四ノ二 かげおくりの燈 ー藍空の涯よりー
そして、八月十三日。
サクヤの姿は鏡見邸の一室にあった。
目の前には三十二インチのディスプレイ。その画面は分割されており、サクヤを含めて六人の男女が映し出されている。
それは大儀式『大門の儀』を直前に控えた
「スケジュールの最終変更はなしということでよろしいですかな?」
壮年の男性、夜坂氏が発言する。
「はい。変更はありません。界域侵度の変遷は予測通り、本日の午後六時に向かって高まっていっています。祖霊の通行もその時間がピークになるでしょう」
ふくよかな女性、秋津氏がそれに答える。
現世と幽世の距離を測るスケールである界域侵度は、元を辿ればその昔に秋津家が開発したものだった。それを測る技術も秋津家が頭一つ以上に秀でている。
「新盆地域の対応は?」
真司氏が質問を投げかける。
もともとお盆は旧暦の七月に行われていたのだが、明治時代の改暦に伴って新暦の八月となった。しかし今でも東京などの一部地域では七月にお盆行事を行うところがある。その七月に行うお盆のことを新盆と呼ぶのだ。
「一次対応は完了しています。ただ界域侵度の問題もあるので、どちらにせよ『大門の儀』は執り行う予定になっています」
関東圏一帯を担当する天樹氏が回答した。
「帳の巫女の状況は?」
これはサクヤの担当だった。
「現状、全体の八割弱が境界の修復にあたっています。怪異との遭遇事例も報告されているので、同盟衆も補足可能な範囲では稼働しています。ですが、ひとまず『大門の儀』を境に落ち着いていくでしょう」
サクヤが話すのは藤花台のことだけはない。全国の帳の巫女の八割が境界の修復に向かっているということだ。それだけ今は境界が不安定になっている。
「それでは定刻は本日の午後六時。各担当地域で同時に『大門の儀』を開始します。現世の人々が安全に祖霊をお迎えできるよう。そして幽世から現世を守れるよう」
それまで静かにやりとりを聞いていた長い白髪の男性、千住氏が荘厳さを感じさせる語り口で言った。六家に上下関係はないが、もっとも歴史の古い千住家が事実上のまとめ役になっている。
千住氏の発言にそれぞれ頷いたり短く答えたりして、当主会議は終わった。
ミーティングルームは自動で閉じられ、サクヤの目の前にはアプリが並ぶOS画面だけがある。サクヤは小さく息をつくと、パソコンをスリープモードにさせた。
「お疲れさまでした。サクヤ様」
カメラの画角に入らないように、脇で控えていた助手の宮内カヤが声を掛ける。彼女は六家の関係者ではあるが、その血筋ではない。元々は家事代行として雇ったはずが、霊能力が一定以上にあったことから、いつの間にかサクヤの助手になっていた。
「カヤ。機材の準備はできていますか?」
「はい。昨日の晩に届いたばかりですが。でもこれって儀式の邪魔にならないんですか?」
「問題ありません。霊力が通った舞と整えられた舞台さえあれば儀式は正常に作動します。ひとまず機材の動作確認をしておいてください。あとはタブレットやネットワークとの接続も。他の地域にも同時に合図を送らないといけないので」
「わ、わかりました」
カヤは立ち上がると、急ぎ足で部屋を出ていく。
サクヤも腰を上げて部屋を出る。そこは鏡見邸の二階だった。向かい合うように部屋が並ぶ廊下を抜け、階段横の大きな窓の前に立つ。そこからは儀式場の様子がよく見えた。
青いビニールシートが掛けられた、およそ十メートル四方の舞台。北側には白木の祭壇が設けられていた。霊脈の位置、上空の境界、気の流れ、すべてが計算し尽くされてあの場所に配置されている。あと数時間であのビニールシートは外され、あそこは儀式場になる。
サクヤはそれを見ながらスマートフォンを取り出して、今しがた出ていったカヤに電話を掛けた。
「はい。どうしましたか?」
「カヤ、念のため市内の同盟衆全員の所在と動向を捕捉しておいてください」
「いつでも召集をかけられる状態にするということですか?」
「そうです」
「……わかりました」
電話を切ると階段を下り、いつもの祭壇のある部屋に向かう。
(何もなければそれでよし。何かあればその時は……)
◇
「揺れていますね」
隣に座るソラは、上を見上げてからスマートフォンのメッセージアプリに視線を落として答える。メッセージは鏡見家から帳の巫女全員へのものだった。
「だね。界域侵度は今のところ五.二か。これでも相当やばいんだけどな。ここから夕暮れに向かってもっと上がるんだよね」
