四ノ一 かげおくりの燈 ー金色の蝶ー

 八月二日。

 藤花台市内の小中高が夏休みに入って十日ほど経ったその日、ナユタは駅前の商業ビルの入口にいた。外の入口と店内の入口の間、外気と屋内の空気を隔離するために設けられたスペースに置かれたベンチに座って、スマートフォンの画面と行き交う人々を交互に見ている。

 夏休みとあって、学生や家族連れの姿が多い。楽しそうな笑い声が天井の高い風除室に響き渡る。どことなく気まずくなって、スマートフォンの画面に目を落とした。

 学校の友人に勧められて始めてみたSNS。タイムラインには出かけた先の画像や、飲食物の画像が流れてくる。それは境界を守護する自分にとって、どこか遠い世界の話。そこに羨ましさはない。虚しさもない。ただ違う国の生活を覗き見ているような感覚だけがあった。

 それでも目を上げて楽しそうに行き交う学生たちや親子連れを見続けるよりは、心の負荷はよほど軽かった。初めから関わりのないものとして割り切れるものを見ているほうが、もしかしたら手に入ったかもしれないものを見るよりもずっと楽だったから。

 そんなふうに思考がどろどろと濁りだしたところで、突然スマートフォンの画面表示が変わった。

 着信が入ったのだ。

 すかさず緑の着信ボタンを押して耳にスマートフォンを当てる。

「はい」

「ごめん!遅くなっちゃって!今どこにいる?」

「大丈夫ですよ。今入口を入ってすぐのベンチにいます」

「わかった!」

 電話口からはナユタの濁った思考を吹き飛ばすかのような元気な声が響く。電話が切れてから、ナユタは誰にも見えないくらい小さく口角を上げた。

「ナユタちゃーん!」

 風除室の雑踏に負けないくらいの声量で自分を呼ぶ声がした。見ると、向こう側の入口からカンナがパタパタと走って来たところだった。ナユタはそれをみとめると、スマートフォンをバッグにしまい、ゆっくりとベンチから立上がる。

「ごめんねえ!誘ったのに遅れちゃって!」

「いえ、大丈夫です。それほど待っていませんし」

 カンナはポケットからタオルハンカチを取り出すと、額と首元の汗を拭いた。顔は上気していて、急いで来たことがよくわかった。

「とりあえず店内に入りましょう。ここよりは涼しいですし」

「そだね。お店にも行かなきゃだし」

 二人は向き直って店内の入口の自動ドアをくぐる。一気に冷房の効いた空気に包まれて、涼しさを通り越して寒さすら感じるくらいだった。

 そのまま一階の化粧品売場やブランド店などを通り過ぎてエレベーターに向かったが、待てど暮せど一向にエレベーターが下りてこないので、諦めて店内中央にあるエスカレーターに乗ることにした。

「やっぱ夏休みだからかなあ。混んでるよね」

「そうですね。こればかりは仕方がありませんね」

「はあ。でも今年の夏休みは受験勉強かあ」

 カンナが大げさに肩をすくめてみせる。境界がらみの仕事をこなしていながらそれなり以上に成績の良いナユタと違い、カンナはかなりの苦戦を強いられていた。塾通いは今のところ回避できているが、今年の夏休みは短期の夏期講習に通うことが決定していたのだ。

「ナユタちゃん、勉強のコツとか教えてほしいよー。お姉ちゃんと仕事もしてるのに成績もいいなんてすごすぎだって」

「え、えーと、私はただほかにやることがないだけと言いますか……一人暮らしですし……趣味もないですし……たぶん、参考にはならないかと……」

「そしたらさ、勉強会しない?私、ナユタちゃんとなら集中してできる気がするんだよね」

「勉強会、ですか?」

「そう!私の部屋で。あ、もしよければナユタちゃんの家でも!」

 ナユタの頭に壁に貼った呪詛の紙がよぎった。カンナを呼ぶならあれをなんとかしておかなければ。

「わ、私の家ならちょっと片付けが必要かもしれません……」

「あ、そうだよね。急に行くのはさすがにあれだよね」

「でもカンナさんさえよければ、一緒に勉強会、やりましょう」

「いいの?やった!一緒なら頑張れそうだよう!」

 二人がそんなことを話しているうちに目的の階に着いた。そこはワンフロアすべてを使った大型書店。

 ナユタとカンナは店内の案内表示を見て、高校受験の参考書コーナーに向かう。今日待ち合わせていた理由の一つは、カンナがナユタに参考書選びを手伝ってほしいと頼んだからだった。

 ナユタは基本的にどの科目でも平均点以上はキープできている。対してカンナは理数科目がかなり苦手だった。

 ナユタはカンナの苦手度合いを聞きながら、そのレベルと入試までの残り期間を加味して、書棚に並ぶ色とりどりの参考書の中から数冊をピックアップする。参考書を買うための資金は親からもらってきているとのことだったので、予算は度外視。

「えーと、これが最初にやるやつ。で、次がこれ。それでこれ」

「はい。順番にやっていけばレベルも上がっていくはずです」

 カンナの手には合計六冊の参考書。それを抱えながら二人でレジに向かう。

「ナユタちゃんすごいね。なんていうか、先生みたい」

「先生、ですか?」

「うん。私の苦手をちゃんと理解してくれて、それに合わせてプランを考えてくれて、こうやって参考書を選んでくれた。それって先生みたいじゃない?」

 どう返していいかわからず、ナユタは少し視線を落とす。

「え、と。あの、でも、カンナさんのお役に立てたのならよかったです」

「そりゃもちろん!私、頑張るから!」

 じゃあ会計してくるねと言って、カンナはレジの列に入っていった。

 ソラといいカンナといい、この姉妹は本当にプラスのエネルギーに満ちあふれている。ソラといる時もそうだが、カンナとこうして一緒にいる時も、天見神社で修行をしている時のような、陽の気が自然と体に流れ込んでくるような気さえする。この姉妹はきっと、いるだけで相手の気持ちを明るくする何かを持っているのだろう。

 そんな二人の近くにいられるから、自分はきっと今こうして温かい気持ちになれるのかもしれない。カンナを待っていた時に抱いていたどろどろとした感情と対比しながら、ナユタはそう感じていた。



 二人は書店を出ると、別の階に移動するためにまたエレベーターに乗る。カンナは背負っていた小さいリュックに書店のビニール袋を詰め込みながら言った。

「次だね。いよいよ」

「はい。ですね」

 二人は下階に下りると、家具店や雑貨店、観葉植物の店を通り過ぎて、カンナがあらかじめ目をつけてあった店へと向かった。フロアの隅の方にあるアクセサリーショップ。こぢんまりとした店内にはピアスやイヤリング、ヘアアクセサリー、ネックレスなどが所狭しと並んでいる。

