第3話 きみと見る雲の海~郭嘉と曹操
雲が黒くなると雨が降る。
それに気づいた郭嘉は仮説を立てた。
雲の中には水がある。それがいっぱいになると雨を降らす。
なんだ。雲は、おれと同じじゃないか。
おれの中にたまった思いは、おれの両目から涙となって流れ出るのだから。
郭嘉が、涙の雨をためた黒い雲となるきっかけは、母だった。
母は出ていった。
行かないでと泣いたのに、返ってきたのは、嘘だとわかる笑いだけだった。
後に残されたのは、父と郭嘉だけ。
父のことをまわりは、こう言った。
「寝取られ男」
母は父の部下と深い仲になったのだ。
母の腹は、ぷっくりとふくらんでいた。赤子が産まれたかどうか、郭嘉は知らない。
二十歳になるまで、郭家の息子だとは知られたくなかった。だから故郷を出た。父は何も言わなかった。頼るつもりもなかった。
どれほど勉学に励んでも、まわりが見る目は同じだった。それならと、酒と女におぼれた。特に女には不自由しなかった。背はそれほど高くはなくやせ形だが目鼻立ちは繊細で甘いから。しかし酒はのちのち彼の寿命を縮める原因となった。
二十歳になってからは、司徒の役所に呼ばれて勤めた。袁紹に仕えたが、おのれの仕えるべき器にあらずと立ち去った。それから荀彧の推薦で曹操のもとへ行くことになった。
郭嘉にはひと目でわかった。
――この人は、おれと同じだ。
生い立ちに傷をもっている。それを乗り越えようと必死でもがいてきた。自分と同じように、自分にいわれのない傷を持った、それでも才覚を生かして生き抜こうとしている者を生かさずにはいられない。
郭嘉は曹操の軍師となった。
楽しい毎日が続くと思っていた。
そんな郭嘉は、咳き込むようになった。
そしてある日、曹操の前で、血を吐いた。
「奉孝。いつからだ」
切れ長の目に涙が見えた。感情をあらわにしても曹操の端整な容貌はそう簡単には崩れない。
「三月ほど前ですかね」
「なぜ黙っていた」
長い腕が抱いた。広い胸に頭を預ける。母に抱かれているように錯覚した。
「心配をかけたくありませんでしたから」
もう笑うしかない。
「この、馬鹿」
切れ長の目、通った鼻筋、白い顔。目の前に、敬愛する主君がいる。郭嘉の胸は温かいものでいっぱいに満ちる。
「ご安心ください、わが君」
郭嘉は心から笑った。
「まだ袁紹のせがれどもが残っていますよね。早く始末しましょう。そうしたら一緒に江東攻略に行きましょうね」
「お前まで失ったら、おれは死ぬ」
郭嘉は思い出した。曹操は三年前に、許昌にいたもと侍女を、流行り病で亡くしている。確か、彼女との間に子供がいたはずだ。彼女を曹操がどれほどだいじに守ってきたか、郭嘉はそばで見ていたから知っている。
「死にませんよ」
郭嘉は曹操の涙を指でぬぐった。
建安十二年(207)。鄴。
「烏丸を征伐する」
曹操は言った。その決心は固い。
「袁紹のせがれが頼っている。根絶やしにしなければ江東攻略に手をつけられぬ」
中原の統一は、曹操の望みだった。それをやりとげなければ平安はないのだ。
しかし部下たちは止めた。
「劉表が劉備を使って背後を衝くのではありませんか」
曹操がこんな時に見るのが郭嘉だった。人払いをし、二人で話す。
「奉孝。どう思う」
「劉表が劉備を、ではありませんね。劉備が劉表を使わぬか、その確証をお示しすればよろしいのですね」
曹操は得たりとうなずく。
郭嘉は笑顔を見せた。
「わが君、それについて一つ、ご用意いただきたいものがございます」
「望みは何か、奉孝」
「腕のよい、使える間者を一名」
「それならうってつけの者がいる」
言って曹操は、背後に声をかけた。
「暁雲」
「はい」
聞き覚えのある声がしたと郭嘉は思った。
間をおかず、間者が一人現れた。
