第17話 ゴキブリの花への思い
次の日、私は普段通り学校に行った。
いくらシャワーで体を洗い流しても、綺麗になった感じが少しもしない。ずっと汚さと不快感が体に染み付いている。
なんで、なんで、私がこんな目に遭わないといけないの……?
教えて、だれか、教えて……。
教室に着いて自分の席に座る。そして何もせず、ずっと俯いていた。クラスのみんなから荒々しい声で何か言われていたが、よく聞こえない。何か投げつけられたような気がするが、何を投げつけられたかわからない。
「モカちゃんおはよう!」
気づいたら、立華が隣にいた。太陽のように眩しい笑顔で私を見ている……。
挨拶をし返そうとしたとき、悪寒に襲われた。少し顔を横に向けると、教室の二つあるドアの内、後ろの方にあるドアが開かれていた。そこの手前に城ヶ崎がいた。ゴキブリを見る目で私を見ている……。
っ……。
「……」
私は立華を無視した。
「え……どうしたの? モカちゃん? なんで無視するの?」
「……」
「ねぇ、モカちゃん?」
「うるさい。私に話しかけないで」
「……モカ……ちゃん?」
疑問と驚きと悲しさが混じった、なんとも複雑な表情になる立華。
ドアの方を見ると、城ヶ崎が満足そうな顔をしていた。そうだ、それでいいとでも言いたげな顔だ。
クソ、クソ、クソ、クソォ……。
それから授業中も休み時間も、ずっと立華を無視した。そして、昼休み――
「モカちゃん、ご飯食べよ!」
「……」
私はまた無視した。
「モカちゃん……?」
立華の表情が痛々しい。その顔を見るたび、罪悪感がひしひしとこみ上げてくる。
そのとき、城ヶ崎のヤツが教室に入ってきた。そして私たちの元に来る。偽りの笑みを浮かべて。
今となっては、その笑顔に怒りしか感じない。ムカつく、ムカつく……。
「どうしたんだい? 立華ちゃん?」
「あ、それがね、モカちゃんが返事をしてくれなくて……」
「なんだって。どうしてだい? モカさん?」
城ヶ崎にはどのように接すればいいんだろう……。立華とは絶交しろと言われたけど……。
考えあぐねていると、
「なんで無視をするんだ! 何とか言ったらどうだ!」
城ヶ崎が少し声を荒げて言った。周りの生徒がなんだなんだという顔でこちらを見てくる。
べつに無視しているつもりはなかったのに……。クソ……。
城ヶ崎が何かを期待しているような目で、私のことを見てきた。
クソ。ああ、わかってる……わかってるよ……。
「……立華のことが大嫌いだからだよ」
「え?」
立華が信じられないとでも言いたげな顔をする。
「モカちゃん、今なんて……」
「オマエのことが、大嫌いだからだよっ!」
立華に向かって叫んだ。その途端に、立華の顔がサッと青くなる。他の生徒たちもこれには驚いたようで、目を見張って私のことを見ていた。
今のは、実は半分くらい本音だった。私はコイツのことが大嫌いだ。
コイツの美しいところとか、お節介なところとか、優しいところとか、鈍感なところとか、純粋なところとか、頭がいいところとか、運動ができるところとか、なんでもそつなくこなすところとか、なにもかも、なにもかも大嫌いだ。
でも、同時に大好きでもあったのだ。
だからこそ、悲しいし、胸が痛い。
でも、私と立華は本来一緒にいちゃいけないような人間だ。これで、いいんだろう。これで……。
「――最低だな、おまえ」
城ヶ崎が侮蔑をこめた目で私を見てきた。
「立華ちゃんみたいないい子に、なんてひどいんだ……許せない!」
……どの口が言うんだろう。私にさんざんひどいことをしておいて。でも、表情や声はまるで漫画に出てくるヒーローだ。演技の上手いやつだ。
「立華ちゃん、おれと二人で食おう? あんなヤツほっといて」
「で、でも……」
「立華ちゃんのことが大嫌いってコイツは言ってるんだよ?」
「……う、うん……そうだね。わかった……」
立華は最後まで名残惜しそうに私を見ていた。
これでよかったんだ……。私と立華は元々別世界の人間だ。これでよかったんだ……。
それからも私は立華を避け続けた。帰りも立華を無視して一人で先に帰った。
