4-2 蝶と結界
空が夕焼けの色に染まり始めた頃。
口無村のある山の山道を、黒色の丸いサングラスをかけたスーツの男が、ぜえぜえ息を切らしながら歩いていた。
彼の名前は村雲フユキ。ハルとナツの叔父である。
「は~~~~! なんつー山奥に来てんの、あいつら!? 林間学校の資料を見たけど、どう考えてもキャンプ場から逸れてんじゃん! 何、どうしてここ!? マジで村の名前が地図に載っていて良かったよ、あっぶねぇ!」
だらだらと汗をかきながら、フユキはそうぼやく。
「っていうか、失敗した。山にスーツで来るもんじゃねぇ。何を考えていたんだ出発した頃の俺……! 慌てていたからって、ちょっと考えたら分かるだろ、馬鹿か俺は」
ただえさえ雨の後で足場が悪くなっている。革靴で来るもんじゃない。ただでさえ荷物が多いのに、とフユキは鞄と、背中に背負った
そして数時間前の自分の行動に頭を抱えながら、ユフキは一度足を止めて山を見上げる。
目的地である口無村の入り口らしきものは、まだ見えてこない。
地図を見る限りだと、たぶん、そろそろなのだろうが……。
そう思いながらフユキは鞄から携帯を取り出し、ナツの番号に電話をかける。
『お客様がおかけになったお電話番号は、電波が届かないところにあるか電源が入っていないためかかりません』
しかし返ってくるのは相変わらず同じアナウンスだ。
最初にメールに気づいてから何度か電話をかけているが、ナツの携帯もハルの携帯も、一度として通じた試しがない。
場所の問題かと思って山に入ってみたからかけてみたが結果は同じだ。
(まぁ、それにしても……ずいぶん嫌な気配が漂って来るもんだ)
未だ形の見えない村の方へ目を遣りながらフユキは心の中で独り言つ。
しかもだんだん強くなっている。
フユキの頭の中にハルとナツの顔が浮かんだ。
急がなければ。めちゃめちゃしんどいけれど、早く駆けつけなければ。
「……ハル、ナツ。どうか無事でいてくれよ」
そう言いながらフユキは携帯を鞄の中にしまい、再び足を動かし始めかけた、その時。
アオーン、
と狼の鳴き声が辺りに響いた。
◇ ◇ ◇
ハルが屋敷の離れの部屋に閉じ込められてからしばらく経った。
そろそろ夕方だ。高い位置にある窓から差し込む日差しが、茜色に変わり始めている。
儀式の時間はそろそろだろう。ハルの頭にナツの顔が浮かぶ。
(ナツの事ですから、大丈夫)
そう自分に言い聞かせながらナツは立ち上がり、戸の方へ近づく。
外から鍵が掛けられているため開かないが、耳を近づければ外の様子を確認する事は出来る。
「…………」
先ほどまでは、離れであってもそれなりに聞こえていた足音が、今はもうしてない。
皆、安心して儀式の方へ行ったのだろうか。
部屋の戸に鍵をかけてあるとは言え、どうにも不用心である。
……まぁ、その方がこちらには都合が良いのだけど。
そう思っていると、一つの足音がこちらへ近づいて来た。なるべく音を立てないような歩き方をしている。
(来た)
そう思いながらハルは戸から離れた。
少しして、
「ハルさん、アキトです。入ります」
とアキトの声が聞こえて来る。
同時にカチャリと鍵が開く音が聞こえ、戸が開いた。
「お待たせしました。すみません、少し手間取りました」
「いえ。こちらこそ無理なお願いをしてしまって、すみません」
部屋に入って来たアキトにハルはそう返す。
彼の腕には日本酒の瓶と栓抜き、ハルの扇子、そして二人分の靴が握られていた。
どれもハルが頼んだものだ。
「えっと……ハルさん、これで良いですか?」
「はい、ありがとうござます。大丈夫です」
ハルはそれらを受け取ると、にこりと笑ってお礼を言う。
これらは井戸の底にいる何か――化け物の対策として必要なものだ。特にこの扇子は、霊力を扱う上では大事な道具である。
この扇子自体にも霊力が込められていて、特に何らかの術を扱う際に、扇子を介して使えば効果や範囲を調整しやすくなる。
(一応、なくても出来なくはないですが)
その場合は自分の腕を扇子の代わりに使う事となる。
ただ人の身体はわりと脆いので、何度か使うと腕自体がボロボロになってしまうのだ。
術焼けという、火傷のような状態になる。適切な処置をして時間が経てば、痕もまったく残らないのだが、術焼けがある間は痛みが続くし、日常生活はしばらく支障が出る。
ちなみにこれはハルだけがなるというわけでもなく、村雲の人間は大体そうらしい。霊力の
とは言え、止むを得ない状況ならばハルは悩む事なく使うけれど、長時間かかる仕事中だと支障が出るし、叔父からも怒られるので、なるべく使わない方が良いかなぁとハルは思っている。
今回の場合は状況がどう転ぶか分からないので、なるべく自分の身体を長持ちさせたかった。
なので取り上げあれていた術用の道具――扇子の回収をアキトに頼んでいたのだ。
少し手間取ったと言っていたが、十分早い。儀式で屋敷内は手薄になっているし、あちらはアキトが裏切るとは微塵も思っていなかったのだろう。
そんな事を考えながら、ハルは栓抜きで日本酒の蓋を開けた。
すると日本酒の、どこか甘い香りがふわりと部屋の中に漂い始める。
「ところでアキトさん、外の天気はどうですか?」
「天気? えっと、晴れていますよ。綺麗な夕焼けが見れると思います……よ?」
「それは何より。さて、それでは早速始めましょうか。改めて、覚悟はよろしいですか?」