「いつも仕事の時ってどうしてる?」

「暑さのせいもあるかもしれませんが、大体結んでいますね」

「そしたらヘアアクセかなあ」

 ヘアアクセサリー。金具の着いたヘアゴムからバレッタまで、様々な種類が並んでいる。しばらく二人は並んでいるヘアアクセサリーの数々を眺めたり、手に取ったりして見ていた。

 そうするうち、ふと何気なく置かれていた一つにナユタの目が吸い寄せられた。中央に四つの花弁の付いた大きな花のモチーフがあり、その周りを小さな花のモチーフが並んでいる金色のバレッタ。

「これ……」

 持ち上げてみる。角度を変えて店の照明に当ててみた。光沢は抑え気味で、キラキラと光り輝くという感じではない大人っぽい感じ。

「それかわいいね。ちょっと貸してみて」

 ナユタから受け取ったカンナが細かくチェックする。留め具の強度。ガタツキの有無。ちょっと力を込めた時の強度。

「うん。作りもしっかりしてる。これほんとかわいいな。どうする?ナユタちゃん。これにする?」

 カンナがうきうきとした声で訊く。

「……はい。それにしようかと」

「おっけー!それじゃあこれにしよ!」

 ナユタが恥ずかしそうにはにかみながら答えると、カンナは満面の笑みでそう言った。

 二人はレジに行き、半額ずつ出し合って会計を済ませる。ご自宅用ですかと訊かれたので、カンナがプレゼントですと答えると、店員は手早くラッピングを済ませて商品を渡してくれた。

「ナユタちゃん、これ預かっておいてね」

「わ、わかりました」

 大切なプレゼントだ。ナユタは緊張しながらラッピングされたバレッタをバッグにしまった。

 これがこの日二人が待ち合わせた理由の二つ目。

 明日に迫ったソラの誕生日プレゼント選びだった。



 商業ビルを出ると、二人は近くにあったチェーンのカフェに入った。それぞれ注文と会計をし、ドリンクを受け取って、空いている二人がけの席に向かい合って座る。

 店内は昼時を過ぎているからか、そこまで混雑はしていない。賑やかにお喋りを楽しむ学生、若い母親のグループ、パソコンに向かう若者など、ピアノジャズの店内BGMをバックに、皆それぞれの過ごし方をしている。

「ナユタちゃんさ、仕事ってどう?」

 季節限定のパッションフルーツのドリンクをすすりながら、カンナが訊く。帳の巫女の力を持たないカンナからすれば、ソラやナユタの仕事は『境界を修復する』という漠然とした情報しかなく、結局どういうものかは知らないでいた。無理もない。

「そう、ですね。映見町では廃ビルの異界に閉じ込められて、なんとか屋上に辿り着いてソラさんが境界を閉じて解決したりだとか」

「うへー」

「最近だと『黒い人』の都市伝説の真相ですね」

「あ、それ私も知ってる!ネットで見た!真相って?」

 カンナが目を輝かせながら話の続きを急かすようにナユタに訊く。

「『黒い人』は、実は祠を壊されて帰る場所を無くして彷徨っていた神様だったんです。それで私たちが元々お祀りされていた神社の御神体にお戻ししたんですよ」

「へえー!幽霊じゃなかったんだ!そういうこともあるんだね」

 ますます目を輝かせながらカンナが言う。姉のソラなら都市伝説は境界に絡むもの以外ならバッサリ切って捨てるが、カンナは逆にこういう話が好きなようだった。

「ねね、仕事の時のお姉ちゃんってどういう感じ?」

「ソラさんですか?やっぱり頼りになりますね。いざというときの胆力もそうですし」

 実は死霊が苦手というのは、本人の名誉のために言わないでおいた。

「そっかあ。やっぱお姉ちゃん、なんだかんだ言って頼れるよね。私も一回でいいから見てみたいなあ、帳の儀」

「ふふ。カンナさんはソラさんに憧れているのですね」

 たっぷりクリームの乗った糖分とカロリーたっぷりのドリンクを飲みながら、ナユタがくすりと笑う。

「そりゃそうだよー!家ではちょーっとうるさいとこあるけど、やっぱ助けてくれるし、それに帳の巫女だし。もうナユタちゃんと会うまで二年も一人でやってたんだから」

「え?二年前から……中学二年生の頃から、ですか?」

 思わず素っ頓狂な声が出る。それは初めて聞く情報だ。ソラからもそんなことは聞いたことはない。

 ナユタが一人暮らしを始めたのも中学二年生の頃からだが、本格的に境界の破れ目に足を運ぶようになったのは本当に最近になってからだった。ソラはそれより前から、たった一人で境界を修復する仕事を続けていたことになる。

 思わず冷や汗が背中を伝う。もし怪異に出くわしていたら。もし強力な異界に飲み込まれていたら。もし大量の死霊に対峙する羽目になっていたら。

 きっとソラの巫女としての力も今より強くはなかったはずだ。本人は何も語らなかったが、その何も語らない中に何度も危機があったのかもしれない。

 改めて、あの古戦場跡で出会えてよかった。それは自分がついていなければ危なっかしいという意味ではなくて、生きて会えてよかったという意味で。

「お姉ちゃん、ずっとおばあちゃんと練習してたんだよ。結界術とか帳の祝詞とか。あの頃は結構お姉ちゃんもピリピリしてたなあ。ここだけの話だけど、夜も一人で泣いてたみたい。部屋の中から聞こえてきてた」

 先程までのわくわくした表情から一変、真剣な表情になったカンナは、視線をやや下に向けて語る。

「私、帳の巫女の力を受け継げなかったこと、正直コンプレックスだったんだ。でもあの頃お姉ちゃんを見てて思ったんだ。帳の巫女って私が思っていた以上にとてつもなく大変なものなんだって」

 それはなんとなくナユタにもわかるものだった。力に伴う重責。それは帳の巫女も楔も、もしかしたら大きく変わらないのかもしれない。

「だから私、お姉ちゃんはすごいと思う。なんとか応援したいと思うんだ。もちろんナユタちゃんのこともだよ」

「カンナさんの思いはきっとソラさんに届いていると思いますよ。私も傍でできる限りの力でソラさんを守りたいと思っています」

「私、二人のこと本当に応援してる。応援することしかできないけど。お姉ちゃんは大切なお姉ちゃんだし、ナユタちゃんは大切な友達だと思ってる」

「……ありがとうございます。私もカンナさんは大切なお友達です」



 カフェを出た二人は少し離れた場所にある駐輪所に向かっていた。時刻は午後三時前。レンガ敷きの通りを抜け、コンクリートで舗装された大通りを歩いている。

 日は天頂から傾いたとはいえ、まだまだ高く、人通りもまだ多い。ところどころに植えられた並木にとまっているのか、セミの声も降り注いでいる。

 藤花台の夏は湿度が低くカラッとしているが、その代わりに日差しが強い。二人ともしっかり日焼け止めを塗って来ているが、それを貫通しそうなくらいの陽光だ。

 カンナとナユタはとりとめのない話しをしながら、ゆるやかな上り坂を歩いていた。流行りものに疎いナユタにカンナが流行の音楽やゲームアプリ、SNSアプリなどを話して聞かせる。さすがにすれ違う人も多い中で歩きスマホはできないので、ナユタはしっかりと覚えて帰ろうと必死で聞いていた。

