きみと語る三国志

亜咲加奈

第1話 ★心を閉ざさないで~曹洪と曹馥

 郭嘉が死んだ。

 曹洪にとっては、痛手であった。

 彼の素顔を知る、恐らくはただ一人の男が、白狼山の戦いのあとで病に倒れたのである。

 今でも思い出せる。病に伏せる郭嘉がかけた言葉。

「子廉、君のことは、みんな、わかってくれていると思うよ」

「そう、見えるか」

「ああ。君が気づいていないだけだよ。だから、心を閉ざさないで」

 心を閉ざしているのは事実だ。最愛の侍女である李氏を流行り病で亡くした曹操もまた、周囲に心を閉ざしている。彼女と曹操の間に生まれた李昇あざな暁雲は今、曹操の間者として働いている。白狼山の戦いでも郭嘉の命令で敵軍の数を知らせた。

 兄上の心にはもう、俺は入れない。

 そう直感して以来曹洪は、これまで皆の前で演じてきた、素直で明るい自分ではいられなくなった。妻の梁氏や息子の曹馥、娘の曹祥の前に出ればきっと、涙が止まらなくなるだろうと思い、家にも帰っていない。

 郭嘉は曹洪に、青白い顔でほほえんだ。

「大丈夫だよ、子廉」

 曹洪は、笑みを返すことができなかった。



 建安十三年(208)六月、献帝は曹操を丞相に任命した。

 いくさで使った間者の顧の住まいに曹洪が寝泊まりして、もうひと月になる。そこから役所へも通うようになった。

「おまえ、どこで何をしているのだ」

 従兄弟の夏侯淵に肩をつかまれ問いただされた。しかし、何も答える気にはなれなかった。その手をはずし、無言で立ち去った。

 わかるはずはない。

 このおれの中で何が起きているかなど、誰にもわからない。

 曹洪は若い時分から、男しか愛せない。それを顧は見抜いた。顧は男相手に体を売って生き延びてきたからだ。いくさのあと、視線と視線がからみあったのをきっかけに、二人で寝るようになった。