これで、これで終わりだ……。立華とはこれで終わりだ……。
少し肩が軽くなったような気がする。でも、その軽さが物足りなくて……どうしようもなく、寂しかった。
*
翌日の朝。
教室に入ると、珍しく立華が先に来ていた。立華は私を視認すると、飼い主に捨てられた子犬のような目で私のことを見てきた。
なによその目……。
少し心が痛んだが、立華の方をなるべく見ないで自分の席に行った。そして立華になんの声もかけずに座る。
立華は私をチラッと横目で窺うが、不思議と今日は何も言ってこなかった。
そんな立華の様子を不可解に思いながら、カバンからノートや教科書を机の中に入れようとしたとき、そこに何か入っていることに気づいた。ノートや教科書を入れるのを中断し、その何かを取り出してみる。
……手紙だった。
またか……。
今までの嫌な記憶が蘇る。
……もう騙されない。いちおう中身は見るが、今度はどんな内容でも無視しよう。
そう決意し、手紙を開けて中の便箋を読むが、考えが変わった。
その手紙の送り主が、立華だったからだ。
とめやはねがしっかりとつけられた丁寧な字で書かれている。間違いない、これは立華の字だ。そこにはこう書かれていた――
放課後、屋上のドアの前に来てください。立花立華より。
放課後になると、すぐに立華は教室を出て行った。私も少し間を開けた後、教室を出て行く。そして、屋上へと続く階段を二段飛ばしで上っていった。
屋上のドアの前に着くと、立華がいた。
「――来てくれたんだ」
寂しそうに立華は笑った。
「ちょっと待っててね」
立華は制服のポケットからヘアピンのようなものを二本取り出して、それでドアの鍵をガチャガチャといじりはじめた。どうやらピッキングをしているようだった。
「はい。開いたよ。ふふ、私、悪い子でしょ? みんなは私を優等生扱いするけど、私、こんないけないこともしちゃうんだよ」
立華が小悪魔っぽく笑う。
「さ、屋上に行こ」
立華がドアを開けて屋上に入っていった。私も後に続く。
当然かもしれないが、屋上は誰もいなかった。
立華は一歩一歩確かめるように屋上の中心まで歩いていった。私も立華の近くまでゆっくりと歩いていく。
立華は私に背を向けて、玉子の黄身が潰れたような空をしばらく眺めていた。やがて、こちらに体の正面を向けた。私と立華は向かい合う形になる。立華は私を不安そうな目で見ている。
それから数十秒の間、私たちはお互い黙っていた。立華が大きく深呼吸を一つした後、何かを決意した目になる。そしてついに口を開いた――
「ねぇ、モカちゃん、私のこと、本当に嫌いなの?」
第一声がそれだった。
「…………」
「ここなら、私たち以外誰もいないよ。だから、お願い。正直に――正直に言って……」
必死な目で懇願するように語りかける立華に、私は……私は……言ってやろうと思った。
「うん。わかった。正直に言うよ」
私が声を出すと、立華は少し安心した表情になる。でも、この顔を私は崩すことになるだろう――
「――本当に……本当に、おまえのことが……大嫌いだッ!」
叫んだ。思いを込めて、叫んだ。その思いは、色々な思いがごちゃごちゃと混ざり合った思いだ。嫉妬や羨望や憧憬や好意や嫌悪や感謝や罪悪感などが所狭しと詰まっていて、矛盾していて、ぶつかりあっている。そんな思いを私は解き放った。
「そ、そう……そう、なんだ……」
今にも泣き出しそうな表情の立華。でも、グッと歯を食いしばって泣くのをこらえている。そして、意志を強く感じさせる目で立華は私を見てきた。
「……わかった。私が本当に嫌いだっていうことはわかった。でも、でもね、私は、私はモカちゃんのことが好きなの。私はモカちゃんと友達でいたいの。だからお願い……私に悪いとこがあるなら言って。直すから。がんばって直すから――」
それを聞いて、私の中で何かが爆発した。
「……ないよ」
「え?」
立華が泣きそうな顔できょとんとする。
言ってやる。もう、全部言ってやる。
なにもかも全て、ぶちまけてやる!