 そんな中で。

 ふと、ナユタの視界の隅を何かが光りながら飛んでいった。

 思わず振り返って見る。

 ふわふわと光の粒子を散らしながら羽ばたいて飛ぶそれは、金色の蝶だった。

「あれは……」

 思わず足が止まった。

 明らかに現世のものではない。霊的な存在だ。

 よく注意してみれば、一匹、二匹と飛んでいるのが見える。

「ん?どしたの?」

 急に足を止めたナユタにカンナが問いかける。

「今、金色の蝶が……」

「ああ、あれか。ナユタちゃん、もしかして見るの初めて?」

「カンナさんは知っているのですか?」

 カンナは帳の巫女の力こそ受け継いではいないが、強い霊能力を持っている。霊的な存在が見えても何ら不思議ではない。

「あれは祖霊なんだって。おばあちゃんが言ってたよ」

「祖霊?ご先祖様の霊ということですか?」

「そう。もしかしたら今まではナユタちゃん、波長が合わなくて見えなかっただけかもね。ほら、もうすぐお盆でしょ。だからだよ」

 なるほどと思うと同時に疑問も湧いた。この地域では迎え盆は八月十三日だったはずだ。それより前に祖霊が帰ってきているのは境界の問題にならないのだろうか。

「えーと、なんだっけ。おばあちゃんが言ってたな。そうだ、釜蓋朔日かまぶたついたちって言って、八月一日にはあの世の蓋が空いて霊が帰ってくるっていう考えがあるんだって。たぶん今現世に祖霊が帰ってきてるのはそれなんじゃないかなあ」

「なるほど。それは知りませんでした」

 二人は再び歩き始めた。カンナは中に入った参考書の重みでずり落ちてきたリュックを勢いで背負い直すと、ナユタに訊く。

「そう言えばお姉ちゃんが夏は境界がどうって言ってたけど、お盆のことかな?」

「そうですね。お盆近辺は界域侵度が高くなる、つまり現世と幽世の距離が近くなる時期で、境界がとても不安定になる時期なんです。なので今は市内の帳の巫女が総出で修復にあたっていると聞いています」

「そっかあ。じゃあお姉ちゃんもナユタちゃんも忙しくなるね」

 リュックの肩紐に親指を掛けながら、カンナが言った。

「そうですね。ソラさんも私もいつ召集がかかってもおかしくありません」

 幸い今のところは呼び出されてはいないが、今日この後、あるいは今この瞬間に連絡が入ってもおかしくはない。

 藤花台市内で現役で活動する帳の巫女の人数はソラも入れて、両手の指で足りてしまう。今の時期は全員がオーバーワークを強いられているというわけだ。今日カンナと出かけられたのは本当に運がよかった。

「でも参考書選びもしてもらえたし、一緒にプレゼント選びもできたし、お茶もできたし、今日は楽しかったね」

 隣を歩くカンナがナユタの顔を見て嬉しそうに微笑む。

 ナユタもぎこちない笑みで頷き、それに応える。

 思えばこんなふうに友人と買い物をしたりカフェに行ったり、そんなことをした経験はナユタにはなかった。友人がいないわけではない。多いわけではないが、学校にも友人は何人かいる。けれどこうして出かけるほどの間柄ではない。

 ソラはナユタの中では友人のカテゴリーではあるが、それ以上にパートナーというか、バディというか、そういう相棒のような間柄という意識が強い。それにソラと一緒に出かけるといえば仕事の時。今度勇気を持って遊びに誘ってみようか。それくらいはきっと許されるだろう。


 駐輪所まであともう少し。人の流れもまばらになってきた。このあたりは商業ビルではなくオフィスビルが多い区画。カンナたちのような学生にはあまり用がない場所だ。

 そんな場所もあと一ブロック進めば駐輪所という場所に差し掛かったところだった。

 ふと、カンナの視線がビルの入口脇に引っ張られる。

 何かが置かれている。

「あれは……?」

「どうしましたか?」

 ワンカップ酒くらいの小さな瓶に赤い花が二本生けられている。

 を認識した瞬間、カンナの視覚がセピア一色に切り替わった。


『―――』

 遠ざかる。

『――』

 現実が。

『―』

 今が。


 自分の母親より少し年上くらいの女性が花を置いている。

 喪失の悲しみ。奪われた怒り。やるせなさ。行き場のない嘆き。

 女性が少女と手を繋いでいるのが見える。

 家族。大切な娘。絆。心。

 別の女性が男性と一緒にいるのが見える。あれは成長した少女か。恋人同士だったのだろう。強い恋慕の情。男性から女性への執着に似た感情。

 雨が降っている。

 雨が降っている。

 雨が降っている。

 執着の念。疑心。もうそれは愛情からは逸脱している。一方通行の感情。逃さない。自分のもの。疑心。離さない。雨が降っている。その雨の下で男女が向かい合っている。夏の夜。街灯。百四十文字でも四百文字でも収まりきらない激情。光る刃物。倒れる女性。救急車のサイレン。なぜ。疑問。どうして。疑問。薄れていく意識。途切れる命。母親。なぜ。疑問。どうして。疑問。呼びかける声。叫ぶように呼びかける声。答えはない。冷たい肌。雨が降っている。否定。病院の椅子。固いその感触。目に刺さる照明の明るさ。否定。疑問。否定。否定。否定。拒絶。わからない。わかりたくない。受け入れられない。受け入れてはならない。現実。回想。走馬灯のような過去回想。思い出。溶けていく記憶。解けていく存在。喪失。警察官の姿。話すことができない。雨が降っている。記憶の雨。流れて消えていく存在。悲嘆。死。死。死。死。死。死。死。死。死。否定。否定。否定。否定。拒絶。拒絶。拒絶。拒絶。拒絶。叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。罪業。罪悪。否定。拒絶。拒絶。拒絶。否定。拒絶。死。



「――さん!カンナさん!」

 強く体を揺すられて、ようやくカンナの意識は現実に戻ってきた。見ると、ナユタが心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。