 昔のなりわいから学んだのか、顧は干渉してこない。だから曹洪にとっては気が楽だった。

 体を交わすなかで、曹洪が顧の頭を支えて静かに枕に戻した時、顧が意外そうな顔をした。

「どうした」

「こんな風に扱われたのは、初めてなので」

「それより、次はおまえの番だろう」

「――ああ、そうでしたね」

 曹洪があお向けになる。顧が起き上がった。

「おれ、江東に潜入することになったんです」

「丞相に従わせるためか」

「ええ。江東攻略に備えてね。江東生まれの間者は皆、向かいます」

「おまえは江東の生まれということか」

「そうです」

「出発はいつだ」

「明後日です」

 顧は曹洪の鍛え上げた厚い胸に頭を預ける。そのまま動かないので、曹洪は顧の顔に手を添えて自分の方に向かせた。

 顧は顔をそむけて身を起こすと、ろうそくの火を吹き消した。

「もう寝ましょう。そんな気分じゃなくなりました」

「何があった」

「聞かないでください」

 顧は背を向けて布団を頭からかぶってしまった。

 曹洪も仕方なく顧に背を向けて目を閉じる。

 布団の中から顧が言った。

「――お帰りになった方がいいですよ。出発は明後日ですけど、おれは明日この家を留守にするつもりですから」

「ずいぶんと早いのだな」

「いろいろと準備がありますのでね」

「――世話になった」

 背を向けたまま告げた曹洪に、十五ゆっくり数えたのち、顧がつっけんどんに返した。

「そういうなりわいをしておりましたから。将軍のお姿を拝見したら、そういうことがお好きな方なのだとわかりましたので、お声がけしただけです。礼など結構です」

 曹洪も自分の布団を顔まで引き上げた。

 翌朝目覚めたあと、甲冑をつける曹洪をいつも眺めているだけだった顧が、初めて手を貸した。

「手慣れているな」

「いつも見ていましたから。それより、先にお出になってくださいませんか」

 身支度を終え、曹洪は顧に伝えた。

「息災でな」

 顧は思い切り横を向き、曹洪がまとめた包みを突き出して言った。

「また江東で」

 包みを受け取り、曹洪は顧の住まいをあとにした。

 だから顧が、横を向いたまま涙をこらえきれずに流してしまっている姿を、曹洪は知らないままだった。



 曹洪が帰宅するなり、曹馥は言った。

「父上。私を江東攻略におつれください」

 曹洪は言下に切り捨てた。

「ならぬ」

 曹馥は恐れずに一歩曹洪に近づく。

「昨年の巻狩りで、孟徳のおじ上は私に、江東攻略に同行せよとおっしゃいました」

「確かにおっしゃった。しかしおまえはまだ数えで十四になったばかりだ。若すぎる」

「この中原をはらい清めるために、力を尽くしとうございます。徐将軍のご子息も、やはりお若いですが、初陣なさると聞いております」

 徐将軍とは徐晃のことだ。彼もまた曹洪や夏侯淵と同様、郭嘉と親しかった。郭嘉を思い出すと思わず目頭が熱くなるが、曹洪はあえて厳しく言った。

「おまえよりも年長だ」

「年の差ならば武芸で埋めてご覧にいれます」

 曹馥がここまで我を押し通すのは初めてだ。実際、曹馥の騎射の腕前はおとなをしのぐ。

 曹洪は、ほんとうは言いたくなかったが、ひとまず曹馥に告げた。

「丞相にご相談申し上げる。お許しになれば認めよう」

「ありがとうございます!」

 曹馥がやっと笑顔を見せた。



 曹馥が初陣をしたがっていると聞くと、曹操は事も無げに言った。

「させてやれ」

 自分を受け入れないとわかっている曹操の前にいるだけで、城をひとつ抜いたのと同じくらい曹洪は疲れはてた。だから練兵場で待たせていた曹馥に心配された。

「父上。いかがなさいましたか。ひどくお疲れのようにお見受けしますが」

 曹洪の胸の中で不安が渦を巻く。もし曹馥を戦場で失うことになれば、妻の梁氏はどうなるだろう。そして自分は。

 ――奉孝。おれのことをわかってくれているのは、おまえだけだ。

 曹洪は泣きたくなったが、眉目をつり上げた。

 曹馥が急に姿勢を正す。

 曹洪は冷然と息子に告げた。

「初陣を許す」

 曹馥は黒目がちの目を縦に大きく開き、寝起きのような声で答えた。

「――あ、ありがとうございます」

 冷たい声と据わった目のまま、曹洪は命じた。

「剣を持て」

「え?」

「聞こえなかったのか。剣を持て」

「は――ハイッ」

 あわてて腰に吊るした剣を鞘から抜く曹馥の前で、曹洪は帯をほどき、戦袍の上を脱いだ。

 まわりにいた夏侯惇、夏侯淵、曹仁が目を見張る。