郭嘉は目を見張る。まだ二十歳にもならないだろう。背は高く、体は引き締まり、手足が長い。切れ長の目には若さには似合わぬ憂いと陰が見える。鼻筋は通り、顔だけでなく声まで曹操にそっくりだ。
「私は、姓は郭、名は嘉、あざなは奉孝」
「姓は李、名は昇、あざなは暁雲と申します」
「わが君。ただの間者ではございませんね」
「お前には言っておく。おれの息子だ」
「ああ。だから似ているのですね」
曹操は顔色一つ変えない。
「おれと、おれの侍女の間に生まれた子だ。黄巾賊を討伐した時に助けた女で、三年前に病で死んだ。間者の家で育った。間者として使うから曹姓は名乗らせない。これを知っているのはお前の他には子廉だけだ」
子廉とは曹洪、曹操の従弟だ。董卓を追撃して反撃された際、「私がいなくてもさしつかえありませんが、あなたはなくてはなりません」と言って、命を助けた。
「あなたが信頼する武将と軍師、それぞれ一名ずつというわけだ」
「間者としてはまだ三年目だが、汚れ仕事も嫌な顔一つせずやりとげる。存分に使え」
「感謝申し上げます」
二人で退出した。郭嘉の仕事部屋で向かい合う。
「きみは間者だ。しかし私には流儀がある。それに従い、私はきみを友人として遇する。だからきみも私を奉孝と呼んで欲しい」
暁雲は一瞬、沈黙した。
郭嘉は待つ。美しい顔立ちに乱れはない。
暁雲は、曹操そっくりな顔を爪の先ほども動かさず、答えた。
「わかりました、奉孝どの」
「では、さっそく用を頼みたい」
「何なりと」
「劉備が劉表を動かさないという確たる証拠が欲しいんだ。それもこのひと月の間に」
郭嘉は笑う。
「やれそうかい? 暁雲」
「やります。奉孝どの」
暁雲はすぐに答えた。
「ありがとう」
言うと、郭嘉は暁雲に尋ねた。
「お母上を亡くされたと聞いているけど、その時にお父上は呼んだの」
「はい」
「お互い、話はできた?」
「――はい」
「実は私も母をなくしていてね。正確に言うと、出ていかれたのだけど」
暁雲がうつむけていた顔を郭嘉に向ける。
郭嘉は眉尻を下げて笑った。
「父の部下と、深い仲になってしまってさ。おなかに赤ちゃんができたんだ。それで父と私のもとから出ていった。寝取られ男の息子、それがこの郭奉孝というわけ。それが原因なのか、きみと同じ年頃の時分は女におぼれたなあ」
暁雲はこわばった眉目のまま聞いている。
「まあ、お母さんと離れてしまったという点では、私ときみは一緒だよね。お母上から何か最後に言われたことはあるの」
「――お父さんを、助けてと」
暁雲はまた下を向いた。
「知っていたんだね、きみの母上は。曹司空の務めを」
「戦のない国を作ることが、父さんの望みで、務めだと、いつも話しておりました」
郭嘉は笑顔のまま、暁雲に近寄った。その両肩に優しく手を置く。
「務めは辛い。でも、やる価値はある。必ず帰ってくるんだよ」
ひと月と言うが、簡単ではなかった。
馬を飛ばした。曹操の間者たちはこの中原のあちこちに散っている。途中で彼ら彼女らに馬を借り、休みもそこそこに荊州へ向かう。
劉表の屋敷に着いた時は、ふらふらだった。
寝てもいないし、食べても飲んでもいない。
それでも郭嘉の求めに応えなければならない。
壁を乗り越える。庭に下り立つ。
建物にそろそろと近づく。
すると回廊を歩いてくる男に出くわした。
暁雲は立ち止まる。
男も立ち止まる。
目が、合った。
「お、おい、冗談だろ」
男は真っ青になっている。
暁雲は動けない。大きな耳。長い腕。間者の頭から聞いた特徴とそっくり。
――劉備だ。
劉備はしかし、回廊をぴょんと飛び下りた。こちらへすたすたと歩いてくる。
すぐ目の前に顔を突きだし、劉備は言った。
「曹さん? なんで、間者の格好してるんだ?」
曹さん、とは誰か、まばたきを二回する間に暁雲は思い当たった。
――父さんと勘違いしている?
