第8話 酒の肴にはさせない~曹夏侯いとこ飲み

【まえがき】

 今回、時代考証は「なし」で語ります。

 洪さん一家のある日のひとこまです。


 梁氏は美しい女だ。そして優しい。周瑜と戦って敗れ、元譲兄や子孝兄と許昌へ戻ってきたおれを馥や祥、それに暁雲と共に迎えてくれた彼女を見てようやく、生きて帰って来たのだと感じた。

 今日は妙才が、いとこ同士集まらないかと言ってきている。

「三人とも無事に帰って来た祝いだ」

「おれは飲めないぞ」

「その場にいればよい。おれたちいとこが集まることが大事なのだから」

 妙才はそう言っておれの肩を殴るように叩いた。こいつも孟徳兄も元譲兄もそして子孝兄もざるのように飲む。

 帰って来て間もないのにまた家を空けることを詫びると、梁氏はおれに笑顔を見せた。

「お気になさらず、行ってらっしゃいませ」

 梁氏が馥と暁雲、二人にまとわりつく祥をちらと見て微苦笑する。

「暁雲はずっと馥と同じ寝床で休んでいたのですよ」

「おれの部屋を使えと言ったのに」

 暁雲をうちに住まわせ、おれがいない留守を馥と守るように、孟徳兄と手紙を書いた。そして暁雲は武将になることを望み、孟徳兄の計らいもあっておれの養子になったばかりだ。

 梁氏が言う。

「ずっと三人、あの調子なのです。離れません。さすがに夜は別々に休むのですけれど、まるで最初から三人きょうだいであったように」

「母上!」

 祥が明るく言っておれたちの間に入り込む。

「父上をわたくしたちにもお貸しくださいませ」

 祥の細い肩に手を乗せ、おれは言う。

「おれは物ではないぞ、祥」

「妙才のおじ上のお宅へお出かけになるのでしょう? それまで父上と少しでもお話ししたいのです。ほら、前にわたくしと飛将兄さまにお約束してくださったではありませんか。江東からもしも生きて帰って来たならば、母上とのなれそめをお話しくださると」

