2-5 逃げ出したくなる事も
その日の夜。
夕食の前にハルは伊吹から、ナツが熱を出したと連絡を受けた。
昨日、雨に打たれて身体が冷えた事と、今日のお社で受けた呪いのせいだろう。
顔には出していなかったが、ナツの身体に負担が大きかったのだ。
「灰鐘さんが別に部屋を用意してくれたんだ。一人の方がゆっくり休めるでしょうからって」
伊吹はそう教えてくれた。
その心遣いはありがたかった、のだが。
正直に言えば、どこに敵が潜んでいるか分からない今の状況で、ハルを一晩一人にするのはだいぶ心配だ。
そう思ったので、
「先生。ナツの看病をしたいので、私も今晩はそっちの部屋に行っても良いですか?」
と伊吹に聞いた。伊吹は目を丸くした後、心配そうな顔になる。
「それは大丈夫だけど、お前も疲れているだろう? 俺がついているから、休んだ方が良いんじゃないか?」
「いえいえ、先生も疲れているでしょうし。それに私、秋の終わりの土砂降りでずぶ濡れになった時も、風邪の一つも引きませんでしたよ」
「ああ~、あったなぁ。クラスの大半が熱出した時だろ。俺含めて。ハル、すげぇ健康なんだなって感心したよ」
ハルが去年の話をすると、伊吹は思い出したように真顔で頷いた。
文化祭の時の事だ。後夜祭が終わった後、集中豪雨にあってクラスというか、全校生徒がずぶ濡れになった。
ただ、後夜祭の後は水かけが伝統行事みたいになっていたので特に気にせず、全員そのまま楽しんで帰ったのだ。
しかしその後、涼しい夜風に当たっていた事もあって、大半の生徒が風邪を引いてしまったのである。
教師も生徒も熱を出す人間が多かったのに、なぜか一部の人間は無事だった。その中にハルも含まれている。
「あれは実にミステリーでしたね。何で引かなかったんでしょう」
「ま、引かないに越した事はないし、健康なのは良い事だよ。だけど今回は本当に、あんまり無理はするなよ?」
言葉でも心配してくれる伊吹に、ハルがにこっと笑って「はい」と頷いていると、
「ハルちゃんとナツ君、本当に仲が良いねぇ」
「ね~。動きもたまにシンクロしている時もあるもんね」
「あ、分かる分かる。ジュース飲んだ時とか、同じタイミングで美味しそうに笑ってるもん」
なんてヒナを始めとしたクラスメイト達から、微笑ましいものを見るような眼差しを向けられてしまった。
意外とよく見られている。
悪意なく、真っ直ぐにこういう事を言って来るものだから、うちのクラスメイト達は侮れないとハルは少し気恥しい気持ちになる。
まぁ、そんな感じで話をして、夕食を食べて、風呂を済ませた後。
ハルはナツの休んでいる部屋へと向かった。
◇ ◇ ◇
ナツの部屋は、男子部屋を出て、廊下を少し歩いた先だった。
それほど離れていないので、何かあれば声を張り上げれば聞こえるだろう。
ふむふむ、と思いながらハルは部屋の障子戸を開けて、
「ナツ。ハルです。入りますね」
と声をかけ中へと入った。
部屋の中央には布団が敷かれており、そこに、額にタオルを乗せたナツが寝ていた。
彼はハルに気が付くと、右手を軽く挙げてゆるりと振る。
「ナツ、大丈夫ですか?」
「んー……ちょっとだるぅい」
ナツはへらりと笑ってそう言うが、その声はいつもより元気がない。
「薬は飲みました?」
「うん、さっきちょっとね。おかゆもらったから、それを少し食べてから、持って来た解熱剤飲んだ~」
「少し食べられたなら良かった。お腹が空いたら言ってくださいね、聞いてみますから」
「うん、ありがとー……。……あ、でも、喉はちょっと乾いたかも」
「それじゃあ、お水を貰ってきますね」
「来てくれたばっかりなのに、ごめんねぇ」
「いえいえ」
ナツに笑いかけると、ハルはもう一度立ち上がり、部屋を出た。
水をもらうとなると台所だろうか。
(確か台所は……)
たぶんこっちだろうと、昼食や夕食前に良い匂いがした方へ、ハルは歩き出す。
ぎし、ぎし、と床が軋む音が小さく響く。
人の声があまり聞こえないからか、その音が妙によく聞こえた。
(皆、もう寝たんですかね)
屋敷の中の灯りも大体は消えていて静かだ。
雨もすっかり止んでいる。廊下のガラス戸から見える空も、蜘蛛の合間から星空が見えた。
(……おや)
それを見ながら廊下を曲がった時、ふと、誰かがそのガラス戸を開けて、誰かが座っているのが見えた。
アキトだ。長いサラサラした黒髪が、吹く風に緩く揺れている。
どうやらお酒を飲んでいるようで、彼の手にはぐい飲みと古い写真が握られていた。
……ただ、お酒を楽しんでいるようには見えない。
顔に影が出来ているせいもあるが、少し落ち込んでいるように思えた。
(あの写真は)
ハルのいる位置から、ほんの少しだけ、持っている写真が見える。
よく似た顔立ちの、二人の子供の写真だ。口無村のどこかで撮られたものなのだろう。
(あれ……?)