「そのための『大門の儀』というわけですよね」
「そ。儀式って言ってるけど、実際は帳の巫女全員の力を収束する術式。超強力な帳の儀って感じかな」
ソラはスマートフォンをポケットにしまうと、鳥居の先に視線を向けた。お盆に神社へ来る人は少ない。今は境内も閑散としているし、鳥居の先にある駐車場にも車は一台も停まっていない。ここにいるのはソラとナユタの二人だけ。
二人の間にあったのは、この後に待つ儀式への緊張感。特にナユタは初参加のうえ、まさか帳の巫女でもない自分が呼ばれるとは思ってもいなかった。それでも巫女たちと一緒にリハーサルにも参加したし、儀式の流れは頭に叩き込んでいる。いるのだが、やはり緊張はしていた。
初めて楔として帳の巫女たちと対面した時は、心臓が潰れるかと思った。ソラもいたし、サクヤが丁寧な説明をしてくれたとはいえ、他の巫女たちからすれば楔なんてものは未知の存在だ。そんな自分が受け入れられるか不安だった。けれど彼女たちは意外にもすんなりと理解してくれたし、ガチガチに固まる年下のナユタを可愛がってくれた。
「あと二時間、ですか」
「そうだね。そろそろ迎えが来るって聞いてるけど、まだかな」
ソラもソラでそわそわしている。手を組んだり解いたり、スマートフォンを取り出して何かのアプリを開いては閉じたり、意味のないことを繰り返していた。せっかく先程二人で修行部屋に入ってそれぞれの能力を最大限まで引き上げてきたというのに、さっそく心が乱されている。
髪は今日もナユタとカンナにもらったバレッタで留めている。サクヤのブレスレットは正真正銘霊的な御守だが、髪留めはソラの中では精神的な御守という意味合いが強い。今日の儀式もこれを着けて臨むつもりでいた。
「……今日まで大変でしたね」
ナユタがしみじみと呟いた。
彼女が模試で動けなかった日を除いたこの八日間、二人は合計で十三件の境界修復を行ってきた。普段ではあり得ない件数だ。それだけ今の時期の境界は不安定になっているということ。
一日に二回も三回も怪異に出くわした日もあった。二人とも自分の運の悪さを心底呪ったものだ。それから連続で追儺式を使ったせいでソラがダウンして、鏡見家に救援も求めたりもした。いくら霊力量の多いソラとてさすがに仕方ない。サクヤはそんなソラに小言一つ言わずに、ご苦労さまでしたと言いながら、いつものように霊力を分け与えていた。
「ほんとにね。今日が終われば落ち着いてくれるよ。……たぶん」
相変わらず鳥居の先を見ながら、ソラが小さく笑った。
ふと、その視線の先、鳥居の向こうの駐車場に黒いセダンタイプの車が入ってくるのが見えた。誰かがドアを開けて出てくる。鳥居に向かって一礼をして境内に入ってきたその人物は、黒いパンツスーツ姿の女性だった。
ソラとナユタは立ち上がって、女性に向かって歩み寄る。
「常磐ソラさんと千司ナユタさんですね。お待たせしました。六家総務部の徳山ルイです。お迎えに上がりました」
「ありがとうございます。行こうか、ナユタ」
「はい」
三人は敷石を踏みしめ、鳥居をくぐり、車のところまで歩いて行く。車のところに着くと、徳山は後部座席のドアを開けた。促されるまま二人は後部座席に乗り込む。徳山は後部座席のドアを閉じると、運転席に乗り込んだ。
「では鏡見邸に向かいます。お二人とも準備はよろしいですか」
ソラとナユタはそれぞれはいと答える。満足気な笑みを浮かべた徳山は滑らかに車を発進させた。
◇
鏡見邸の門をくぐると、外からでも慌ただしい空気が伝わってきた。
豪邸という雰囲気ではない
その場に立ち尽くしていてもしょうがないので、ソラとナユタは表玄関に向かった。ガラスがはめられた格子戸の脇に取り付けられたインターホンを押す。ピンポーンという音が鳴ってからたっぷり十秒以上経ってから、はいという声が聞こえた。
「常磐と千司です。今到着しました」
「ああ!ソラさんとナユタさん!ちょっと待っててくださいね!」
ぶつっと音が途切れる。二人はしばらく格子戸のすりガラス越しに中の様子を窺っていた。人影が絶えず行き来している。六家のうちの一つである鏡見家には普段から人の出入りが多いし常駐している人員もそれなりにいるが、ここまで邸内を動き回っているのは、やはり今日が儀式の日だからなのだろう。
しばらくして人影の一つがこちらに向かってきて、玄関の格子戸をからからと開けた。
「すみません、お待たせしました!」