 曹洪の肩と胸はまるで鎧のようだった。上腕にも筋肉が盛り上がる。腹は割れ、引き締まっている。

 剣の柄を握った両手をだらりと下げている曹馥に、上半身裸のまま、曹洪は剣を突きつけた。

「来い」

 曹馥の甘い顔だちは、血の気が引いて真っ白だ。

「父上。私たちが手にしているのは、真剣です」

「それがどうした」

「……危険です」

「戦場では真剣を扱う。初陣が決まったのだからその準備をするのは当たり前のことだろう。馥。おれの体に傷をつけてみろ」

「おい、子廉」

 夏侯惇が曹馥の前に入った。

「おまえ、やりすぎだ」

「元譲兄は黙っていてくれ」

 夏侯淵も止めに入る。

「子廉、いい加減にしろ。木刀でいいじゃないか」

「邪魔をするな、妙才。おれたちは命のやり取りをさんざんしてきた。それを教えて何が悪い」

 曹仁が重々しく言った。

「元譲兄。妙才。子廉と馥のまわりに立て」

 夏侯惇が曹仁に怒鳴った。

「やらせるつもりか、子孝?」

「血が一滴でも流れたら、おれが止める。それでいいな、子廉」

 有無を言わさぬ曹仁の気迫に、たじろがず振り向きもせず曹洪は答えた。

「いいだろう」

 曹仁が曹馥に強くうなずく。

 曹馥は父親を見据え、剣を構えた。

 曹洪は利き手である右手だけで剣を突き出している。

 夏侯惇と夏侯淵が仕方なく、曹仁が指示した位地に立つ。こうして曹仁を頂点とした三角形が作られた。

 曹馥がふーっと息を吐く。

 次の瞬間、曹馥は地面を蹴って曹洪の懐めがけて飛び込んだ。

 曹洪が剣先を片手で弾き飛ばす。

 空いた胴めがけて曹馥が斬りつける。曹洪が足を引いてよける。空振りした曹馥はすぐに体勢を立て直して打ちかかる。

 剣と剣が、派手な音を立ててぶつかった。

 曹馥が力いっぱい押す。

 曹洪は右手だけで押し返した。

 尻餅をついたが曹馥はすぐ立ち、構える。そのまま動かない。狙う。

 曹洪は上から曹馥の剣を剣で叩いた。取り落とさないように曹馥が柄を両手で握って耐える。

 曹馥のまなじりが切れ上がった。柄を握りしめ、曹洪の胴をなぎ払う。

 ところが曹洪はまたよけた。曹馥がまた狙い、そして斬りつける。曹洪が弾く。

 夏侯惇は泣きそうだ。

 夏侯淵は震えている。

 曹仁は腕組みをしたまま見据える。

 汗をしたたらせ、曹馥は曹洪に剣先を据えると無言で突っ込む。

 剣と剣が十文字にかち合った。

 曹洪は眉ひとつ動かさない。

 曹馥はぎらぎらした目で父親を睨む。

 曹洪が柄に左手を添えた。全身全力で押してくる曹馥をその剣ごと突き飛ばす。

 起き上がろうとした曹馥の眉間すれすれに曹洪が剣先を突きつける。

 曹仁が静かに告げた。

「そこまで」

 曹洪は内心、息子を傷つけないで済んだことに安堵し、剣を鞘に収める。

 曹馥は握りしめた両手で地面を打った。

 曹馥に、血を分けた実の息子に、本心を明かせる日が来るのだろうか。そんな思いが曹洪の胸をよぎる。

 脱ぎ捨てた上衣を拾って羽織り、帯を締め、曹洪は練兵場を去った。



 江東攻略は結局、成らなかった。

 しかし曹洪の苦しみは終わった。

 曹操に命ぜられて曹馥を陰ながら守っていた李昇あざな暁雲と、当の曹馥が、親友になったからである。

 二人が心を通わせる姿を見ているうちに、曹洪のかたくなな心は、少しずつほどけていった。そして曹操と共に顧の案内で烏林から南郡へのがれたあと、曹操が曹洪の寝ていた部屋まで来て、言ってくれたのだ。

 ――おまえのように男を愛せないおれは、おまえの相手はしてやれない。しかし、こうすることならできる。

 五つの曹洪が好きだった膝枕。それを曹操はもう一度してくれた。

 喜びをかみしめながら曹洪は郭嘉に胸の内で語りかける。

 ――奉孝。おまえの言う通りだった。

 もう、本心を隠さなくていい。そう気づいた曹洪のそばには今、もう一人息子が増えた。曹馥を守り、親友となってくれた李暁雲を、養子として迎えることになったのである。暁雲が、武将になりたいと望んだからだ。曹操のはからいだった。

 だから今、練兵場で曹洪と暁雲は、剣の稽古をしている。

「父上。お願いいたします」

 曹操そっくりの顔で言われ、曹洪は思わず笑いそうになる。

 暁雲は真剣そのものだ。

 曹洪も笑いを消し、しかし楽しそうに言った。

「来い、暁雲」

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