第39話 知らない方がよいことが世の中には多くある……

 が……しばしの後、『無に帰す者』はまずいものでも見てしまったかのように、その無数の目を一斉にそらすと、


『……異常な力を持つ上位者の存在を二個体確認……自己の生存のため別次元へ移行……』


 『無に帰す者』はそうしゅんと顔……いやおそらく頭部のような巨大な何かをもたげて、そのまま深淵へと帰っていった。

 

 同時に地面を侵食していた漆黒の闇も収縮していき、元の単なる地面の姿を取り戻しつつあった。

 

 た、助かったのか……世界はこれで救われたのか……。

 

 アリスが俺をじっと見つめてくる。

 

 頬は紅潮していない。

 

 もう……怒っていないのだろうか……。

 

 その青い瞳が何を考えているのか、俺にはわからない。

 

 だが……その瞳で見つめられると、どうしようもなく本能が刺激される。

 

 こんなに美しい女性が俺の目の前にいるのだから……。


「ご主人様……その……」

 

 アリスがおもむろに体を寄せてきて、さらに互いの体が、密着する。


 そして、唇と唇が——って——。


 「は! す、すまない! いつまでもこんな体勢で——」

 

 俺はあわてて、アリスの体に馬乗りになっている状態から、立ち上がる。

 

 あぶない……あぶない……いったい何をやろうとしていたんだ……俺は……。

 

 奴隷紋で抵抗できないアリス相手にやましいことをするなんて……人間として最低の行為だ。

 

 いくら女性に縁が無いといっても、俺にだって最低限のプライドくらいはある。

 

 しかし……これでまたアリスから軽蔑されてしまった……。


「フフ……ああ……ご主人様……やっと……その時が来たのですね……アリスはずっとわかっておりました。ご主人様は来るべき時に備えて、世から隠れ忍んでいることを……。ついに解放の時が……帝国の横暴から大陸の諸王国を解放し、ご主人様が覇をとなえる時が来たのですね……そして、わたしは帝位につかれるご主人様の正妻として……フフ……ああ……やることが多くあります。まずは、帝国の辺境部を蚕食し、地保を固めて、内乱を誘発し——」

 

 アリスは遠くの虚空を見ながら、怪しげな笑みをたずさえながら、何やらブツブツと呪詛のようなものを口走っている。

 

 ……い、今は話しかけない方がよさそうだ。


「は……いったい……何が……闇の眷属が顕現して……いえ異様な姿をした化け物たちが次々と……」

 

 後ろを振り返ると、ナタリアが頭を抱えて、足をふらつかさせながら、立ち上がっていた。

 

 どうやら『無に帰す者』が消えて、彼女たちも正気に戻ったようだ。

 

 が……今の事態を説明するのはどうにも面倒なことになりそうだな……。

 

 いやそもそも俺もよくわかっていないのだ。

 

 アリスの仕業だとはわかっているが……。


 アリスはラスボス『無に帰す者』をまるで一介の眷属のように扱っていたが……まさか……な。


 そういえばゲーム上でも『無に帰す者』がなぜ現れたのか、あまり深く言及されていなかった。


 確か封印が解けてしまったという設定で終盤に突如出現するというストーリーだったはずだが……。


 なぜこの段階で『無に帰す者』が出現したのか……。


 まさかもう封印が解けているのか。


 それなら闇の眷属たちが帝国の領土内に溢れて大混乱状態になるはずだが……今のところそんな話はまるで聞こえてきていないしな。


 正直そんなことになったら、俺もFIREどころではないから、できればごめんこうむりたい。


 いやそもそも……先ほどの様子を見る限り、アリスは『無に帰す者』を自在に召喚していたような——。


 ……何か深く考えると、余計に頭がいたくなりそうだから、大人しく忘れてしまおう。


 世の中、知らない方がよいことはそれなりにある……。


「……何もいない……夢……幻覚でも見ていたというんですの……ですが……あんな生々しいもの……ち、ちょっと! あなた……あなたも見ていたんでしょ? アレを!?」

 

 ナタリアが気色ばんで、俺の方へと詰め寄ってくる。


「え……な、なんのことですか? わたしは何も見ていないですが……」

 

 俺はすっとぼけることにした。

 

 だいぶ苦しい言い訳だが、幸い証拠は何もないしな。


「そ、そんな馬鹿なことが……ねえ……あなたたちも見ていたでしょう? あの禍々しい生き物を……」

 

 ナタリアはそう言うと、衛兵たちにつめよる。


「い、いえ……実は我々はすぐに意識がなくなってしまい……特に見ていないのですが……」


「そ、そんな……わたくしの見間違いだというんですの……」


「ひ、姫様。こ、この近くはもう森も近いですし、ここらの住民たちは野蛮ゆえによく森に生えているキノコの類を燃やして食べていると聞きます。もしかしたら、その中に毒キノコの類があったのかもしれません。その煙にあてられて幻覚を……」

 

 衛兵の一人が、ありがたいことにもっともらしい話を言ってくれる。

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