「こんにちは。忙しそうですね。カヤさん」
出迎えたのはカヤだった。
「いやあ、ちょっと管轄地域との通信サーバーのエラーが……ま、まあそれはいいとして、ここじゃなんですし、とにかく入ってください」
ソラとナユタはおじゃまします、と軽く言って敷居をまたぐ。玄関は旅館を思わせるような広さがあり、スニーカーやサンダル、革靴が何足も整然と並んでいた。二人は靴を脱いで上がると、カヤに連れられて飴色に光る木の廊下を奥へ進み、現れた階段を登って二階へと上がっていく。
「他の帳の巫女の皆さんはもういらっしゃってます。お二人の装束はご用意していますから、お着替えが終わり次第、一階の広間にいらっしゃってください」
「わかりました。そういえばサクヤさんは?」
「サクヤ様は最後の準備に入られています。最終確認の時には合流できるとおっしゃっていましたよ」
階段を登りながらカヤが説明する。階段を登りきったところには大きな窓があって、そこからは今日の舞台となる儀式場がよく見えた。四方が二段の階段状になった正方形の木製の舞台と祭壇。準備をしているのか、そこでも忙しく人が行き来している。
「えっと、ソラさんのお部屋はこっちで、ナユタさんのお部屋はそのお隣ですね」
二階は真っ直ぐに廊下が通り、その両隣に部屋が四つ五つと並んでいる。突き当たりには階段横のものと同じくらいの大きさの丸い窓があって、東に広がる田園風景を映し出していた。
「ありがとうございます、カヤさん。それじゃナユタ、また後でね」
「はい。また後で」
襖を引いて部屋の中に入る。八畳くらいの部屋の中には、藤花台の街が一望できる南向きの窓と、それに向かって置かれた書き物机、座椅子、ちゃぶ台くらいの四角いテーブルと座布団など、そのままここで生活できそうな品々が置かれていた。
ソラは押し入れの前に行くと、鎮座していた二つ折りの朱塗りの
(よし)
心の中で小さく気合を入れて、ソラは着替えを始めた。
神社の手伝いで着る機会も多いこともあって、スムーズに巫女装束に着替えを終えたソラは、脱いだ服を
「ナユタ、大丈夫そう?」
「は、はい!もう少しで行けます!」
やや焦った声が返ってきた。巫女装束を着る機会のないナユタには事前にカヤから巫女装束の着方のレクチャーがあったらしいが、それでも本番ともなれば緊張やらプレッシャーやらで上手くいくものもいかないだろう。
「焦らなくていいからね。私ここにいるから」
「すみません、あとちょっとで……」
ナユタがそう言ってしばらくすると、部屋の畳を足袋が擦る音が聞こえてきた。鶴と月が描かれた襖が開かれる。
「お、できた?ナユ――」
部屋から出てきたナユタの姿に、思わず言葉を失った。身に着けているのは自分と同じ白と緋の巫女装束と千早。けれどそれはナユタの銀髪のおかげで、日常とはかけ離れた神秘的な雰囲気を感じさせた。これじゃまるで巫女というより神様だ。
「あの、変じゃないでしょうか」
ソラが言葉を失っているので、もしかして何か着方を間違えてしまったのかと思ってナユタが訊く。
「……いや。ばっちり。すごい似合ってる。マジで」
「それならよかったです。他の皆さんもお待たせしていますし、私たちも広間に行きましょうか」
「う、うん。そだね」
気を取り直して二人、広間を目指す。と言っても広間は階段を下りてすぐだ。足袋を履いた足を滑らせないように気をつけながら階段を下って、広間の板戸を開けた。
そこは軽く十二畳くらいはありそうな長方形の部屋で、おそらく畳の上に敷かれているであろう真紅の絨毯に年代物のソファセットやテーブルなどが設えられている。和モダンという言葉がしっくりくる部屋だ。空調がしっかり効いているおかげで、この真夏に巫女装束でもちゃんと涼しい。
中央のテーブルを挟んだソファには、ソラとナユタと同じ格好の女性が六名座っていて、時折テーブルに置かれたエネルギーバーやゼリー飲料、おにぎり、スポーツドリンクやエナジードリンクなどを口に運びながら静かに話をしていた。
戸を開けた二人に注目が集まる。ソラとナユタは軽く会釈をしながら部屋に入っていくと、ソファの空いていた場所に並んで腰を下ろした。
「すみません、遅れてしまって」
遅れたのは六家の迎えが遅かったからだが、一応謝っておく。ソラの言葉に巫女たちはしょうがないなあという感じの表情をそれぞれ浮かべた。
「これだけ六家もバタバタしてるんだし、しょうがないよ。ソラちゃんもナユタちゃんも気にしないで」
