4-4 化け物


 井戸から飛び出してきた手は、近くにいた人間達の身体を掴み、縋りつくように巻き付き始める。

 その手に、村人達はパニックを起こして悲鳴を上げた。


「う、うわあ! 何、何だよこれ、やめてくれ!」

「嫌だ、嫌だ! 触らないで、離して、離して!」

「は、離してくれ! 嫌だ! この、このぉ!」


 まさに阿鼻叫喚と言った光景に、ツバキが大きく目を見開いて、数歩後ずさった。


「な、何なの、これは……」

「何って、そんな事を言うなんて酷いなぁ~。今まであんた達が生贄にしてきた子供達だよ。見て分からない?」


 狼狽えるツバキに向かって、ナツは冷えた声でそう答える。


「助けて。ここから出して。……だからあの子達は、縋るように手を伸ばしてる」


 そこまで言って、ナツはツバキを見上げた。彼女に向けた眼差しも、氷のように厳しい。

 双子の弟の顔を見て、これはとんでもないくらい怒っているな、とハルは思った。

 無理もないだろう。どれもこれも、ナツが最も嫌う事を、彼女達は行っているのだ。


「…………これほど、恨みが」


 ツバキは手を口にあてて、震える声でそう呟く。

 その言葉を聞いて、何を驚く事があるのかとハルは少し呆れた。


「恨まれて当然の事をしているのはあなた達でしょうに」


 普段は心の中でだけで呟くそれを、ハルは敢えて口から出した。

 ツバキがこちらを向いて来る。ハルは彼女の目を一瞥すると、手の方を向いた。


「もちろん恨みはあるでしょう。当たり前ですよ。あなた達に未来を絶たれた。勝手に人生を決められた。恨まれていないはずがない。ですが」


 ハルはそこでいったん言葉を区切り、


「ナツが言ったでしょう? ここから出してって。助けてって。もっと良くないものが、井戸の底にいるんです。あの子達は、そこから逃げたかっただけですよ」


 そう言いながら扇子を開いた。


「何を」

「何って、その底の何かの対処をするんですよ」

「僕も何か武器……あ、これでいいや」


 するとナツも辺りを見回して、近くに落ちていた木の棒を手に取った。

 たぶん、お社の壁か何かに使われていた木材だろう。木の棒は少し焦げている。爆発した際にここまで飛んできたようだ。

 ナツはそれを何度か軽く振ってみている。一般的な木刀よりは少し短くて太い。片手で持てはしなさそうだが、それでもまぁまぁ振り回しやすそうだ。


「うん、問題ないね」

「それは良かった。――――来ますよ。アキトさん、下がっていてください」


 ハルはそう言うと井戸の方へ視線を向ける。嫌な予感が、井戸の底から上って来るのを感じた。

 少しして、

 ずるり、

 と井戸の中から黒い、粘度の高い、べったりとした手のようなものが這い上がって来た。

 途端に異臭が広がる。

 その臭いに、ぐ、とハル達は顔を顰めた。


『あぁああぁぁ……美味そうな匂いがするなぁあぁぁぁ……灰鐘のぉぉおぉ匂いだぁあぁ……』


 そして不快な響きを持った声が、そこから放たれる。

 ……来た。

 ハルとナツの顔に緊張が走る。


「な、何なの、この、声……」

「分かるでしょ。アレが、あんた達が信仰していた山神様だよ」


 青褪めて呟くツバキに、ナツは淡々とそう返す。

 あれが井戸の底の何か――神様としてこの村で信仰されていた山神・・だ。


 黒色の、ヘドロのようにどろどろとした身体を持った、巨大な四つ足の獣。

 あの巨体が一体どうやってあの井戸の中に納まっていたのか、そう疑問に思えるくらい大きい。

 ずり、みち、と嫌な音を立てて井戸から這い出たそれは、ぎょろぎょろとした目でその場にいた人間達をと見回して舌なめずりをしている。


 見るだけで怖気のする化け物の身体を、必死で掴んでいる青白い手が何本も見えた。


 離されないように。先へ行かせないように。

 青白い手達は必死で掴み、絡み付いていた。

 助けて欲しいと縋る手と対照的なそれが、なぜそんな事をしているか。


(……今も、守って)


