第2話 君の笑顔を胸に~李暁雲と謝

【あらすじ】

「小説家になろう」にて完結済の『我が名は曹飛将』の登場人物、暁雲と彼の妻・謝の物語です。暁雲の一人称で進みます。赤壁の戦いに赴く暁雲に謝が本当に伝えたかった言葉を十年越しに伝えます。



 建安二十三年(218)秋七月。

 おれは今から西へ出陣する。

 劉備がついに漢中へ兵を向けたからだ。

 おれと祝言を挙げたばかりの謝が差し出す冑を受け取る。

「武運を」

 謝が照れながらほほえむ。

 おれもほほえみを返す。

「留守を頼む」

「任せろ」

 謝は、目線を下げ、また上げた。

「李」

 おれたちは間者だった。父さん、魏王曹操の間者たちは互いに姓で呼び合い、対等に話す。

 謝はおれの目を見据え、低く言った。

「必ず帰れよ」

 その声は温かくおれの胸にしみる。

「ああ。必ず帰る」

 謝が嬉しそうに目を細めた。

「やっと言えた」

「え?」

「あの時は、言えなかった」

「あの時?」

 謝がおれに歩み寄る。胸に顔を埋める。そのまま、言った。

「おまえが江東に向かった日。本当はそこで言いたかった。今からでもあの日に戻れればいいのに」

 思い出し、おれは、彼女を両腕でそっと包んだ。



 建安十三年(208)。

 城壁を乗り越えようとする謝に、おれは飛びついた。

「離せっ」

 胸を蹴られた。それでもしがみつく。

「私は死ぬんだ!」

「待て、落ち着け」

 言いながらおれは謝を引きずり下ろす。見張りの兵たちがおれたちを不審そうに眺めるが、かまってなんかいられない。

 おれたち間者の訓練の一つに、男とも女とも寝られるようになることがある。

謝は相手をしていた顔と事を終えるや否や飛び出した。事が済むまでの見張りを頼まれていたおれに、顔が下だけ履いた姿でまろび出て、叫んだ。

「あいつを追え!」

「何があった、顔?」

「あいつ、死ぬつもりだ」

「なんで」

「いいから追え。追ってくれ!」

 そんなわけでおれは追いかけた。

 謝は足が速い。その上、身が軽い。おれが追いかけていると知るや塀を駆け上がり屋根に飛び乗った。おれにはそんなことはできない。

 謝が走る。屋根から屋根へ、屋根が途切れたら塀から塀へ、そしてまた屋根へ。

 ここは路地裏だ。安普請の家が多いから、屋根が抜けなきゃいいんだが。

 おれも必死だ。見失わないように上ばかり見て、何度も通行人とぶつかった。

 すみません、すみませんと頭を下げながら、屋根の上をひた走る謝を追いかけた。

 屋根からやっと飛び下りた謝が向かったのは許昌の城壁だ。階段をあっという間に駆け上がる。

 夢中で走ってやっと追いついた。

 ひとまず謝を見張り台の中へ引っ張る。

 謝はおれの胸を自分の拳で打った。

「ばかやろう!」

「飛び下りたっておまえ、途中でトンボを切って着地するだろう」

 しかし焼け石に水だった。謝が目をつり上げてどなり散らす。

「私は死ぬんだ!」

「だからなんで死ぬんだよ」

「おまえなんかにわかるものか!」

 謝は襟元を、手の甲が白くなるほどつかむ。

「男と寝たからだ」

 間者なんだから仕方ないだろう。そう言いかけたおれは、続く言葉を聞いて絶句した。

「私は、男なのに」

 謝の、男のように頭の上で結い上げて丸くまとめたまげが、おれに向いた。

「間者の務めというのはわかる。でも、私にはだめだ」

 何も言えなくなったおれに目もくれず、謝は出ていこうとした。

 その細い手首をおれはつかんだ。

「離せ」

 顔をそむけたまま謝は静かに言った。

「死んでくる」

 おれは謝を抱きしめた。

「死ぬな」

「おまえには関係ないだろう、李」

 耳を澄まさなければ聞き取れない大きさの声で謝はあらがう。

「関係はある」

「なぜだ」

「もう、誰も、死んでほしくない」

「世迷い言だ」

「母さんも死んだ。郭軍師も亡くなった。みんなおれが見ている前でだった」

 母さんは李氏、父さんに黄巾賊から助けられ、侍女となっておれを産んだ。

 郭軍師。郭嘉あざな奉孝。白狼山で共に戦い、病に倒れたあとはおれが看病させてもらった。

 それを告げると謝はおれを見上げた。

 謝の背丈はおれの首のあたりまでしかない。棒っきれみたいな体なのに胸は桃みたいに形がよくて、胴はくびれている。

「もう、誰も、おれの目の前で、死んでほしくない」

 言いながらおれも涙が出てきた。

