四ノ三 かげおくりの燈 ー死を殺すものー

 翌日、八月十四日の昼過ぎ。

 ソラは鏡見邸二階の一室にいた。目の前には布団が敷かれ、ナユタが横たわって眠っている。

『大門の儀』の最中、幽世から降りてきた手を押し返した彼女は、帳の儀によって門が閉じられると同時にその場に崩れ落ちて意識を失った。

 すぐにサクヤによって霊視が行われたが、どうやら身の丈を超えた力を使ったことで霊力の回路がオーバーヒートを起こしてしまったらしく、すぐに邸内に運び込まれて霊的治療を受け、今に至るまで寝たままというわけだ。

 迅速な処置が施されたおかげで大事には至らなかったようで、ソラが巫女の眼で見てみるとナユタの霊力はもう普段と変わらずきれいに循環している。

(ナユタ……)

 あの時、あの場にナユタがいたから皆が助かった。間違いなくそれは事実だ。境界が閉じられる瞬間に怪異が飛び出してきてしまったものの、あのまま黒い手が地上に降りてきていたらどれだけの被害が出ていたことか。

 ソラは手を伸ばしてナユタの髪に触れた。さらりとした感触が伝わってくる。楔の力を象徴する美しい銀髪。

(もう立派な守護者なんだよ。ナユタは。誰よりも強くて、誰よりも優しくて)

 じわ、と涙で視界が滲んだ。

 こんなになるまで、自分の身も顧みずに頑張って。

 いつもそうだ。ナユタは自分のことなんて考えずに、常に使命のことだけを考えていた。そんな彼女に自分は何かしてやれただろうか。何ができたのだろうか。

(だめだな、私。こんなんじゃだめだ)

 ナユタの髪から手を離し、ごしごしと涙を拭く。今ここでごちゃごちゃと考えていても何にもならない。自分たちにはこれからやるべきことがあるのだ。

「…………ん………」

 ふと、微動だにせず仰向けで眠っていたナユタがもぞりと動いた。動きは徐々に大きくなり、やがてゆっくりとまぶたが持ち上がる。

 ぼんやりを天井を見つめていたナユタは、しばらくして隣にいるソラに気づいて絞り出すように小さな声で言った。

「……ソ、ラ、さん……?……こ、こ……?」

「……おはよう、ナユタ。ここはサクヤさんの家だよ」

 涙声になりそうなのを必死に抑えながら答えるソラ。

「サクヤ、様の?……わたし、は……」

 そこまで言って記憶が繋がったのか、意識がはっきりしたのか、急にはっとしたナユタが矢継ぎ早にソラに質問を投げ掛ける。

「あの、大門の儀はどうなりましたか?あの黒い手は?境界は閉じられましたか?それから、それからあの黒い靄はなんだったのですか?」

「お、落ちついて、ナユタ。順番に説明するから」

 両手でナユタをなだめながら、ソラが説明を始めた。

「まず大門の儀はひとまず完了。祖霊の通行もピークまでは持ちこたえられた。今は界域侵度も下がってきてるみたい。で、あの黒い手は正体不明だけど、ナユタのおかげで幽世に押し返せた。帳の儀も成功。境界も閉じられた。それで、あの黒い靄なんだけど」

 ソラはそこで一旦言葉を切る。あの後、サクヤから受けた説明とその後の動きを思い出していた。

「あの黒い靄は、すぐに三方向に分かれて市内に散らばって飛んで行ったの。サクヤさんの霊視の結果は、存在強度二級から一級の怪異。それから六家の専門部隊に召集がかかって、帳の巫女、深山さんと白泉さんがそれぞれ討伐について行ったんだ」

「二級から一級の怪異……簡単に境界を破れてしまう。だから帳の巫女が同行したということですか?」

 ソラは頷いて答える。

 ナユタはそれを受けてしばらく考え込んでから、また質問した。

「あの、深山さんと白泉さんがそれぞれ、と言いましたけど、怪異は全部で三体飛来したんですよね?」

「うん。そうだね」

「残りの一体は……?」

 ソラは少し目を伏せてから、もう一度ナユタの目をまっすぐに見る。

「結論から言うと、これから私たちが討伐に同行することになってる。他の二体は落着地点が人口密集地に近かったから優先されたんだけど、最後の一体は人気のない霧崎岳の麓に落ちたみたいで。それに昨日召集に応じられた専門部隊の人が二人だけだったみたいなんだ」

「私たちが、ですか?」

「私だけでって言ったんだけどね。病み上がりのナユタは休ませてあげたかったし。だけど……その、楔の力が必要だからって……」

 話しながら徐々に視線が下がっていく。本当はこんなことを言いたくはなかった。ナユタをまるで道具かなにかのように扱う言い草。きっと楔の力が必要だと言えば、ナユタはどれほど傷を負っていても従うだろう。ソラにはわかっていた。

 だが今回の案件は依頼ではなく命令に近い。どれだけソラが抵抗してもナユタをかばうことは困難だろう。それが悔しかった。

「ソラさん」

 ナユタが布団から体を起こしながら、穏やかな声で名前を呼ぶ。ソラは恐る恐る視線を上げ、ナユタの顔を見た。昼過ぎの明るい部屋の中で、小さく微笑んでいる。

「ありがとうございます。心配してくださって。それと、えっと、私は楔として必要とされることを苦には思いません。ソラさんと一緒に戦えるなら、なおさらです」

 その微笑みがひどく儚く見えて、ソラの胸はぎゅっと締め付けられた。

 やっぱりそうだ。やっぱりナユタはそう言う。だけどそうじゃないんだ。ソラは思う。ナユタには自分を大事にすることを知ってほしいと。楔としてではなく、千司ナユタという一人の人間として自分を尊重してほしいと。