「ないんだよ、なさすぎるんだよ! 悪いところが! おまえは、おまえはなにもかも完璧すぎるんだよ! そこが……そこがムカつくんだよッ!」
はぁはぁと息を切らして、鼻息を荒くして、私は言った。
言ってしまった。曝け出してしまった。少し後悔する。だが、すっきりしていた。私を縛る頑丈な鎖から解放された気がした。
立華は元々大きな目をさらに大きくして私を見ていたが、数秒経つと悲しそうに苦笑した。
「……そっか。モカちゃんにはそう見えるんだ。でもね、私は完璧じゃないよ。そんなにすごい女の子じゃないよ。モカちゃんは私を美化しすぎだよ。モカちゃんだけじゃない、他のみんなも……」
どうしてこいつは自分の凄さに無自覚なんだろう。どうして自分がどれほど恵まれているかがわかっていないんだろう。
「そんなことない……立華は完璧だよ。なにもかも……神に愛されているんじゃないかってくらい……」
「過大評価しすぎだよ……私そんなにすごくないよ……」
「そんなことない……そんなわけない……」
こうやって正直に話し合っていて、強く感じる。やっぱり、私と立華は別世界の人間だ。一緒にいちゃいけない人間だ。
立華は、私みたいな身も心も汚いやつと一緒にいちゃいけない。
こんなキタナイ――ゴキブリなんかと――
「――ねぇ、立華。私たち、友達、やめよう」
「え……え!? な、なんで!?」
立華が目と口を大きく開けて、あたふたと焦りだす。
「……だって、立華みたいな綺麗な子は、私みたいな汚いゴキブリと一緒にいちゃダメだよ……」
「ゴキブリ……」
胸をナイフで刺されたように顔を歪める立華。
「知ってるでしょ。私が、ゴキブリって呼ばれてること……」
立華は何かを言おうと口を開けるが、数秒経つと何も言わず口を閉じた。何を言おうか迷っているみたいだった。そんなことを何回か繰り返した後、立華は伏目になって頷いた。
「うん……」
だが、立華はすぐに顔を上げた。
「で、でも、モカちゃんはゴキブリなんかじゃないよ!」
「立華……」
そう言ってくれるのは立華だけだよ――
「モカちゃんは汚くなんかない。綺麗だよ。私と変わらないよっ!」
――そう言われた瞬間、私の中で何かが壊れる音がした。風船を針でつついて破裂させたような音だった。
き れ い ?
わ た し が ?
お ま え と か わ ら な い ?
な に い っ て ん だ !
ふ ざ け る な !
…………………
……立華は本当に善意でそれを言ったのだろう。
しかし、それは愚かな善意だった。
立華は、私に励ましの言葉を送ったつもりなのだろう。でも、私にとっては、それは全然励ましの言葉じゃない。
私が綺麗……?
私があなたと変わらない……?
アホか、そんなわけないでしょ。
それはね、あなたが綺麗だから、そんなことが言えるのよ。
あなたが身も心も綺麗だから…………
――ふと、立華の身と心を汚したくなった。
私はこんなに身も心も汚いのに、どうしてあなたはそんなに身も心も綺麗なの?
うらやましい、うらやましい
ひどい、ひどい
不公平だ、不公平だ
ずるい、ずるい
ズルイ!
気づいたら、私は立華にキスしていた。
目を見開いた立華の顔が本当に可憐で、私は興奮した。
ケガシタイ リッカノミモココロモ ケガシタイ
ワタシト オンナジ ケガレタミトココロニ ナッテホシイ
ゴキブリ ハ リッカ ノ クビ ニ カブリツイタ
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――――気がついたとき、目の前に全裸でうずくまってすすり泣いている立華がいた。
私は自分が何をしたか悟った。
あ、
ああ、
ああああああ、
アアアアアアアアアアアアアア!?
わ、私はなんていうことを……。
「ご、ごめん、立華……私は、そんなつもりは……」
私は――――私は、なんていうことを。
唯一、私を好きになってくれた人に。唯一、私に優しくしてくれた人に。唯一、私が大切に思っていた人に。な、なんていうことを!?
「う、うあ……ごめん!」
私は逃げ出した。泣き続ける立華を置いて―――
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