第6話 勝つのは我らだ~合肥の張遼

 今日も曇り空の下を流れる長江をはるか遠くに望み、張遼は思い出す。

 下邳かひから呂布や高順と共に打って出た。ところが郭嘉の策で身動きがとれなくなった。

 命を奪われる、そう覚悟した。せめて部下たちだけは助けてもらおうとした。

 ところが、目の前にいた男たちは、笑顔でこう言ったのだ。

「うちに来ないか」

 曹洪の明るい声。

「陳宮にこき使われるよりもずっとマシだと思うぜ」

 夏侯淵の大きな声。

「拙者も、前の主君のもとにいた時よりも、ずっとのびのびできている」

 徐晃の力強い声。

 そして郭嘉の優しく、やわらかい声。

「我が君も待っている。私たちと行こう」

 曹洪、夏侯淵、そして徐晃は今、丞相と兼務するかたちで魏公に就任した曹操につき従って、漢中にいる。張魯征討のためだ。

 郭嘉は、八年前に病に倒れ、亡くなった。

 投降した自分に親切にしてくれたのは、彼らだった。

 しかし、親切な者たちばかりではないことも、張遼は日を追うごとに思い知ることになる。

 今、共に合肥を守っている、李典と楽進。

 彼らの振る舞いや言葉のはしばしが、張遼の見えないところに傷をつける。

 なぜ丞相は、わしと彼らを組ませたのだろうか。

 曹操から明確な説明を受けたことはない。張遼は武人である。主君の命令だから従うだけだ。

 曹洪や夏侯淵、徐晃の明るい笑顔を思い出すと、いくぶん気がまぎれる。

 しかし郭嘉はもういない。

 長江は今日も曇り空の下を流れている。



 物見が次々に駆け込んでくる。

「孫権が兵を起こしましたッ」

「その数、およそ十万!」

 建安二十年(215)。

 一大事だが、曹操は張魯征討に出向いている。

 しかし使者をよこして、箱を張遼たちに送ってきた。

 その箱には、「賊至レバ乃チひらケ」と書いてある。

 張遼がその箱を持ったまま立ち尽くしていると、李典が苛立ったようすで箱をひったくった。

 ああ、まただ。

 丞相に降ってから何度となく自分に対してとられた態度に張遼は内心、李典とのあいだに見えない壁を立てる。

 李典のおじは、呂布の部下に殺された。その部下たちとは張遼も面識はあったが、ほとんど話したことはない。もとはといえば彼らが反逆をもちかけ、李典のおじが断ったことに端を発している。

 同じ降った将である徐晃には先ほどのような態度を誰もとることはないのに、張遼にだけはとる。張遼が以前従っていた呂布が強大で、かつ攻めにくい相手であったからなのか。

 李典と楽進は曹操の古参の武将だが、張遼は彼らにとってはいまだに新参者なのだ。はっきり言われなくとも張遼は肌身でそれを感じ取る。

「なんだと」

 張遼にも聞こえる大きさの、李典の一人言だった。

 李典が箱に入っていた紙を楽進にだけ見せる。

 わしにも見せてくださらぬか。その一言を張遼は口の中で噛みつぶした。彼らはどうせわしの言うことなど聞かない。

 李典がいつもと同じ表情を張遼に向けてきた。

「それがしと張将軍は城から打って出よ。文謙どのは城を守れとのご命令です」

「承りました」

 楽進の表情も変わりない。

 曹操はなぜ、彼らと自分を組ませたのだろうか。

 いや、考えたところで答えは出ないだろう。

 張遼は騎馬隊のもとへ向かった。



 李典と馬を並べて兵を整列させる。

 張遼は曹操の意図を考えた。

 相手は、十万と聞いている。長江を背にして戦うことになる。

 せん滅せよということか?

 それとも、勝たずとも追い返せばよいのか?

 いずれにしろ曹操たちは漢中にいる。どれほど急いだとしても、合肥の救援には間に合わない。

 ということは――

「それがしが先に出ましょう」

 李典が言った時、張遼は弱くなりそうな声をできるだけ張った。

「いえ。わしが行きます」

 李典が眉と眉を不愉快そうに寄せた。

「丞相はそれがしと貴公とに出撃を命ぜられたのですぞ」

「李将軍はそのまま出撃なさってください。わしは八百の兵で突っ込みます」

「八百? 少なすぎるのではありませんか」

 どうせ言っても聞いてもらえないだろう。しかし、ここは引けない。合肥を孫権に渡すわけにはゆかないのだから。

 曹洪や夏侯淵、徐晃、そして郭嘉の顔を一人一人思い浮かべる。

「わしが相手側をかき乱しますから、将軍はそこを攻撃なさいませ」

「それなら正面からぶつかればよいではありませんか」

 李典は聞く耳をもたない。張遼は進言したことを後悔した。

 こうなれば、もう、行くだけだ。李典に理解してもらうことよりも、今、すべきことがある。

「先に参ります。合肥を守りきれればよいのですから」

 張遼は自身の騎馬隊を含め合計八百の騎兵と歩兵を集めた。

 そして彼らに、告げた。

「命をかける時が来た。孫権は十万だ。我らは八百。なぜ八百か」

 騎兵も歩兵も真剣に張遼を見ている。

「孫権側は騎馬戦に不慣れだ。しかし我らの強みは騎馬での戦いだ。だから我らが駆ければ必ず孫権側は乱れる」

 張遼は覚悟を声に乗せた。

「勝つのは我らだ」

 そして張遼は八百の兵を率いて孫権側に向かっていった。

 李典はそのあと、打って出た。



 張遼の騎馬隊は鳥のようだ。

 張遼をくちばしに、翼のように騎兵が並ぶ。

 翼を羽ばたかせるように騎馬隊が駆けると、さすがに孫権側はすぐに乱れた。

 張遼は歩兵も率いる。歩兵たちには走らせた。相手側の歩兵に出くわせば、打ちかからせる。

 そこへ李典率いる軍勢が斬り込んだ。

 しかし孫権側は引かなかった。確かに騎馬隊の動きは遅いが、ひるまず押し込んでくる。

 乱戦の中、駆ける張遼に、兵が呼びかけた。

「将軍。我らを、棄てるのですか」

 振り返ると、地面に倒れた歩兵だった。顔の半分がどす黒い。その黒は、血の色だ。

「待っておれ」

 張遼は叫んで、そばを駆ける騎兵たちに命じた。

「助けるぞ!」

 引き返し、馬を下り、先ほど声を上げた歩兵を張遼はかかえ起こした。

 乗り手を失った馬を、動ける歩兵に引いてこさせ、それに怪我をした歩兵たちを乗せる。

「ありがとうございます」

 声を上げた歩兵が張遼に、弱い声で言った。

「北へ走れ」

 言って張遼は、歩兵が乗った馬の尻を叩いた。

 助けられる兵を馬に乗せて退却する。

「将軍、助けてください」

 その声を聞けば、張遼はまた引き返した。

 集めた八百の兵たちの目を思い出す。聞き捨てることなどできなかった。



 孫権側は引き揚げた。

「今後このような独断専行はおやめいただきたい」

 李典が厳しい声で張遼に意見する。

「申し訳ございません」

 詫びながらも張遼はまた内心が凍えるような思いをした。しかし一方で張遼の心は満たされていた。

 兵を助け出せた。加えて合肥を守りきれた。

 これからも李典や楽進とは相容れないだろう。それでも今、すべきことに目を向ける方がよい。張遼はそう思っていた。

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