第6話 被害届

 俺は涙を流し続けている〈ゆきえ〉を、後ろからそっと抱きしめようと思ったんだ。


 本当に思ったんだ、その証拠に椅子から腰を少し浮かしたのだけど、〈ゆきえ〉は俺よりも親友のことを優先したんだと思い直して、腰を元に戻してしまった。


 親友に嘘を吐かれて利用されていることが分かる前は、俺のことは二の次だったんだ。

 ひどい目に遭う前は、親友と会社の方が、〈ゆきえ〉には大切なものだったんだな。


 しばらく泣いた後に、〈ゆきえ〉はポツンと言った。


 「私はどうしたら良い」


 俺はしばらく悩んだ後に、こう言った。


 「俺もそうだでけど、〈ゆきえ〉はもっとクズ社長の事を許せないだろう。警察に被害届を出そう」


 「うん、そうだね。あのクズを許すことは出来ないよ」


 俺も一緒に警察に行き被害届を出したが、〈ゆきえ〉は証拠の毛を剃られている局部の画像を出す時に、とても傷ついた顔をしていた。

 対応してくれたのは婦警さんだったのだけど、自分の恥ずかしい写真を見せるのは、たまらなかったのだろう。


 男の俺でも嫌だと思うが、女性ならその何倍も嫌なことだと思う。

 〈ゆきえ〉の局部の写真は、毛を剃られているため、形や色がハッキリと分かるものだった。


 〈ゆきえ〉の退職に手続きは、〈ひとみ〉さんが代わりにやってくれたようだ。

 「〈ひとみ〉さんは良い人だな。落ち着いたら美味しいお店で、お礼をしなくっちゃ」と言ったら、〈ゆきえ〉も「本当にそうね」と微笑んでいた。


 一度〈れいか〉から電話がかかってきたらしいけど、「もう親友でも何でもないわ」と直ぐに切ったと言ってくれた。

 〈ゆきえ〉は反省して、俺に隠し事をしないで何でも伝えてくれるんだと、嬉しくなってしまう。

 俺のその気持ちが通じたのだろう、〈ゆきえ〉はデパートで見かけた素敵な女性の話や、散歩の途中にいつも寝転んでいる猫の話を楽しそうにしてくるから、俺達夫婦の間にある溝がもう直ぐ無くなる気もしていたんだ。


 だけどまだ終わってなかったんだ。


 徐々に日常が回復しているのを、壊してしまう出来事が起こってしまった。


 被害届を出した腹いせなんだろう、クズ社長が〈ゆきえ〉の局部の写真をネット上にばらきやがったんだ。

 それを、こうなることを危惧きぐしてネットを検索していた〈ゆきえ〉が、見つけてしまったんだ。


 会社から帰った俺を、真っ青な顔した〈ゆきえ〉が待っていた。


 「うぅ、私のあそこが全世界の人に見られてしまいました」


 髪はくしゃくしゃのまま玄関口で幽霊のように立っているから、明らかに精神状態が普通じゃないと思った。

 不特定多数に一番見られたくない部分をさらされたのと、幾度も襲った悲しい出来事の傷がまだ癒えてなかっただろう。

 心の耐性を超えてしまったんだな。


 「そ、そうか。とりあえず椅子に座ろうよ」


 〈ゆきえ〉は、無表情で俺に言われたまま椅子に座っているけど、泣いたりはしていない。

 泣くことさえ出来ないのかもしれない。


 「〈ゆきえ〉、そんなに気にするなよ。顔は写っていないから、君と誰も気づかないよ。それにネット上には。そんな写真はごまんとあるんだ。直ぐに飽きられると思う」


 「はぁああ、私のあそこは、一生見られ続けるのよ。世界中の男に汚されるんだわ。私を汚れた女だと思っているでしょう。酒に酔って股を開いた、薄汚い女だと言いたいのでしょう」