「ありがとうございます、
深山ウイ。藤花台市内の帳の巫女の中では最年長の二十五歳、サクヤと同年齢の彼女は、すでに六家の一員として『就職』することが決まっていた。ソラにはまだ縁遠い話だが、帳の巫女の進む道にはそういうものもあるらしい。
「とうとう本番かあ。これで境界修復も落ち着いてくれるといいんですけど。簡易版の帳の儀でもさすがに連発したら霊力持ちませんよ」
そうボヤくのはウイの向かいに座っていた
会話を聞きながら、ソラは目の前の皿に盛られていたおにぎりを手に取った。ナユタのほうを見る。相変わらずガチガチに緊張しているようだった。そんな彼女に苦笑しながら、片手でゼリー飲料を取って渡した。さすがにそこまで緊張していたら固形物は喉を通らないだろう。
「去年もこんな感じだったわねえ。例年通りなら『大門の儀』以降は境界が安定していくはずだから、私たちも通常営業に戻るでしょうけど」
おっとりとした口調でサヤの話に乗っかるのは、サヤより少し年上、二十二歳の白泉ヒマリ。ロングの髪を編みおろしにしているスタイルと物腰も相まって、実年齢よりも年上に感じられる。
ソラはおにぎりをもぐもぐと咀嚼しながら上座に目を遣った。本来そこにあるはずの一人掛けのソファは横にずらされていて、壁にはプロジェクターのスクリーンが下ろされている。たぶん、ここで最後の打ち合わせなり説明なりが行われるのだろう。
「ナユタ、大丈夫?」
ナユタは目線を落としながらちゅーちゅーとゼリー飲料を吸っていた。こくりと頷く。少しは緊張が解けてきたようだ。
「全員揃いましたね」
凛とした声に、そこにいた八人の視線が戸口に集まる。いつもの艶やかな着物ではなく、巫女装束に身を包んだサクヤと、その後ろからカヤ入ってくるのが見えた。部屋の空気が変わる。ソラは食べかけのおにぎりを口に放り込むと、一気に飲み込んだ。
サクヤはそのまま部屋の中を進み、上座のソファに静かに座った。
「皆さん、今日までの境界修復、本当にお疲れさまでした。六家を代表してここにお礼を」
深く頭を下げる。それにつられるように、八人も頭を下げた。
明らかにいつものサクヤと空気が違う。巫女の眼で見るまでもなく、強大な霊力が感じられた。それを体外に漏らさずに留めているのだから、並大抵の技量ではない。カヤが『最後の準備』と言っていたのは、儀式のための霊力を溜める瞑想なりをしていたのかもしれない。
「先程の広域霊視の結果、皆さんのおかげで現状の市内で境界の問題は見つかっていません。このまま問題なく『大門の儀』を執り行えるでしょう。それでは最終的な確認と打ち合わせを。カヤ」
「はい」
カヤが脇にあった丸テーブルに置かれていたリモコンを取り上げ、ボタンを押すと、部屋の下座の天井から吊ってあったプロジェクターの電源が入った。それを確認した彼女はぱたぱたと移動して中庭側の掃き出し窓のカーテンを閉める。戻ってきたカヤは床から伸びていたケーブルを手元のノートパソコンと接続して、脇の丸テーブルに置いた。スクリーンにスライド画面が表示される。画面中央には花のマークが映し出された。六枚の花弁が外側に向かって広がるモチーフ。六家の紋章だ。
「皆さん、飲食は遠慮なくご自由になさってください。儀式前の貴重な時間です。少しでも力を溜めておいてください」
その一言で場の緊張が多少緩和した気がした。一人、また一人とテーブルの上の食べ物や飲み物に手を伸ばし始める。ソラもおにぎりを手に取った。薄暗い中でナユタを見たが、すでにその手にはおにぎりがあって、内心苦笑してしまう。
「まずは確認をしておきましょう」
画面が切り替わり、斜めに配置された白黒二つの円と、その間に一本の斜線が引かれた図が表示された。見る人が見れば関数のグラフに見えたかもしれない。
「今日の迎え盆の夕刻、午後六時頃は祖霊の通行がもっとも盛んになる時間です。それと同時に現世と幽世の距離が一年のうちでもっとも近づき、幽世と境界がほとんど接触するタイミングでもあります。こちら側からでも幽世が透けて見えるようになるでしょう」
それはこの場に集った八人の全員が知っている前提。それを踏まえてこの十数日を駆け抜けてきたのだ。そしてそれは六家とて同じこと。境界に関わるすべての人間にとって、この日は文字通りの山場だった。
カヤがエンターキーを押すと、図の左側の黒い円、斜線との接触面に何本もの矢印が付け加えられる。