 確かに約束していた。

 おれの胸に祥がすがりつく。

「もしお急ぎになるのでしたら、みちみちうかがいます。父上、ぜひともお話しになって」

 梁氏が笑いをこらえている。

 いつの間にか馥がおれの隣に立っていた。

「父上、ぼくも後学のためにうかがっておきたいです」

 子供二人に迫られるおれを梁氏は笑いをかみ殺しながら眺めている。

 恥ずかしい。

 いかに約束したとは言え、なぜ夫婦のなれそめなんぞを子供らに明かさねばならんのだ。

 おれは暁雲を見る。孟徳兄そっくりの顔いっぱいに困惑を浮かべて固まっている。

 祥が暁雲に助けを求める。

「暁雲兄さまからもお願いしてください」

 おれは暁雲をにらむ。

 おまえ、わかっているだろうな。ここは馥と祥の兄として、一言びしっと言うべきところだぞ。

 よせばいいのに馥までが暁雲を巻き込む。

「暁雲、君からも言ってくれよ」

 暁雲は果たして、言った。

「おれも聞きとうございます、父上」

 おれは暁雲の前に走り、胸ぐらをつかんで小声で怒鳴る。

「おまえ、孟徳兄の子に戻すぞ」

 暁雲もまた小声で、落ち着き払って答えた。

「父さんは知らぬふりを決め込んだ上、おれを門前払いにすると思います。おれは結局、父上の子でいるしかないのです」

 ああ、こういう変に肝が据わったところは孟徳兄そっくりだ。

 暁雲がおれの手を胸からはずし、満面の笑みで言った。

「馥、祥。父上がお話しくださるそうだ」

「やったあ!」

 両手を上げて喜ぶ二人の後ろで、梁氏が軽やかな笑い声を立てた。

「お許しください」

 暁雲がおれに深々と頭を下げる。

 おれは悔しまぎれに言った。

「おまえ、あとでおれと、剣の稽古だぞ。倒れるまでやるからな」

「喜んでうけたまわります」

 顔を上げた暁雲が不敵な笑みを見せた。


 なれそめと言っても、家同士が決めた夫婦だ。しかし梁氏は、黄巾賊が暴れまわるなかを義理の父母を守って逃げたという武勇伝をもっていた。

「なぜ母上だけで守ったのですか。一人目の旦那さまはどこで何をしていらしたのです?」

 梁氏にとっておれが二番目の夫であることは子供たちも知っている。眉をひそめる祥におれは答えた。

「その時には家を出ていて、いなかったそうだ」

「信じられない。男の風上にも置けない」

 馥は本気で怒っている。

「きっと事情があったんだよ、馥」

 暁雲が馥の背中を手のひらで軽く叩いた。

 おれたちが董卓討伐に失敗し故郷に逃げ帰ったあと、おれと梁氏は婚礼を挙げた。

 酒宴が終わり、おれと梁氏は寝室で向かい合った。

「おれはまだ、女をよくは知りません。ご教示願います」

 梁氏がほほえむ。

「子廉さま、わたくしはもうあなたさまの妻でございます。どうぞ、わたくしを年長の者として扱われませぬようお願い申し上げます」

「しかし、あなたに恥をかかせるようなことがあっては」

「わたくしも殿方のことはよく存じませぬ」

「え。ですが以前、嫁いでおられたのでは」

 梁氏のほほえみが陰る。

「一度だけでした」

「それはどのような」

 梁氏がおれの目をまっすぐに見た。

「夫は、男しか愛せない人でございました」

 おれは彼女の黒目がちの瞳に目を凝らす。

「子廉さまにこのようなことを申し上げるのは大変はばかられるのでございますが、夫はいやいやわたくしの相手をし、初夜が済むとそれきりわたくしに触れもしませんでした。そしてわたくしと夫婦になってひと月もせぬうちに、意中の殿方のもとへ走ったのです」

 彼女はまたほほえんだ。

「夫の両親はわたくしに手をついて頭を下げました。申し訳ないことをした、どうか許しておくれと。養子を迎えようにも夫のきょうだいは女ばかりである上に、もうけたのも女の子ばかりだと。それゆえ、もう息子のことは忘れてくれて構わないと、わたくしを離縁してくれたのです。よりふさわしい方とめぐりあいなさいと」