 うわっ、〈ゆきえ〉はどうしてしまったんだ。

 これは困ったぞ。

 俺の言い方が悪かったのか、〈ゆきえ〉は気が狂ったように怒っている。


 「ち、違うよ。そんなこと思っているはずがない」


 「へぇー、それなら、どうして私に触らないのよ。他の男に毛を剃られた女は、汚くって触れないのね」


 〈ゆきえ〉はスカートと下着を降ろして、俺に股間を見せてくる。

 生え始めた下の毛が鋭く立っているのは、〈ゆきえ〉の憤りを代弁しているのかのようだ。


 俺はまさか〈ゆきえ〉が、自分で股間を見せてくるとは思いもよらなかったので、唖然として椅子に座ったままだった。

 〈ゆきえ〉が、こんなことをするなんて、信じられない。

 俺はまだ悪夢を見ているのか。


 「汚れた女は、目障(めざわ)りでしょう。出て行きます」


 身の回り物をまとめただけで、〈ゆきえ〉は俺の顔を見もせずに、本当に出ていってしまった。

 性犯罪をされた直後だから、性的なことをするのは負担をかけると我慢していたのに、俺の気づかいが間違っていたみたいに言うなよ。

 俺が股間を開いたらきっと抵抗して、私の気持ちを何も考えていないとなじったと思うぞ。


 次の日の朝、〈ゆきえ〉の母から、落ち着くまでしばらく実家で預かると電話がかかってきた。

 俺は「よろしくお願いします」としか言えない。


 その日の夜から、俺は〈ゆきえ〉のことを考え続けた。

 どうして、〈ゆきえ〉は俺に本当のことを話してくれなかったんだ。


 親睦会から帰った時に、言ってくれたらな。

 下の毛が剃られたことを知った時に、相談してくれたらな。

 卑猥な写真で脅された時に、泣きついてくれたらな。


 そんなことが、頭の中をグルグルと回って、悲しくなるだけだ。


 次の日の夜も、俺は〈ゆきえ〉のことを考え続けた。

 どうして、〈ゆきえ〉は俺に本当のことを話してくれなかったんだ。


 親睦会から帰った時は、たいしたことじゃないと思ったのか、親友が一緒にいたのだからな。

 下の毛が剃られたことを知った時は、あまりのことに混乱したのと、他の男に犯されたのを俺に知られるのが怖かったのかもしれないな。

 卑猥な写真で脅された時は、こんな写真を撮られたのが恥ずかしくて悔しくて、俺にだけは見られたくは無かったのだろう。

 信頼していた親友に裏切られていたのが、ショック過ぎて、精神がボロボロだったのかもしれない。


 そんなことが、頭の中をグルグルと回って、苦しくなるだけだ。


 また違う夜にも、俺は〈ゆきえ〉のことを考え続けた。

 どうして、〈ゆきえ〉は俺に本当のことを話してくれなかったんだ。


 親睦会から帰った時は、俺に言う必要もないと思ったのだろう。

 下の毛が剃られたことを知った時は、俺に言ってもしょうがない、頼りにするだけ無駄だと思ったのか。

 卑猥な写真で脅された時は、俺が怒って喚き散らすだけだと思ったのに違いない。

 俺は浮気したと責めていたからな。


 そんなことが、頭の中をグルグルと回って、吐きそうになるだけだ。


 こんなことを繰り返して、〈ゆきえ〉のいない日々をただ惰性(だせい)で過ごしていた。

 会社にはそれでも出勤していたんだが、ある日後輩が愚痴を言ってきた。


 「こっちがあまり悪くないことで、取引先がぐちぐちと文句を言うんです。製品に不具合があってクレームがすごいらしいのですが、いい迷惑ですよ」


 「ほぉ、とんだとばっちりだな。取引先は、君に甘えているのかもしれないな。鬱憤うっぷんを君にぶつけているんだろう。それを君はちゃんと受け止めているのが、すごく偉いな。大人の対応だよ」


 「ははっ、嫌だな、そんなに褒めないで下さい。僕はまだまだ半人前ですよ」


 その夜、また〈ゆきえ〉のことを考えていた時、後輩の愚痴を思い出した。


 ひょっとして、〈ゆきえ〉は俺に甘えようとしていたのか。

 夫である俺なら、甘えてもいいし、甘えることが可能だと思ったのかもしれない。

 全てを説明しなくても、自分を守るための嘘ならついても、信じて受け入れてくれると思ったのかもしれないな。


 包容力があり大人の対応が、出来る男だと信じていたのだろうか。

 俺は〈ゆきえ〉に信頼されていないと思っていたけど、逆に信頼をされていたのか。


 俺は頭の中がぐちゃぐちゃになったので、シンプルに考えてみることにした。


 俺は〈ゆきえ〉に嘘を吐かれた。

 〈ゆきえ〉は、胸糞の悪い性的な犯罪にあい、親友にも裏切られて、夫にも浮気を疑われたんだ。


 どう考えて〈ゆきえ〉が、一方的な被害者だろう。

 甚大な被害にあっていると思う。


 その被害者は俺の嫁なんだから、俺はなんとしてでも、どうにかしなくちゃいけないんだ。

 やることがハッキリとして、なぜか力がりもりと湧いてきたぞ。

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