 ――だから。

 ソラはナユタのほうに思い切り身を寄せると、そのまま上半身を抱きしめた。寝起きの体温と柔らかな匂いが伝わってくる。

「そ、ソラさん……?」

 どうしていいかわからない。何と言えばいいかわからない。そして、自分でもどうしてナユタを抱きしめているのか、よくわからない。だけど、放っておけなかった。

 古戦場跡、廃ビルの異界、『黒い人』事件、そして大門の儀。全部ナユタがいてくれたからどうにか切り抜けてこられたものばかりだ。それは楔の力があったからだけではない。ナユタが隣にいたから、二人が一緒だったから乗り越えてこられた。

 出会った時、巫女様と自分のことを呼んで、それに仕えることが使命だと語っていたことを思い出す。振り返れば一ヶ月と少し前なのに、ソラには遥か昔のように思えた。もう二人は対等な友人であり、パートナーなのだ。そうナユタも思っていてくれたらいいのに。ソラは願わずにはいられなかった。

「ナユタ、私ね――」

「あ、あのー……」

 突然後ろから聞こえた声に、ビクリと体が飛び跳ねる。ソラは弾かれるようにナユタから体を離し、入口の襖のほうに振り返った。

 見ると、そこには心底申し訳無さそうな顔をしたカヤが、ボストンバッグを持って立っている。

「か、カヤさん……!ど、ど、どうしたんですか?」

「え、えーと、お呼びしてもお返事がなかったので……ソラさんのご家族からお荷物を受け取って来ました。お着替えとおばあさまの護符が入っているそうです。お着替えは二人分入れてあるので、ナユタさんはソラさんのお洋服を使ってください、とのことでした」

 そう言って部屋の中に入ってきたカヤは、ソラの隣にボストンバッグを置いた。一瞬、自分の服をナユタが着られるかと不安がよぎったが、考えてみたらソラのほうが少し身長が高いくらいで体格はほとんど変わらない。

 それと祖母の護符。おそらくは対怪異を想定したものを用意してくれたのだろう。積極的な攻撃手段を持たない帳の巫女と楔にとって、護符は数少ない貴重な護身用具になる。

「それとこれは業務連絡です。『もがり』の最後の一人が到着しました。お二人とも準備ができ次第、正門前にいらしてください。えっと、それから、その……お邪魔しました!」

 そう言うとカヤは頬を赤らめながらぱたぱたと小走りで去って行ってしまった。



 ◇



 着替え終わった二人が鏡見邸の門を出ると、そこにはいつか見た四駆が停まっていた。

「やあ。久しぶりだね」

 運転席から降りてきた刀城がソラとナユタに片手を上げて挨拶する。最後に会ったのは『黒い人』事件の時だから、もう三、四週間振りくらいになるだろうか。相変わらずポロシャツにチノパンの格好をしている。

「お元気そうでなによりです」

「ご無沙汰しています」

 ソラもナユタもそれぞれに声を掛ける。

「いや、今回は大変なことになったね。協定条項に基づく『殯』の召集なんて滅多にあることじゃないから、藤花台中も大騒ぎだよ」

 先程までににこやかな表情から一変、深刻な顔つきになった刀城が言った。

「あの、刀城さん。『殯』というのは」

 ナユタがおずおずとした調子で訊く。ソラは昨晩のうちにすでに説明を受けていたが、ナユタは寝込んでいたため何も知らされていなかった。

「サクヤ様から聞いているかもしれないけど、六家自体には怪異に対する戦力はないんだ。だからその地域で活動する退魔師や除霊師と、必要な時に力を貸してくれるように協定を結んで部隊としてまとめ上げている。これを正式には六家怪異討滅同盟衆、通称『殯』と呼んでいるんだ」

「なるほど……カヤさんがその最後の一人が到着されたとおっしゃっていました」

「ああ。僕が連れてきたよ。おーい」

 刀城は車のほうに首だけ振り向くと声を掛けた。すると助手席のドアが開く音がして、誰かが降りてくる。その誰かはフロント側から回ってくると、刀城の隣に立った。

 その姿にソラもナユタもあっけにとられる。

「紹介するよ。彼は六家と協定を結んで力を貸してくれている『殯』のメンバーの……」

 なぜなら、その彼はぱっと見たところ二人とほとんど歳が変わらない少年だったからだ。

「……崎守さきもりツカサ。舞原高一年。よろしく」

 ぶっきらぼうに最低限の自己紹介をする半袖シャツとジーンズ姿の少年。身長は刀城とほぼ同じくらいで、ソラとナユタより頭ひとつ大きい。少し目にかかるくらいのミディアムヘアの奥の瞳は気だるそうにも物憂げにも見えた。その雰囲気や細身の体躯から、どことなく文学少年のような印象を受ける。

 が、ツカサの自己紹介にはソラにとって看過できない重要な情報が含まれていた。

「え、舞原高って!?私も!私一組だけど」

「……俺は四組。遠いから会わなかったんだろうな」

 まさか殯の最後の一人が高校生で、しかも同学年で、おまけに同じ学校だったなんて。てっきり怪異討伐の専門家というから、さぞいかつい人物が来るだろうなと想像していたのに。

「二人は同じ学校の同学年だったのかい?これはまた偶然だね。まあともかく崎守君は藤花台の殯の中でも一目置かれる存在だから、そのへんは安心していいよ」

「そうなんですね……。あ、私たちも自己紹介しなきゃだね」

 ソラはナユタのほうを見て言った。ナユタも頷く。

「私は常磐ソラ。もう言っちゃったけど舞原高一年。帳の巫女。よろしくね」

「千司ナユタと申します。私は藤花台二中の三年で、楔です。よろしくお願いします」

 笑顔で自己紹介するソラと、丁寧にお辞儀するナユタ。ツカサは二人に「ああ」とだけ短く答える。それからナユタをじっと見つめて言った。

「楔。噂には聞いたことがあったけど、実在したんだな。よろしく」

「はい。よろしくお願いします」

 少しだけ柔らかい表情になったツカサの言葉に、嬉しそうにナユタが答える。そのやり取りを見てソラは胸を撫で下ろした。楔であるナユタが奇異の目で見られることを危惧していたその心配が杞憂とわかったからだ。ツカサはソラが想像していた以上に柔軟性のある人物なのかもしれない。