 謝はおれを心配そうに見上げている。

 やがて、謝の手が、おれの頬に触れた。

「泣くな」

 謝の指先がおれの涙に濡れる。

「李。泣くな。泣いたら、だめだ」

「じゃあ、死ぬな。死んだら、だめだ」

「わかった。死なない」

 謝は素直に言った。

 おれは謝を抱いたままでいた。この腕をほどきたくない。

 すると謝もおれの背中に腕を回し、桃みたいな胸をおれの胸に押しつけた。

 ここは見張り台の中だ。二人で横になれるだけの広さはある。

 そう気づいたとたん、おれは謝の頬を自分の両の手のひらではさみ、唇と唇を合わせていた。

 謝は逃げない。おれの唇の動きに合わせて、自分も唇を動かす。

 おれはもう、男とも女とも寝る訓練を受けた。

 謝とするこれは、訓練ではない。

 おれは謝を石の冷たい床に横たえた。

 謝はおれを見て、一言だけ言った。

「おまえとなら、平気な気がする」



 身支度を整え、見張り台の中で、おれたちは座って向かい合う。

「顔が心配している。一緒に帰ろう」

 謝はうなずき、そして、おれにふいに聞いた。

「私は虫かごにこもるが、おまえは行くのか」

 虫かごとはおれたちの符丁で、後宮を意味する。謝は後宮に潜入するよう命じられたのだ。

 一方で父さんは江東攻略を準備している。行く、というのは「江東に行く」という意味だ。つい先だって、江東生まれの管や顧たちが裏工作をするべく出立したばかりだ。父さんは七日後、主だった将軍たちと共に出陣する。

「行く」

 おれが答えると、謝は一度唇を引き結んでから、思いきったように呼んだ。

「李」

 目が合うと彼女は重い声で言う。

「へまをするなよ」

 おれは笑った。

「おまえもな」

 彼女はまだ何か言いたそうにしている。おれは待った。けれど先に立ち上がったのは彼女だった。

「顔の所に戻ろう」

 言って彼女が手を差し出す。

 その手を取り、おれも立ち上がった。

 顔のもとに帰ると、謝は頭を下げた。

「顔。すまなかった」

 顔は頭をかきながら苦笑いする。

「いいって。気にするな」

 苦笑いしたまま顔はおれにも詫びた。

「李。これから出るってのに、面倒かけて悪かった」

 謝がおれを、目を見開いてあおぎ見る。

 そう。この日おれは、江東に出立するのだ。

 おれは謝と顔に笑って見せた。

「いや、面倒なんかじゃない」

 間者であるおれは父さんから、曹子廉将軍の長男曹馥を守れと命じられている。その役目の方が面倒だとおれは感じている。大勢が動く戦場で、たった一人を守れだなんて、できっこない。

 でも、やるしかない。命令だからだ。

 曹馥。風貌は頭に叩き込んである。今年数えで十四歳というから、おれより四つ下だ。弓馬の扱いはおとな顔負けと聞いている。姿も、学問も、おとなに対する受け答えも、文句のつけどころがないそうだ。

 謝はまた唇を引き結んだが、何も言わなかった。



 建安二十三年(218)。

 謝がおれに拱手の礼をする。

 彼女から受け取った冑をかぶったおれも拱手で答える。

 曹馥を守りきったおれは、彼と親友になった。それだけではない。曹馥と関わるうちに武将になりたいと望んだおれを、父さんは曹子廉将軍の養子にしてくれた。今はもとの名の李昇ではなく、曹震あざな暁雲、曹馥の兄である。

 しかもおれは謝と再会を果たした。後宮にひそんでいた彼女が、父さんに対する反乱の企てがあることを突き止めたことをおれと曹馥に話してくれたのだ。

 おれたちは反乱を防ぎ、そして、おれは謝と、曹馥は反乱から助け出した王玲と夫婦になった。王玲は反乱で負った矢傷がもとで亡くなった丞相長史王必どのの娘さんだ。

「暁雲、行こう」

 その曹馥が、おれを呼びに来た。やはり夫婦になったばかりの王玲も隣にいる。

「馥。待たせたな」

「謝の姉上、行って参ります」

 拱手する馥に謝も拱手の礼を返し、彼のあざなを呼んで、言った。

「飛将。必ず帰れ。王玲は私が守る」

 王玲が明るく笑う。

「暁雲兄さま、謝ねえさまはわたくしがお助け申し上げます。ご安心くださりませ」

「ありがとう。頼んだ」

 言っておれは、馥と並んだ。

 馥がおれに笑顔を見せる。

 謝も安心したように笑う。心で願った通りの言葉を口にできた喜びが伝わってくる。

 彼女のその笑顔を胸に、おれは劉備征討に向かうのだ。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る