ー鏡のない家ー

@yukihanabun6776

ー鏡のない家ー

 扉がノックされ、ヨシノさんが控えめに顔をのぞかせた。

「坊ちゃま、朝食の用意ができましたよ」

 北国の生まれだというヨシノさんは、雪のように白い顔をしている。優しい瞳に、ゆっくりとした所作。彼女がそこにいるだけで柔らかい風が吹き抜けていくように感じる。

 55と聞いたとき、僕は心底驚いた。何と母と同じ年だ。これほど違う2人も珍しい。

 医者として、自分の夫の経営する病院で働く母は、いつもせかせかと前につんのめるようにして歩く。化粧も服装も一分の隙もないくらいに完璧で、たまの休みには颯爽と愛車のハンドルを握り、独りドライブに興じる。僕を乗せてくれたことはこれまで一度もない。

 そんな話を、ヨシノさんは微笑みを湛えたまま、黙って聞いてくれた。ときおり、そうでございますか、とか、それはおさびしいでしょう、などと相槌をうってくれる。この微笑に出会うたび、この面影を、この声音を、僕はどこかで目にし、耳にしたはずだという思いにいつも襲われる。誰かに似ている。どこかで見た。どこかで会った。しかしどうしても思い出せない。思い出すことが出来ない。

 僕は窓の外に目をやった。2階の窓からは、蔵王連峰の山並みが眼前に迫るほどにはっきりと見える。

 みやぎ蔵王のふもとに広がるこの観光にも避暑にもうってつけな場所には、別荘やログハウス、コテージが競うがごとくに大地を覆っている。その中で唯一、トタンに囲まれた簡素な平屋建ての家が坂を下った所に建っていた。管理人の家だ。そこから一人の男が鍬を担いで出てくるのを僕は今朝も見た。朝5時、夏の太陽が照りだして間もなくのことだ。

「ヨシノさんも午後からはあの男と一緒に畑仕事するんでしょう?」

 あの男、という言い方に彼女は困惑の表情を浮かべたが、はい、と小さく答えた。

 1階のダイニングで僕は彼女に給仕してもらい、食事をする。そのとき茶碗を差し出してくれる彼女の手は、顔と同じ肌とは思えないくらいに荒れている。それはあの男と共に畑仕事や鶏の世話などをするからだ。白い割烹着の先に見えるその手はまるで老婆のようだ。顔は30代と言っても通用するほどの若さなのに。

「なんで……いや、なんでもない」

 僕はご飯とともに言葉を飲み込む。なんであんな男と一緒になったんだろう。僕がどうこういうことではないと思いながらも腹立たしくなる。あの男は不愛想で目つきも悪い。品の悪い口元からは乱暴な言葉が飛び出す。ことさら僕を敵視しているようにすら感じる。

 いつだったか、あの男はまだ夜も明けきらぬ朝っぱらから雑草を刈り出したことがあった。この別荘で暮らし始めたばかりの頃だ。朝方まで勉強していた僕は、寝入りばなを叩き起こされた。あの甲高い金属音、そして草の刈られる、ちりちり、ちりちり、という音は窓を閉めていても容赦なく流れ込んできた。

 ちりちりが3日続いた朝、僕は意を決して男の家に乗り込んだ。朝食を食べ終わり小一時間したころだ。あの家は男とヨシノさんの二人暮らしだが、ヨシノさんは午前中、契約している店に野菜を届けに行く。だからその時間帯は彼女は不在なわけである。やはり彼女を前にしてその夫に苦情はいいづらかった。

 男は鶏小屋を掃除していた。トタンの囲いをくぐり、恐る恐る庭に入ると鶏小屋の中を動く影があった。ランニング1枚にねずみ色のズボンと長靴、麦わら帽子をかぶった男がこちらに背を向けていた。分厚そうな背中も太い腕も、実にいいい色に灼けている。が、男の顔は見えない。僕はそっと小屋の中をのぞいた。途端、鼻に異物がスッと入って激しく噎せた。