 そんなことを考えていると、ツカサが今度はソラのほうに視線を向けた。黙って見つめている。帳の巫女なんて珍しくないだろうに、何か気になることでもあるのだろうか。そう思っていたソラに向かって、ツカサは予想もしなかった言葉を寄越した。

「……あんた、本当に帳の巫女か?」

 一瞬、思考が空白になる。言っていることが理解できない。

「なにそれ。どういう意味?」

 むっとしてソラが言い返すと、ツカサは慌てる素振りも悪びれる様子もなくさらりと言った。

「いや、気のせいだ。なんでもない。気にしないでくれ」

「まあまあ。ともかく今は時間があまりない。全員車に乗ってくれるかい。道すがら状況を説明するよ」

 ソラとツカサの仲裁をするかのように刀城が声を掛けた。ソラはまだどこか不満気だったが時間がないのは確かなので、刀城の言葉に従って車の後部座席のドアを開けて乗り込む。ナユタもそれに続いた。ツカサは最初に降りてきた時と同様、助手席に乗る。



「まず現状を説明するよ。昨日のうちに殯と帳の巫女の二組がそれぞれ向かった先では、すでに怪異の討伐が完了している。境界に穴を開けられたが、急行したおかげで比較的小規模で済んだようだ。人的被害も報告されていない」

 車を走らせながら刀城が話す。内容を聞くに、今のところ状況は良さそうだった。境界に穴を開けられたということは、やはり帳の巫女が同行したのは正解だったようだ。

「それでここからが重要なんだ。これから向かう霧崎岳にいると思われる怪異が最も存在強度が高い。推定一級。単独で侵度六程度の境界損傷を発生させられる程度の怪異だ。推定落着地点は霧崎岳麓の旧伊弐工業の廃工場。これからそこに向かう」

 存在強度。それは現世における存在の確かさを示すと同時に、怪異としての脅威度を表すスケール。一級はその中でも最上位に位置するということを意味する。

「存在強度が最も高い怪異……私たちで対処できるでしょうか……?」

 不安げな声でナユタが言った。

「そのために俺が呼ばれた。それにあんたたちもいるわけだし。怪異は俺に任せて、そっちは境界に対処してくれればそれでいい」

 ツカサは前方を見据えたまま、静かに言う。確かに怪異に対抗するのが殯の役目ではあるし、帳の巫女も楔も基本的に戦う手段を持っていないから、ツカサの言うことは正しい。正しいのだが。

「相手は最上級クラスの怪異だよ?一人で対処できるの?」

 決してツカサを侮っているわけではないのだが、ソラはどうしても不安だった。たった一人でサポートも要らずに怪異に対処するとツカサは言っているのだ。

「ああ、たぶん問題ない。理由は……まあ、おいおい説明するよ」

「……そう。わかった」

 納得はしていないが、そう言われてしまってはそれ以上訊くこともできない。ソラは不承不承といった感じで答え、口をつぐんだ。それきり車内は静まり返り、ただエンジン音と道を走るタイヤの音だけが響いている。

 その中でソラは考えていた。

 もし仮に侵度六の境界損傷が発生したともなれば、それはソラが通常使っている祝詞では対処できない規模だ。より大規模な術式か、複数人での儀式が必要になる。だが今回帳の巫女はソラ一人。もしもの時は強力な祝詞を使うほかないだろう。そうなれば当然、それなりの代償は覚悟しなくてはならない。

(ナユタは体を張ってみんなを守ったんだ。今度は私が……)

 そこに迷いはなかった。ナユタがそうしたなら、次は自分が使命をまっとうする番。ただそれだけのこと。それにこれは、この街を守るという自分の意志でもある。

「三人とも、もうすぐだよ」

 いつの間にか車は舗装された山道を登っていて、折り重なった坂の向こうには目標地点の廃工場と思しき建物が見えた。



 刀城は廃工場の敷地の少し手前で車を停めると、三人のスマートフォンに廃工場の見取り図を送った。異界化している可能性もあるから必ずしも役に立つとは限らないが、あるに越したことはない。

「僕はここでいつでも車を出せるように待機している。あとは君たちに任せた。頼んだよ」

 三人はそれぞれ頷いたり短く返事をしたりして答えると、車を降りた。ツカサはそのまま車の後ろに回ると、バックハッチを開け放つ。トランクにはギターケースが置かれていた。彼はそのファスナーを開けると、中から出てきたのはギターなどではなかった。

「そ、それは……?」

 ソラが思わず困惑した声を上げる。

 鞘に収められている鍔の付いた刀。要素だけ抜き出せば普通だが、見た目が明らかに異常だった。鞘と柄には元の地の部分が見えないくらいにぎっしりと御札が貼られている。それが鞘と柄の表面の凹凸に馴染むくらいになっているから、相当昔から入念に重ね貼りされてきたであろうことが窺えた。

「これが俺の武器。うちに代々受け継がれてる刀、『穢刀えとう』だ」

 ツカサはそれを手に取ると、バックハッチを閉めて廃工場に向かってすたすたと歩き始めた。ソラとナユタも慌ててそれに続く。

 ひび割れたコンクリートの地面の先には、鉄の怪物の死骸のように廃工場が横たわっている。ソラはスマートフォンをポケットから取り出して、今しがた刀城から受け取った見取り図を見る。そこには簡単に工場の説明が書いてあった。

 旧伊弐工業、藤花台北工場。今はすでに倒産した重機メーカーの工場で、ここではその大型の部品を製造していたらしい。そのことから工場内もかなりの広さがある。

「工場、かなり広いね。私が巫女の眼でナビゲートする」

 巫女の眼であれば、通常の霊視よりも高精度で怪異の痕跡を辿ることができるはずだ。ツカサもそれには賛成のようだった。

「わかった。ナビは常磐に任せる。千司は常磐と自分にだけ力を展開していてくれ。常磐もだ。二人とも俺に浄化の力を向けないようにしてほしい」

「あの、それはどういうことですか?」

 それは当然の疑問だった。怪異との戦闘では当然浄化や結界が必要になるはずだ。それが要らない、というかむしろ邪魔とでも言いたげなツカサの物言いに、ソラもナユタも怪訝な表情を浮かべた。