劉備は額に手を当てた。
「いや、待てよ。曹さんよりも若いな。ということは――」
いきなり指を差された。
「隠し子?」
「違います」
思わずさえぎった。実子だとは言えない。
「声もそっくりじゃないか」
「他人の空似です」
劉備は、うーん、とうなる。
「――まあ、いいか。ところでお前さん、名前は何ていうんだ?」
暁雲は急に肩の力が抜けた。目の前には劉備ののほほんとした顔がある。
名乗ってよいものか迷った。自分は敵方の間者なのだ。
沈黙する暁雲から、劉備は顔を引いた。
「名乗れるわけないよな。間者だもの。でもおれが誰だか知っているんだろ。だからここに潜んでいた。違うかい?」
「――はい」
素直に認める。
とんだへまをやらかしてしまった。暁雲は目をぎゅっとつぶる。どうせこの後劉備は関羽やら張飛やら趙雲やら、腕っぷしの強い家来たちを呼び寄せる。そいつらにおれは斬り殺される。
奉孝どの、申し訳ありません。
父さん、ごめん。
母さん――父さんを助けると約束したのに、守れなくてごめん……。
劉備の、のんびりした声が聞こえた。
「なあ。話そうぜ」
「は?」
思わず顔を上げた。
劉備が目尻を下げて笑っている。
その笑顔に暁雲はますます力が抜けた。
こんな風に気持ちが楽になるのは、初めてだった。父曹操の前にいれば体が氷みたいに冷たく、固くなる。奉孝どのの前にいると楽しいが少しだけ心配になる。
――母さんといるみたいだ。
亡くなった母といる時のようだった。何の心配もなく安心していられる。こんな安らぎを、関羽や張飛や趙雲も感じているのだろうか。
どたどたと足音がした。
劉備が足音がした方に顔を向ける。
「そこの植え込みに隠れてな。おれの弟たちが来たから」
暁雲は言われた通りにした。
熊か虎かと見間違うような大きな男と、背が高い美丈夫が駆け込んできた。
張飛と趙雲だ。
「兄貴! 大きな声出して!」
「殿! ご無事であられましたか」
劉備が両手を広げて横に振る。
「何でもない。心配かけて悪かった」
大柄な二人と並んでも劉備は体つきも迫力も負けていない。暁雲は唾をごくりと飲んだ。
「戻ってこないから心配しましたぜ」と張飛。
「ごめんごめん」
「くせ者でもいましたか」と趙雲。
「いない、いない。いても大丈夫。おれを誰だと思っている? 劉玄徳だよ?」
「だから心配なのです!」
人は劉備の顔の真ん前で叫んだ。
張飛がぎょろりとした目で、趙雲が注意深く、あたりを見回す。暁雲も鋭い目で二人を見る。
「じゃあおれたちは戻ります。兄貴。何かあればすぐに呼んでくださいよ」
「うん、わかった」
「剣はお持ちですね、殿?」
「この通り」
腰に下げた剣の鞘をぺちぺちと叩いて見せる。
二人は静かに歩き去った。
彼らの姿が見えなくなると、劉備は再び植え込みにしゃがみこんだ。
「悪かったな、隠れさせて。このまま話そうか。あいつらはおれのことが心配でたまらないのさ。おれがこんなだから」
暁雲は言葉に甘えることにした。少なくとも殺される恐れは十のうちの六か七くらいは減ったらしいと判断する。
「あのさ、お前さん、どこの間者なんだ? 曹さんに似てるから、曹さんとこから来たのか?」
「申し上げることはできません」
劉備は頬杖をついた。
「誰に命令されたの」
暁雲は沈黙で答える。
「だよね。お前さん、なかなか賢い」
今度は地面に座り込んだ。
「じゃあさ、おれが今から一人言を言うよ」
劉備は空を見上げた。
今日は風が強い。雲のかたまりが流れていくのが速い。
「おれさ、助けてくれた人を裏切ったんだよね。その人の敵を倒してきますって嘘ついて、しらばっくれて逃げたんだ。その人はそれは怒ったらしいね。おれを部下に追いかけさせた。戻れって言われた。だけどおれは、軍を任せられた以上命令には従えないって答えた。それからこんな遠くまで逃げてきたんだ。
おれにだって言い分はある。その人のもとにいたら、おれは確実に殺される。冗談じゃない。おれ一人ならおとなしく殺されるさ。でもおれには義理の弟たちがいる。生まれた日は違っても、死ぬ時は同じ年の同じ日に死のうって決めたんだ。そいつらを放っておくことなんかできない。だからその人には申し訳ないけど、逃げることにしたんだ。