「ナユタ……ちゃん」

「大丈夫ですか?何があったんですか?」

 つーっと頬を伝う感触がした。頭の中にはたった今見えた感情の奔流の残滓がまだ渦巻いている。情緒も思い切り引っ掻き回された。伝う涙を拭く気力も今はない。

「とりあえず駐輪所まで行きましょう。歩けますか?」

 力なく頷く。ナユタに手を取られ、ゆっくりと歩き始めた。幸いその時の人通りは多くなく、カンナの異変に気づいた通行人はいなかったらしい。

 一ブロックを過ぎて駐輪所に入り、おぼつかない手で自転車のロックを外し、のろのろと押して出口に向かう。駐輪所の出口ではナユタが待っていた。

「カンナさん、帰れますか?」

「……」

 即答できなかった。今、きっと自分はひどい顔をしているだろう。心の中もぐちゃぐちゃだ。こんな状態で家に帰りたくない。ちゃんと理由を説明すればわかってくれるとは思うが、それでも今の状態では家族にも会いたくはなかった。

 どんよりとした表情を見たナユタは、眉を下げて言った。

「少し、私の家で休んでいきませんか?」

「……え……いい、の……?」

「はい。そんな状態のカンナさんを放っておけません。落ち着くまで私の家で休んでいってください」

 いつもは控えめなナユタだが、こういうときは意外と積極的になる。こういうところは姉に似ているかもしれない。弱りきった頭の片隅で、カンナは思った。

「……うん。わかった。ありがとう、ナユタちゃん」



 ◇



 家に着いたナユタは、一旦カンナを外で待たせて、手早く呪詛の祝詞と御札の上にカレンダーを貼り付けて隠した。楔の力が展開されていれば気づかれることもないだろう。現にソラも初めて来た時に視認するまで気づかなかった。

 カンナを呼び入れるとソファに座らせ、冷蔵庫に入っていたジュースをグラスに注いで渡す。

「なんかここ、不思議だね。神社の修行部屋みたいな感じがする」

 カンナがジュースをちびちび飲みながら呟いた。

「私の力の影響かもしれませんね。空間を祓い清めるものだそうなので」

「そっか。だからナユタちゃんの近くにいると落ち着くのかな」

 街なかにいたときよりも、カンナは随分と落ち着いているように見えた。もっともナユタにはその内面までは見えないし、あの場で彼女に何が起こったのかもわからない。そしてそれを無理に聞き出そうとも思っていなかった。

 カンナは落ち着いて見えるとはいえ、相変わらず斜め下に視線を向けている。

 部屋の中にはエアコンの音だけが響いていた。

 沈黙を破ったのはカンナだった。

「あのね、私、見えるんだ。感応視かんのうしっていうんだっけな。そういう力があるの」

「感応視?」

「そう。場所とか物とかに宿る人の思いを見る力。巫女の眼から派生した力なんだって。それでさっきの花を見た時にそれが発動しちゃって。自分でもまだうまく制御できなくて」

「なるほど。そういうことでしたか」

 それで合点がいった。ナユタからすれば突然カンナが凍りついたかと思ったら、静かに涙を流していたのだ。とても只事だとは思えなかったが、それなら納得だ。

「さっきの花、娘さんが恋人に刺された人が供えたものだったみたい。その記憶と感情が頭に流れ込んできて。ナユタちゃんが引き戻してくれなかったら危なかった」

 カンナはまた一口ジュースを飲んで続ける。

「普段はああいう場所があると、認識する前にピントをずらして見ないようにしてたんだ。だけど今日のは完全に不意打ちだったな。どうしようもなかった」

 顔を上げて眼の前のベッドの上にある窓を眺める。レースのカーテン越しにはまだ青空が広がっていた。時折遠くを走る車の音が聞こえてくる。

 ナユタの過去視は初めからオンオフの切り替えが自分の意思でできていた。だからそれができないカンナの苦労がどれほどのものなのか、ナユタには想像することしかできない。今回のようなことはきっと初めてではないのだろう。今までも自分の意思とは関係なく能力が発動してしまうことはあったに違いない。

「はー。ナユタちゃんに話したらちょっとすっきりしたかも。やっぱり一緒にいると落ち着くよ」

 空になったグラスを目の前の折りたたみ式のテーブルに置きながら、カンナが言った。

「そう言っていただけると嬉しいです」

 今日一日が楽しい一日として終わってほしい。ナユタはただそれだけを思った。せっかくあれだけ二人で楽しんだのだから。

 ナユタはカンナの顔を見た。ここに来る前よりも表情は確かに明るくなっているように見える。内心胸を撫で下ろした。

「よし!」

 カンナが両手でぱちんと両頬を叩いて立ち上がった。

「明日はお姉ちゃんの誕生日だし、いつまでも凹んでらんないね!ナユタちゃん、今日はありがとう。私たぶんもう大丈夫」

 そう言うとカンナは脇に置いてあったリュックを背負って、ナユタに笑顔を向ける。決して取り繕っているわけではないような笑顔。いつも通りとまではいかないかもしれないが、ナユタの家に来て話をして、メンタルのほうはかなり回復したようだ。

「よかったです。また明日、ですね」

「うん。また明日ね」

 そう言ってその日、カンナは帰っていった。



 ◇



 翌日、八月三日。

 ソラは一人、部屋で夏休みの課題に向き合っていた。大量のプリントや冊子。もちろんそのほとんどすべてはまだ白紙だ。夏休みが始まって十日近く経っているというのに、一向にやる気が起きない。思わず頭を抱えたくなる。

 廃ビルの異界に『黒い人』事件。ここのところ立て続けに大きな事件に遭遇してきたこともあって、学業のほうは完全におざなりだった。

 けれど、学生にとってみればただただ厄介なだけの宿題の山も、ソラにとっては日常を象徴するもの。自分が今『こちら側』にいるのだと伝えてくれるもの。時折忘れることがある。自分が今『どこにいるのか』を。

(帳の巫女の宿命、か……)

 中学二年生になって、いざ現場に出る準備ができた時、祖母とサクヤから心構えとして伝えられたことがあった。

 それは、帳の巫女は日常と非日常の狭間に永遠に立ち続けるという宿命。

 日常には完全に戻れないし、非日常に染まり切ることもない。それこそ彼女たちが現世と幽世の間に立って境界を守護するのと同じように、日常と非日常の狭間に居続けることになるのだと。

 あの頃はよくわからなかった。けれど今ならそれがなんとなくわかる。どっちつかずの曖昧な存在なのだと理解し始めていた。

 帳の巫女の力は生まれた時から魂と一体化している。だから捨てることはできない。死ぬまでこの力とともに生きることになる。それは祖母が以前語った通りだ。そしてこの力がある以上、境界をとりまく非日常と無縁ではいられない。