「それは俺の能力と関係があって」

 道路と廃工場の敷地の境に掛けられた鎖をまたぎながら、ツカサが話し始めた。

「俺は他の殯の連中から『呪い喰い』ってあだ名付けられてんだ。えーと、つまり俺は穢れを――」


 言い終わるより早く、異変が起こった。

 目の前の空間にじわりと滲み出すように不定形の影が浮かび上がる。

 ツカサは咄嗟に抜刀しようと構えたが、蠢く影のほうが圧倒的に速かった。


 ぞわぞわぞわ、と。

 影を中心に視界を埋め尽くすほどの黒い靄が噴出し、あっという間に三人はなすすべなく黒に飲み込まれてしまった。



 ◇



「ナユター。崎守くーん」

 コンクリートの通路にソラの声が虚しく響く。

 黒い靄に飲み込まれた後、気がついたらすでに廃工場内のどこかにいた。二人の姿はなく、どうやら散り散りにされてしまったらしい。おまけにあたりを巫女の眼で見たところ、内部は案の定異界と化していることがわかった。

 周囲の境界は不安定ではあるが、ひとまず修復するほどのものではない。今は二人との合流を急がなければ。

 異界化した影響なのか、電気が通っていないはずの廃工場内の廊下の蛍光灯は赤く光っている。無機質に広がるその風景に、いつかの廃ビルの異界を思い出した。

(見取り図は……使えないな。とりあえず外を目指すか)

 ソラは左手にはめているサクヤのブレスレットに霊力の回路を接続した。これで常時巫女の眼を発動していても、肝心な時に霊力切れを起こさないで済むはずだ。異界では何がどこから現れてもおかしくない。それを察知するために巫女の眼は常に使い続ける必要があった。これは廃ビルの経験から得た教訓でもある。

(二人とも無事だといいんだけど……)

 ツカサは殯として怪異と戦う力があるが、境界に穴が空いていたら対処ができない。ナユタはある程度空間を浄化できるが、怪異に立ち向かうことはできないし、ツカサと同じく境界の損傷を前にしては無力だ。一応ナユタにも祖母の作った護符は渡してあるが、それでなんとか切り抜けてくれればいいのだが。

 特にナユタは霊的治療を受けたとはいえ、まだ病み上がりの状態。そんな彼女が一人でこの異界を彷徨っている姿を想像しただけでぞっとする。すぐにでも合流したいところだ。

 そんなことを考えながらソラは通路の角を曲がり、目の前に現れた上へ続く階段を登り始めた。相変わらず照明は不気味に赤く通路を照らし出している。

(そういえば崎守くんはなんて言おうとしたんだろう)

 ツカサが言いかけた自身の能力。確か『呪い喰い』のあだ名がどうとか、穢れがどうとか。それにあの刀。どう考えても普通ではない。おそらく呪物の類だ。だとすれば呪術を操るスタイルの戦闘法なのだろうか。だから浄化や結界が邪魔なのだろうか。

 考えを巡らすが答えは出ない。

 階段を登りきると、先程よりも広い通路に出た。前方に続く道と右に続く道で分岐している。ソラは巫女の眼でその両方を見てみるが、特にどちらにも変わった様子はなかった。少し迷ったが、前方の道をまっすぐ歩き始める。



 だが、通路を五十メートルほど進んだところで。

 目の前に黒い水たまりを見つけた。

 それは赤い照明で黒く見えているのではなくて、が溜まっている。

 巫女の眼はそれをはっきりと捉えた。濃縮された穢れだ。慌てて引き返そうとしたが、振り返った視線の先、天井からどろどろと同じものが垂れてきている。

「くっ……」

 再び前方に視線を戻すと、穢れの水たまりの中からゆっくりと黒い人の形をしたものが這い出してくるのが見えた。それは通路を塞ぐようにソラの頭二つ分くらい上まで伸び上がると、目を開いた。その目は頭の先から足の先まで体全体にびっしりと付いていて、全部がぎょろぎょろと動いている。

 左手のブレスレットが強烈に熱を持つのを感じた。一歩後ずさって後方を見ると、後方には穢れのヘドロで出来た壁が出来ていて、そこにもぎっちりと目がひしめきあっている。退路は絶たれてしまった。

 ソラはばくばくとうるさい心臓を落ち着かせるために深く息を吸うと、両手を勢いよく合わせて結界を張る。まずは初手の防御から。怪異から飛んでくる呪詛や念の類をすべてこれで弾く。

 そしてショートパンツのポケットに束で入っていた祖母の護符を四枚取り出した。

 そうこうしている間にも目の前の怪異はぐちょりと嫌な音を立てながら近づいてくるし、後ろからはコンクリートを引っ掻く嫌な音が聞こえてくる。おそらく後ろの壁も近づいてきているのだろう。

 目の怪異から呪詛が飛んできた。

 それは結界にぶつかりまるで腐った果実が落ちてきたかのように不快な音を立てて潰れ、結界を部分的に侵食し始めた。

(まずい……!)

 すぐに手に持った護符に霊力を流し込む。すると護符に描かれた文様が金色に発光し始め、和紙とは思えないほどしっかりとした感触になった。

 ソラは四枚の護符をフリスビーを投げる要領で、目の前の怪異に向かって束のまま投げつけた。ただの紙であればひらひらと落ちてしまうが、霊力の通った護符はまるで矢のように怪異に向かって飛んでいき、空中で四枚に別れた。

 護符は怪異を囲うように空間の四隅に向かって広がり、それぞれが金色の光の線を伸ばして繋がって、立方体を作った。

 結界に封じられた怪異はそれを破ろうともがくが、立方体は徐々に小さくなり始める。みるみるうちに怪異は結界ごと圧縮されていき、ぎちぎちの黒い塊になった。

(これ……結界術の応用か!)