まるで世間話のように、日常と地続きのように覚悟を問うと、アキトは目を丸くした。
それから、彼は表情を引き締めてしっかりと頷いた。
「はい。――今までずっと、私はただ諦めるだけでした。ですが妹が逃げろと……諦めるなと言ってくれるなら。私もやります!」
「結構!」
ハルはそう笑うと部屋から出た。
離れから続く渡り廊下は、夕焼けに染まりかけている。
さらさらと吹く風がハルとアキトの髪を揺らした。
ハルは渡り廊下の中央まで来ると、日本酒の瓶をそこへ置く。
そして扇子を開いて、瓶の口に軽く当てる。扇子から霊力を中に流し込む。ふわり、と一瞬、瓶――中の液体が光った。
「…………始めます」
そう言うと、ハルはそのままの態勢で立ち上がる。
すると。
その瓶の口から、日本酒の粒が空中に浮かび上がり始めた。
それらはハルの周りをふわふわと浮かび、合わさり、やがて蝶のような形へと変化する。
「きれい……」
アキトの口から見惚れたような声が零れる。
一匹、二匹、三匹……。だんだんと蝶が増え始める。
そして瓶の中の日本酒がすべて蝶へと姿を変えると、
「行って」
ハルは短くそう告げる。
すると蝶達はパッと飛び散り、建物に吸い込まれて行く。
そしてややあって、
キィン、
と高い音が辺りに響いた。
音と同時に、薄っすらとした光の膜が屋敷を覆う。
「屋敷に結界を張りました。これで外から何が来ても、この中にいれば、しばらくは大丈夫です」
ふう、と息を吐いてハルは言う。
別にこの屋敷の人間がどうなろうと、正直どうでも良かったが、ここにはクラスメイト達がいるのだ。
彼女達を守るために、ハルは屋敷に霊的なものを近づけさせない結界を張ったのである。
「ですがしっかりバレますね」
「ええ、バレますね。あとは物理的に行きましょう」
「物理?」
「ええ」
にこりと笑って、ハルは空の瓶を手に持つ。
それを見てアキトは顎に指を当てて「物理……」と少し考えている様子だった。
大人しいというか、穏やかそうな印象のアキトだ。もしかしたらそういう事に抵抗感があるのかもしれない。
――なんて、ハルは一瞬思ったのだが、
「そういう方法で良かったのか、なるほど……」
という言葉が彼の口から出て来た。
もしかしたら、屋敷からの脱出に関しては、もっと穏便に済ませる方法を考えていたのだろうか。
そんな事がふっと頭の中を過ったが、まぁ、言ってしまったものは仕方がない。
元々自分もそういう方法を使う予定だったのだ。特にやる事に変更はない。
さて、そうしている内に、だんだんと屋敷の中でざわめきが聞こえ始めた。
今の原因に思い言った者もいるらしく、足音がこちらへ近づいて来る。
ハルは酒瓶を肩に担ぐように当てて、靴を履いた。
「さて、集まってくる前に動きましょう。外側を回った方が、相手をする数が少なそうですね」
「……いえ、平気ですよ。堂々と行きましょう。その方が近道です」
「え?」
ハルが渡り廊下から飛び出そうとした時、アキトにそう止められた。
確かに物理的にとは言ったが、どういう意味だろうかとハルが聞き返した時、二人組の男女が渡り廊下の向こうから姿を現した。
ツバキやアキトと容姿が少し似ている気がする。たぶん親族だろうか。
「おい、今のは何だ! お前ら、何をやった!」
「アキト!? あんた、何でその子を外へ出したの!?」
ハル達の姿を確認したとたん、二人の表情は一瞬で怒りへと変わった。
(アキトさんの親族だとしても……)
ずいぶん高圧的な態度を取る人達だなとハルは思った。
まず男の方が先に、こちらへ近づいて来る。
「おいアキト、俺は言ったよなぁ! 今度失敗したら承知しないってよ!」
男は目を吊り上げ、顔を赤くし、こちらへ殴りかかって来る。
ハルは冷静にそれを見ながら酒瓶を構えた時、すい、とアキトがハルの前に出た。
おや、と思った次の瞬間、男の顔にアキトの拳がめり込んだ。
「ぐぉっ!?」
男は蛙のような声を出し吹き飛んで、ずしゃ、と床に落ちた。
ハルは目を丸くした。見た目以上に腕力があるようだ。
いや、それよりも。
「思った以上に物理的だった……」
思わずハルはそう呟く。
「あ、アキト……!? あ、あんた、何を……」
ハルは「すごいなぁ」くらいの感覚だったが、目の前の女はそれどころではない。
床に倒れて気絶してしまった男を見て青褪めている。
ガタガタ震える女を見ながら、
「何って」
とアキトは涼しい顔で軽く首を傾げた。
「諦めるのは、もう止めたんですよ、叔母さん。……ついでに、今までのお礼をしようかなって」
そして、何とも綺麗な顔でにこりと微笑んだ。
(いや、顔は笑っているんだけど)
その笑顔は、どこか背筋に冷たいものを感じるものだった。
溜まりに溜まった鬱憤が感じられる。
アキトの言葉に、叔母と呼ばれた女が、ひい、と悲鳴を上げて逃げて行った。
「あーすっきりした」
その背を見ながら、アキトがぽつりと呟いている。
逃げる相手に追い打ちをかけないだけ、まだ理性が働いている。
「それじゃあ、行きましょうか」
「ええ。行きましょう」
アキトは胸の前で手を組んで、ぽきり、と骨を鳴らす。
とりあえず、まぁ、すっきりしたなら良いか。
そんな事を思いながら、ハルはアキトと共に走り出した。
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