「そして幽世から祖霊が大量に帰ってくるため、あちら側から境界に大きな圧力が掛かります。『大門の儀』とは文字通り、祖霊が通行する門を作りながら、同時に圧迫される境界を支える儀式」
さらに図が増えた。黒い円の周りを囲う八角形と、そこから出てくる蝶の群れ。
ナユタが、カンナが、ソラが見た金色の蝶。祖霊は幽世の門から出た後、家々で焚かれる迎え火を頼りに子孫のもとへと飛んでいく。波長が合わずに金色の蝶が見えてこなかったナユタと違って、ソラはその光景を知っていた。まるで金色の河のように蝶が空を渡っていくさまを。
スライドが切り替わる。平行四辺形と上方向の矢印。その先には黒い円。
「計算と観測の結果から、幽世と境界の接触面は外に設営した舞台の直上に現れると予測されています。舞によって帳の巫女七人の霊力を収束し、上空の門と境界を安定させる。今年は楔である千司さんも参加してくださることから、より安定した状態での儀式発動が可能になるでしょう」
千司さん、と名前を呼ばれてびくりとナユタの肩が跳ねた。思わずソラの眉が下がる。少しは場に馴染んできたかと思っていたが、やはり内心では結構なプレッシャーを感じているようだ。
実際のところ楔の力抜きでも儀式は問題なく執り行える。というか他の地域には楔なんていないし、去年までは藤花台でもナユタなしに儀式を行ってきた。楔の力はサクヤの言うように、あくまで儀式場を安定させるためのもの。
とはいえソラにはナユタの感じるプレッシャーがわからなくもない。たった一人の特異な存在としてここに呼ばれ、現世を守るために一年で最も重要な儀式のサポートを任されているのだ。それに本人は常日頃から相当な勢いで使命感やら責任感を背負っているようだし。それはあの生活ぶりと言動を知っていればよくわかった。たぶん、今のナユタに何を言っても気休めにしかならないだろう。結局行動することでしか彼女のプレッシャーは解消されない。ソラはそう考えた。
「不測の事態に備えて六家の専門班も配置していますが、万一境界に異変が起きた際は全員で帳の儀を行ってください。状況に応じて術式を組み込んでも構いません。幽世側から境界が破られる前に門を閉じてしまってください」
プロジェクターの光がぼんやり照らす室内をぐるりと見回して、サクヤが言った。
不測の事態のことなど本当は考えたくもないが、その時はその時だ。七人の霊力が乗算された帳の儀であれば、相当な規模の境界修復ができる。それこそ門を閉じられるほどの。
(境界が破られる、か……)
仮に大門の儀の最中に向こう側からの侵攻があったら。とてもではないが積極的な攻撃手段を持たない帳の巫女が対処できる案件ではない。
「あの、今年の界域侵度、去年よりずっと高いじゃないですか。怪異が現れる可能性もあると思うんですが」
おずおずと手を挙げて発言したのは、二十三歳で二番目に年長の
怪異が現れる可能性があるのは、なにも門の向こう側からだけではない。儀式場周囲の境界だって不安定になっているはずだ。文字通りどこから何が現れてもおかしくない状況と言える。
サクヤはスズカの質問に小さく頷いて答えた。
「もちろんその可能性も否定できません。ですからそのための戦力も現在確保中です」
戦力?前に言っていた専門部隊のことだろうか。ソラの頭の中で数週間前のサクヤとの通話が再生された。その地域の退魔や除霊の専門家をまとめた部隊。もしそれが対処してくれるなら安心して儀式に臨める。
「他に質問のある方は?」
全員、その言葉に互いの顔を窺い合う。手を挙げる者も言葉を発するものもいない。サクヤはその様子を見ると言った。
「わかりました。それでは儀式場へ向かいましょう」
カヤが小走りにカーテンを開けると室内が一気に明るくなる。サクヤがソファから立ち上がるのと同時に、その場にいた八人も立ち上がった。
◇
儀式場は鏡見邸の敷地内、先程までソラたちがいた母屋の隣にある別館の前に広がる広大な芝生の庭園の中に設営されていた。高さ五十センチ、広さ十メートル四方程度の広さの舞台の周囲には、ミーティングの最中に用意されたのか、野点で使われるような赤い布、
舞台の北側には南向きの祭壇。東側では雅楽隊が準備をしており、舞台から見て北西に位置する鏡見邸を背にするように、少し離れた位置にはさながらDJブースのようにパソコンなどの機材が並べられた机が置かれていて、そこに向かって邸内から何本もケーブルが伸びている。おそらくあそこがサクヤとカヤの席だろう。