 そんなおれも男しか愛せない。彼女を迎える前に父上につれられて娼館に行って女を抱いたが、陰ったほほえみを浮かべる梁氏にどうしてよいのかわからずじまいだ。

 梁氏が美しい顔をうつむけた。うつむけると同時に涙がこぼれる。こぼれた涙が敷布の上に置かれた彼女の手の甲に落ちた。

 おれは彼女の手に、自分の手を重ねる。おれの手の甲にも彼女が流した涙が落ちる。

 その涙を見たまま、おれは彼女を呼んだ。

「梁氏」

「はい」

 彼女がおれを見る。

 顔と顔を向き合わせ、おれは言った。

「教えてくれ」

 梁氏が吹き出した。

「おれは何かおかしなことを言ったか」

「いえ」

 言って梁氏は声を立てて短く笑った。おれよりも八つも年が上なのに、まるでいとけない童女のようだ。

「ただ、男と女が抱き合うだけですのに、何やらたいそうなことになってしまったと思いましたので」

「たいそうなことだろう」

 梁氏がおれの胸に身を預ける。柔らかな体の温かさに、おれの全身が沸き立つ。

 自然と手が彼女の背中に添う。

 梁氏の腕がおれの背を、優しく抱きかかえた。


「きゃーっ!」

 祥が頬を真っ赤に染めて叫ぶ。

「うるさい」

 馥が心底嫌そうに吐き捨てる。

 むろん、夫婦の営みの細かい部分なんぞは語らない。それでも祥は興奮のあまり身もだえている。

「素敵! わたくしも見目のよい殿方と早くそうなりたい」

 馥が祥の肩をつかむ。

「おまえ、ませたことを言うな。恥を知れ、恥を」

「飛将兄さまも父上のような殿方にならなくては駄目ですよ」

「じゃあおまえも母上のような婦人になるんだな? なれるか?」

「まあ、失礼な! なれますとも! なってみせますとも!」

 暁雲が下を向いて肩を小刻みに震わせている。どうやら笑いをこらえているようだ。

 梁氏は笑いすぎて泣いている。

 恥ずかしいのはおれの方だぞ、祥。

 おれは、今日のことは、絶対に妙才や孟徳兄、元譲兄、子孝兄には話すまいと固く決心した。話せば最後、彼らの酒の肴にされることは必定だからだ。


「しかし子廉もいい嫁をもらったものだなあ」

 妙才が杯をぐいっと空ける。

「おまえのところだって、おまえにはもったいない女じゃないか」

 おれが言うと妙才は手酌で二杯目を注いだ。

「あんなのは顔だけだ、顔だけ。おかげで覇はえらい美男子だ。おれに似たらああはならなかった。そこだよなあ。こんなことは言いたくないが子廉は見目がいいし、梁氏も美人だ。だから祥だって年端も行かないくせにあんなに美形だし、馥もなかなかいい男に育つぞ、あれは。夏侯氏ももうちょっと見た目が良ければなあ。なあ元譲兄」

「ちょっと待て、それは違うぞ妙才」

 元譲兄が残った右目で妙才を射すくめる。

「おれはいい男だ。間違いない」

 子孝兄が冷ややかにつぶやく。

「自分で言うな」

 妙才が孟徳兄に酒臭い顔を寄せる。

「なあ、孟徳兄。なんだって間者なんぞを子廉の養子にしたのだ。いくら孟徳兄の身代わりをやりおおせたからって厚遇しすぎだろう」

 孟徳兄は暁雲そっくりの顔でにやりと笑い、妙才の杯に酒を注ぎ足す。

「そういうおまえは飲みが足りないぞ、妙才」

「あっ、ちょっと、孟徳兄っ、もったいない、こぼれてるじゃないかっ」

 妙才が杯の縁からあふれる酒を口で受け止める。

 孟徳兄がおれを見る。

「暁雲はどうしている。おまえの家に溶け込めているか」

「ああ。まるでもとからおれの子供のようだ」

「それはよかった」

 今頃梁氏と暁雲、馥、祥は休んでいるはずだ。もっとも子供たち三人は眠りにつくまで騒いでいることだろう。祥が暁雲にまとわりつき、馥が焼きもちを焼いて二人の間に割って入り、暁雲はうまく二人をかわして苦笑いする。

 子孝兄が杯を干す。

「そういえば子廉のところは、長男を亡くしているのだったな」

 震という息子がおれにはいた。赤ん坊の時分に死んでしまった。だから暁雲には曹震と名乗らせている。誰よりもそれを喜んだのが梁氏だ。震を亡くしてあとを追うのではないかと心配で、おれは彼女から片時も離れずにいたことを思い出す。

 元譲兄が三杯目を空ける。

「しかしまあ、間者とはいえ、また震が戻ってきたんだ。梁氏も喜んだろう。それに馥も祥も兄ができて喜んでいるそうじゃないか。子供が笑っているのが何よりだ」

 そうそう、と妙才が笑う。

「子供が多いと楽しいぞー。おれんちなんか四人だからな。まあ孟徳兄のとこはもっといるけどな」

「多ければ多いほど悩みも尽きないぞ。丕と植は相変わらず不仲だし、彰は武芸一辺倒だし、熊は今日も臥せっているし」

 孟徳兄が渋い顔をする。

 子孝兄が二杯目を口にし、遠くを見た。

「まあ、一番は、こうして皆で笑えることだな」

 確かにその通りだった。

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