 これまでもそうだった。たとえば放課後。どれだけ楽しく友人と談笑していたとしても、サクヤからの電話一本で境界の修復という非日常の使命に向かわなければならなくなる。そこで日常からは切り離されてきた。

 そういういろいろをつらいと感じたことが、ないと言えば嘘になる。

 帳の巫女の力を持って生まれたことを、悔いたことがないと言えば嘘になる。

 けれどソラは努めてそれを外には出さなかった。それはたぶん、カンナがいたから。自分に向けられる憧れをどこかで感じていたからこそ、泣き言は言えなかった。

 この二年で色々なものを割り切ったし、飲み下した。

 自分がこの先、帳の巫女としてどう生きていくのかはわからない。ナユタほどの使命感や責任感は自分にはないのかもしれない。それでも、少なくとも大切な人たちの暮らす街を守りたいという動機はあった。

(正直、現世を守るとかってスケールの話、まだピンと来ないんだよね)

 高校一年生のソラが知るのはこの藤花台の街だけ。ソラの知る世界のすべてはこの街。だからソラが守る世界とは、この街に他ならない。

 そしてもうすぐ、この街を守るための重大なイベントが待っている。それが行われるのが十日後の八月十三日。迎え盆の夕方だ。

 現世と幽世が一年でもっとも近づくこの日は、市内の帳の巫女たちが鏡見邸に集合し、全員の霊力を合わせて大儀式『大門の儀』が行われる。この日のために巫女たちは鏡見邸に集まって繰り返しリハーサルをしてきた。

 そして今回はその儀式をサポートする役割としてナユタも呼ばれている。文字通り、市内で境界を守護するすべての人員が集められるのだ。

(緊張するなあ。今回はナユタもいるから大丈夫だと思うけど)

 中学二年生の冬から本格的に活動を始めたソラは、今年で二回目の参加になる。前回は先輩の巫女たちの力に支えられてなんとかうまいこと運んだが、今年は自分も主戦力としてカウントされている。失敗は許されない。

 伝統行事としてのお盆がつつがなく行われるために、帳の巫女たちが裏方として現世を幽世から守護する。日常から逸脱した場所に立って、日常を守る役目を負うことになるのだ。

(頑張らなきゃな。……あと宿題も)

 ソラの思考が現実に着地した、その時だった。


 ピンポーンと玄関チャイムが鳴る音がする。

 次いで向かいのカンナの部屋のドアが開く音と、そこからドタドタと走っていく音がした。

(……?カンナの友達かな?)

 とりあえずそれらを思考の隅に追いやって、簡単そうな現国のプリントに手を付けようとしたところで。

「お姉ちゃん!今入ってもいい?」

 ノックとともにドア越しにカンナの声がした。

「なあに?いいけど」

「やった!入るねー」

 ドアが開いて、カンナが部屋に入ってくる。その後ろからもう一人。

「え?ナユタ?」

 そこには無地の黒いTシャツにデニムのショートパンツ姿のナユタが立っていた。

「はい。おじゃまします」

 そう言ってカンナに続いておずおずと部屋に入ってくる。その手には小さな箱がぶら下がっていた。

「はい。お姉ちゃん。そこに座ってください!」

 威勢のいいカンナの声が響く。ソラは言われるがまま、部屋の中央に置かれたローテーブルの前に行き、座布団代わりにしているせいでぺったんこになっているクッションの上に腰を下ろす。

 カンナとナユタは何やら顔を見合わせてニコニコしている。ナユタは持っていた箱をテーブルの上に置くと、横の蓋を開けて中身を引っ張り出した。

 そこに並んでいたのは三ピース分のフルーツケーキ。

 ナユタは手早く箱を片付けると、カンナと息を合わせて言った。

「ソラさん、お誕生日おめでとうございます」

「お姉ちゃん、お誕生日おめでとう!」

 ああ、そういえばそうだったか。嬉しさに先行して、頭の中でカレンダーの日付に今思い出した自分の誕生日を照らし合わせながら考える。ついに自分の誕生日を忘れるほどになってしまったのかと、変わってしまった自分に若干嘆きつつ、目の前の二人の嬉しそうな顔を眺めていた。

 その二人の顔を見て、ようやく実感が湧いてくる。

 十六歳になったのか。

 それと同時になんとも言えない温かな気持ちが湧き上がってくるのを感じる。こんな気持ちになるのは本当に久しぶりだった。

 そう、嬉しいんだ。とても。

 涙が込み上げてくるのを感じた。泣くなんてガラじゃないと自分に言い聞かせて、なんとか押し留める。

「ありがとう。その、すごく嬉しい。カンナも、それにナユタも。本当にありがとう」

 言葉に詰まりながら、素直な気持ちを伝える。カンナはいつも通り輝くような笑顔で、ナユタも控えめながら嬉しそうな笑顔で、それに応じた。

「お姉ちゃん、最近忙しそうだったから、きっと誕生日忘れてるんじゃないかと思ってさ。その、大きな仕事も近いんでしょ?だからその前の景気付けも兼ねてというか。とにかくお祝いしたかったの!今年はナユタちゃんも一緒に!」

 カンナがそう言っている間に、ナユタは手早く紙皿にケーキを取り分け、プラスチックのフォークを添えて配膳を済ませていた。

「いや、まあ、普通に忘れてた」

「だと思った!あとお姉ちゃん、泣くのはまだ早いよ。ね、ナユタちゃん」

「そうですね」

 ナユタは持ってきたバッグの中から紙袋を取り出すと、その中からラッピングされた小さな包みを出してソラに差し出した。

「えっと、これは私とカンナさんからです。ソラさんに」

「え、私に?二人から?」

「そだよ!開けてみて!」

 包みを受け取ったソラは、裏側にあったテープを剥がして丁寧に包装を解いていく。やがて現れたのは、二人がアクセサリーショップで選んだ花の装飾が散りばめられた金色のバレッタだった。

「え、これめっちゃかわいい……もらっていいの?」

「もちろんです。その、ソラさんは仕事の時よく髪を結んでいるので。ヘアゴムの代わりに使っていただければと思って」

「それナユタちゃんが最初に見つけたんだよ!」

 普段アクセサリーにはそこまでこだわりがない分、人からもらうものは嬉しい。そういうものと言われればそれまでかもしれないが、二人からのプレゼントであるという事実が、ソラにとってはなによりも特別だった。

「ありがとう。これ、早速使わせてもらうね」

 涙でぼやける視界の中、カンナとナユタが笑顔で頷くのが見えた。

 たぶん、忘れないだろう。今日のこの日のことを。確かに帳の巫女は日常と非日常の境界線上に立つ曖昧な存在なのかもしれない。それでも日常ここにいていいんだと、許された気がした。少なくとも今この瞬間は。三人であれやこれやと談笑しつつケーキを食べながら、意識のどこか隅のほうでそんな事を考えていた。



 ◇



 その夜、夢を見た。

 遠い日の記憶。幼い頃の誕生日の思い出。

 リビングのお誕生日席に自分が座っている。目の前にはケーキやチキンなどのごちそう。それを囲うのは家族の面々。父、母、祖母、カンナ。

 カンナ?