八人とサクヤが舞台の手前でその様子を眺めていると、後ろからさくさくと芝生を踏みしめながら小走りで近づいてくる足音が聞こえた。振り返ると、カヤが数人の神職の装束を着た男性を引き連れている。手には黒いクッション材が敷き詰められたケースのような物を持っていた。
「接続確認は?」
「問題ありません。バッテリーも十分です」
ケースにはワイヤレスイヤホンの形をしたものが八つ、クッション材の凹凸に埋まるようにして並んでいる。
「皆さん、一つずつ取って片耳に着けてください」
八人は言われるがまま、それぞれ一つずつ取って耳に着けた。ソラがサクヤを見ると、髪に隠れて見えづらかったが、サクヤの耳にも同じものがすでに装着されているのがわかった。だが去年はこんなものはなかったはずだ。
「去年までは各地域それぞれで時計を見て儀式を始めていましたが、今年からは効率化と合理化のために全員を無線でつなぐことにしました。連携の確実性向上はもちろん、緊急時の指示もすぐに出せるのでこの方法が最適だと考えたのです」
ITに明るいサクヤらしい発想だなとソラは思った。確かにこれなら連携は圧倒的に取りやすくなる。
全員がインカムを装着し終えたところで、カヤの後ろに控えていた男性たちが前に歩み出てきた。それぞれ神楽鈴が載った三方を持っている。それを見ていよいよ儀式が始まるという感じがしてきた。
順番に受け取り、ソラもそっと持ち上げて受け取る。振り返ってナユタを見た。緊張の面持ちでソラの顔を見て頷いている。
「全員、受け取りましたね。それでは舞台の方へ。千司さんは袖にお願いします」
八人はそれぞれ返事をしたり頷いたりして、舞台に向かって歩き始めた。歩きながらソラは上空を見上げる。境界の揺れは神社にいたときよりもさらに激しくなっていた。儀式が始まる時間ももうすぐだ。もうすぐ現世と幽世は最接近する。
ナユタは持ち場である南西の端に待機し、帳の巫女七人は舞台へと上がった。
「全員、配置につきましたね」
インカム越しにサクヤの声が聞こえる。
「私のいるこの場所とその舞台の間は霊脈の上に来るように配置されています。儀式中に必要な霊力はすべて私が霊脈を通じてあなた方に供給し続けるので、ご心配なく」
サクヤの役割は瞑想で蓄積した膨大な霊力を舞台へ送るのはもちろんだが、霊脈から汲み上げた霊力を変換して八人に供給することにもある。これだけの芸当ができるのは、サクヤの能力あってこそのもの。
「今回は千司さんがいることから、
そもそも楔とは、祝詞で行う
リハーサル通り、帳の巫女七人は舞台中央に円になって並んだ。ソラは振り向いてナユタを見る。一段下に構えているナユタ。その表情はガチガチに緊張していた先程とは違って、どこか覚悟の決まったような感じだった。安堵感がソラの中に生まれる。もし自分が足を引っ張ったらなんて、ナユタならきっとそんなことを考えているんじゃないかと思っていたから。
「千司さん、楔の展開をお願いします」
「はい」
サクヤの指示に従って、ナユタが緋毛氈の敷かれた地面に手をつく。即座に儀式場全体を包み込む半球形の力場が展開された。空間が浄化され、強度が一気に上がっていく。ソラとの修行のおかげで、ここまでの範囲の力が展開できるようになった。
「カヤ、他地域の状況は」
サクヤの隣の席に座っていたカヤが、目の前のノートパソコンをせわしなく操作してから、状況を報告する。
「全管轄地域、
「わかりました。通信をこちらへ」
再びカヤがパソコンを操作して、今度はサクヤが目の前のタブレットの画面をタップしてから話し始めた。
「こちらは鏡見サクヤです。この通信を聞いているすべての地域の方へ、そしてすべての帳の巫女の皆さんへ。境界を守護する我々にとって、一年のうちで最も重要な儀式がこれから始まります。どうか現世を守り、人々が穏やかにお盆を過ごせるよう、皆さんのお力を貸してください。よろしくお願いいたします」
その声は舞台にいた八人にもしっかりと届いていた。サクヤの願いと、境界を守護する者すべての使命。ソラは神楽鈴の柄をぎゅっと握り締めた。二度目だからとか、そんなことは関係ない。一回一回が大切な儀式なのだ。家で待っている家族を思った。学校の友人達とその家族を思った。そうだ。守るんだ。この世界を、この街を。
「定刻です。始めましょう」
静かな声で、始まりの号令が告げられる。
それを合図に雅楽の演奏が始まった。
静まり返った儀式場に
(はじまった……!)