その片方――少女の髪に矢絣柄のリボンがついているのを見て、ハルが軽く目を見開いていると、
「……ん? ああ、こんばんは、ハルさん」
アキトがハルに気が付いて顔を上げた。
酔っているようで顔が赤い。
盗み見ていたような、少しバツの悪さを感じながら、ハルは挨拶を返す。
「こんばんは、アキトさん」
「こんな夜更けにどうしました?」
「雨に打たれて身体が冷えたせいか、ナツが少し熱を出しまして。それで、ちょっと喉が渇いたみたいで。お水をいただけたらと思って」
「ああ……そうでしたか。それは心配ですね。良かったら台所までご案内しますよ」
アキトはそう言うと写真を懐にしまい「よっと」と小さく掛け声を出して立ち上がった。
だいぶ飲んでいたのだろうか、足元が少しふらついている。ついでに少々お酒くさいし、煙草のにおいもする。
(叔父さんも結構、お酒も煙草も嗜むんですよね)
特にお酒は、ハル達の叔父が酔いつぶれた時に、このくらいの匂いがするのだ。
アキトはまだ若そうだが、これはだいぶ、身体に悪い飲み方をしているように思える。
とは言え、お酒はほどほどに、なんて言葉を酔っ払いに言ったところで、あまり効果がなさそうだが。
下手に刺激しないよう少し距離を取っておこう。
そう思いながらハルはアキトについて行った。
さて、その目的地である台所だが。
意外とそこから近かった。
「はい、こちらですよ。湯飲み茶碗やグラスは、その辺りの好きなものを使っていただいて」
台所にも人気はない。綺麗に片付けが終わったそこは、しん、と静かだ。
どれでも使って良いとの事なので、お言葉に甘えてハルはグラスを借りる事にした。花柄のレトロなデザインのグラスだ。
それを一つ取ろうとして、
(……そう言えば)
ハルは一度手を止めた。
アキトもだいぶお酒を飲んでいる様子だったなと思い、それなら彼の分もいるだろうとグラスを二つ取る。
そして蛇口をキュッと捻ってグラスに水を注いだ。
(久しぶりに見ましたね、このタイプの蛇口)
ハルはそんな事を思いながら振り返ると、水を注いだグラスの片方をアキトへ差し出した。
「はい、どうぞ」
「え?」
「アキトさんもだいぶお酒を飲まれているようでしたので。足元もふらついているみたいですから、お水、飲んだ方が良いですよ」
ハルの言葉に、アキトはぱちぱちと目を瞬く。
それからグラスを見て数秒固まった後、彼はやや戸惑い気味に受け取ってくれた。
「…………ありがとうござます」
アキトはほんの少しだけ微笑むと、そのままグラスの水を一気に飲み干す。
どこか儚げで繊細そうな印象を受けていたが、意外と豪快な飲みっぷりである。
……もしかしてこの勢いでお酒を飲んでいるとか。
少々心配になったが、その辺りは部外者なので、深く聞くのは止めておこうとハルは思った。
そうして見ていると飲み終わったアキトが、はぁ、と息を吐いた。
「ああ、美味しい。はぁ。……ちょっと飲み過ぎていましたね」
「みたいですね。……もしかして、何か嫌な事とかありましたか?」
「え?」
「いえ。私の周りにもお酒を飲む人はいるんですが、深酒をする時は大体そういう時でして。……まぁ、そうは言っても、今ちょうど現在進行形で嫌な事は起きていますよね」
まだ未成年のハルは、お酒を飲む大人達の気持ちは分からない。
けれども酔いつぶれるまでお酒を飲む人は身近にいる。