 もう一人、カンナの隣に誰かがいる。

 けれどその姿は黒いマジックで塗りつぶしたようにぐちゃぐちゃで、見えない。それが男なのか女なのか、人間の形をしているのかいないのか、それすらもわからない。けれどはカンナの隣に座っていて、一緒に自分の誕生日を祝っている。

 誰?

 あなたは誰?

 夢の中でそう問いかけた瞬間。

 目の前が赤黒く変色していく。どろどろ、ぐちゃぐちゃと音を立てて。

 目の前を見る。皿の上に美味しそうに並んでいたごちそうは、いつの間にか目を背けたくなるような肉塊か臓物のような、赤黒く粘ついた塊に変わっていた。

 改めて周りを見渡す。

 家族の姿はもうどこにもない。

 それどころか、家の天井からは無数に板が垂れ下がり、カーテンは破れ落ち、まるで初めから廃墟だったかのように荒れ果てている。

 思わず立ち上がって、ガラスが外れて枠だけになったリビングの掃き出し窓から外に飛び出した。家の脇の細い道をひた走る。ここにいてはだめだ。ここから逃げなくてはいけない。

 やがて景色が開け、神社が現れた。本殿は今にも崩れそうなくらいに木が腐り、賽銭箱はぺしゃんこに潰れ、社務所も壁が崩れている。ここもだめだ。そのまま参道を走り抜け、歪んで斜めになった鳥居をくぐり、走り続ける。

 だめだ。だめだ。だめだ。

 息が上がる。体がばらばらになりそうだ。それでもここにいてはいけない。ここにいては自分もおかしくなってしまう。だから逃げなくてはいけない。だから走る。

 走っていく速度に合わせるように、あり得ないスピードで日が沈んでいく。あたりの景色はどんどん寂しくなっていき、とうとう何もない場所まで来た。そこでようやく足は止まる。

 空を見上げた。黒い空に宝石をばらまいたかのような星空が広がっている。足元には柔らかな草の感触。さあっと風が通り抜けると、さわさわと草原の草が音を立てた。

 あなたは誰?

 目の前にはあの黒い影が立っている。自分を見下ろしている。

「■■■■■、■■■■■■■。■■■■■■」

 今なんて言ったの?

 言葉を発したのはわかった。だけどその言葉は届いてこない。わからない。

 その人にまつわる記憶で最初に忘れるもの。それは声。だから聞こえない。

 黒い影がこちらに手を伸ばしてきた。

「■■■■■■■。■■■」

 どうしてかわからないけれど、その手を取った。

 自分の小さな手がぎゅっと握られる。

 温かくて、柔らかな感触。なぜだか、とても安心した。

 ああ、これでいいんだ。そう思えた。



 夢から覚めた瞬間、一瞬呼吸を忘れていることに気づいた。慌てて大きく息を吸うと、きゅうっと喉が音を立てながら、体の中に空気が入ってくるのを感じる。それと同時に、横向きに寝ていた自分の目と目の間をつーっと涙が伝う感触があった。

 泣いている?どうして?

 夢の内容はもうすでにぼんやりと忘れかけていた。

 それでもその感情だけは、夢の中で感じた気持ちだけは覚えている。

 懐かしいという、その感傷に似た思いだけは。



 ◇



 八月四日、午後一時過ぎ。

 ソラは一人、与野坂地区郊外の自然公園にいた。

 木々が生い茂っているせいでセミの大合唱があたり一帯を包んでいる。太陽は突き刺すように照っているが、遊歩道の脇、木陰を歩いているおかげでそこまできつい暑さは感じなかった。ともあれ、暑さで体力を奪われるわけにはいかない。

 髪はいつものポニーテール。普段と違うのはヘアゴムではなく、カンナとナユタからもらったバレッタを使って留めているところ。木々の隙間から差す光を反射して控えめに光っていた。今日は一人での仕事だが、気持ちの上ではカンナとナユタ二人分の想いを背負っている。

 スマートフォンを取り出して地図アプリを立ち上げた。現在地を思い切り拡大し、目的の場所に立てたピンを再確認する。遊歩道から外れて森を抜けた先。衛星写真では小さく開けたようになっている場所だ。

 座標の送り主はもちろんサクヤ。広域霊視の結果、小規模だが強い境界の歪みが見つかったとのことで、その修復にソラが駆り出されたのだ。

 今日は市内の中学生が対象の模試が行われる日で、カンナもナユタもそれに行っていた。ナユタと出会ったのがちょうど一ヶ月くらい前だから、それ以来の単独任務となる。少し前は単独行動が当たり前だったのに、この一ヶ月の間に大事件が立て続けにあったせいか、いつの間にかナユタが隣にいるのが当たり前になっていた。

(ナユタたちも頑張ってるんだから、私も頑張らなきゃな)

 遊歩道が二又に分岐した場所まで来た。ピンの位置はここから東に四百メートルほどの場所にある。ソラは縁石として並べられていた丸い石をまたぎ、遊歩道から外れて芝生の上を歩き始めた。

 ハイカットの平たいスニーカーの靴底を通して、ふさふさとした芝生を踏みしめる感触が伝わる。

 この公園には小さい頃に親に連れてきてもらった覚えがあった。あのまま遊歩道を外れずに進めば広い芝生の広場があって、よくカンナとそこで走り回ったりボールで遊んだり、シャボン玉を飛ばしたりしたことを覚えている。

 そんな思い出の場所で、成長した自分は境界の修復をしようとしている。

 その因果にどこか皮肉なものを感じずにはいられなかった。


 木々の生い茂る中、めったに人も来ないであろう場所に向かって進み続ける。

 正直言って人の来ない場所に破れ目があることは不幸中の幸いだった。これまでもそうだ。自分が知る限り、街のど真ん中のように人の多い場所に破れ目が発生した案件はなかった。

 人の来る場所で破れ目が発生するところといえば、心霊スポットと呼ばれている場所ぐらいか。訪れた人の何人かは確実に幽世に消えてしまっただろう。人が消える。行方不明になる。神隠し。それにまた尾ひれがついて、都市伝説が更新されていく。

