第5話 永遠に問え~于禁と龐徳

「本当に、よかったのか」

「ああ、これでよかったのだ」

 曹洪の問いに、徐晃が小さな笑みで答える。

 ぎょうの郊外。

 寒空の下、曹洪と徐晃は、曹操の墓にいた。二人とも平服だ。

 墓は建物で囲まれている。曹操の遺言により、警備の兵は置いていない。建物の管理は曹丕が人を使って定期的に行っている。

 四角い石を積み上げた壁が上下左右から迫る。ひんやりとして肌寒い。

 二人の前には四角い空間が一つだけ空いている。そこから見える暗い道の向こうに、曹操の棺が納められている。

 無言だった。

 曹操が今目の前にいて、自分たちを見ている。そう思うと、妙に喉が詰まる。

「おまえは、ここへ来たくはないと、言うと思っていた」

 曹洪がうつむくと、徐晃は笑みを残したまま、優しく言葉をかけた。

「以前なら、そう言っただろうな」

 徐晃が曹洪を見つめる。

「おれもようやくわかった」

「何をだ」

 徐晃は四角い闇に顔を向ける。

「おまえにとって王はかけがえのない人だった」

 冷たい石の匂い。肌に冷気が染みる。

 二人は一礼し、肩を並べて石室をあとにした。



 入る道と出る道は別だ。どちらにも壁に絵が描いてある。戦いの様子、軍議の様子。人物や馬の輪郭だけで表情はない。

 出口近くの壁の前で、曹洪が立ち止まった。

「子廉、何か」

「公明、これは――」

 二人でその絵を見た。

 雨粒が細かく降っている。波が立つ。

 怒る武将。

 その下には、青龍偃月刀をたずさえたひげの長い武将がいた。その前に手をついて、武将が一人、頭を下げている。

「これは――令明どの、文則どの、それに関羽……」

 徐晃は太い眉を上げ、そのすぐ下にある鋭い目をいっぱいに開き、絵を凝視している。

 曹洪の端整な顔からは血の気が失せている。

「なぜ、こんな絵を……」

「前から、あったのか」

「少なくとも建てられてすぐの時にはなかった」

 曹洪の隣で徐晃がはたと気づく。

「文則どのは、関羽に降ったあと、身柄を呉に移された。送り返されたのは、帝が即位した翌年だ。その後、帝の命令で呉へ使者として派遣されることになり、途中で武祖様の陵に参拝するのだと、拙者に話した。だが、呉へは行かず、病で亡くなったと」

「もしかして――見たのか、この絵を」

 言って曹洪は、ひざまずく武将に視線をくぎづけにした。

「そんな」

 徐晃が、ひざまずく武将に触れる。

 この絵を描かせたのは。

 ――子桓か。

 三度目の東方征討もまた失敗に終わった。孫呉が放った決死の兵が曹丕に襲いかかり、曹洪、許褚、徐晃、そして親衛隊である虎豹騎たちが死に物狂いで追い払ったばかりである。

 于禁が魏へ帰還する時、孫権は群臣たちと共に見送りに立った。それを耳にした曹丕が――生来怖がりで、おのれでおのれを信じられぬ曹丕が、于禁に疑心暗鬼を生じたことは、想像するに難くない。

