V

「いい薬があるわ」とある女に街頭で声をかけられたのはそんな時だった。その女は黒いサングラスをかけ、夏だというのに白い鹿革の手袋をはめていた。女はアンの耳元で囁いた。

「私もかつてあなたのように、人生は常に困難に満ち満ちているように思えたものよ。確かに、他人から見れば私は幸せな勝ち組の生活を送っているように見えたかもしれない。ありあまる財産、やりがいのある仕事、思いやりのある夫、健康な子供たち……しかし私は自分の内面の弱さを感じていたわ。自分は人生の危うい崖っぷちに立っていて、ほんの少しのミスや食い違いで、何もかもが砂の城のように崩れ落ちてしまうような予感があったの……

 時々、私はすでに人生における選択をどこかで間違えてしまったのではないかという考えが理由もなく頭に浮んだわ。私はもっと幸せになるはずだった、という考えが、自分の心のどこかに隠れているようでした。でも私は、友達に会ってみたり、子供のころ弾いていたピアノを再び始めたりして今の生活を変えようという積極的な努力をする気にはなれなかった。

 知り合いの女性から『薬があるんだけど、どう?』と勧められたとき、私はずいぶんためらいました。自分の問題は心の奥深い所にその根をもっていて、薬で解決するものじゃないと思っていたから。

 ところが、薬は私をいとも簡単に変えてしまった。私はそれまで感じたことのなかった多幸感を味わいました。私は自分が世界中で一番幸せなのだと確信しました。私は社交的になり、前向きになり、物事に対して楽観的になりました。仕事や家事にもそれまで以上の楽しみを見出せるようになったのです。

 六ヶ月後、私は医者の勧めにしたがって薬を飲むのを止めてみました。すると、またあの不安と悲しみの灰色の帳が私をすっぽりと覆い、答えのない質問が不気味な植物のように一斉に芽吹いてくるのでした。こうして私は自分の幸福が一粒の錠剤にすぎないことを理解したのでした」

 というようなことを女はくどくどと述べ、アンに白い錠剤をそっと渡すと視界から消えた。その錠剤を飲むと、多幸感と全人類への共感がアンをすっぽりと包み込んだ。瞳孔の散大したアンは世界と和解しようと思い立ち、ベンツで高速道路をとばして故郷の貧村へと向かった。

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