神楽鈴の柄を握り締めたまま、ソラはごくりと唾を飲み込んだ。
通常の巫女舞では巫女の登場するタイミングで曲調が変わるが、大門の儀ではすでに帳の巫女が舞台に上がっている。この儀式では巫女たちが動き始めたタイミングで曲調が変わるようになっていた。
その指示を出すのがサクヤだ。上空の境界の状態、界域侵度の変化、祖霊の通行、それらを見極めてインカム越しに七人に指示を出して術式を起動させる。
雅楽はなにも飾りでやっているわけではない。雅楽隊も全員六家の関係者であり、れっきとした霊能者だ。その音色にはすべて霊力が籠もっている。ナユタの楔の力との相乗効果で、帳の巫女の力をより高める作用が期待されていた。
(ソラさん……)
舞台袖から見ているナユタには、ソラがどこか不安げに見えた。ミーティングの時に自分を励ましてくれた彼女とは様子が違う。やはり帳の巫女としてあそこに立つというのはそれだけの緊張感を伴うのだろうか。
とはいえ、今の自分にできるのはこうして楔の力を最大展開し続けることだけ。儀式が始まった以上、ソラに直接何か助けになるようなことはできない。できるとするなら、それは信じることだけだ。
「サクヤ様。界域侵度、六.五をオーバーしました」
「わかりました。境界の強度もここまでですね。次のフェーズに移りましょう。全員、舞を始めてください」
サクヤの合図で、七人は一斉に神楽鈴を天高く突き上げた。それと同時に雅楽の曲調がより荘厳なものへと変わる。
神楽鈴を突き上げたその視線の先、上空に見えたのは、夕闇の空の中にまるで水面のように揺らめく暗い星空。サクヤの言った通り、幽世が透けて見えている。七人は神楽鈴に自身の霊力を通して、一定のリズムで静かに振り始めた。霊力の通った音。それは言霊の宿った祝詞とほとんど同じ力を持っていた。
円を描きながら舞い、鈴を打ち鳴らしながら七人は互いの霊力を収束させていく。束ねられた力は上空へと登り、幽世との接触面を固定し、祖霊が通行するための門を形成するのだ。
「門の形成、開始しました」
上空の境界をモニターしていたカヤがパソコンの画面を見ながら言う。
「予定通りですね。私は念のため周囲の霊視を行います」
「わかりました」
サクヤは霊力供給はそのままに、柔らかく目を閉じると神経を周囲の空間に拡張していく。ミーティングの時にスズカが言っていたように、怪異が現れる可能性も否定できないからだ。事前に察知できれば即座に対処ができる。
舞台上では舞の動きが激しくなってきていた。
円形に並んで鈴を打ち鳴らすだけだったのが、その場で各々回ったり、鈴を持ち替えて屈伸運動を加えたり、巫女舞の盛り上がる場面に差し掛かっている。そしてこれは霊力のもっとも励起する場面でもあり、門が完成に近づく場面でもあった。
雅楽隊の演奏も巫女舞の動きに合わせてテンポが上がり、太鼓の出番も多くなっている。一般的な巫女舞であれば、これは神霊の降臨を力強く表現する場面だ。
ソラも先程までの緊張や不安はどこへやら、熱にうかされたように舞っている。何度もリハーサルをしてきた成果か、体が自然に動いていた。霊力の循環も良好。どこか楽しさすら覚えている自分がいる。
ナユタはそんな彼女を見て、自分の心配は杞憂だったとほっとした。やっぱりソラはやるときはばっちり決めてくれるんだと、そんなことを思う。
巫女舞が最高潮に達すると同時に、舞台全体から金色の光の粒子が立ち上り始めた。それはソラが帳の儀を行う時に現れるものと同じ、神格を持った光。金色の光はそのまま上空へと登っていき、幽世との接触面の周りに集まると、接触面を囲うように八角形の形をとった。それはソラたちが身にまとう千早に縫い込まれている紋章と同じもの。儀式用に用意された千早の紋章は、この門を意味するものだった。
「門の形成完了、確認しました」
「わかりました。このまま祖霊の通行を見届けます」
門から一斉に金色の蝶が溢れ出てくる。それは夕闇の空を渡る大河となって、市街地に向かって長く長く伸びていった。ソラにとっては二度目、ナユタにとっては初めて見る光景。
(きれい……)
初めて見る情景に、ナユタは感動していた。そもそも祖霊を金色の蝶として視認したのが今年で初めてなのだ。それがこんなにも多く空を渡って行くなんて。
もちろん祖霊が幽世の存在であることはナユタも十分に理解はしている。それでも美しいと思った。死霊や怪異の類とは根本的に違う。祖霊とは先祖の霊であり、子孫を守護する存在なのだから。
あっけにとられているうちに、金色の蝶の一団は去っていってしまった。後に残ったのは幽世との接触面と、それを囲う門。
(……?)