 だがまだ圧縮は止まらない。

 最後にはパアンと音を立てて結界は怪異もろとも弾け飛び、後には黒い塵の跡だけが残った。

 ほっと息をつく。

 だがそれも束の間。後ろの壁は今も迫ってきている。

 ソラは開けた道を全力で走り始めた。



「はあっ……はあっ……」

 それからどれくらい走っただろう。後ろを振り返る。あの壁はもうない。ひとまず切り抜けることはできたようだ。

「はあー」

 立ち止まって息を整える。

 あの怪異、おそらく存在強度一級の本星に引きずられて入り込んできたものに違いない。怪異同士は存在強度を高めるために群れることもあると聞いたことがある。それが異界ならなおさらだ。

 とりあえず祖母の護符が役に立ってくれた。常磐家は代々結界術に秀でた家系だとは聞いていたけど、まさかあんな芸当ができるなんて。あれなら帳の巫女でも立派に怪異に対抗できる。

「ふう」

 祖母の護符はまだ数がある。効果のほどは先程の戦闘で実証済みだ。自分の身くらいは守れることがわかった。ナユタも同じものを持っているから、たぶん大丈夫。そう信じたい。

 そう考えながら再び歩き始めて、通路の角を曲がろうとした。


 その時だった。


「わっ」

「きゃっ」


 何かとぶつかった。

 慌てて身を引き、護符を取り出して構える。


「ソラ、さん……?」

「え……ナユ、タ……?」


 黒から銀のグラデーションのボブヘア。自分の普段着ているロゴTとショートパンツを身に着けているその姿は、間違いなくナユタだった。

 かく、と肩の力が抜ける。護符をポケットに仕舞いながら訊いた。

「大丈夫?ナユタ。無事?」

「はい、なんとか。ソラさんもご無事でなによりです」

 霊力の循環は病み上がりのせいかいつもよりは弱いが、しっかりナユタ固有の霊力が流れている。大きな消耗はしていないらしい。ひとまずは安心した。

「崎守くんには会った?」

「いえ、私もお二人を探していたところで」

 少しほっとしたような声音でナユタが言う。ソラに会えたことでナユタも安心したのだろう。

「とりあえず上、っていうか外を目指そうと思ってて。たぶん入口まで戻れば会えるんじゃないかって思ってるんだよね」

 入口。あの黒い影が現れた場所。確信はないが、元いた場所に戻れば集合できるような気がしていた。ツカサもおそらくは合流を考えているだろう。異界の中でもっともわかりやすい場所といえば、やはり外だ。

「確かにそれがいいかもしれません。上に続く階段がさっきあったので、そちらに行きましょう」

 ナユタは柔らかく微笑むと、ソラを先導するように自分がもと来た道を引き返し始めた。ソラも頷いてそれに続く。二人は真っ赤な光で溢れる通路を歩き始めた。

「思い出しますね。廃ビルの異界のこと」

 通路を曲がった先、階段に足を掛けながらナユタが言った。

「奇遇だね。私も同じこと考えてた」

 ソラも階段を登りながら答える。

「あの時はソラさんに助けられました。あの肉塊のような怪異に捕まって、言われたんです。『お前はもらう』『使われるためだけの命』だって」

 思い出したくないが、しっかりと覚えている。ナユタを軽んじ、侮辱する言葉。ソラは許せなくて、体中を怒りが支配して、それで奥底から湧いてきた力で怪異を殴り倒した。

「でも私、ああいうことを言われたのは初めてじゃないんです」

「え……」

 なんでもない世間話をするようなふうにそう言ってのけるナユタに、ソラの思考と感情が追いつかなくなる。初めてじゃない?じゃあ誰に?いつ?

「私の部屋の呪詛を覚えていますか?」

「う、うん」

 忘れるわけがない。一歩間違えれば命を落としかねない危険な修練。

「あれをさせていたのは私の父親です。私の父親は私の力を伸ばすと称して、呪詛を使った修練をさせていました。実家にいた頃は直接父から呪詛を飛ばされたこともあります。それで寝込んで何日も学校を休んだこともありました。それを怒られたこともありました。お前が弱いからだと」

「――――」

 言葉が、出てこない。

「母親からはこう言われたこともあります。あなたは巫女様のための道具にすぎない。それをわきまえなさい、と。人並みの人生など望んではならない。人間としての生など願ってはならない。楔とは帳の巫女の儀式道具であり、そうであることが至上の喜びなのだから、と」

「ナ、ユ――」

「私には姉もいました。ですが姉に楔の力はありません。だから両親は姉のことを一族の使命を果たせない役立たずとして関心を向けようともしませんでした。だから姉は力を持っていて、両親から関心を向けられている私を憎んでいました。そして自分なんていなければよかったといつも嘆いていました。私はそんな姉の言葉を毎日毎日聞かされる日々を送っていたのです」

 饒舌に語るナユタと対照的に、重く沈黙したソラは階段を登りきる。

「だからソラさんの家に招かれて、ご家族に初めてお会いした時、私は別の世界に来た気がしたんです。あんなに温かくて、穏やかで、優しい世界で生まれて育ったから、ソラさんはソラさんなのでしょうね。私なんかと違って」

「ねえ、ナユ――」

「私は楔の力を持って生まれたこと自体は後悔していません。許せないのは、あの家族のところに生まれてしまったこと。なによりも、あの親のもとに生まれてしまったこと。それが許せないんです」

 ナユタは笑っていた。笑いながら怨嗟の言葉を吐いている。これまで胸のうちに秘めてきた感情のすべてを、境遇のすべてを、ソラに向けて懇切丁寧に語った。

 ソラにはその意図がまったく読めない。

 ナユタの独白の間も歩き続けていた二人は、いつの間にか地上に辿り着いていた。トラックや重機が出入りできそうな、かまぼこ状の建屋。その大きく空いた口からは夕焼けの風景が見えた。