 そう、守っているのだろう。

 勝手な理由で生贄に捧げられてなお、青白い手達は、村を守ろうとしている。

 きっとあの子達・・・・にとって譲れない理由があるのだ。


 あの子達を、助けなければ。


 ハルは強くそう思いながら、目の前の化け物・・・を睨む。


「あいつは恐らく疫病神の一種ですね」

「疫病神ですか?」


 アキトが目を軽く見開く。


「ええ。それが山神として信仰されていたとなると……病み神、山神と言葉が訛ったのではないかと」

「それじゃあ妹の命を奪ったのは……山神ではなくて……」

「あいつだろうね。それに、たぶんあの疫病神が、ずっと昔にこの村で起きたって言う疫病の正体なんじゃない?」


 ハルに続いてナツがそう言うと、今度はツバキも目を剥いた。

 この辺りは確証は持てない。けれども化け物の正体が疫病神で、村で行われる祭りが風鈴祭である事を考えると、そうではないかと思うのだ。


「最初に山神に仕えた双子と言うのが、井戸に疫病神を結界で封じたのでしょうね」

「だね。誰が最初にあいつの声を消いたのか知らないけど、双子をよこせと言ったのも、自分を封印した事への腹いせだったんじゃない?」


 ハルとナツはそうも続ける。

 二人の話にアキトとツバキは言葉を失い、目の前の化け物を凝視していた。

 ただ二人の表情は対照的だった。

 恐怖と絶望の色に染まっているツバキとは対照的に、アキトの顔には怒りと悲しみの色が見える。


「…………」


 ハルは二人の顔を一度だけ見ると、疫病神の方へ視線を戻す。

 そいつは今のケタケタと楽し気に笑っていた。


「さて、まぁ、そんな話は後ですね、後。あそこまで濃い実体を持った疫病神は危険です」

「やばいよね~、あのレベルまでくると。ハル、援護よろしく!」

「もちろん!」

「アハ」


 ナツはニッと口の端を上げると、木の棒を構えて、そこへ霊力を込める。

 ああいう疫病神等の霊的な存在へは、物理的な攻撃の効きが悪い。こうやって霊力を纏わせる事でまともに戦えるようになるだ。


「さて」


 ナツは小さくそう言うと、身体を低くして疫病神を目指して地を蹴った。

 疫病神の目がナツへ向く。


『ハハァ、嫌な匂いもしていると思ったらぁぁぁ……村雲の連中じゃないかぁぁあぁぁ……』


 疫病神はナツを視界に捉えると、にんまりと楽しそうに笑う。口から黒色の吐息が漏れた。


『ちょうど良いぃ……お前らはぁあぁぁ……食えば俺の力になるからなぁぁぁぁぁ!』


 咆哮、びりびりと空気が震える。

 それと同時に疫病神の身体から、複数の触手のようなものが飛び出し、ナツへ襲い掛かって来る。


「させませんよ」


 ハルはそう言って扇子に霊力を込める。

 とたんにハルの前に複数の、淡く光る四角形の盾のようなものが現れた。

 それにぶつかった触手は、パァン、と後方に仰け反る。


「霊力の……盾?」


 淡く光る四角形のそれを見ながら、アキトは目を見開いて呟く。

 ハルは「ええ」と頷いた。

 霊力を練り固めて、身を守る盾を作る防御術だ。

 ハルが一番得意とする術である。


『ほぉ?』


 疫病神が感心した声を漏らす。

 それから楽しそうに、ニィ、と口の端を吊り上げた。汚らしい口の中に鋭い牙が見える。


『ならこれはどうかなぁあぁぁあ!』


 疫病神は面白い玩具を見つけたとばかりに、身体を奮わせてさらに触手を増やす。

 先ほどより細いが動きが早い。

 なるほど、そういう使い分けかとハルは判断しながら、防御術を展開していく。


「うわ~、大盤振る舞いっとぉ!」


 その触手を、ナツが木の棒を振り回し、殴り、突き刺し、潰して行く。

 しかし数が多く、動きが早い。

 無数の職種で一人を集中して狙っているため、だんだんとハルの盾が追い付かなくなってきた。


『ほら、ほら、ほらぁ! もっともっと気合いいれろよぉぉおぉ!』


 獲物を甚振って遊ぶ事が楽しくて仕方がない、といった様子で疫病神はくつくつ笑う。

 ナツの額から汗が伝う。くそ、と小さく呟いた。

 その時、ぎょろ、と疫病神の目がナツの背後――ハルの方へと向けられた。


『ああぁあぁぁあ、良いぃいぃぃ事を思いついたぁぁあぁぁ。今度はこいつで相手してやろうかぁあぁぁ』


 笑い声とともにそう言うと、一本の触手がナツの横をすり抜けて、ハル達の方へ向かって来る。

 何を企んでいるか知らないが碌でもない事は確かだろう。


(もう一枚、防御術を)