 徐晃が絵から手を離した。

「まさか、文則どのは、この絵を見て、病を得たのでは」

 曹洪がうなずく。

「あり得る話だ。そういえばあの時、文則どのは令明どのとつかみ合いになりそうだった」

「子孝どのを救援に行く軍議でのことか」

「ああ」

 曹洪と徐晃は、建安二十四年のあの日を思い出す。



 建安二十四年(219)、秋七月。

 関羽、樊城はんじょうに迫る。

 その知らせは、ここ長安の軍議の場に、関羽が乗り込んできたかのような緊張をもたらした。

 曹操は十二旒の陰から、険しい白い顔を一同に向ける。

「樊城へ赴く者、名乗り出よ」

 于禁が進み出た。拱手して姿勢を正す。長身の美丈夫である。

「この于文則が参りまする」

 曹操は眉目を少しやわらげた。

「ではお主に七軍を預ける。精鋭だ、存分に使え」

「はっ、必ずや子孝どのをお助けいたします」

「文則、もう一人つれてゆけ」

「それがし一人で充分かと存じます」

「相手は関羽だ。用心に越したことはない」

 すると、一人の偉丈夫が列から姿を現した。

「王、この龐令明に、于将軍の副将をお申しつけくださりませ」

 龐徳である。

「お待ちください」

 于禁が龐徳の前に、長身を割り込ませた。

「王、それがしは得心がゆきませぬ。こやつはもともと馬超の家臣であり、こやつの兄は劉備の家臣です。二心なかりし確たる証拠がございませぬ」

 龐徳が目を、かっ、と見開いた。

「王に召し抱えられましてより、この身は王に捧げております。それがしの忠誠は王が誰よりもご存じであらせられます」

「令明を信じられぬか、文則」

 曹操が于禁に鋭い視線を向ける。

「龐令明自体降ってまだ四年ゆえ、まだまだ信用なりませぬ」

「王、お疑いあるな」

 龐徳が于禁の肩に手をかけた。于禁がにらみつけ、その手をつかむ。両者の眼ががちっとかみ合い、今にも殴り合いが始まりそうだ。

「控えよ! 」

 一同が声の主を一斉に見る。王の隣に侍立する武将。切れ長の目、通った鼻筋、従弟だけあって端整な顔立ちは曹操と似かよっている。背が高く、肩から胸を覆う筋肉は鎧のようだが、腰から下はすらりと伸びている。

 曹洪だった。視線を一身に受けながら、厳然とした口調は揺るぎない。

「王の御前である。静粛にいたせ」

 もう一人侍立している。許褚である。于禁と龐徳が殴り合いを始めたら自分が出てひきはがせばよいが、そうしたくはなかった。気を取り直して曹操に顔を寄せ、小声で促す。

「王、ご下命を」

 曹操は端整な白い顔をいまだ厳しくして于禁と龐徳に向けたままだ。

 于禁と龐徳はさすがに五歩ほど体を離した。頭を垂れて曹操の下知を神妙に待つ。

 曹操は座したまま口を開いた。

「文則」

「はっ」

「お主を主将とする。令明」

「承りまする」

「お主は副将である。文則の命に従え」

「心得ました」

 間、髪を容れず龐徳は応じた。于禁への不満は噛みしめた口元に明らかだ。

「令明」

「はっ」

「確かにお主を信用できぬと申す者たちもいるであろう。しかし余は、お主を信じている。令明、命あっての武勲だ。肝に銘じておけ」

 感動と感謝が涙となって、龐徳の頬を濡らした。

「文則」

「はっ」

「将、外ニアッテハ、君命モ奉ゼザルアリ。わかるな」

「無論」

「外にあれば、お主が決めるのだ」

「謹んで、承りました」

 于禁は背筋を伸ばした。

 曹操は于禁と龐徳に印綬を授けると、席を立って奥へ去った。



 徐晃は壁画の龐徳をじっと見る。

「拙者が向かったのは、令明どのが討たれ、文則どのが降伏してからだ」

「令明どのの最期も、文則どのがなにゆえ降ったのかも、俺は知らない」

「降伏するというのは、もう、それしかとる方法がなくなるということなのだ」

 自身も曹操に投降した徐晃が言う。

「苦しいのは、そのあとだ」

 二人は壁に描かれた関羽に、視線を戻した。



 樊城。建安二十四年、秋八月。

 陣を敷いた于禁のもとに龐徳がやって来た。

 出発前とは打って変わって、笑顔である。

「何用ですかな」

 于禁は渋面を作った。

「あなたと語り合いたくて」

 龐徳は武骨だが、笑うと愛嬌がある。

「何を」

「お互いを知ることは連携のために必要ですから。失礼ながら将軍は、一見とっつきにくそうだが、誘われれば実は嬉しい。当たりでしょ」

 図星である。

 やや赤面した于禁に、龐徳は続ける。

「ご自分から話しかけるのが苦手な様子ですな。わかっておりましたよ。伊達にさまざまな主のもとを渡り歩いて来たわけではござらぬ」

「だから、何の用でござるか」

「こうして将軍と話がしたかっただけですよ。相手は関羽、命がけではないですか。死んだら話したくても話せません」

 于禁は外を見る。山は険しく土地は起伏に富み、川も多い。長雨にやられたら確実に水没する。しかも季節は秋だ。その恐れは大いにある。

「令明どのは、関羽を討ち取りたいとお考えか」

「それ以外に何があるのですか」

 関羽を討ち取ることは不可能であろうと于禁は考える。

「慎重に攻めた方がよい」

「なぜです」

「地形をご覧になったか。もし長雨でもあれば我々は不利になる」

 于禁はそこまで言って、呼吸を整えた。

「なにゆえ関羽にこだわるのですか」

 龐徳は真剣な顔つきになった。

「それが王にできる、それがしのご恩返しだからです」

「ご恩返し?」

 龐徳は面をややうつむけ、ぽつりと言った。

「あの方だけだった」

 于禁は返答と反応に困り、落ち着かない。

 目の前にいる男は、そんな于禁をちらと見た。

「王と出会えたことは、それがしにとって幸運でした。若にもお供することかなわず、張魯からは疑われ、行き場をなくしたそれがしを、王だけが迎えてくださった」

「若――ああ、馬超のことか」

「関羽は恐ろしい。王の障害となるのは必定。だからこそ討ち取りたい」

 于禁は龐徳を見直した。

 龐徳は席を立った。

「于将軍」

「何か」

「お願いしたき儀がございます」

「お話しくだされ」

「どうかそれがしに、行動の自由をいただきたい。三日で結構」

「何のためにですか」

「関羽を討ちます」

「三日で?」

「許可をいただけますか」

「できぬ」

「そこを何とぞ」

「主将は私だ」

「お頼み申す」

 龐徳は膝をついた。次に両手をついた。そして額を地面に文字通り打ちつけた。

 ――将、外ニアッテハ、君命モ奉ゼザルアリ。 決めるのは、私だ。

 于禁は急にみぞおちに痛みを感じた。差し込むような痛みだ。

 ――私は、おのれで決めることが、苦手なのに。

 龐徳の言動が、自分勝手に思えてきた。事実その通りなのだが、彼の提案は一理ある。

「于将軍、何とぞ、何とぞ!」

 龐徳は何回も頭を下げている。

 黙ったまま冷や汗をかいて胃の痛みに耐えている于禁の脚に龐徳はすがった。

「では、かように思われませ。龐徳は勝手に陣を離れたと。龐徳は命令に背いたと。王にさように復命なされませ」

 何から何まで、龐徳は于禁をわかっている。それが于禁にはよく理解できた。

 雨音が、ひとつ、またひとつ。だんだん重なり、大きくなり、ごおおっ……という音になる。

 龐徳が外へ顔を向ける。

「于将軍、高台へ陣を移されよ。洪水の危険がある」

「令明どのはどうなさるのだ」

「関羽を襲います」

「この雨では無理だ。思いとどまりなされ」

 龐徳は于禁をひたと見据えた。于禁は思わず背筋を伸ばす。

「関羽さえ討てばあとは烏合の衆。それがしが関羽の注意を引きつけているうちに于将軍は曹子孝どのを救援なされよ」

「そんな。死にに行くようなものではないか」

「それがしの死があなたの務めを助けるのであれば、それは王を助けるのと同じことです」

 龐徳は拱手した。最後に、あの、愛嬌がある笑みを見せた。

「ご武運がありますことを」

 龐徳は幕舎をあとにした。

 者ども、集まれ。雨音にも負けない大声が、立ち尽くす于禁にも聞こえた。



 雨は降り続いた。

 于禁は率いてきた七軍を高台に布陣させた。

 念のため布陣した場所が洪水の被害にあったことがあるかを調べさせた。答えは、否だった。主だった武将にもそのように説明した。

 物見を放って調べさせると、龐徳は関羽の陣の近くに布陣したという。しかし雨のためか、その場にとどまっているそうだ。

 その関羽の陣にも、動きは見られない。

 ところが、妙だ。

「水位が上がりすぎではないか?」

 于禁の疑念は的中した。

 関羽たちがわざと川の水をせき止めていたのだ。

 于禁が疑い、しかし有効な手も打てずにいた、その日の夜。ついに関羽が動いた。せき止めていた川の水を、放出したのだ。

 于禁が曹操から預かった精鋭たちが流される。

 身近にいた将兵と一緒に、于禁は関羽側に見つかった。

 ――将、外ニアッテハ、君命モ奉ゼザルアリ。

 おのれで決めることが、苦手なのに。

 また、きりきりと、みぞおちを痛みが刺す。

 剣を抜いて斬り込むか。

 それとも――自刃するか。

 あるいは――降伏するか。

 于禁には、つき従う将兵がいた。

 雨は、降り続く。

 目の前には、敵。

「于将軍!」

 声がした方に于禁は疲れきった体を向けた。

 龐徳がいた。手勢と共に突っ込んでくる。

 関羽側も応戦した。

「どうして――関羽を、討つはずでは」

 つぶやく于禁を、将兵が抱きかかえて走り出す。

「将軍、逃げましょう!」

「しかし、しかし令明どのが」

「とにかく!」

 走った。

 林の中。

 丈高い草。

 ぬかるんだ道。

 濁流の腐った臭い。

 雨と汗で濡れた戦袍が肌にべっとりと貼りつく。靴の中は水びたし。鎧が重い。

 于禁がつまずく。とっさに手を出した。けれどしたたかに肩やら腰やらを打った。

 起き上がろうとすると、槍に囲まれた。

「敵将于禁、捕えたり!」

 于禁は結局何も決められぬまま、縄をかけられた。従う将兵たちも同様だった。



 一方龐徳は、関羽側の将兵相手に奮戦していた。陸地では馬で戦ったがその馬が槍で突かれた。龐徳は身一つで戦い続けた。

 もはや陸地は水に埋まって見えない。湖と化している。関羽側は舟に乗って進軍している。

 関羽を見た龐徳は、すぐそばに来ていた舟に飛び込んだ。驚く兵の鼻面を拳で打つ。その兵から櫂を奪い取ると力一杯漕いだ。

 龐徳めがけて舟が集中した。そこには関羽が乗った舟もある。龐徳は大声を張り上げた。

「関羽ッ、勝負ッ」

「龐徳、観念いたせ」

 豪雨のさ中でもよく響き渡る声で関羽は呼びかける。

 龐徳は関羽の舟に飛び移る。

 たちまち兵が群がる。

 関羽は龐徳に正対する。

「于禁は捕らえた」

「なんたること」

 押さえつけられた龐徳はくやしがる。

「子孝どのを助けに行けと言うたのに!」

「お主はどうする」

「お前を討ち取る」

「あきらめよ」

 龐徳は憎々しげに関羽を見上げた。

「降る気は?」

「愚問だ」

 関羽は漕ぎてに命じた。

「陣に戻れ」

 関羽の陣に着くと、龐徳は縄をうたれた。

 于禁と龐徳は、再会した。

 龐徳が吠えた。

「于将軍! なにゆえ行かれませなんだか」

「済まぬ」

 于禁は頭頂がつくほどうなだれる。

 互いにびしょ濡れである。

「まったくあなたは、おのれで決めることができないのか」

「できぬ」

 あっさり認めた于禁の耳に、龐徳は顔を思い切り近づける。

「于将軍、関羽には、降伏すると言いなされ」

 于禁はどんよりとした目を龐徳に向けた。もはや頭は、止まってしまって動かない。

「わかりましたか? 降伏なされ」

「降伏――?」

「そうです」

「殺された方がましだ」

「とにかく生きて時を稼ぐのです。于将軍さえ健在ならば、王のもとへ帰れます」

 関羽がやって来た。

「于禁」

 のろのろと顔を上げる。関羽が問う。

「お前はどうする」

 于禁は動かない。

 龐徳は目で強く訴える。

 于将軍、降伏と。降伏すると言いなされ。

 于禁は、曹操の言葉を思い出す。

 将、外ニアッテハ、君命モ奉ゼザルアリ。

 ここに君――曹操はいない。

 于禁は主君からかけられた言葉を復唱する。

「将、外ニアッテハ、君命モ奉ゼザルアリ――」

 関羽がそれを聞き、驚いたような顔をする。

 于禁はもう一度、今度は普段話す声の大きさでその言葉を口にする。

「将、外ニアッテハ、君命モ奉ゼザルアリ」

 龐徳は目と口を、疑問の形に開いた。

 于禁の目に生気が戻る。

 今度は、まっすぐに関羽を見て、言った。

「将、外ニアッテハ、君命モ奉ゼザルアリ。それがしは降伏いたす。その代わり、龐令明や、将兵の生命を保証していただきたい」

 龐徳が嬉しそうに笑う。

「やりましたね、将軍」

 関羽はしかし、冷酷に告げた。

