第2話 天野川遊理、死す

 その日、和巽館では局所的に血の雨が降り注いだ。



 事件の発生確率に関しては、天気予報はまるで意味を為さないものである。



「………………」



 仮面の刺客は沈黙を貫いていた。


 これから死体に変える相手に、かける言葉など不要ということだろう。



 一方奏雨はというと、茫然自失といった状態だ。


 無理もない。この惨状を目の当たりにすれば、誰だって恐怖と混乱で動けなくなる。


 死体への耐性が多少ある私でさえ、正直足がすくむ程だから。



 でも……今、この絶望的な状況で。


 奏雨を救えるのは、私だけだ。



 ――私が、救わなきゃいけないんだ。




「奏雨!! こっち!」



 私は奏雨の腕を掴むと、一目散に駆け出した。


 仮面の女の凶刃が届く間合いから離れなければ。



 ラウンジの扉を押し開き、館の玄関エントランスを目指して。


 転ばぬように重心を低くし、両の脚を掻き回す。




「…………ごめんなさい……」



 奏雨を見遣ると、今にも泣き出しそうな表情で。


 ……こんなに弱々しい彼女を見るのは、初めてかもしれなかった。



「やめてよ、奏雨の謝ることじゃない。悪いのは犯人だし、ここへ来るって決めたのは私だから」


「でも、あたしが…………」


「いいから、黙って走って!」



 今はただ一秒でも早く、この島から脱出することだけを考えたかった。


 船着き場まで辿り着けば、モーターボートで逃げ切れる。


 さすがの犯人も、泳いでは追いかけられないだろう。



 この階段を降りれば、正面扉は目の前だ。


 はやる気持ちを抑えながら、慎重かつ迅速に駆け降りる。



 一瞬の感情の揺らぎが命取りになることを、私たちは知っていた。



 だが、脳では理解していても、体まで制御できるとは限らない。



 ――特に、死の気配が迫る極限状態では。




「あ…………!」



 すぐ背後で、奏雨が短い悲鳴を上げる。



 振り向いた私の目が捉えたのは、彼女が足を踏み外した瞬間だった。



 宇宙物理学者とはいえ、重力の支配からは逃れられるワケもなく。


 ズザザザと鈍い音を立てて、段差の上を滑り落ちてゆく。




「奏雨――っ!」



 ひと目見て、私は理解した。


 

 彼女が足首を挫いてしまったことを。




「……行って、遊理」



 ぎこちなく苦笑する奏雨。


 その瞳に迷いの色はなかった。



 仮面の女に追い付かれるまで、十秒もない距離だ。


 この怪我では、足場の悪い浜辺まで走り切るのは難しい。



 ――そう、判断を下したのだろう。彼女なりに、合理的に。



「でも……そんな…………」



「あなただけでも、生きて、真実を伝えるの。それが探偵の役目。そうよね?」



「………………っ!」



 奏雨は私の言葉を遮るように、淀みなく言い放つ。


 私を逃がすために、彼女は自分を囮にするつもりだ。


 


 ――こみ上げてきたのは、悔しさだった。



 自分の無力さと優柔不断さが、今の状況を生み出している。



 彼女は私が逆らえないことを、よく知っているから。


 だから、こんな残酷なお願いをできるんだ。



「…………ズルいよ、そんなの」



 私の中で飼い慣らしていたはずの感情が、牙を剥く。


 自分でも驚くほどに膨れ上がって、今にも破裂しそうだ。



「なんで…………。早く逃げて……!」



 奏雨の甲高い叫びの低音域を埋めるように。


 二階から迫る死の足音が、思考に浸る猶予などないことを告げていた。



 私に与えられた選択肢は2つ。



 奏雨に従って、彼女を見捨てて逃げ出すか。


 奏雨を守って、命懸けで殺人鬼を止めるか。



「私は…………!」



 探偵として、皆に、そして己に誇れる選択をしたい。


 自分の気持ちを裏切るようなマネはしたくない。だから――――!



 運命の決断を下そうとした、その時だった。



 仮面の女は、階段の手すりに腰かけると滑り降り始めた。


 その常人離れした身軽さは、何らかの訓練を受けてきたとしか思えない。



 圧倒的な身体能力の差を前にして、脳が熱く軋み出す。


 それが、崩壊の始まりだった。



 私と奏雨の生存確率。


 抵抗が成功する可能性。


 回避すべき距離と方向は?


 どの体勢で迎え討てばいい?


 刃物を持った相手の対処法は?


 逃げろ! 逃げるな! 逃げろ!


 生きろ! 闘え! 走れ! 護れ!



 私の思考回路は、完全にショートした。




「ぅわあああああぁっ――――!!」



 自分が何をしているのか。



 自分が何をしたかったのか。



 もう、何も分からなくなって。 



 私は両腕を広げて、奏雨の前に飛び出していた。



「………………う、ぐ」



 強い衝撃があった。


 胸を圧す重い異物感。



 少し遅れて、体の芯に熱い電流が奔る。



 それが痛みであると知ったのは、床に倒れ込んだ後だった。



「ぐ…………がはぁッ……!」



 …………そうか。私は。



 心臓を、一突きにされたのか。



「あぁぁっ……! 遊理…………!!」


 奏雨の嗚咽が、段々と遠くに聞こえる。



 ……ごめん、ごめんね。


 私が意地を張ったばかりに。



 何も……守れなかった。選べなかった。


 あの一瞬では、最適解に辿り着けなかった。



 これほどまでに、無力さを感じたことはない。



 結局、どれほどの頭脳の持ち主であっても。


 純粋な殺意と凶器の前では、赤子も同然なのだ。



 この条件下において、きっと正解なんてものは存在していない。


 体の熱が冷めて、ようやく当たり前のことを理解した。



 …………ああ、寒い。



 感覚が、世界に融けていく。



 視界の隅で揺れる二人の輪郭。



 惨劇の終幕は、すぐそこまで近付いていた。



「……あたしも、殺すのね」


 奏雨は溜め息とともに、諦めを呟いた。



 やめて……お願い…………!


 動かない唇で何度も、何度も繰り返す。



 しかし、心の声が届くはずもなく。


 振り上げられた刃が瞬いて。



 全てが朱く塗り潰されるのと同時に。




 ――天野川遊理は、絶命した。






 翌日、クルーザーで迎えに来た船員によって、地元警察に通報が入れられた。



 捜査によって和巽館内で発見された死体は、全部で8人分。


 犯人の女性は、一連の犯行後に自殺したことが明らかとなった。



 この惨劇は、後に「常夜島7人殺害事件」として、世間を震撼させることとなる。


 被害者全員が各分野で名の知られた専門家であったことが、より事件をセンセーショナルな話題へと押し上げた。



 そして犯人の動機は、いまだ謎に包まれたまま、深い闇の中で眠り続けている。

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