 ナユタはてくてく歩いていくと、夕焼けをバックにソラのほうに振り向いて言った。

「行きましょう。ソラさん」

 左手を差し出す。

 ソラは黙って差し出された左手を見ていた。そして大きくため息をつく。どうしてこんなことになってしまったのか。なんでこうならなければいけなかったのか。それはナユタの過去に対してではない。今、目の前で起こっていることに対してだ。


 ソラは怒りで震えだしそうな体を抑えながら、言った。

「もう、やめよう。こんなことは」

「ソラさん?何を――」


 次の瞬間、ナユタの左側から銀色の風が吹く。その直後、彼女の左手は上腕部の途中からすっぱりと切断された。

 ごろりとコンクリートの地面に転がったナユタの左手に、サクヤのブレスレットははめられていなかった。そして血の一滴も出てはいない。


 ナユタはぽかんとした表情で腕の切断面を見ている。


「すまん。遅くなった」

 ナユタの腕を切り落としたツカサは、刀を構えたままソラをかばうようにナユタの正面に立った。ソラはツカサの後ろに下がると、俯いて答える。

「ううん。ありがとう。助かった」

「ソラさん……?崎守さん……?どうして……」

 ナユタは不思議そうに首を傾げながら、二人のほうを見つめている。臨戦態勢のままのツカサの後ろで、顔を上げたソラが怒りに震える声で言った。

「ナユタを……どこへやった……」

「私ですよ?ソラさ――」

「黙れ!それ以上ナユタの姿を、ナユタの記憶を弄ぶな!」

 ソラの怒りが爆発したそのほんの一瞬、彼女のブラウンの瞳の奥にゆらりと緑の光が揺らめいた。誰も気づかない、ただ一瞬のことだ。

「常磐、これ以上は無駄だ。討伐を始める」

 ツカサがなだめながらも、覚悟を決めた口調でソラに向かって言う。ソラはツカサの言葉を聞くと後ろを振り返り、一気に走って距離を取った。ツカサも同時に後ろに下がり、十メートルほどの距離を取ってと正対する。

「あーァ、喪ッ゙た位ナい無ァ」

 ナユタの姿をしたものは崩れた言葉で何かを言うと、姿を変え始めた。肌は溺死体のように青黒く、背丈はツカサと同じくらいに伸びる。頭部は肩幅まで横に膨れると、そこにまるで縁日のお面屋のように無数の小さな顔が現れた。

 ツカサが切り落とした左腕は肉がぶくぶくと盛り上がって修復され、指のない瘤のような形になる。

「常磐!」

 変異した、いや元の姿に戻った怪異を前に、ツカサがソラに大声で呼びかける。

「結界張って身を守れよ!言った通り、俺のことは除外してくれ!」

「わ、わかった!」

 両手を結んで結界を張る。

「こいよ。相手してやる」

 ツカサが冷淡な顔で言い放つと、頭部の無数の顔が一斉ににいっと笑った。

 次の瞬間。

「な……これは」

 ソラが思わず言葉を失う。怪異の背後に現れたのは、今まで見たこともないくらい巨大な境界の穴。高さ十メートルはあろうかという建屋の地面から天井まで届く大きさだ。これが侵度六相当の境界損傷ということか。

「大した奴だな。すぐに幽世に戻してやる」

 そう言うとツカサは刀を両手ではなく片手で構え直した。怪異は右手で投球するようなフォームで、黒い物体を投げつけてくる。穢れだ。

 しかしツカサは避けるどころか空いた片手で穢れを掴むと、おもむろにそれを口に運び始めた。

「な……」

 絶句するソラ。一口で穢れを飲み下したツカサは、涼しい顔で相変わらずそこに立っている。怪異はさらに右手をかざして穢れを霧状に放った。今度はあろうことか両手を広げて胸元をがら空きにし、そこで穢れをすべて受け止めている。

「おい、ふざけんな。何が一級だ。足りねえぞ、こんなんじゃ」

 ソラは巫女の眼の活性を上げ、遠くにいるツカサの体内を霊視した。信じられないことに穢れが霊力と混合され、怪異のそれとは別の穢れとなって巡っている。

(呪い喰いって、そういうこと……!?)

 怪異は左手の瘤を突き出し、ツカサに向かって突進してきた。さすがに今度は物理攻撃だ。ツカサは両手で刀を構え直すと、軸足の反対を後ろに引いた。突っ込んできた怪異を左のステップで回避し、避けざまに脇腹を斬りつける。怪異はそのままつんのめるように倒れ、勢いで一、二メートル地面を滑った。

 斬られた脇腹からは血の代わりに穢れが漏れ出し、それはツカサが手をかざすと掌に吸い寄せられるように集まっていき、体内に吸収されていく。

 怪異の傷はすぐに周りの肉が沸騰するように泡立って、やがて塞がってしまった。むくりと立ち上がった怪異はツカサのほうに向き直ると、今度は頭部にある無数の顔の口を開き、一斉に穢れやら呪詛やらを飛ばし始める。

 ツカサは刀身を目の前で横に倒すと、それらをすべて受け止め始めた。ソラが巫女の眼で見ると、サクヤのブレスレットと同じように、あの刀もツカサの霊力回路とつながっているようだ。

 その刀を通してツカサはまた穢れと呪詛を己の中に取り込んでいた。そして取り込んだそれらを別の呪いに変換している。ソラには直感的にわかった。おそらく今はまだ準備の段階だ。

 今度はツカサから動いた。刀身を倒して切っ先をまっすぐ怪異に向け、突っ込んでいく。

(真正面から!?)