「馬鹿だな、マスクしろマスク」

 男は半分マスクに覆われた顔を一瞬僕に向けるとすぐに背を向けた。フンや抜け落ちた羽毛を箒でかき集める。鶏たちが駆け回り羽毛と土埃が舞う。僕はまた盛大に噎せた。

「……なにしにきた」

 男は帽子の下から僕を見下ろした。かなりの大男だ。太い竹箒を握り締めている。その丸太のような腕には血管がぼこぼこと浮き上がり、眉間には皺が刻まれていた。

 男は最初からけんか腰だった。恐怖を感じながらも、なぜこういう態度をとられるのかがわからなかった。相手は僕が何者かわからないはずだ。ところが男は

「お前、別荘の息子だろうが」

 吐き捨てるように言い、

「都会の青瓢箪が何しに来た」

 男の目が光った。僕は唇を噛むと、あ、青瓢箪とは、失礼じゃないですか、とやっとのことで言い返した。眼鏡が汗でずり下がった。

 男は鼻で笑った。

「青瓢箪を青瓢箪と呼んで何が悪い。どうせ勉強しかしとらんだろうが」

 そして可笑しそうに口の端を吊り上げた。完全に僕を見下していた。

「来年大学受験だそうだな。医学部志望か。そんなことしてなんになる」

「なんになるって」

「どうせおまえの未来は」

 男はそこで不意に言葉を切った。そして背を向けた。

「帰れ」

 男の背中には汗が滲んでいた。竹箒を握った腕にはことさら血管が青く浮き出ていた。帰れ、と男は再び繰り返した。そのとき僕は男の腕がこまかく震えてるのを見た。

「お前の顔など金輪際見たくない」

 男は絞り出すような声でそう言った。オマエノカオナドコンリンザイミタクナイ。その声はなぜか僕の耳にひどく苦し気に響いた。おまえの顔など……それは初対面の相手に向けて言うにはあまりにも不可解な、激しい拒絶の言葉だった。なぜ僕はこんなことをこの男に言われなければならないのか。

 しかも、男は僕が大学受験を控えていることも、医学部を志望していることも知っていた。そんなことを、両親がわざわざ話したのだろうか……?

 腑に落ちない気持ちを抱えたまま、僕は別荘に戻った。結局、早朝の雑草刈りの件は口にもできなかった。が、不思議なことに、翌朝からは眠りを破られることはなくなった。


 一学期の終業式を終えると、午後の新幹線でこの宮城にやってきた。僕を迎えにきてくれたのはヨシノさんだった。僕はあれ? と思った。いつも来てくれていたのは腰の曲がった皺だらけの爺さんだったから。

「前の管理人さんは?」

 ヨシノさんの車に乗り込むと聞いてみた。瞬間、微笑を湛えていた彼女の顔は凍りつき、小さな口を開けたまま僕を凝視したと思うと、不意に顔をそむけて黙りこくってしまった。あの……。僕の声にも黙ったままだった。彼女は明らかに狼狽していた。

 亡くなったんだな、と僕は直感した。しかし彼女がこんなに動揺するとは驚きだった。確かに僕はあの爺ちゃんのことが好きだった。いつも僕のことを「坊」と呼び、茹でたてのとうもろこしや、生みたてのまだ温かい卵を持ってきてくれたりした。花火にも連れて行ってくれたし、珍しい虫を捕まえて嬉しそうに僕のてのひらに乗せてくれた。そう、虫をもらった僕よりも爺ちゃんのほうが数倍も嬉しそうに見えた。僕は父や母よりも、爺ちゃんが好きだった。大好きだった。

 しかしだからといって、こんなに彼女が言葉に困る必要があるだろうか。小さな子ならいざしらず、僕はもう高3だ。大声をあげて泣きじゃくる年でもない。それなのに……。

「着きましたよ」

 殊更明るい声でヨシノさんは言った。車庫に車を滑り込ませると、一刻も早く気まずい車内から解放されたいというように彼女は車を降り、そして家のドアを開け放った。

 1年に1度、夏しか使わない別荘とは思えないほどに、庭も室内も人の手が入り、整頓され、たっぷりと光を含んでいた。爽やかな風がカーテンを揺らし、駆け抜けていった。

「今、何か飲み物を持ってきますから」

 ヨシノさんがキッチンに消えると、僕はリビングのソファに体を沈めた。天井が高い。1人でここに来たのは初めてだ。いつも父の車か病院の職員の人の車だった。滞在期間もせいぜい1週間かそこらだった。が、今回は違う。僕はほぼ1か月の間、この家にこもり、勉強をするのだ。そして大学に合格し医学生となり、ゆくゆくは父の病院を継ぐのだ。それを父も望んでいる。母は、母は……。

