんも、せっかく俺たちの仲間になったのだから、何でも俺たちに相談しろ」

 王異は涙が止まらない。

 彼女の目の前に、手巾がずいと差し出された。

「旦那からの預かりものだよ。心配してたぞ。今は別に任務があって一緒にいてやれないからお願いしますって言われてたんだ」

 王異は手巾を受け取る。

 顔に押し当てて、声を放って泣いた。

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