三 ひとりぼっち

 廃ビルの異界から生還して一週間ほど経ったある水曜日、ソラが学校で帰り支度をしていると、クラスメイトの宮部ユイナから声を掛けられた。

「どしたの?」

「ねね、ソラ。これ知ってる?」

 そう言ってユイナはスマートフォンの画面を見せてきた。映し出されていたのは、匿名掲示板の中で怪奇現象を扱うスレッドをまとめたサイトだった。中には映画になったものもあるくらいだ。当然ソラも良く知っている。

「知ってるよ。あんまり詳しくないけど」

「そっかあ。実はさ、これ。これなんだけど……」

 ユイナは並んだリンクの中から『黒い人』と書かれたものをタップして見せた。

「この話さ、私の友達の友達に霊感あるっていう子がいるんだけどさ、その子が似たようなのに与野坂よのさかの商店街らへんで遭ったって言ってるらしくて」

「へえ……」

 ソラはユイナからスマートフォンを受け取ると、リンク先のスレッドを読み始めた。内容はそう複雑なものではない。

 夕方から夜中にかけて街を歩いていると、ふと人や動物の気配がなくなる。それで後ろを振り返ると身長二.五メートルはあろうかという黒いワンピースのようなボロボロの服を着た、男とも女ともわからないモノが立っている。

 特徴はその背丈と異様に長い手足。どういうわけか顔は見えない。そしてそれは遭遇者に何かしら言葉を語りかけるという。「どこそこはどこですか」とか「どこそこへいきませんか」とか、そういう感じ。

 スレッド内では自分も遭遇したという書き込みが何件もあった。感染するタイプの怪異だろうか。それにしてはこの文面からは感染させるような悪意や害意の類は感じられない。

 一通り読み終わってソラはスマートフォンをユイナに返す。

「どう思う?」

「うーん。私にはなんとも。その人は無事だったの?」

「なんかダッシュで逃げて、それからはなんともなかったらしいよ」

「そっか。なるほど。それなら出歩く時間帯気をつけてれば大丈夫かもね」

「それって逢魔時おうまがときってやつ!?」

「そ。あとまあ、夜に女子高生一人で出歩くの、普通に危ないし」

「あは。それもそっか。ごめんね、ソラ。準備の邪魔しちゃって」

「いや、全然いいよ。あ、もし気になることがあったら、一応教えて」

「うん、わかった。やっぱ巫女さんに相談できると安心するわー」

「あはは……」

 じゃあねーと手を振りながらユイナは去っていった。残されたソラは帰り支度を再開しながら、ついさっき見た都市伝説について考えを巡らせていた。




 ◇




 その週の金曜日、放課後にナユタはソラに家へと呼ばれた。今後共に行動することになるのだから、家族に紹介しておきたいとのことだった。

 ナユタは自転車を漕ぎながら、あれやこれやと考えていた。どう挨拶をしよう。楔の力のことをどう説明すればいいのだろう。そして何より、こんな自分が受け入れてもらえるのだろうか。

 逡巡しながら自転車を走らせていると、木々に囲まれた道の奥に鳥居が現れた。天見あまみ神社。それほど大規模なものではないが、常磐ときわ家が代々受け継いでいる歴史ある神社である。

 ナユタは鳥居の脇に設けられていた駐輪所に自転車を停めて鍵を掛けると、鳥居まで歩いていき、その前で一礼した。それから鳥居の右側に寄ると、右足で一歩踏み出して鳥居をくぐった。

 参道からはまっすぐ本殿まで敷石が敷かれ、その周りには灰色の玉砂利が敷き詰められている。本殿の方からは参拝客らしい老夫婦が歩いてきて、ナユタとすれ違う時に軽く頭を下げた。ナユタも頭を下げる。それ以外に人の姿は見えなかった。

 手水舎を見つけたナユタは脇にカバンを置くと、作法に従って手と口を清める。ハンカチで手を拭いていると、風によって木々の葉が揺れて擦れる音や、近くの公園で遊ぶ子どもたちの声が聞こえてきた。

 ナユタはカバンを持ち上げると本殿へ向かう。本殿前に立てられた木の柵の前に立つと、一礼して財布から出しておいた小銭をその奥にある賽銭箱に投げ入れた。それから二礼二拍手をし、目を閉じて祈りを捧げる。

(どうか、この地をお守りください)

 目を開けて一礼すると、踵を返して歩き始めた。

「ナーユタ」

 本殿の横にあった社務所の脇から、竹箒を持ったソラが現れた。彼女もまだ帰ってきてからさほど時間が経っていないのだろう。リボンタイが特徴的な制服を着ている。

「ソラさん。いらっしゃったんですね」

「うん。ちょっと手伝いで掃除してた。さすがだね。お参りの作法も完璧」

「いえ、このくらいは」

 ソラは社務所の裏に竹箒をしまうと、ナユタの方に駆け寄ってきた。

「ごめんね、急に呼び出しちゃって。勉強も忙しいのに」

「大丈夫です。家では一人なので勉強には集中できるんです」

 眉を下げながら笑って言う。

「そっか。修練も受験勉強もどっちもやっててすごいよ。カンナに爪の垢を煎じて飲ませたいくらい」

 二人は本殿前を横切ってその先にあった細い道を歩き始めた。

「カンナ……さん、というのは、ご姉妹、ですか?」

「そ。私の妹。ナユタと同じ中三なんだけどね。あんま危機感なくってさ。大丈夫かなって」

 道を歩いていくと木々の先に家が現れた。比較的現代的なデザインの、割とよくある感じの一戸建て。

(これは、結界?)

 ナユタに『巫女の眼』はないが、その霊能力で感じ取れるほど強力な結界が張ってあるのを感じた。神社ほどではないが、この家も神域に近いレベルで浄化されている。さすがはとばりの巫女の家系だとナユタは思った。

「はい、ここが私の家」

 そう言ってソラは玄関のドアを開けた。

「ただいまー。連れてきたよー」

 どうやらナユタが来ることは事前に家族に伝わっていたらしい。ソラが声を掛けるや否や、階段をドタドタと下りてくる足音が聞こえた。やがて足音の主が玄関に現れた。

「おお!これが噂の。えーと、えーと」

千司せんじナユタと申します。あなたが常磐カンナさん、ですか?」

「そうです!あれ?お姉ちゃんから聞いてました?」

「はい。妹さんがいらっしゃると伺っていました」

「なるほど。んん?その制服は二中の?」

 部屋着姿のカンナは右手を顎に、左手を腰に当ててナユタを見ている。

「はい。三年生です」

「え!私も三年!三中だけど!タメじゃん!」

「そうなのですね。一緒ですね」

「そうだよー。だから敬語とかいいから!」

「いえ、あの、これは、その」

 カンナの圧に押され気味のナユタを見かねたのか、ソラが助け舟を出す。

「ナユタの敬語はこれでデフォみたいなもんだから。気にしないでいいよ」

「ふうん。よくわかんないけどわかった!よろしくね!ナユタちゃん!」

「はい。よろしくお願いします。カンナさん」

「ちょっとあんたたち、お客さんを上げもしないでなにしてんの」

 リビングのほうから母がぱたぱたとやってきて言った。


 リビングに通されたナユタは、ソラたちに勧められるままにソファに座った。目の前にはお菓子とジュース。こんなふうにもてなされた経験がなかったナユタは、どうしていいかわからずに少し困惑していた。

 隣にはソラ、テーブルを挟んだ向かいのソファにはカンナと母が座っている。

「えっと、改めまして、千司ナユタと申します。中学三年生です」

 ぺこりと頭を下げるナユタ。

「最初見たときから思ったけどさ、ナユタちゃんの髪ってかっこいい色してるよね」

 カンナが言う。頭頂部から毛先に掛けて徐々に黒から銀になっていく髪色は、一般的な価値観からすればそれなりに派手だが、強い霊能力のない普通の人間には違和感を抱けないようになっている。

「あ、えと、ありがとうございます。これは、その、生まれつきで」

 詳しい仕組みはナユタもよく知らないが、楔の能力が深く影響しているらしいことは両親から聞かされていた。

「なるほどね。あ、ナユタちゃん。遠慮しないでお菓子食べて」

 カチコチに固まっているナユタに向かって母が言葉を掛ける。

「あ、は、はい。いただきます」

 遠慮がちにテーブルのお菓子に手を伸ばす。やはり慣れない。嫌な感じはしないのだが、どう振る舞っていいかわからない。

「ナユタちゃん、大変でしょ。中三で受験勉強もあるのに仕事もして」

 ちらりとカンナを一瞥しながら母が言う。見られたカンナはぎくりと身を震わせて、テーブルに伸ばしかけた手が一瞬止まった。カンナの成績は学年で中の下。学業のことは折に触れて両親から小言を言われていたのだった。

「いえ、そこまで差し障りはありません。一人暮らしですから時間もありますし」

「え!ナユタちゃん一人暮らししてんの!?」

 カンナが口にお菓子を入れたまま声を上げた。母も驚いたような顔をしている。

「あー、えっと、家庭の事情?らしくて。ね、ナユタ」

 ソラが咄嗟にフォローを入れる。まさか呪詛を自分に向ける修練のためとは口が裂けても言えない。ソラはナユタにアイコンタクトを送った。

「は、はい。えっと、ソラさんのおっしゃる通りです。その、色々とありまして」

「そう……大変でしょう。家はどこなの?」

「ここから自転車で十五分ほどでしょうか」

「結構近いのね。うん。ナユタちゃん。うちのことは自分の家だと思って頼ってくれていいからね。ソラと一緒に仕事するならなおさら。遠慮しないでね」

 母がそう口にする。ナユタの隣ではソラもうんうんと頷いていた。

「で、ですが……」

 ナユタは困惑しきりだった。人の家を、しかもソラの家を自分の家だと思って頼れと言われても、そんなことが許されるのだろうか。いや、そうしていいと言われているのだからそうしてもいいのだろうけれど。でも、それでもナユタの中には遠慮から来る抵抗感が依然としてあった。

「ナユタ、遠慮っていうか、そういう気持ちが強いのはわかるよ。だからさ、私も気持ちはお母さんの言うことと一緒なんだけど、活動拠点の一つって考えてみたらどうかな?ここ神社だし、お母さんもカンナも霊能力者だから、形式的じゃない本物の霊的なサポートも受けられる。ね、どう?」

 ナユタの気持ちを察したソラが、母の言葉を少し言い換えて提案した。ナユタは少し考え込む。確かに神域である神社は安全地帯だし、この家にも結界が張られている。それに鏡見かがみサクヤほどではないにせよ、穢れを祓ったりといったことはできるはず。であれば確かにソラの言うように考えてみるのもありかもしれない。

「わかりました。あの、その、今後、お世話になるかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします」

 結論が出たナユタは母に向かって深々と頭を下げた。

「そんなに改まらなくていいのに。気軽にどうぞ。ご飯とか食べに来てもいいからね」

「もー、お母さん。そういう事言うとナユタが恐縮しちゃうから!」

「あら。ごめんごめん。まあ、いつでもお気軽にってことで」

「ねね、ナユタちゃん、アカウント交換しない?」

「あ、はい、ぜひ」

(これが、家族)

 楽しげに笑う母。呆れたように微笑むソラ。賑やかなリビングルームの中で、ナユタの思考だけが切り取られるように遊離する。

 自分がここにいることに違和感を覚えた。まるで合わないパズルのピースを無理やりはめ込もうとしているような感覚。自分にこんな温かな場所はふさわしくないという感覚。

(ああ、ひとりぼっちなんだ)

 体から心が離れるのを感じた。体は目の前のカンナとメッセージアプリのアカウントを交換している。心は遠く、記憶を遡っていった。



「ナユタ、お前に楔の力が宿っているのは間違いない。今日からはそれを引き出すための修練を始める。今代の巫女様たちにお仕えするに相応しい楔になるんだ」

「あなたの力は巫女様のためにあるの。私たちの一族は巫女様の儀式のための道具にすぎない。それをわきまえなさい」

「アンタはいいよね。ようやく生まれた待望の新しい楔。おかげでお父さんもお母さんもアンタのことばっか。アタシなんていないも同然だよ。あーあ。ほんとにいなけりゃよかったな」

 ――胸が、痛い。

「意識を集中しろ。霊力が乱れているぞ。この程度の呪詛を跳ね除けられないようでは帳の儀をお支えすることなどできない」

 ――目の奥が、熱い。

「あなたの命は楔としての運命に身を捧げるためにあるのよ。そう生まれてしまったのだから、それを受け入れるしかない。境界を守護する者として、その身を捧げる宿命なのよ」

 言葉は無数の杭のように、心の深くに突き立てられていく。人間は言葉によって作られる。だからそうあれと言われてきたから、そうなった。シンプルな話だ。

 ――それでも、痛い。

「いいか。覚えた呪詛を使え。常に力を展開してそれを跳ね除けて、場を安定させ続けるんだ。一人暮らしの部屋なら存分にそれができる。しっかりと励むんだぞ」

「力もだいぶ伸びたわね。このまま伸ばしていけばそう遠くないうちに巫女様のお役に立てる時が来るでしょう。境界の破れ目には必ず行きなさい。そして巫女様をお支えしなさい」