 だから六家は躍起になって対抗神話を流布し、都市伝説の無力化を図っているのだ。現代の神話とも言える都市伝説。それを信じることはつまり信仰することとと同義。信仰が集まれば当然事象の強度は高まる。その結果として怪異や境界の破れ目、歪みは強化されてしまう。

 足元に降り積もった小枝がパキパキと音を立てる。

 ソラは巫女の眼に視覚を切り替えた。強度の高い境界の歪み。何らかの怪異がいてもおかしくはない。今のところは整った境界面がその視界に映るだけだ。


 そして森を抜け、そこに辿り着いた。


 木と木の間、ソラの目線の先にはざっくりと何かで深く切り裂いたかのような境界の裂け目があった。確かにサクヤの言っていた通り、規模は小さいが通常の破れ目やほころびよりはるかに強度の高い損傷だ。

 すぐに帳の儀を始めようと、両手を裂け目にかざした。


 その時。


 がさ、と音を立てて裂け目の横の茂みから何かがふらりと出てきた。


 はおぼつかない足取りで裂け目の前に立ち、こちらを向いている。

 上下灰色のジャージを着ていた。両手は前に垂れ下がり、その首は不自然に伸び上がっている。目は今にも弾けそうに充血していて、口からは膨れた舌がまるで別の生き物が這い出しているかのように飛び出ていた。


「っ!」


 死霊。

 それも、おそらくこの場所で首を吊った者の。

 直感でわかった。この死霊のせいで境界の裂け目が生まれている。おそらく界域侵度が高まっている今の時期と重なったことで、ただの死霊でもこれだけ深い裂け目を生んでしまったに違いない。

 左手のブレスレットが熱を持つのを感じた。

 忌避感と使命感。

 二つの感情が同時にソラの中に生まれる。

 あれをなんとかしなければならない。

 でも……。


 その一瞬の逡巡が隙になった。


 死霊が舌を垂らしたまま、ゆらりと片手を上げる。ソラは慌てて両手をパチンと合わせて結界術を発動させたが、相手から飛んでくる念のほうが速かった。


 ぽたり。


 鼻の頭に雫が垂れる感触。

 ぽたり。

 それは次々と上から降ってきて、やがて視界を煙らすほどの赤黒い雨になった。

(まずい……これは……!)

 ソラは霊力の回転数を上げて結界を強化し、さらにサクヤのブレスレットに流れる霊力も使ってブーストをかける。念の雨をもろに浴びることは防げたが、初撃は食らってしまった。


 頭の中にどす黒い想念が侵入してくるのを感じる。



 男は■■■だった。それは■■■■に基づくもので、■を■■で■■を■■ば■■類のものではなく、人格の■■■で■■をきたすものだった。だから本来男に罪はなかった。生まれる■■は選べない。たまたま生まれた■■が酷いところで、それが原因で■になってしまったのだから。

 男の■■には■がいた。友人がいた。けれど■にとって自分はこの世界の異物で、友人たちは■■に■■■■きた別の世界の住人。■は許せたが■を許すことはできなかった。男の■■には人がいた。だけど男は孤独だった。

 ■は空虚だった。やりたいことはなかった。■■と言われたことを■■■■■■■■■きた。だから■■■■ことはなかった。そんな男を■■は認めてはくれなかった。■は社会に拒絶され続けた。数え切れないほど■傷を負った。

 ■■■男にも愛■■人が■■■。自分の■■■傷を理解■■■■■人■できた。■■■■本当の言葉■、偽らざる自分■■■■■場所■■■■。男にとって■■■、人生■■■■初めて■■■■■■。■■だった。

 だが男の■は■■を歪めて■■■ものだった。だから男は■■■■を、■■■■■にもかかわらず■■■■しまうこともあった。■■■■は、それでも■■■くれた。■■■くれた。

 時は流れて■■■■■■■■■。男にとってそれは■■の身に■■幸福だった。恐ろしさすら感じるほどだった。自分が、愛情を■■■■が、穢れた■■が、こんなに幸せ■■■■いいのだろうか。そんなふうに■■■■■した。

 それでも■によって歪んだ■は、たびたび■■■■を■■■■。■■で、時には■で。■■が■■でなくなるような■■に■■■ながら、■■■■を■■■た。そのたびに男は■■し、■■し、■■■罰■■。

 やがて■■の■に■■■が■■■た。その■のことは男の■■に■■■■■■■■。だが■■■■て■■■■■が■に■■ことが■■■のか、男は■■だった。そして■■■■を■■■■■は誰も■■■■た。

 ■■■は男の■■■■との■■だった。■■■が泣く■■に■■■■■■■■■■■。■■で■■た■との■■■■。■■の■■。せめて■と■■■に■■が向かない■■■と、男は■■の■を■■■続けた。

 だが■■■もう■■だった。ある■、男はついに■■の■■に■■■■■た。もう自分ではどうしようもなかった。■■■にあったのは『■■■』の■■だけ。■■■の■■■がわからなかった男は、ただ■■■な■■を■■しかできなかった。

 ■が■■を呼び、■は■■された。■■の■■で■まで■■に■■■■■■は、■が■■■■■■■た。■■■の■。■と■■■は■■へ■■■■いた。■■が■■■■■■を■■■■■■■■■、そのまま■で■■■■た。

 ■■を■■■も■■で、■だけ■■■■■した。

 ■■■■になりながら■■■■■■■■■を■■ると、■■には■から■■■■きた■■が入っていた。■■■で■■■■■を出す。

 ■■■だった。

 全部■■のせい■■■■■■、■が一番よく■■■■■■。■にも■■■にも■■を■■■■■こと、そして■■■■からも■を何度も何度も何度も何度も■■■■きた■■も。■■■すべて■■■罪。罪悪。罪業。

 だから罰が必要だ■思った。結局■■は■■■■■■■■■■■■、■■に■■■■■■化け物だった■■■、■■■■■した。化け物は■■の■■で生きていてはいけない。だから消えなくてはいけない。

 それが罪に対する罰だと■■■。

 ■■■■■■■■だけでもう足りない。■■■いること自体が■■■罪なのだ。■■が■■している事自体が罪なのだ。だから罰が■■。

 ■■■に■■■あった■の■■■■■を持って、■■■の■■に■■■■と入っていく。ゴミの■■に■■■て育って■■■■だ。■■■よう■死んで■■■が似つかわしい。

 ■■■■■■■で■■■を■■■、■を■る。■に■■■ける。■に■を■す。そのまま■■の■を■■■■て■に■り、■■■の■に■った。

 ■■は処刑台だ。罪人で■■自分が罰を受ける■■の場所だ。

 生まれ変わりなどなければいい。人生のリセットなどなければいい。

 ■■■■、初めから自分の存在がなかったことになればいい。

 そう■■て、■■■飛び降りた。



「……っく、うっ!」

 死霊は相変わらずはち切れそうな眼球でこちらを見ている。今その男を動かしているのが何なのか、わかりたくもない。赤黒い雨は相変わらず降り続いているが、強化した結界がすべて防いでくれている。