「少し窓、閉めましょうね」

 いつの間に戻っていたのか、ヨシノさんが窓際に立っていた。

「都会の方には、少し風が冷たく感じられるかもしれません」

 彼女が窓に手をかけたとき、僕はあれっ、と思った。窓が摺りガラスになっている。今までは普通の窓だったのに。

「窓……」

 ヨシノさんは反射的に窓に目をやると、一泊おいてから、無理に笑顔を作った。固いつぼみが無理やり花を開いたようにその笑顔は苦し気だった。そして早口で言った。

「外の景色が見えると、その、気が散って勉強に支障がでるかもしれません、ええ、それで」

 それで、と言いながら彼女は思い出したように僕の荷物へと手を伸ばした。

「お疲れになったでしょう。お部屋へご案内しますから」

 無理に笑顔を作ると細腕で僕のリュックを持ち上げ、よろめきながら階段へと向かった。

「いいよ自分の荷物ぐらい」

 彼女を追った僕はそこで言葉が継げなくなった。正面に見える父の書斎、キッチンへと続く廊下に光を取り込むテラス、天井の吹き抜け……全ての窓という窓は摺ガラスに変わっていたのだ。

 そればかりではなかった。2階の自分の部屋に入った僕は、壁に設えてあった鏡がないことに気付いた。代わりに絵画が飾られていた。引き出しにしまっていた手鏡もなかった。急いで浴室に降りると洗面所にも浴室にもあるべき鏡はなかった。そこには新たなタイルがはめ込まれていた。僕は呆然と立ち尽くした。これは一体……どういうことなのか。

(気が散って勉強に支障がでるかもしれません。)彼女は言った。しかし鏡はどうだ。自分の顔を見ることすら「勉強に支障が出る」行為だというのか? まさか。

 夕飯が出来るまで時間があるので、僕は風呂に入った。それに頭の中を整理したかった。たっぷりと張られた湯に首まで浸かる。見れば、石鹸もタオルも洗面器もスポンジも、全てが新しかった。ヨシノさんはすべてを新調し、僕を迎えてくれたのだ。

 彼女に質問するのはよそう。そう思った。今すぐにも鏡の訳を聞きたかったが、そうすればまた彼女は言葉に困り、黙り込んでしまうだろう。前の管理人さんは? 窓……。

 僕の発する一言に、彼女は狼狽し、言葉を探し、僕の目を逃れるように視線を逸らした。彼女は高3の僕でさえ哀れに思えるほど心が顔に出てしまう、嘘のつけない誠実な人なのだ。

 僕はここに勉強しに来たのだ。どこへ行くでもない。誰と会うでもない。鏡がないぐらいで何が困ろうか。

 どこかで蜩が鳴いている。カナカナカナ……。窓が夕日を浴びて桃の果肉のように色づいている。こうしてみると摺ガラスもいいものだ。どことなく愉快な気分になり、湯船から勢いよくあがろうとしたそのとき、表面に浮いている1本の髪の毛に目が留まった。短い白い髪だった。それはいつまでも湯船の表面を、僕の視界の中を漂っていた。


 翌日からいよいよ受験勉強に励む日々が始まった。夏休みを別荘で過ごすことに父も母も何も言わなかったが、父は時おり

「無理しなくたっていいんだぞ」

 と僕の顔を窺うようにして言った。その言葉は僕を哀しくさせた。まるでお前には無理だと暗に言われているような気がした。父にそう言われれば言われるほど、僕はムキになって教科書をめくった。そんな父と子を母は冷笑していた。母ははなから僕に期待などかけてはいなかった。

 小学生のころから、テストの点数を見せるたびにため息をつかれた。そんなに悪い点数ではなかったはずだが、彼女は早々に、息子が将来医者になることを諦めたようだった。僕がいくら勉強しようと、まあ、やるだけやってみたら、どうせ無理だろうけど。言葉には出さなかったが母の僕を見るまなざしにはそんな退廃的な気分が漂っていた。そのたびに、僕は意地でも医者になってやるという思いを燃え上がらせるのだった。

 結局、この二人は積極的にではないにしろ、僕を勉強へと駆り立てたのだ。あの男に「青瓢箪」と馬鹿にされながらも、僕は青瓢箪でい続けるしかなかった。 勉強にのめりこむしかなかった。この間、母は当然のこと、父からも1本の電話もなかった。

 徹夜し、朝方うとうとする。ヨシノさんがいつのまにかそっとやってきて朝食をつくり、僕を起こしに来る。朝食をとり、シャワーを浴び、再び机に向かう。

 そんな日が1週間ほど続いたある日のことだ。いつものようにシャワーを浴び、部屋に戻ってきた僕は、枕元に白いものを見つけた。真っ白な枕カバーのそばで、それは盛夏の陽光を受けて絹糸のようにきらりと光った。

 こんなところに糸が、そう思った。ヨシノさんがカバーを繕うかなにかして、糸がまだついたままになっているのだと思い、何げなく指でつまんだ。と、糸なんかではない、それは髪の毛だった。人間の、白髪だった。

 自分の枕元に髪の毛が落ちている。理屈では当然自分の髪の毛だ。しかしにわかには信じられなかった。僕はまだ17だ。高3だ。それなのにこれはなんだ、これは……。急におぞましくなりすぐさまゴミ箱に捨てた。と、窓にぼんやりと自分の姿が映った。近寄った僕は、しかし摺ガラスの表面に自分の顔を、頭を見ることはできなかった。この頭に、まだ17の頭に、白髪……?