もちろん楽しくて飲み過ぎる時もあるみたいだが、ハルが知る限りでは、嫌な事があった時の方が圧倒的に多い。
先ほどお酒を飲んでいたアキトの表情を見ても、彼が気持ち良く飲んでいるようには思えなかった。
なので何となくそう聞いてみると、アキトは自嘲気味に笑って目を伏せた。
「……そうですね。この村にいると、色々とありますよ。逃げ出したくなる事もたくさん」
何かを思い出すように。消化しきれない気持ちを吐露するように。
静かに、水滴がぽちゃんと地面に落ちるように、静かにアキトは話す。
「親戚付き合いとか、近所付き合いとか、大変そうですもんね」
「……確かに、そうですね。ですが意外な事を仰いますね」
「ええ、まぁ。私が住んでいる場所も、それなりに人口はあって建物も並んでいますけれど、東京みたいな都会と比べると、田舎の括りには入りますし。それに……」
「それに?」
「ああ、いえ。……前に少しだけ住んでいた家が、何か、そういう感じだったので。こういう村だと、すぐ近くに親戚が住んでいるんだろうなって。だからそういう繋がりとか、気になる部分もあるんだろうなと思いまして」
ハルがそう言うと、アキトは目をぱちぱち、と瞬いた後、
「……そう、ですね」
と呟いた。
それから彼は、
「……ハルさん」
「はい、何でしょう?」
「ハルさんは、ナツ君の手を絶対に、離さないでくださいね」
顔を上げて、ハルの目を真っ直ぐに見て、そう続けた。
一体何の話だろうかとハルは僅かに首を傾げる。
「アキトさん?」
「私は……離してしまいましたから」
アキトの口から零れたその声は、少し掠れていて、まるで後悔そのもののようだった。
思わず言葉に詰まった。何と返したら良いのだろうか、ハルが僅かに思案していると、
「……んん、水を飲んだら少しすっきりしました。もう戻りますか? お部屋までお供しますよ」
次の瞬間には、アキトの様子はパッと変わっていた。
作り物のように明るい調子で、彼はにこりと笑って近くのテーブルにグラスを置く。
呆気にとられたハルが、
「あ、はい……」
と返すと、彼はくるりと向きを変えた。
そして来た方向に向かって歩き始める。
「…………」
ハルもそれに続く。
……けれど、どうも今の言葉が頭の中から離れない。
目の前で揺れる背中が、何だかとても小さく、痛々しく思えた。
「アキトさん」
「はい?」
「余計なお世話かもしれませんが、お酒も煙草も、ほどほどになさった方が良いですよ」
そうして気付いた時には、ハルは彼にそう声をかけていた。
アキトは歩きながら、意外そうな様子で顔だけ少しこちらへ向けてくる。
「え?」
「さっきの知り合い……うちの叔父さんなんですけどね。叔父さんも、たくさん煙草を吸ってお酒わ飲むので。健康診断でたまに引っかかるんです。だから、その……身体を大事になさってください」
「…………」
ハルがそう言えば、アキトは目を軽く見開いた。
心配された事が予想がだったのだろうか。彼は少し視線を彷徨わせた後、再び顔を前に向けた。
それから片方の手で、逆の腕をぎゅう、と強く握る。
「…………。……そう、ですね」
そして絞り出すような声でそう言った。
ハルの位置からはもうアキトの表情は見えない。
ただ……なぜか彼が泣いているように感じられた。
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