 死霊の、男の人生の凝縮された一滴を受けた。それは呪詛というより想念の結晶のようなものだ。わかってほしいという、あるいは助けてほしいという、男の一生を貫いたのは、ただそんな願いだけだったのだろう。

 だけど。

「――私は、お前に同情したり、しない」

 ソラの中にあったのは怒りだった。脳が発する生理的な吐き気を喉の奥で堰き止めながら、相対するを睨み据える。死霊に対する忌避感は鳴りを潜め、今その心中には目の前の不条理に対する真っ直ぐに突き刺すような怒りだけがあった。

「――苦しんだ先に選んだ死なら、死んでも苦しむな!罪悪感で死を選んだなら、死んだ後も罪を重ねるな!」

 そんな言葉が相手に届くとは思っていない。だけど叫ばずにはいられなかった。どうしようもないことはわかっている。きっとすべての歯車が初めから狂っていたのだ。

 ソラは合わせた手を解いて、死霊とその向こうにある境界の裂け目に向けた。

 こんなことはもう終わらせなければならない。

 終わるべきものは終わらなければならない。

現世幽世うつしよかくりよを分かち給いし大神よ」

 それが今ここにいる帳の巫女としての自分の使命なのだろう。

「黒き光出でし境にて」

 徐々に赤黒い雨が弱くなっていき、やがて止んだ。

 代わりに金色の光が舞い始める。

まがつ影を払い」

 それは通常の祝詞にはないフレーズ。追儺ついな式と呼ばれる術式が組み込まれた特別な帳の祝詞。境界の破れ目の向こう側へと怪異を追放するためのものだ。

 もう、終わりにしよう。こんなことは。

「再び現世うつしよに立ち入れぬことを」

 同情も、共感も、決してしたりはしない。死者と生者はもう違う存在だから。どこかで線を引かなければ、世界のルールが成立しなくなってしまう。帳の巫女とは、その線引きを任された存在なのだから。

「今固くそのかんぬきを掛け」

 死霊が昏い裂け目に引き寄せられていく。まるで重力源に引き寄せられていく天体のように。死者は死者の世界へ。あの死霊は十分に苦しんだ。生前から自分の行いを悔いていた。だったらもういい加減終わっていいはずだ。幽世に行った死者がどうなるかは知らないけれど、その罪と罰のループはここで断ち切らなけれればならない。

「帳を下し給え」

 裂け目の向こう、幽世に死霊が吸い込まれて消えていった。その裂け目も徐々に周囲の境界面が伸びるようにして塞がっていく。

かしこかしこもうす」

 周囲を飛び交っていた金色の光は霧散し、境界の裂け目も完全に塞がった。


 両手を下ろして大きく息をつく。

(…………)

 激情に突き動かされた手はまだ震えていた。それに気が抜けたからだろうか、目からはゆるゆると自分の意思とは関係なく涙が流れてくる。こんなんじゃだめだとわかっているのに。この程度のことで情動をかき乱されてどうする。

 しかしソラが見たあの死霊の一生にはそれだけの重みがあった。死者の念だと割り切ってはいるものの、あの死霊の、あの男の感じてきたこと、考えてきたこと、そういった想念はまだ頭の中に張り付いて、情緒を揺さぶっていた。

 少し移動して木陰に腰を下ろす。

 左手にはめたサクヤのブレスレットに霊力の回路を接続した。彼女の無色透明の霊力が流れ込んでくるのを感じる。清涼な湧き水が注ぎ込まれるような感覚。もちろんサクヤ本人が直接霊力を供給してくれるのとは比べ物にならないくらい僅かだが、それでも体内に残留している死霊の念を浄化し、霊力を補給するには十分だった。

 流麗な霊力で体内にこびりつく想念が洗い流されていくのを感じながら、思う。

 自分はちゃんとあの死霊に引導を渡せたのだろうか。

 それは決して共感や哀れみからではない。

 終わりたいと願って死を選んだのに、死霊として存在が続いてしまっていた不条理を終わらせたいという思い。ソラの中にあったのは、ただそれだけだった。

 死者のすべてが死霊として現世に残るわけではない。あの死霊は自分で死を選びながらも、どこかで助けてほしいという思いがあったのだろう。それだけの違いだ。

 少なくとも自分にできることはすべてやった。あとは誰も知らない幽世の理によって、あの死霊の存在が終わることを願うことしかできない。

 震えが収まってきた両の手のひらで涙を拭う。


 その時、斜め掛けにしたウェストバッグの中でスマートフォンが振動するのを感じた。取り出して画面を見る。

 サクヤからの着信だった。

「はい」

「鏡見です。今しがた自然公園の境界の正常化が確認できました。お疲れ様でした。今はどちらに?」

「まだ現場です。今ちょうど霊力を補給していました」

 ブレスレットと霊力の回路は繋がったままにしているので、こうしている間にも少しずつ補給はできている。

「そうですか。立て続けで申し訳ないのですが、次の依頼です。陽実ひみ霊園西側の竹林内、境界の破れ目が観測されました。今日は自転車ですか?」

「いえ、バスです」

「それはちょうどよかった。霊力の補給と休憩ができ次第、向かっていただけますか?」

 夏休みに入ってからサクヤからの依頼は増える一方だった。ここから十三日の迎え盆に向かって幽世と現世の距離は近づいていき、界域侵度はどんどん高まっていく。それにつれて境界の修復案件もこれまで以上に増えていくだろう。だが明日からはたぶんナユタも合流できるはずだ。

「わかりました。向かいます」

「ありがとうございます。座標は後ほどお送りします」

 電話はそこで切れた。

 ソラは視線を上げる。常緑樹の葉の隙間から青空が見えた。一戦終わった後の束の間の休息。樹齢何年かわからない太い幹に背中を預け、霊力の回復を待っている。


 その視界を金色の蝶が、光を散らしながら横切っていった。

(もうすぐか)

 それは感慨とも焦燥とも違う感情。あと九日後に迫った迎え盆と『大門の儀』。一年でもっとも境界が不安定になる日。鏡見家以外の六家の管轄する地域でも同時に儀式が執り行われると聞いている。今日も境界の修復が落ち着けば鏡見邸に集まってリハーサルが行われる予定だ。

(今年も何も起きませんように)

 ソラは立ち上がると、遊歩道に向かって歩き始めた。

 次の境界の修復に向かわなくてはいけない。


 金色の蝶は相変わらず、ゆらゆらと視界の隅を飛んでいた。


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