応援コメント

結局なんなんだよ」への応援コメント

  • 西洋で魔女狩りが流行ったとき、
    「魔女」というのは要するに告発側の気にくわない相手のことで、
    魔女の証拠とされる特徴は後付けの言いがかりだったって話を覚えておきたいですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    「〇〇を迫害する」という結果が先にあって、それに合わせて原因を作っている、ということですね。
    確かに「皆がお前のこと陰キャだと思ってる」と言われると否定しにくいですね。自分だけ知らない側面もあるでしょうし、そこで素直に認められない人こそ「陰キャ」だと言われてしまう。

    言いがかりとして「陰キャ」は持ってこいかもしれませんね。


  • 編集済

     僕個人としては「陰キャ」にも種類があるなどとは考えたことがありませんでした。何も知らずに適当なことを言うのは百害あって一利なしかもしれませんが、僕が思っているのは、陽キャが陰キャを蔑んでいるのではなく、陰キャが陽キャを蔑んでいるのではないかということです。ネットで検索したところ、陰キャ/陽キャという言葉の由来は定かでないようですが、ある記事によると、少なくともミクシィでは陰キャが2006年頃、陽キャが2010年頃から使われ始めたとあります。

    【作った人は誰?】陽キャ陰キャはいつから使われているのか?起源を解説します(20204年4月10日)
     https://youcya.com/tukutta/

     ピクシブ百科事典の「陰キャラ」によると、陰キャ・陽キャは2010年頃に使われ始めた言葉だが、「2014年頃から匿名掲示板なんJで注目されるようになった」とあります。
     https://dic.pixiv.net/a/%E9%99%B0%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9

     どちらにしても、当時の言葉で言えば「ネット用語」として登場したことになりそうですが、2000年代から2010年代初めにかけてのネットは「オタク」の全盛期であると同時に、「オタク」は肩身が狭い存在だったように思います(僕の認識では、例外的な犯罪者などのせいで白眼視されていたオタクがその偏見をひとまず脱したのは、オタクの聖地・秋葉原を本拠地とするAKB48がブレイクした辺りからだと思います)。つまり、陰キャ・陽キャを言い始めたのは陰キャ自身なのではないかということです。
     陰キャの「キャ」が「キャラ」を指していることは明らかですが、自分や他者を「キャラ」として捉えようとするのは、ツンデレやボケ・ツッコミをキャラ(の特性)として解釈するサブカルチャーと親和性が高いようにも思います。普通、生身の人間は複雑で、何を考えているのか分からず、理解するのも信頼関係を築くのも困難だという想定があって然るべきですが、「キャラ」はそこが単純化された人物像を指す言葉です。また、「○○キャラを演じる」というふうに使えば、この言葉は処世術としても機能します。リアルの人間関係の中で、自分はどのような立場を占め、どのような役割を果たすべきかという問いは、「自分が無理なく演じられるキャラは何か」という形に言い換えることができますが、これはアニメやゲームのような、作劇のために与えられた役割をこなす存在を想起させます。そういったことから考えても、陰キャ・陽キャを言い始めたのは、陰キャとされたオタクなのではないかという気がします。

     さて、そう考えたときに思うのは、陰キャ自身が「俺(たち)は陰キャだから……」、「俺(たち)はあいつ(ら)みたいな陽キャではないから……」などと語り始めたとき、それは間違いなく自虐には違いないでしょうが、ほんのりと優越感もあるのではないかということです。陰キャ・陽キャが人間関係についての区別であるなら、陰キャは人間関係に悩む人、陽キャは人間関係に悩まない人として区別されると思います。このとき、「俺(たち)はあいつ(ら)みたいな陽キャではないから……」という語りは、陰キャが人間関係に悩むのは過剰なまでの思慮深さや繊細すぎる感受性を持っているからで、陽キャが悩まないのは(陰キャ並みの)思慮深さも繊細な感受性も持ち合わせていないからだ、という構図になります。これは実は、人間関係に悩み過ぎる自分(たち)を無能力者として自虐するようでいて、陽キャというカテゴリーを押しつけた相手を、非人間的な、血の通わない存在として見下すための仕掛けなのではないでしょうか。普通、人間関係について全く悩まない人間はいませんし、「自分は陰キャ」と謙遜する人はいても、「自分は根っからの陽キャ」と本心から吹聴する人はめったにいません。自分たちを陰キャ、気に喰わない相手(デリカシーがない、高圧的、我が強い、陰キャに配慮してくれないなどと見なした相手)を陽キャとして、表向きは自分を下げつつ内心で嘲るのは、あからさまに人を傷つけているという罪悪感を回避できるだけに、どんなスタンスの人にとっても快感なのではないでしょうか。陰キャ・陽キャとはそういう言葉なのではないかと思います。

     蛇足かもしれませんが、クラスカーストという言葉もそういう雰囲気を感じさせます。カーストが意識されるのはもっぱら「自分は下位だ」と卑下する文脈においてです。いわゆるカースト上位層とされる生徒たちは、自分のクラスは仲が良く、権力・権威に基づく残酷な上下関係など存在しない、と考える傾向があるように見受けられます(さらに話がこじれますが、いじめや差別をする側は、「悪いこと」をしているという「自覚」に乏しいものだと思います)。そして、クラスカーストを前提に「自分は下位だ」と思っている人というのは、「カースト上位の連中は偶然その地位を手にしただけなのに調子に乗っている」とか、「カースト上位層はクラス内で発言権を得るために上っ面の人間関係を維持することに腐心している」などと手前勝手な憶測をしているものではないでしょうか。別にカースト上位層が全くの清廉潔白だとは言いませんが、カースト下位を自認する生徒もまた純真無垢というわけではなく、そう考えることで、カースト上位層に対して倫理的には優位に立とうとしている側面があるのではないかと思います。深入りはしませんが、ニーチェが批判したルサンチマンや「おしまいの人間(末人)」の議論とつながる部分があるような気もしないではありません。

     長文失礼しました。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    あじさい様のコメントを見て思ったのですが、陰キャやスクールカーストという言葉は、自分を弱者側(相手を強者)に仕立てる為の舞台装置なのかもしれませんね。
    陽キャが持つイメージからは、表向き完璧を思わせるんですよね。心根がサッパリしてて、誰とでも打ち解けて、裏表がなくて、恵まれているような……そもそも陰陽という言葉から黒と白を連想させますし。
    弱者の主人公が強者を打倒するという物語との相性も良いのでしょう。
    謙りつつ、本音も語れる。そういう便利な言葉なのでしょう。陰キャの前だと「ぼっち」「根暗」「人見知り」「コミュ障」あたりが同じ意味合いを持っていたかと思われますが、
    適用できる範囲(気軽さ)から根強く用いられてきたのでしょうね。

  • 私が若い頃には存在しなかった「new word (new concept)」に関する、とても興味深い考察でした。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    個人的な推測にはなってしまうのですが、昔(ネット普及以前)の価値観ではそもそも「陰キャ」に該当する人物は、
    わざわざ言葉で形容するまでもなく忌避(迫害)されていたのだろうな、とは思うんですよね。市民権を得る前の同性愛やオタクのような立ち位置だと思うのです。

    声を大に出来る場が生まれた結果、誕生した(負の)共通概念といった感じでしょうかね。