 そういえば、おかしいと思うことはあった。教科書をいくら読んでも頭に入ってこない。暗記できない。僕はそんな自分の変化を数日前から感じていた。いや……正直に言えば、それはすでに、この別荘に来た日から始まっていたのだ。

 入浴を終え、ヨシノさんの作ってくれた夕飯を食べ、彼女が帰ってから、僕は教科書を開いた。確か国語だったと思う。ページに目を落とした瞬間、僕は愕然となった。その字があまりにも小さいのだ。小さく感じられたのだ。まるで蟻が並んでいるかのように……。

 ページに目を近づけてみたが小さくて読めない。試しに眼鏡を外し、裸眼で見てみると思いがけずはっきりと見えた。眼鏡を戻すとまた小さくなる。教科書を持つ手が震えた。そういえば、爺ちゃん言ってたじゃないか。爺ちゃん老眼だから、近くのものは眼鏡を外したほうがよく見えるんだよ、って。老眼……。

 本が手からこぼれた。おぞましい、恐ろしい、怖い、なんだこれは、自分はいったいどうしたのだ、どうなったというのだ。

 自分の手のひらを見つめた。顔をそっと触ってみた。いつもの自分だ。自分の顔だ。確かにここに来てからというもの、鏡は一度も見ていない。しかしまさか、浦島太郎じゃあるまいし。なにがどう変化するというのか。僕は、何を一体おびえているのか……?

 この1か月が勝負なんだ。僕は自分に言い聞かせた。必ず志望校に合格し、両親をあっと言わせるのだ。そうだ。そのために僕はここに来たのだ。

 一つ大きく息を吸い込むと、僕は思い切り自分の頬を打った。思いがけず眼鏡が吹っ飛び、一瞬、火で炙ったかのような熱さと衝撃が手と頬に弾けた。その熱さが妙に心地よかった。僕は左の頬も左手で打つと、痺れた頬を枕に横たえて眠りについた。


 ヨシノさんが起こしに来る前に、僕は階下へと降りていった。階段の1段1段が変にゆがんで見えるような気がした。ヨシノさんはキッチンで洗い物をしていた。テーブルの上には野菜ジュースの入ったミキサーがあり、その表面に自分の顔を映してみようとしたが、ガラスの表面には縦に細かい凹凸が走っていて僕の今の姿を見せてくれはしなかった。

 彼女は僕を見ると目を見開き、ただごとではないといった顔で口を開いた。

「坊ちゃま、どうしたんです、頬が」

 僕はふっと笑った。

「ヨシノさん」

 彼女は不安そうな顔で首を傾げた。

「僕の髪……変?」

 言いながら、今朝も枕に残されていた髪の毛をかざす。彼女は髪の毛を、次いで 僕の顔を見つめると大きく息を吸い込んだ。

「僕……どうなってるんだろう」

 彼女は誠実な人だ。僕はこの夏、初めて彼女にあったばかりだけれど、彼女の誠実さ、正直さ、そして嘘のつけない真面目な性格はこの数日間でわかったつもりだ。彼女は言葉に困っている。黙っている。それは事実と反対の言葉を探しているからなのだ。嘘を用意しているからなのだ。

 彼女を見つめながら、心の中で僕は、一度この家から出てみなくてはいけない、と決心した。外に出てあたりを歩き回り、風景に溶け、なにかを感じなければいけないと思った。この家に籠っている限り、見えないものがある。僕は何かを見落としている。そう、なにか、とても大切なものを……。

 思い返せば、この別荘に来てからというもの、外に出たのはあの男に苦情を言いに行ったあの1日だけである。最初から僕に敵意をあらわにしていた、あの男。

「そうだ」

 彼女はぴくんと身を震わせた。僕の口からまたなにか質問が放たれるのかと、その白い顔を一層白くしている。僕は笑顔を作った。

「そういえば、あの人さ」

 いつも「あの男」と呼んでいたのも、考えてみれば失礼な話だ。僕はヨシノさんへの罪滅ぼしに、彼女の気を引き立たせるような話題を思いついたのだ。

「名前、なんていうの?」

「あの人、とは……?」

「ヨシノさんの旦那さん」

 彼女は話の飛躍に目を丸くしていたが

「省三です」

 答えてから、アッと声を上げ口をおさえた。

「省三って」

 今度は僕が声を上げそうになった。この名に覚えがある。管理人の爺ちゃんと一緒に暮らしていた孫が確か、省三といった。僕より10歳上の、口数の少ない朴訥とした男だった。