その人はおれが怖いんだと思う。おれとその人はやりたいことや欲しいものが一緒だから。だからおれに後ろを襲われないか不安なんだ。そこでおれが攻めてこないか間者に探らせた」
まさしくその通りだった。それを知る前に、おれは劉備に見つかった。暁雲は殺されるかもしれないと覚悟を決めた。いざとなれば自分で自分の始末をつけよう。
劉備は暁雲の肩を、ぽん、と叩いた。
暁雲は顔を上げた。
目尻を下げた笑顔が見える。
「まだ続きがあるんだ。その間者はおれに見つかった。どうせ殺されると覚悟した。ところがおれは、間者が一番知りたいことを見せてしまった」
劉備は裾をまくった。裸の脚が見える。
暁雲は驚きのあまり目をむいた。
劉備は脚を丸出しにしたまま、空を向く。
「おれはさっき厠に立って、泣きたくなった。なんでかって? 内股にぜい肉がついていたからさ。これまで毎日のように馬に乗って戦っていたのに、ぜい肉がついてる。泣いたね。もう、泣くしかない。おれが景升どののもとで何もしてないってことじゃないか。情けないよ」
暁雲は劉備の内股をまじまじと見た。確かにたるんでいる。触らなくても、見てわかる。
劉備が突然訊いた。
「触る?」
暁雲は首を横にぶんぶんと振った。
「わけないよな」
笑って、劉備は立ち上がった。
「お前さん、もう帰りな」
助かった。思わず笑みが漏れる。
「この屋敷はあまり厳しく守ってないから、脱け出すのは簡単だと思う。お前さんは賢いからね」
劉備の目は、温かかった。
「生きろよ」
暁雲は植え込みの中から劉備を見た。
温かいまなざしのまま、劉備は言った。
「かっこ悪くても、生きてけよ。おれみたいに」
暁雲は拱手し、深く一礼した。そして、走り去った。
烏丸征伐を強く勧めたのは、ただ一人。
郭嘉だった。
「劉備は動きません。これは確実です」曹操は問うた。まわりには、部下たちがいる。
「断言するには確たる証拠があるのだな」
「はい」
郭嘉は、不敵な笑みを浮かべた。
「劉備は髀肉の嘆をかこっております」
曹操はしばらく郭嘉を見据えたまま、黙って、考えていた。
やがて、得心がいったとでもいうように、郭嘉に笑って見せた。楽しそうだった。
「行くぞ、奉孝」
「はい、わが君」
郭嘉も笑った。
笑っていないのは、他の部下たちだけだった。
「暁雲、やったよ。きみのおかげだ」
郭嘉は暁雲の手を取った。
暁雲は、はにかんだ。
「へまをやらかしたと、死ぬ思いでした」
「むしろお手柄だよ。劉備の内股を見てきてくれたのだから」
「お役に立てて光栄です」
「一緒に烏丸征伐に行くよ」
郭嘉は急に咳き込んだ。細い指の間から血があふれ出る。
「奉孝どの」
暁雲が手巾を出し、郭嘉の手にあてがう。
郭嘉は強いまなざしで空を見る。
「行こう」
口と指を強くぬぐい、郭嘉は立ち上がった。
長い旅が始まった。
建安十二年(207)、曹操と郭嘉は軍を率いて遼東を目指した。
鄴から北北東へ進む。進行方向右手には渤海が広がる。
初めて見る大きな海原に、誰もが感嘆した。
海風が潮の匂いを運んで心地よい。
洪水が起こったので、海沿いの道は取れない。内陸で道を拓きつつ進んだ。
八月。山が見える。白狼山だ。
「暁雲」
郭嘉が笑顔を向けてきたのはそんな時だった。
「何ですか」
「今日は雲が流れるのが速いね」
「風がありますから」
「雲海を見たことがある?」
「いえ」
「雲が集まっていて、海のようなんだそうだ」
言って、鞭で山を指した。
「白狼山だ。あそこで見られるといいね」
「ええ」
「そこできみにまた頼みがあるんだ」
郭嘉が眉目を引き締める。
暁雲も背筋を伸ばした。
「袁尚と袁煕がどこまで来ているか、見てきてくれないか。見えたらこれで知らせて欲しい」
細長い包みを三本渡す。
「見えたらこれに火をつけて放り投げて。数百なら黄色い包み。数千騎なら青い包み。数万騎なら赤い包み」
「はい」
暁雲が馬で駆け出した。
郭嘉は後方にいる曹操のもとへ駆けた。
「わが君、今、暁雲を物見に出しました」
「袁尚や袁煕の位置を探らせるためだな」
「はい」
今回の遠征では騎馬遊牧民の烏丸を相手にするため、かぶとと胸甲だけの軽装である。
「山から見たい」
「では私もお供いたします」
白狼山に少ない手勢と共に登り始めた。
木と木の合間から郭嘉は地上を見る。
雲海は見えそうにない。
そこへ、ぱーんと大きな火花が上がった。