 迫る触手を前に、冷静にハルが術を練り始めた時、すっ、とアキトが一歩前へ出た。

 思わずハルが、えっ、と思った次の瞬間、


「ふっ!」


 アキトはその右拳で、触手を地面に向かって思い切り殴りつけていた。

 拳と地面に挟まれた触手は、

 ぐしゃり、

 と音を立てて潰れる。


「わお」


 思わず感嘆の声が出た。

 しかし疫病神相手に生身でここまで傷を負わせられるはずがない。

 そう思ってアキトの腕を見たら、そこから靄のようなものが、しゅうしゅう、と出ている事に気が付いた。

 ……霊力だ。


(なるほど、霊力を身体に纏わせて、一時的に身体能力を向上させたのか)


 同じようなものはすでに何度か見ている。

 クラスメイト達に掛けられた術だ。あれは対象の身体に霊力を被せる事で、強制的に体温を下げつつ眠らせるものだった。

 先ほどのツバキや、アキトの腕の様子から考えると、恐らく灰鐘家はそういう方面の術が得意なのだろう。


「うちのクラスメイトに掛けた術の応用ってところですか?」

「その通りです。私も灰鐘の人間ですからね。見よう見真似で覚えました」


 そう言いながらアキトは自分の拳を見つめた。


「ですが、こういう使い方をするのは、さっき思いつきました」

「さっき」

「はい。良かったです、私も役に立てそうで」

「――とても!」


 ハルがニッと笑ってみせると、アキトは少し照れた様子ではにかんだ。

 それから彼は、自分の拳をぐっと握りしめると、


「ナツ君、加勢します!」


 と言ってナツの方へ走って行った。

 迷いなく、真っ直ぐに。なかなかアグレッシブだなとハルは思った。


「あの子……あんな事が出来たのね……」


 それを見て、ツバキが呆けたように呟いた。

 彼女の言葉に、今更何だとハルは思う。


「あんな、とはおかしな事を仰いますね。あなたが、あなた達が、アキトさんにそれをし続けたんじゃないですか? 小さな頃からずっと」

「…………」

「そしてキクノさんに対しても」

「ッ」


 ハルがその名を口にすると、ツバキが驚いたようにバッとこちらを向いた。


「なぜ」


 その名前を。

 声は最後まで続かなかった。ただ口の動きで何を言っているのかは分かった。

 けれどもハルがそれに答えてやる筋合いはない。

 今はそんな事・・・・より優先しなければならないものが目の前にいるのだ。


疫病神アレはもう止まりませんよ。そうして、呆けているだけなら邪魔です」

「――――」

「逃げるか、手伝うか。どちらかの選択を。今の私達に、あなた達を守る余力はありません。非道な事をしてまで守り続けた村の事が、村の人達が大事なら! ご自分で動いて、どうぞ!」

「…………ッ」


 自分達の事は自分達で何とかしろと、炊きつけるようにハルはそれだけ怒鳴ると、目の前の疫病神へ意識を集中させる。

 目の端に、ツバキが走り出し、村人達の方へ駆けて行くのが映った。


 よし、と心の中で呟く。

 ツバキが動くかどうかは賭けだった。あれだけ言ってツバキが立ち止まったままでも、本当に、ハルには他の人間を守る余力はなかったのだ。

 それでも、もし村人達に危険が迫れば、目に移れば咄嗟に身体は動く。どんな相手だとしても動いてしまう。

 ハルもナツもだ。

 だから自分達が安心して放置出来る状態にしたかった。


(これなら、ある程度は安全でしょう)


 そう思いながら、ハルは防御術を使い続ける。

 疫病神の攻撃は苛烈で、ナツとアキトの二人を守り続けるのは、なかなか大変だ。

 額から汗が伝う。


『あぁああああぁあ! いいぞ、いいぞ! もっと俺を楽しませてくれよぉおぉお!』


 疫病神が吼える。

 えずきそうになるような嫌な臭いを纏った突風がハル達を襲う。


「ぐ」


 吹き飛ばされないように耐えているが、あまりの風圧に一瞬、目を閉じてしまった。

 視界が塞がる。見えなくなる。

 疫病神は疫病が見はそれを見過ごさない。口の端がさらにつり上がる。

 直後、ぐわ、と背中からさらに触手が増える。


『いただいまぁす』


 二本のひと際太い触手がアキトに向かって伸びて行く。

 触手の先端が口の様に開いた。疫病神と同じく鋭い牙が見えた。


「「アキトさん!」」


 双子の声が重なる。

 当たる。食い千切られる。

 それを覚悟して、アキトはぐっと歯を食いしばり身構えた――


 ――その刹那。


『させない』


 淡く光る白い光の一閃が、逆にその触手を食い千切った!

 

「…………!」


 それ・・はアキトを守る様に、軽やかに地面に着地する。

 白色の毛並みが揺れる。

 現れたのは美しい狼だ。

 その尻尾には、赤と白の矢絣柄のリボンが巻かれていた。

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