「省三って、まさかあの」

「ち、違います」

 ヨシノさんは即座に否定した。そりゃそうだろう。子供のころ遊んだだけだが、今は27になっているはずである。55の彼女の旦那であるわけがない。しかし、あまりない名前なだけに、奇妙な一致だった。

 そういえば、あの省三はどうしているだろう。ヨシノさんは前の管理人である爺ちゃんのことは知っていたようだったが、省三についてはどうだろう。彼は1人、どこに越して行ったのだろうか。

「あ、卵、卵とってこないと」

 ひどく狼狽した様子で彼女が言う。キッチンを出て行こうとした彼女が、不意に振り返った。あの、と、とうもろこし茹でておきましたので、ひとまずそれを召し上がっていてください。その笊に。

 笊の中には、まだ湯気を放っている太くて立派なとうもろこしが積みあがっていた。僕は歓声を上げた。

「これ、あそこの畑でとれるとうもろこしだね! 最高にうまいんだ。子供のころから大好物でさ。爺ちゃんから聞いたの?」

「あ、いえ」

 ヨシノさんの表情が不意に翳った。僕はこのときはさして気にも留めなかった。

「爺ちゃん、もう一度会いたかったな……。まさか亡くなってたなんて」

「亡くなった?」

 ヨシノさんの大きな瞳が僕を射るように見つめた。瞬きもせずに。唇が震えていた……が、それも一瞬だった。彼女は今度こそ本当にキッチンを出て行った。おっとりとした彼女が走る姿を僕は初めて見た。そして白い割烹着は僕の視界から逃げるように消えた。

 どのくらいそうしていたかわからない。電話も鳴らず、来客もないたった1人のこの家で、僕はいつまでも立ち尽くしていた。


 受話器を上げた。家に電話するつもりだった。何がなんだか分からない。もう勉強どころではなかった。自分に一体なにが起きているのか、爺ちゃんが亡くなったのではないならば、今どこにいるのか。孫の省三は。あの男との名前の奇妙な一致は。一体ヨシノさんは何を知っているのか。そして……なぜこの家には、僕の姿を映すものが何一つないのか。誰がそれらを排除したのか。

 ヨシノさんにいくら尋ねたところで、彼女は決して答えてはくれないだろう。しかもそれは恐らく僕のことを思えばこそなのだ……。そう思うと真実を突き止めるのが怖かった。しかし僕はそれをしなければならなかった。

 居間のサイドボードの上に電話はあった。僕は受話器を上げ、耳に当てた。が、聞こえてくるはずの音がしなかった。フックを強く押し、指を離してみたが、かちゃかちゃと耳障りな音がしただけで、発信音はやはりなかった。

 電話線が切れているのか……? 子機を手に取ってみたが、壊れたおもちゃのようにどこを押してもなんの変化もなかった。

 繋がらない。そう思った瞬間、急に恐怖が襲ってきた。東京から離れたこの場所、この家で、僕は今、たった1人だ。明日になればヨシノさんが来てくれる。それはわかっていたが、そのはずだが、しかし本当に来てくれるのか? ヨシノさんという人は本当に存在するのか? この家を去ったまま、もう姿を現さないのではないか。坂を下りたところにあるはずのあの男の家さえ、僕の幻想のような気がしてきた。僕は山の麓というこのだだっ広い場所に、たった1人取り残されてしまったのではないか。

 気付くと家を飛び出していた。裸足のまま、庭を突っ切り坂道を夢中になって駆けていた。両側には気まぐれな人間どもに気まぐれに使われるだけの別荘が捨て置かれたように並んでいた。僕もまるでこれらと同じように「捨てられた」気がして狂ったように駆けた。知った人間はヨシノさんとあの男だけだ。僕の知っている家はあのトタン屋根の平屋だけだ。あの家があそこにもしなければ、僕は……。

 錆びたトタン屋根が目に飛び込んできたとき、僕の喉は声にもならない掠れた音を漏らした。ああ、あの男の家がある。確かにある。それは懐かしさにも似た、奇妙なあたたかい感覚を僕の胸に呼び覚ました。僕はまっすぐに坂を下り、畑を突っ切った。朱色の郵便受けが、脇を通るときカタカタと揺れた。

 そっと庭に足を踏み入れた。鶏小屋は以外にも静かだった。鶏も始終騒いだり走り回っているわけではないのかもしれない。

 夢中で駆けてここまで来たものの、僕は庭の隅で立ち尽くした。まだ息が弾んでいた。薄い網戸の向こうには縁側があり、その先には畳が広がっていた。奥からぼそぼそと話し声が洩れてくる。

「……ないわ」

 ヨシノさんの声だ。しかしそれはいつもの声ではなかった。僕に笑顔で「坊ちゃま」と話すときの明るさはなかった。ひどくくたびれ、鬱屈した響きがまとわりついていた。

「もう、あの家に行きたくないわ」

 今度ははっきりと聞こえた。途端、血の気が引いた。あの家とは別荘のことに違いない。もう、行きたくない、あの家に……。

「うすうす気づき始めているみたいなのよ」

 沈黙があった。僕はじっと立ったまま聞き耳を立てていた。時おり小屋の中で土を蹴る小さな音がした。

「……あの事をか?」

「それはまだ。お爺様のこと、死んだものだと思ってるみたいだし。でも、自分の体のこと……やっぱり17じゃ無理があるわ」

 おじいさまのこと? 死んだものだと思ってるみたい……。この2つの言葉が僕の頭の中で何でも廻った。おじいさま? しかしヨシノさんの祖父など僕が知るわけもない。彼女の前で、爺ちゃんにもういちど会いたかった、まさか亡くなってたなんて、とは言ったが……爺ちゃん……?

「誰だ!」

 奥から男が縁側に躍り出た。身を隠す間もなかった。男は僕を認めると何か言いかけたがその口を無理に結んだ。暗がりを背にした男の身体は膨張したように一層大きく、赤黒い顔の中で目だけが異様に光っていた。僕は立ちすくみ動けなかった。男の後ろで瞳を見開いているヨシノさんの白い顔も、口を開いたまま動けずにいた。が、彼女の口が小さく「坊ちゃま」とつぶやいた。

「……なにが坊ちゃまだ」

 男は僕を憎々しげに見つめたまま吐き捨てるように言った。敵意を剥き出しにした顔にははっきりと僕に対する憎悪があった。

「なんでそんなに……一体なんで僕に」

「ともかく、上がってください。ね。」

 男は背を向けると畳に戻り、どっかと座った。そして湯飲みを呷った。

 僕は束の間逡巡したが、意を決して家に上がった。男もヨシノさんも、僕の問いに対する答えを持っている。そしてそれを明らかにする用意がある、ということだ。僕がここまで来た以上、そして会話の断片を耳に入れてしまった以上、もう隠し通すことはできないと判断したのだろう。僕は真実を知ることが出来るのだ。自ら望んだ……。

 座布団を運んで来たり扇風機の向きを変えたりしてくれているヨシノさんに

「いいから茶でももってこい」

 男がぶっきらぼうに言った。ヨシノさんが出て行くと僕と男は小さなちゃぶ台を挟んで2人きりになった。

「あの」

 男は黙って湯飲みを握り締めている。この男が爺ちゃんの孫だというのか? あの、と言ったまま僕は男の顔を見つめていた。僕が死んだとばかり思っていた爺ちゃんを、ヨシノさんは「お爺様」と呼んだ。僕はその意味を考えた。そこには義理の、という意味が含まれるのだろう。ヨシノさんが爺ちゃんの孫であるはずがない。爺ちゃんの孫は1人だけだ。省三という名の……。

 そういえば目の前の男は省三によく似ている。口数が少なくて朴訥で、いつもぶっきらぼうな物言いをした。爺ちゃんにまとわりついて歩く僕をいつも憎々しげに見つめ、いいや、僕だけじゃない、父や母にも冷たい視線を向けていた。彼はどういう理由からか、僕達一家をひどく毛嫌いしていた……。

 そうだ、間違いない、この男は爺ちゃんの孫の省三だ。僕より10歳年上の。……10歳? ならば今は27の青年のはずだ。それだのにどうだ、この男の老けようは。まるで50男じゃないか。そうだ、ヨシノさんだって55ではないか。省三が27のはずがない。しかし10歳年下の僕は今、17で……。

「お前」

 男がちゃぶ台の向こうから僕を見返した。刈り上げた頭は地肌まで灼けていた。白髪ひげが顎にのび、額には刻まれた皺があった。これが省三だというのか。27の省三だというのか? それとも僕が間違っているのだろうか。僕が? だって僕は、僕は……。

「お前、自分が高校生だと思っているのか」

 省三は湯飲みに喉を湿らせると繰り返した。

「本当にそう思っているのか」

「本当にって」

 何を言っているのかわからない。僕は高3で17で、来年の大学受験のために勉強に来た。それがどうしたというのだ? これは事実だ。そう、事実……?

「お前の両親は東京にいるそうだな」

「ええ、います。東京で医者を」

「一人息子がせっせと勉強に励んでいるのに電話一本よこさないのか」

「そりゃ、そうは思っても忙しいから」

「お前は夏の間だけここで過ごすつもりらしいが、休みが終わったら帰るのか?」

「そりゃもちろん、そうです」

「帰る家はあるのか?」

「え?」

  男は薄笑いを浮かべている。お茶を運んできたヨシノさんが心配そうに僕を見た。

「ついこの間まで住んでた家だ。思い出してみろ。玄関を入ると何がある。間取りはどうだ。病院は、番地は、電話番号は。どうだ、思い出せるか」

 当り前じゃないか。ぼくの家はすぐ隣が病院で、番地は3丁目、6の、6の……いや、それは電話番号か? そにかく玄関を入るとすぐ左は控えの客間で、いつもそこには母の客が、母の……母? 冗談じゃない、あたしはこんな子知りませんよ! あなたが跡継ぎにっていうから仕方なく面倒みただけで、所詮医者になんてどう逆立ちしたってなれるもんですか、こんな出来の悪い子! こんな出来の悪い子! こんな!

「坊ちゃま」

 手に熱いものが触れた。ヨシノさんの手が僕の両手をくるんでいた。彼女のくたびれた白い手の中で、ぼくの手は蝋細工のように色がなかった。

「坊ちゃま、ゆっくりでいいんですよ」

 ヨシノさんが優しく微笑んだ。坊ちゃま、坊ちゃま……。この言葉、この響き、この柔らかさ。僕の耳に、記憶の中に確かに残っている。坊ちゃま、はじめまして。まあ高3? 来年大学を受験されるんですか、都会の方はほんとうに大変ですね……あ、わたくし、志乃と申します。

 志乃さん。志乃……。そうだ、受験勉強をしにこの別荘に来た時、省三はすでに結婚していた。彼の傍らにいたのが彼女だった。初めて会った僕を見て、彼女は柔らかい笑顔を浮かべながら、坊ちゃま、と呼んでくれたのだった。あの時はまだ僕が17で省三が27,彼女はまだ25という若さだった。

 あの時は。じゃあ、今は……?

「お前は受験勉強をするとかでこの別荘に来た。そしてあの事件が起きた」

「あなた」

「今更隠してなんになる」

「隠すって、今更って」

「知りたいか」

 省三が僕の目を覗き込んだ。

「お前は父親に送られてこの別荘に来た。今から30年前の夏の日だ」

 30年?

「いいから聞け。それより一週間前にお前の母親が別荘に来ていた。彼女は彼女で、息子に別荘をひと夏貸し切られる前に、自分の休暇を過ごそうと考えたんだな。で、お前と入れ違いに東京に戻るつもりだった。が、その日は朝からひどい雨だった。そのため東京に帰るのは翌日にし、お前を送ってきた父親と、親子3人が泊まることになった」

 そうだ。3人で泊まるなど珍しい事だった。

 あの日の夜、部屋で勉強していた僕は、雨音にまぎれて玄関のチャイムを聞いたような気がし、手を止めた。じっと耳を澄ます。と、今度ははっきりと聞こえた。父と母がいるはずなのに玄関に出て行く気配はない。気付かないのだろうか。僕は階段を下りて行った。

 その途中で母の声が聞こえ、足を止めた。ヒステリックになにか叫んでいる。階段の途中から廊下の向こうの客間をそっと窺うと、こちらを背にして立っている母の背中があった。今でもはっきりと目に浮かんでくる。

 彼女は突然僕の名を鋭い調子で口にした。気付かれたのかと思い心臓が高鳴った。

「あたしの子だなんて恥ずかしいわ、あんな出来の悪い子!」

 母は父に向って紙切れを投げつけた。それは僕の1学期の通信簿だった。

「あなたが跡取りにっていうから仕方なく面倒みただけで、所詮逆立ちしたって医者になんてなれるもんですか」

「しかし」

「何であんな子もらったりしたのかしら」

 もらった?

「坊」

 耳元にささやき声が聞こえた。振り向くと爺ちゃんがすぐそばにいた。

「さっぱり呼んでも返事がないもんで、入ってきてしまったんだが」

 そう言って客間のほうを窺った。母の声が途絶え、不気味な沈黙が続いている。爺ちゃんの手には茹でた枝豆を盛った新聞紙があった。

「なんかあったのか?」

 爺ちゃんは今の会話を聞いていなかったらしい。僕は爺ちゃんにこんなところを見せたくはなかった。両親が口汚く罵り合う場面を。なんでもないよ、と微笑もうとしたとき

「何よ、あんたが言い出したんでしょう!」

 母のなじるような声が空気を震わせた。

「所詮無理だったのよ、だってあの爺さんの孫だもの出来がいいわけないじゃない。兄なんてあの通り、ろくに挨拶もしないしぶっきらぼうで、花を植えて頂戴って言えば同じ種類の同じ色の花を並べるわ、頭悪いのよあの省三とかいう男。その弟だもの、いいえそもそもあの爺さんの孫じゃ期待するだけ無駄」

(坊ちゃま)

 ヨシノさんが僕を見つめている。涙を流して。唇が震えている。なぜこの人は泣いているのだろう。

「それから僕はどうしたんだろう。まるで記憶がないんだ。その先からすっぽりと抜け落ちたみたいに。確か、何か叫んだような気がするんだけど」

「お前は階段から飛び出すと奇声をあげながら客間に走っていき、テーブルの上の果物ナイフを母親に突き立てた」

 嘘、でしょう? しかし僕は自分の顔が笑みを湛えているのに気付いていた。自分の表情がはっきりと把握できた。僕は笑みを浮かべた顔で省三と向き合っていた。何か楽しい話でも聞くように。信じられなかったからじゃない。快感だったのだ。僕を馬鹿にし何より爺ちゃんを愚弄した母を刺すことが快感だったからだ。もし何かの拍子で彼女が僕の前に再び現れることがあれば、迷わず同じことをするだろう。そして愉悦に浸るだろう。

「お前は母と父を手にかけた。俺は見ていたんだ。爺さんがなかなか戻ってこないから心配になり、あとから別荘に行ったんだ。そして一部始終を、見た」

 僕は両親を殺した。妻に逆らえない気の弱い父親もいてもいなくともどっちでもよかった。そう、僕は両親を殺した。しかし今の今までそんなことはすっかり忘れていた。そうする理由があったのと、僕が殺したのは親でもなんでもない、赤の他人だったからだろう。

「お前が生まれて間もなく両親は事故で亡くなり、俺たちはこの家に引き取られた。まだ赤ん坊のお前に、あいつらは眼をつけた。あいつらには子供がない。病院の跡取りがいない。他人に渡したくないがために、お前を養子にしたいと言ってきた」

「爺ちゃんは、すぐに僕を……?」

 省三は首を振った。

「断られるとあいつらは言った。それなら別荘の管理を他に任す。全く汚いやりかただ。うちがあいつらの管理費なしには立ち行かなくなることを充分知った上でだ」

 坊。久しぶりだったか、元気だったか……。爺ちゃんは僕の本当の爺ちゃんだった……。

「爺ちゃんは? 今どこにいるの、死んでない、んでしょう?」

 ヨシノさんが省三の横顔にそっと視線を走らせた。そしてその瞳を僕に向けた。なにか言いかけたがそのまま眼をふせてしまった。酷くつらそうな表情が僕のまぶたに残った。

「爺さんは生きて、刑務所にいる」

「刑務所?」

「自分がやったと言い張ったんだ。無期懲役だ。お前の身代わりになったんだ。」

 だから、と省三はつづけた。

「俺はお前が憎い。爺さんを殺人犯にしたお前が。今もその事実からにげまわり、現実を見ようとしないお前が。いまだに17のつもりでいるお前がたまらなく憎い。もう2度とそのツラを俺の前にさらすな!」

 立ち上がると省三は部屋から出て行った。

「ヨシノさん」

 彼女はびくっと身を震わせた。

「鏡、ありますか」

「坊ちゃま」

 あれから30年、僕はずっとあの別荘で、翌年に大学受験を控えた17のあの夏にとどまっていたのか。自分の顔を映すもののない空間の中で、電話もつながらない家の中で、1人、時を止めたまま生きていたというのか。

「坊ちゃま……やっぱり止したほうが」

 今にも涙をこぼしそうな瞳で、ヨシノさんが僕を見つめている。ああ、そうだ。あの日も彼女は涙をためながら僕を見つめていたっけ。取り調べが終わり、警察から出た僕を待っていたのが彼女だった。僕を乗せた車は別荘へ……その車中で僕は彼女に聞いたのだ。

(前の管理人さんは?)

 あれが30年前だというのか……?

「やっぱり……止したほうが」

 僕は静かに首を振った。

 手鏡を握り、そっと覗き込む。向こうから1人の男が僕を見ていた。くたびれた白髪と落ち窪んだ小さな眼をもった初老の男が、瞳を震わせて僕を見つめていた。

 


 

 

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ー鏡のない家ー @yukihanabun6776

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