 しかしツカサは怪異の懐に入るすんでのところで思い切り跳躍し、驚くべきことに怪異を飛び越えた。跳躍の瞬間、彼の足元から白い光が散る。何かの術式を組み込んでいたのだろうか。

 怪異の背後に着地したツカサは振り向きざまに一閃。横一文字に怪異の背をばっさりと斬った。一瞬の後、大量の穢れが噴出してくる。当然、それはすべてツカサに吸収されて糧になった。

 さらにもう一閃。今度は背中の正中線に沿って斬る。そしてまた噴出した穢れを吸収するツカサ。

「なんだよ。出せば出るじゃねえか。おかげで足りたよ」

 そう言うとバックステップで怪異と距離を取り、刀を構え直す。ソラはまた巫女の眼でツカサを見た。体内で混合されていた霊力と怪異由来の穢れは、完全にツカサが生成したと思われる呪いに変化している。たぶん、準備が整ったのだ。

 変化はすぐに現れた。

 刀の刀身が根本から徐々に黒く染まっていく。呪いが循環するツカサの霊力回路と直結した刀。今のあれば正真正銘の呪物だ。

 境界の穴を背に、怪異が振り向く。

 次の瞬間、間髪入れずにツカサが両足に仕込んだ術式を使って加速し、怪異の懐に飛び込んだ。そのまま右腰から左肩に向けて逆袈裟に斬る。その斬撃は先程までとはまるで違う。怪異の穢れを上回る呪いの力。それを受けた怪異の体はざっくりと深く抉られるように斬られ、泡立つようにして行われていた修復も始まらない。

 ただぎゃあぎゃあと幾重にも重なる不快な喚き声を撒き散らしながら苦しんでいる。

 だが、しばらくすると背後の境界の穴から幾筋もの黒い帯状のものが怪異に伸びてきてその背中につながった。途端に斬撃の傷は塞がり始め、あっという間に修復されてしまう。

「チッ」

 ツカサは一旦距離を取って、今度は跳躍して正面の正中線を上から狙う。斬撃は正確にヒットし、頭部はぱっくりと割れて胸のあたりまで左右に裂けた。しかしそれもつかの間。先程と同様、まるで逆再生のように胸と頭部が元通りにつながる。

「常磐!」

 怪異から距離を取ってから、ツカサがソラを呼んだ。

「奴は幽世から力を補給してる。このままじゃ埒が明かない。境界を閉じてくれ!」

 境界の穴は推定侵度六。しかし他に打開策はない。もとより覚悟は決めてきた。

「わかった!境界はなんとかする!怪異は任せた!」

 ソラは巨大な境界の穴にまっすぐ視線を向ける。どこまでも続く草原と星空。幽世。死者の世界。ここにあってはならないもの。ここで終わらせなくてはならないもの。両手を広げて境界の穴に向ける。半永久機関であるサクヤのブレスレットの霊力も使い、文字通り自身の持てるすべての力を使って帳の儀を始めた。

現世幽世うつしよかくりよを分かち給いし大神よ、始まりと終わりの神々よ」

 祝詞の奏上が始まると同時に、ツカサも戦闘を再開した。回復するならそれを上回る速度で斬り続ければいい。一気に加速して刀を振り下ろし、右腕を切断する。切断面から穢れを吸収しつつ、間髪入れずに刀を振り上げて脇から肩までを斬り裂く。

「今ここに我が身を捧げ、帳を下ろし、閂を掛け奉る」

 そのまま脇腹を蹴り飛ばし、よろけた怪異の背中につながる黒い帯を切ろうとするが、実体を持っていないのか、呪いとは別種の何かなのか、とにかく刃は素通りしてしまった。

現世うつしよ幽世かくりよの境を清め、穢れを祓い、神聖なる空を保たん」

 斬ったところからどんどん穢れは集まってくる。おかげで臨界量を超えた呪いが生成できていた。切断した右腕と脇の傷はすでに修復が始まっているが、そんなことはお構いなしに右足の脛を切断する。バランスを崩した怪異が倒れ込んできた。

「黒き光の出でしことを許さじと、我が祈り、聞き届け給え」

 ちょうどよくその気色悪い頭部を見下ろす形になったので、刀を突き立てて横一閃に引き裂いた。ぎゃあという合唱が耳障りだ。右腕の修復は完了したらしく、片足を失ってなお両手で立ち上がろうとしている。

「清き風よ、界の乱れを断ち切り、ここに帳を下ろさん」

 帳の儀が進行しているのか、境界の穴が徐々に小さくなっていくのが見えた。それと同時に怪異の背中につながっていた帯が一本、また一本とちぎれていく。

「畏み畏みもうす」

 ソラがその一節を唱え終わった瞬間、境界の穴は中央に吸い込まれるように完全に塞がった。幽世から怪異に伸びていた黒い帯も、もうない。

 顔が裂けた怪異は、左足とかろうじて修復が始まっていた右足に右手を添えてなんとか立ち上がろうとしていた。その無様な様子をツカサは冷たい眼差しで見下ろしながら、体内を循環する呪いの回転数を最大化する。そしてその力のすべてを出力装置である刀に乗せると、一気に振り下ろした。

 ソラの巫女の眼には、黒い斬撃が怪異を飲み込んだのがはっきりと見える。


 穢れを上回る呪い。

 跡にはもう、何も残ってはいなかった。


 さあっと幕が上がるように夕焼け空が青空に戻っていく。

 そして見つけた。ちょうど境界の穴があったあたりに、その姿を。

「ナユタ……!……ぐ……ぅ」

 駆け寄ろうと一歩踏み出したソラの心臓に痛みが走る。強力な祝詞を使った代償だ。胸を押さえながらゆっくりと歩み寄った。ツカサはどこからか刀の鞘を持ってきて黒く染まった刀身を納刀しながらナユタに近づいていく。