ふと、違和感を覚えた。門の向こう、幽世の先に何かが。
「あれ?変です。界域侵度は安定しているのに、境界におかしな圧力が」
「祖霊の通行は?」
「ピークは去っています」
サクヤはしばらく考え込んだのち、インカムを通じて舞台上の帳の巫女たちに向けて言った。
「全員、巫女舞を中断。直ちに帳の儀を――」
その時だった。
バチャン。
そんな音を立てて、門と境界が破れた。
「な……っ」
ソラは上空を見上げた。破れた巨大な境界の穴から、何かがゆっくりと下りてくる。それは真っ黒くて、大きくて、太くて。そう、まるで。
(手……?)
巨大な手が上空数十メートルの高さからゆっくりゆっくりと舞台めがけて掌を広げて下りてきている。それはいつか見た悪夢を想起させた。星空の下、草原に横たわる自分の上に蜜のように垂れてきた手に胸をこじ開けられた、あの夢を。
手が下りてくるにつて、正体不明の圧力が帳の巫女たちを襲う。上から押さえつけられているかのような感覚に、一人、また一人と、崩れ落ちていく。
「……っう」
最初はソラの前のポジションだったヒマリが倒れた。手を離れた神楽鈴がシャラシャラと音を立てて床を転がっていく。
「……っく……な、に……これ……」
「重っ……」
ウイもサヤも、次々と倒れていく。帳の巫女が七人も集まって、サクヤから膨大な霊力供給を受けていて、さらにその霊力を収束されているにもかかわらず、まったく歯が立たない。どう考えても異常事態だった。
そしてついに、ソラも立つことが出来ず、床に倒れ込む。かろうじて顔は動かせるが、あの黒い手に上から押さえ込まれているかのように、体はまったく動かせなかった。
祭壇も倒れ、雅楽隊も地面に這いつくばっている。舞台近辺で動けるものは誰一人いなかった。
ただ一人、ナユタを除いて。
手の圧力に必死に抗いながら、舞台に這い上がる。自分が舞台に上がったところで何ができるというわけでもないのに、何かに突き動かされるように体が勝手に動いてしまった。ナユタは楔の力を展開したまま、やっとの思いで舞台に上がると、上空の手を睨み据えた。
「ナユ……タ?」
彼女は凄まじい圧力の中で、信じられないことに片膝を立てて、両手を天に向かって上げた。
その瞬間、半球状に展開されていた楔の力が変質し、まっすぐ上空の手に向かって伸び始めていく。
その時、ソラは幻視した。
ナユタの姿に重なって、いつか見た長身痩躯の黒衣の神が両手を天に向けている姿を。天が落ちてこないように支えたと伝えられる、かの神の姿を。
「ぅうううああああああ!!」
聞いたこともないナユタの咆哮とともに、変質した楔の力が『柱』となって黒い手に向かって行く。それはやがて中空でぶつかり合い、光を散らした。ナユタは歯を食いしばりながらさらに霊力を増幅させていく。
最初は手に押されていたナユタだが、ありったけの力をぶつける中で徐々に手を押し返し始めた。ゆっくりと、ゆっくりと、下りてきた時と同じように、手は幽世側に押し戻されていく。
手が押し返されていくにつれ、帳の巫女たちを拘束していた圧力も弱まってくる。ナユタが門の手前まで手を押し返す頃には、全員が立ち上がれていた。
「全員、直ちに帳の儀を。追儺式を組み込んでください」
インカム越しにサクヤの声がする。
立ち上がった七人は頷き合うと、舞台中央に立つナユタを囲むように円になった。七人は声を揃えて祝詞の奏上を始める。
「
ナユタの『柱』が幽世側に突き刺さり、手を押し返したのと、帳の儀が完了したのはほぼ同時だった。上空に空いた破れ目が塞がっていく。
――だが。
破れ目が塞がるその最後の瞬間、幽世から黒い
「サクヤ様!あれは!」
カヤがこちらを見て大声を上げる。瞬時に霊視を行ったサクヤが言った。
「存在強度二級から一級……どれも単独で侵度六以上の深さで境界を破れるレベルの怪異です。人的被害が出る間に討滅しなければ……」
サクヤは珍しく焦った口調で、カヤに指示を出した。
「カヤ、すぐに同盟衆に、『
帳の巫女 amada @aozaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。帳の巫女の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます