第4話 あなたがいたからおれは飛べた~法正と劉備

 

 法正ほうせいあざな孝直こうちょくが主人公です。



 定軍山が見える。

 もうそろそろ日が沈む。

 見渡す限り畑と低い山。いくさとは無縁だとでも言いたげに麦まきにいそしんでいた百姓たちが家路を急ぐ。

 ところがこれからおれたちが攻めようとしているのはあの定軍山なのだ。せっかくまいた麦を踏み荒らしてしまうことになるので百姓たちには悪いが、おれたちの軍は畑を踏んで進むことになる。

「孝直」

 おれは振り返る。

「我が君」

 益州えきしゅう牧劉備、おれの主君が、甲冑に身を固めて馬を近づけてきた。

 おれも馬上にある。隣に馬を並べ、我が君はおれと同じく定軍山を眺めやった。

「いよいよ今晩だな」

「はい」

「黄のご老体も準備万端か」

「ええ」

「元気だよなあ、あの人も。ご老体なんておれが呼びかけた日には、『殿! 心外な! まだまだわしはやれまする!』なんて顔真っ赤にして怒ってたものなあ」

 我が君が黄のご老体――姓名は黄忠こうちゅうという――の物真似をするので、それがあまりにそっくりなので、おれはぶっと吹き出す。

「さてと、厄介なのは山攻めだな」

 おれは断言する。

「正面からぶつかるしかないです」

「だよなあ。ほんとうにおっかないのは張郃ちょうこうだ」

 我が君の周りに、勢いの強い風が一瞬、渦を巻いた。おれはそう感じた。

「張郃は城攻めの達人です。それにひきかえ夏侯淵は騎馬隊で勝負をつけたい。夏侯淵を外へおびき出せばなんとか」

「山を落とせるか」

 我が君が笑いを収めた。

「曹さんは必ず漢中へ来る。漢中でおれと戦う。それがおれたちにとって重要になる」

 曹操のことを、我が君はそう呼ぶ。

「ここが漢朝発祥の地だからですね」

「そういうことだ。相変わらず話が早いなあ、孝直」

「それはどうも」

 こんな口を聞けるのは、おれくらいだろう。

 それもそのはずだ。しょくに入るよう勧めたのはおれだし、初めて会った時におれは直感したのだ。

 彼こそ、我が主君に足ると。



 劉璋りゅうしょうが特別に工夫をしなくとも、やつとおれたち家臣とのあいだには、何ら問題は起きなかった。

 住民たちにとっても蜀は土地の質がよく、暮らしやすく作物を育てやすい場所だ。山に囲まれ、南には長江がゆったりと流れ、外から攻めにくい。曇りの日が多く湿り気があり、夏はじめっと蒸し暑く、冬もじめっと冷え込む。

 だがむしろそれが、蜀を停滞させていた。要するに安全におれたちは慣れきっていた。

 おれの友張松ちょうしょうは曹操と面会し、蜀を治めてくれるように頼み込んだ。しかし曹操は張松の話を聞いただけだった。

「まったく、あの宦官の孫ときたら、我が蜀の値打ちを何一つわかっておらぬ」

 憤慨する張松におれは言った。

「他に誰がいる」

「劉豫州よしゅう

 そこでおれが当時豫州牧の任にあった我が君のもとへ赴いたわけだ。

 その日のことは今でもよく覚えている。

 大きな耳、長い腕、背は高く、立派な体つき。

 その体から一瞬、強い風が吹いた。そう感じた。

 おれはひれ伏していた。

「劉」という、漢室と同じ姓。おれは皇帝に直接お目にかかったことはないが、ほんものの皇帝の前にいるように感じた。

 この男だ。

 この男のもとでこそおれは、おれの真の値打ちを出し尽くせる。

 だからおれは我が君に仕えることにしたのだ。

 張松は我が君への内通を兄張粛ちょうしゅくに暴かれ、劉璋に首を打たれた。

 おれはもう一人の友孟達もうたつと共に我が君のもとに走った。

 我が君は蜀を獲得し、劉璋は去った。



 正直なところおれは、敵が多かった。

 思ったことをずばりと言うからだ。

 また、おのれの才覚に自信をもち、それを隠さなかったからだ。

 劉璋はおれの進言を、正確に言えばおれ以外の者の進言もだが、聞き入れなかった。劉備を蜀に入れるなと、逆さ吊りになってまで止めた家臣までいた。それを見てもやつは考えを変えなかった。その家臣は自らを吊るした縄を自らの手で切り、頭から地面に落ちた。

 やつは君主の地位にいられればそれで満足だったのだ。



 我が君が蜀へ入られてから、おれは諸葛孔明と共に我が君を補佐した。

 同時に、おれを怨む連中を消した。

 おれはおれの権限で、罪人を処罰できる地位を得たからだ。

 おれとしては目立たないようにやったつもりだったが、そういうことは必ず誰かが見ているものなのだ。

 我が君はおれを呼んだ。

「孝直、おまえさん、悪い噂が立っているぜ」

「どのような噂ですか」

「おれが聞いたところでは、おまえさんが意趣返しをしていると」

 我が君の目は、いつもと同じだった。思わず気が抜けるような、のほほんとした目だ。

「その通りです」

「それで、おまえさんは気が済んだのかい」

「済みました」

 我が君は立ち上がり、おれをつれて露台に出た。

 並んで立つ。

 我が君が指で上をさす。

「見てみな」

 一羽の鳥が、ゆったりと風に乗り、円を描く。

「鳥が何か」

 眉間を寄せるおれに、我が君は言った。

「おまえさんは、あの鳥みたいに、羽を伸ばせているのかい」

 すぐには答えられなかった。

 確かにおれはおれにとっての邪魔者を消した。

 しかしそれでおれの心が安寧を得たのかどうか、おれは確かめようともしなかった。

 いや、おれの頭には、安寧という言葉すら浮かばなかった。

 我が君は鳥を見たまま、一人言のように言った。

「おまえさんのおかげで、おれは蜀で何も心配なく政務ができている」

「それは、光栄です」

 我が君に体を向け、おれは深々と一礼する。

 おれが頭を上げようとした時、我が君の、笑みを含んだ声がした。

「今のおれがあの鳥みたいに飛べているのは、おまえさんが頑張ってくれたからだよ」



 さて、定軍山に夜襲をかける時が来た。

 夏侯淵なんぞ猪武者だ。すぐに飛び出てくるだろう。

「まだか? 孝直?」

 黄のご老体が甲冑をがっしゃがっしゃと鳴らしておれに詰め寄る。

 深いしわのあいだから、ぎらぎら光る眼がおれを刺す。やる気まんまんだ。

「あの月があの山の上に来ればご出陣ください」

「なぜだ」

「月の位置でやつらは兵を交代させているからです」

「それを早く言わんか」

 黄のご老体はくるっとおれに背を向けて立ち去った。

 おれは確信した。

 ご老体は必ず夏侯淵を討ってくれる。



 夜襲が始まった。

 おれは我が君と並んで、離れた低い山の上から見守る。

 離れていると言っても、どこに誰がいるか、はっきり見える位置から見ている。

 燃えている。定軍山のふもとが燃えている。

 夜なのに、夏侯淵たちは騎馬で出撃した。旗が勢いよく前進する。

 やはり曹魏――曹操が魏王なので、やつの軍勢をおれたちは曹魏と呼んでいる――の騎馬隊は動きに無駄がない。しかも速い。おれたち蜀軍は押されている。もっと調練しなければならない。

 入り乱れる将兵が、急にぽかっと輪を作った。

 一騎打ちだ。

「ご老体と夏侯淵か」

 我が君がつぶやく。

「勝ってくれよ」

 おれもつぶやく。

 そこへご老体の体が前後に揺れた。

 もう一騎、ご老体に打ちかかる。

 しかしご老体は難なくかわして、夏侯淵を斬った。

 おれたち側が勢いづく。

 曹魏側が下がる。もう、反撃してこない。

 ご老体が帰ってきた。いらいらしている。

「矢が抜けんわい」

 右肩にかなり深く矢が一本、突き刺さっていた。

「曹なんとかとかわめきながら射てきおった」

「飛将だな」

 我が君が嬉しそうに頬をゆるめる。

「飛将?」

 おれが尋ねると、我が君はおれににやりと笑った。

「弓がめっぽう強い若いのがいるんだよ。たぶんそいつだ」

「よくご存じで」

 我が君はおれには答えず、黄のご老体を笑って支えた。

「お見事でした。さあ、手当ていたしましょう」

「ああ、まったくいまいましい。あんな若造に射られるとは。名を覚えておけばよかったわい。あとで目にもの見せてくれる」

「相手は名乗ったはずですがね。夏侯淵を打つのに夢中になられて、聞き落とされたのじゃありませんか」

「まったく殿までそれがしを年寄り扱いなさる」

 我が君はご老体を医師の待つ幕舎へつれていった。

 ご老体はそれきり、戦場に戻ることはなかった。

 そのあと曹操も大軍をひきつれてやってきた。しかしおれたちとふた月ほど矛を交えただけで引き揚げた。

 おれは我が君に勧めた。

「関将軍が樊城を攻めている。それに対処するために曹操は帰還したのでしょう。我々も戻りましょう」

 漢中のいくさは、おれたちが勝ったのだ。



 我が君は漢中王になった。

 しかしおれは病に倒れた。

 まだおれは四十五だ。まだまだやれるのに。

 我が君は床に臥したおれのそばに来た。

「惜しいなあ、孝直」

「まったくですよ、我が君」

「おれな、考えたんだ」

「何をです。おれはもう、あなたのために何もできませんよ」

 もう死ぬ身だ。こういうしゃべり方でも、許されるだろう。いや、許してほしい。

 我が君が目を細め、両方の口角をふわっと上げる。

「おまえにおくりなをやるよ」

「え――」

「翼侯」

 おれは目をいっぱいに開いた。

 翼という字には、文字通りの鳥の羽という意味の他に、「たすける」という意味もある。

 二人で見たあの、悠々と飛ぶ鳥が、おれの目にはっきりと映った。

 伸ばしたおれの手を、我が君はしっかりと両の手で包んでくれた。

 ぼたぼたと涙が、おれたちの手にこぼれる。

「ありがとうなあ」

 おれは我が君に、同じ言葉を伝えようとした。

 それなのにおれの舌はもう、動かなかった。


 ――今のおれがあの鳥みたいに飛べているのは、おまえさんが頑張ってくれたからだよ。


 違いますよ。

 飛べたのはむしろ、おれの方です。

 あなたがいたからおれは、飛べたんですよ。

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