 倒れているナユタの左手には、しっかりとサクヤのブレスレットがはめられていた。だが巫女の眼で見ると霊力がほとんど底を尽きかけている。

「擬態のために千司の霊力の大半を奪ったんだろうな。早く鏡見さんのところへ行かないと」

 霊力とは生命エネルギーであり、それが尽きることは命が尽きることと同義。今のナユタはこれまでとは比較にならないくらい危険な状態なのだ。

「刀城さん呼んできて。サクヤさんのところに着くまで、私がナユタに霊力供給する」

「できるのか?そんなことが」

 ソラは左手を挙げてブレスレットをツカサに見せた。

「これはサクヤさんの霊力が流れてる半永久機関で、これを通せば他人に霊力を適合するように変換できる。ある程度はね。だから大丈夫」

「それは……わかったけど。あんたの霊力は大丈夫なのか?あれだけ大規模な帳の儀の後だろ」

「やるしかないの!ナユタは絶対に助けなきゃいけない!だから崎守くんは刀城さんを呼んできて。お願い」

 その迫力に押されたのか、あるいはその言葉が響いたのか、ツカサは頷くと刀を持ったまま外に向かって素早く走り出した。

 ツカサを見送ったソラはすぐに左手をナユタの胸の中心に当てると、自分でも消耗している霊力をフル回転させて送り始める。ソラの霊力はブレスレットのフィルターを通して無色透明に濾過され、ナユタに注ぎ込まれていった。

「ナユタ……!ナユタ……!絶対助けるからね……!」

 巫女の眼でナユタの体内を見ることも欠かさない。尽きかけていた霊力は少しずつ回復してきている。だがせいぜいコップの底に数滴水を垂らした程度のものだ。

 やがて車のエンジン音が聞こえてきた。それからドアの開閉する音も。

「大丈夫かい!?」

 慌てた様子の刀城が走ってきた。

「今すぐ鏡見邸へ、サクヤさんのところへ!ナユタの霊力がもう……!」



 ◇



 二時間後、鏡見邸庭園内の東屋

 そこにはソラとツカサの姿があった。刀城の車でナユタを運び、彼女は今サクヤの霊的治療と霊力供給を受けている。

 松の木に囲まれた東屋の中に設けられたベンチに座って、怪異との戦闘を振り返っていた。

「結局あれはなんだったの?」

「あれって?」

「あの力のこと」

 巫女の眼で見続けていたから大体の予想は付いていたが、やはり本人からの答え合わせがほしかった。周囲の松の木にとまる蝉の声をバックに、ツカサが話す。

「毒をもって毒を制すってやつだよ。俺の能力は穢れを取り込んで自分の力にして、怪異を上回る呪いで叩き潰すっていうシンプルな呪いの力比べやってるだけ」

「そんなさらっと言わないでよ。人間業じゃないって、そんなの」

「まあな。俺は生まれつき魂と心理結界の強度がありえんほど高かったらしくて、それでこういうことができるってわけ」

 ツカサが両手をついて東屋の天井を見上げながら言う。木の梁が渡されたそこには、どこから飛んできたのか白い花弁が引っかかっていた。

「取り込んだ穢れとか生成した呪いは最終的にどう処理するの?」

「あー、戦闘モードを切れば勝手に消失してくイメージかな。浄化とかは要らない」

「なんて便利な……」

 これが殯なのか。これで一目置かれるというレベルなのか。どんな世界なのかソラには想像もつかない。ともかくその規格外の能力のおかげで怪異は討伐できた。

「あのー……」

 ふと、横から声がする。そちらを向くとカヤと、それから。

「ナユタ!」

 穏やかな表情のナユタがそこに立っていた。偽物なんかじゃない、今度こそ正真正銘、本物の。

「ふふ。お連れしたので私はこれでー」

「ありがとうございます、カヤさん」

 カヤはナユタを置いてニコニコしながら去っていった。ナユタは東屋の中に入ると、ソラの隣のベンチに座る。

「あの、ソラさん、崎守さん、助けていただいてありがとうございました」

 小さく頭を下げてそう言った。よかった、とソラは思う。それはナユタが回復したこともそうだが、開口一番に謝罪の言葉が出てこなかったことについてだ。以前のナユタだったら絶対にご迷惑をおかけしてとか、そんなことを最初に言っていた。だからその変化がソラは嬉しい。

「いや、気にするな。うん」

「ナユタも私たちを助けてくれたからさ、お互い様だよ」

 それぞれの言葉でそれぞれに思いを伝える二人。大門の儀に続いて怪異討伐。今回は本当にナユタに負担が掛かってしまったなと振り返る。一歩間違えれば取り返しのつかないことになっていたかもしれない。

「大門の儀も終わって、怪異も倒せて、みんな無事に帰ってこられて。ハッピーエンドじゃん。よかったよかった」

 ソラは努めて明るく言う。そう、努めて。なぜなら彼女の心の中にはしこりがあったから。それはナユタの記憶を読んだ怪異が語った、ナユタの境遇と感情。あれが本当にナユタ本人の感情かはわからない。それを確かめる勇気はなかったし、語ってこなかった胸の内を土足で踏み荒らす真似をしたくはなかった。

「そうですね。なんとかなってなによりです。大門の儀も超えましたし、境界修復もひとまず落ち着くでしょうね」

 にっこりと微笑むナユタ。その裏に背負っているものをソラは垣間見てしまった。たとえそれが怪異の悪意によって捻じ曲げられたものだったとしても、簡単に忘れることはできない。

「さてと」

 おもむろにツカサが立ち上がった。

「ハッピーエンドってことで、俺は行くわ。まだどっかで。ああ、常磐とは学校で会うかもな」

「そうだね。何もなければ夏休み明けに」

「だな。千司、あんま無茶すんなよ」

 その言葉に少し目を丸くしたナユタは、すぐに破顔して言った。

「はい、ありがとうございます。崎守さんもお気をつけて」

 ツカサはひらひらと手を振りながら東屋から出ていく。後ろ姿は松の木々に隠れてすぐに見えなくなった。後に残ったのはソラとナユタの二人。

「第一印象よりずっと優しい人でしたね」

「そうだね」

 さあっと夏の午後の風が東屋を通り抜ける。蝉の声がどこか遠く聞こえるような気がして、今この瞬間の現実感が薄れた。けれど確かにナユタは隣にいて、自分はここにいる。

「ナユタ、私ね――」

「……?」

 だから。

「一緒にいられて幸せだよ」








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帳の巫女 amada @aozaki

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