赤い火花、赤い煙だった。
「敵です! 数万騎!」
振り返って郭嘉は叫んだ。
「文遠に伝えい! 突撃!」
曹操が鋭く命ずる。親衛隊の兵が一騎、先手の張遼のもとに走る。
曹操が馬首を返す。郭嘉も続いた。山道を見事な手綱さばきで駆け下りる。
「暁雲を助け出してきます!」
郭嘉は大声を出した。
「あいつなら心配ない!」
曹操が叫び返す。
「これは私の一存ですることです!」
郭嘉は馬の尻に鞭をくれた。
「友人ですので!」
「勝手にしろ!」
曹操の目は笑っていた。
張遼もまた曹操や郭嘉と同じくかぶとと胸甲だけをつけていた。騎兵を率い、数万騎の袁尚・袁煕・烏丸軍に突っ込んだ。
「左右に分かれろ!」
一本の線が三本に割れた。左右の一列は上から見ると斜めに展開している。
斜めの線が袁尚・袁煕・烏丸軍を真ん中の一列に向かって追い詰める。
真ん中の一列を指揮するのが張遼だ。先頭から左右に割れる。円を作った。
袁尚・袁煕・烏丸軍は、曹軍の円の中に囲い込まれた。逃げ場がない。
「暁雲!」
郭嘉は叫びながら駆けた。
すると前方から、「袁」の旗を掲げた一騎が駆けてくる。
敵か。警戒したが、違った。
郭嘉の目と口が大きく開いた。
「暁雲!」
「奉孝どの!」
暁雲は手に「袁」の旗を持っていた。確かにこうしていれば袁軍からは攻撃されずに済む。
暁雲は叫んだ。
「張将軍が、円を作りました!」
「わかった! ではもうその旗は要らないね!」
「いえ!」
暁雲は郭嘉と並んで駆ける。
「このまま、司空の軍に攻撃してもらいます!」
振り返る。確かに袁軍がついてきている。
「あと少しで円を抜ける! 司空がいる!」
全速力で駆ける。
円を、抜けた。
暁雲は旗を捨てる。
「曹」の旗が林のようだ。
矢が雨のように降ってくる。
暁雲と郭嘉は曹操のもとに転がり込んだ。
「戻りました!」
曹操は二人に、にやりと笑って見せた。
「よくやったな、奉孝、暁雲」
「わが君、今です!」
郭嘉の声に曹操は、味方への指示で応えた。
「行けッ! もみつぶせ!」
軽装の騎兵が突っ込んだ。
袁尚・袁煕・烏丸軍はさんざんに打ち負かされた。袁尚・袁煕は逃げた。
「やった!」
郭嘉は暁雲と手を取り合って跳びはねた。
暁雲も照れながら、一緒に笑った。
曹操は九月に鄴に帰った。
遼東の太守公孫康は曹操に服従していなかった。しかし袁尚・袁煕が逃げてくると、彼らの首を斬って、曹操に送った。
「これで江東攻略に行ける」
曹操も部下たちもそう思った矢先、郭嘉はついに倒れた。
暁雲は郭嘉につきっきりで看病した。
曹操もそれを許した。
「母さんみたいになって欲しくないから」
郭嘉は高熱が治まらない。暁雲の母、李氏も流行り病にかかった時、同じ症状だった。
郭嘉は暁雲にほほえみかけた。
「きみの父さんは、きみをだいじに思っている。私はわかるんだ。自分がきみと同じだったから。母上は私を置いて出ていった。でも父上は私を見守ってくれたから」
「おれは司空の間者に過ぎません」
「だからさ」
郭嘉は暁雲の手を握った。
「きみの父さんだって、きみと話したいことがたくさんあるかもしれないじゃないか。それをきみが背を向けていたら、話したくても話せないじゃないか」
咳き込む。暁雲は背中をさすった。
――母さんが死ぬ時みたいだ。
「司空を、呼んできます」
「呼ばなくていい。心配かけたくない」
「でも」
暁雲は泣いた。郭嘉は力なく笑う。
「きみがいてくれる」
「おれは、父さんじゃないです」
「暁雲。きみだから私は安心して策を立てることだけに集中できた」
郭嘉は天井を見上げた。
「先に行くみたいだ。きみの母さんに会えるかな」
「やめてください。どうせ言い寄るのでしょう」
「きみと、きみの父さんが、どれほど命を懸けて戦っていたか伝えるだけだよ」
幸せがいっぱいに胸に満ちてくる。
郭嘉はまぶたを伏せた。
「ありがとう」
細い体が、暁雲の胸に傾いた。
「奉孝どの」
郭嘉は、旅立った。
郭嘉の葬儀が終わった。
曹操と暁雲は、郭嘉の棺を見送る。
雲ひとつない青空が広がっていた。
――白狼山で、雲海を見られるといいね。
暁雲は郭嘉の言葉を思い出した。
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