「于禁をつれていけ。荊州で獄につなげ」

 于禁はわずかな将兵と共に引っ立てられた。

 去り際に龐徳に、笑みを向ける。龐徳も笑顔で、何度もうなずいた。

 関羽は龐徳に問うた。

「お主はどうする」

 龐徳は笑顔のまま、答えた。

「降伏せぬ」

 関羽は沈痛な面持ちで再度確認する。

「まことか」

「まことだ」

 龐徳は笑顔のままだ。

 関羽は長いこと龐徳の笑顔を凝視していた。

「こやつの首を斬れ」

 龐徳は笑顔のまま、涙を流した。



 龐徳が首斬られたことを聞いた于禁は、それまでの満ち足りた思いが、がらがらと崩れ落ちるように感じた。

 将兵は生かされた。しかし最も助かって欲しかった人が、斬られた。

 降伏までしたのに、命を保証してくれと言ったのに、龐徳だけが、于禁を一番理解してくれた龐徳だけが、命を奪われた。

 于禁の頭髪は、一晩で真っ白になった。

 そこからは、毎日のように、自害を試みた。逆効果だった。見張りを増やされ、自害に使えそうな物は巧妙に取り上げられた。

 関羽も孫権によって首打たれた。于禁は孫権に丁重に迎えられた。

 そこでも自害せぬように、見張られた。

 曹操が崩じ、曹丕が魏王に即位した。曹丕は皇帝となった。孫権は于禁を魏に帰した。



「それがしを、処刑してくださりませ」

 送り返された于禁は声を詰まらせた。

「もう十二分に生き恥をさらしましたゆえ」

「自害を試みたことはあるのか」

「ありました。何度も」

「止められたか」

「始終、見張られておりました。荊州でも、孫呉でも。なにゆえ除かれなかったのでしょうか」

「簡単だ」

 于禁はその答えを無言で求める。

 曹丕は于禁の目を見て、答えた。

「お主のしたことは、罪ではないからだ」

 于禁の頬から、力が抜ける。

 曹丕は立って、膝をつく于禁に歩み寄った。自身も膝を折り、目を見開いたまま動かない、亡き父に仕えた武将の手を、取った。

 于禁が、重ねられた手に、視線を落とす。

「罪では――ない?」

「そうだ」

「七軍のほとんどを、失ったのに?」

「ああ」

「戦うことすら、できなかったのに?」

「関羽に負けたのではない。雨に負けたのだ」

「降伏したのに?」

「誰であっても、同じようにしたはずだ」

「王の期待に添えなかった。龐徳を死なせた」

「期待に添う、か。王は何を期待していた?」

「関羽を倒すことを」

「子孝を救うことではなかったか。それを令明もお主もはき違えた」

 于禁が蒼白な面を曹丕に向ける。

 曹丕は静かに、穏やかに、続けた。

「もし、降伏したことが悪ならば、令明も、文遠も公明も、皆、許されないことになる」

「なぜ、なにゆえ……」

 于禁の声は涙に濡れた。

「そのようにおっしゃることができるのですか。あなたに私の何がおわかりになるというのですか。私は死にたかった。私は、降伏する代わりに令明どのを助けてくれと言った。だが令明どのは死んだ。これでは降伏した意味がない」

「私も、弱い男だからだ。お主と同じように」

 于禁は、思わず目の前にいる、かつておのれが仕えた主の息子をまじまじと見た。まさか君主から、そのような言葉を聞くとは。

「死にたかった。そうだな、文則」

 曹丕が尋ねると、于禁は白くなった頭を床に向けた。

「死ねませんでした」

「お主は令明を救えなかったおのれを、おのれで処断しようとした。だが、できなかった」

 于禁の、床についた手が、震え、握り込まれた。

「孫権からも、重くもてなされた。これもお主が望んでいたことではなかった」

 于禁は肯定する代わりに額を床に触れさせた。

「将、外ニアッテハ、君命モ奉ゼザルアリ。お主は、その文言どおりにしただけだ」

 曹丕は、一転して、厳しい顔つきになる。

「処刑してくれと言ったな。なにゆえおのれがしたことの是非を他人に決めてもらおうとするのだ」

 于禁の幅広い肩が、背が、縮こまる。

「それは甘えだ。だが」

 曹丕の声は、優しかった。

「私がお前の立場なら、同じようにしたと思う」

 于禁は泣き崩れた。声を上げた。

 曹丕は于禁を抱きしめる。

「お前にできることは、ただ一つだ」

 すがりつく于禁を強く抱き、曹丕はあくまでもいたわりと共感を示し続けた。

「私に考えがある」



 表向きは呉へ使者として赴くということにして、曹丕は于禁を送り出した。

 于禁は曹操の墓前に詣でた。

 出口に向かう通路の壁。

 関羽に降伏したおのれが、描かれていた。

 曹丕が言ってくれた言葉を思い出す。

「後世までおのれの姿を伝えよ。響く者には響くはずだ。お主の姿に人は、おのれの弱さを見るだろう。お主の弱さは、見た者の中に残る。そして何かを変えるかもしれない。

 弱いことは悪だろうか、文則?

 おのれの弱さを自覚しないことこそが、悪なのではないかと私は思うが、お主はどうだ?

 見た者に問え。問い続けよ。弱さは悪かと。おのれの弱さを知っているのかと。

 永遠に問え、文則」

 初めて彼は、安らかに、笑った。

 于禁はその年の内に亡くなった。病死だと史書には書き残されているが、それが真実かどうか知っているのは、于禁だけである。


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