「へえ、アンタ出てくんだ。まあ、別に何も。アンタがいなくなったところで、あの両親がアタシに関心を向けるはずないしね。ま、せいぜい死なないことね。そんだけ。じゃあね」

(これも、家族)



「ああ、おじゃまするよ」

「おばあちゃん!」

 カンナとソラがほとんど同時に声を上げた。その声でナユタはハッと我に返る。心が再び体に戻ってきた。

 祖母は上座に置かれてた籐の椅子に、よっこいしょと言いながら腰を下ろした。ソラと同じくらいの長さの白髪を低い位置で結んでいる。

「おばあちゃん、えっとこの子が昨日話した……」

「千司ナユタと申します」

 ナユタはソファからやや身を乗り出して、祖母に向かって深く礼をする。祖母は掛けていたメガネを外すと、ナユタに視線を注いだ。

「なるほどねえ。その銀髪と霊力。まさか生きてる内に次代の楔に会えるなんてねえ。嬉しいよ。よろしくねえ」

「まさか、先代をご存知なのですか?」

 祖母はメガネを掛け直すと話し始めた。全員が黙ってそれを聞いている。

「先代の千司カズラ様は私の母親と同じ代でね。あの頃は帳の巫女も今よりずっと多かった。カズラ様は鏡見家の依頼を受けてその都度市内の巫女たちの支援をして回っていたそうだよ」

「そう、なのですね……」

 楔が鏡見家の依頼で動いていたことも衝撃的だが、なにより祖母が先代を様付けで呼んでいることにも驚いた。ナユタの中では帳の巫女が主で、楔は従という関係性が当たり前だったからだ。こんなふうに敬意を払われる対象だとは思ってもみなかった。

「ちなみにおばあちゃんは、私の先代ね」

 ソラがタイミングを見計らって手短に説明する。

「ということは、おばあさまも帳の巫女、なのですか?」

「そうだよ。とっくに引退してるけどね。だけど帳の巫女の力は死ぬまで魂から離れない。だから今でもやろうと思えば境界を閉じられる。まあ今やったら体のほうがもたないだろうけどね。だから今の私にできるのは、ソラに修行をつけてやることと、護符を作ることくらいさ」

「死ぬまで……」

「そう。知っているかもしれないけどね、楔の力は帳の巫女の力から派生したものなんだ。だから根っこは同じ。あんたのその力もずっとあんたのもの。ああ、そうだ。だからね、巫女の修行は楔にも有効なんだよ、実は」

 それを聞いたナユタは驚いて目を見開く。おそらくソラも同じ表情をしているだろう。ずっと呪詛を使った修練が正しいものと信じていたが、本質が同じなら同じ方法論が通用するというのも納得できる話だった。

「マジか。一緒に修行つけてもらう?ナユタ」

「あの、もしおばあさまさえよろしければ、その、ぜひ」

「ああ、いいとも。でも悪いけど今日は用事が立て込んでてね。また別の日で良ければ来なさいな」

「あ、ありがとうございます!」

 まさか修行をつけてもらえるようになるとは思いも寄らなかった。ともかく、力を付けたいナユタにとっては、これでソラの家に来る大きな理由が一つできた。

「てことでナユタ、拠点でも修行場所でもいいけど、ここはナユタが来ていい場所の一つだから。それだけ覚えといて」

 ソラの言葉に、ナユタはリビングを見渡した。祖母、母、カンナ、そしてソラ。皆柔らかな表情を浮かべている。受け入れられているのだ、とややあって認識した。さっき感じた感覚はまだ完全には拭えていないが、それでも。

「ありがとうございます」

 不器用な、精一杯の笑顔で厚意に応えようとした。




 ◇




 ソラの家を後にしたナユタは、自転車で自宅に向かっていた。気づけば二時間もソラの家に滞在していたので、日も傾き始めている。神社から白鷺山に向かって北上する道路を自転車で走りながら、ナユタは先程までのあの温かな空間を思い出していた。

(私がいてよかったのかな)

 アパートに着くと、駐輪所に自転車を停めてカゴから学校のカバンを取り出す。自転車に鍵を掛けると一〇五号室に向かった。

(私に迎えられる資格なんて、あったのかな)

 部屋の前に着くと、カバンからキーホルダーの付いた鍵を取り出して鍵を開ける。そのままドアを開けて玄関に入ると、主不在の間に溜まり切った呪詛の穢れが重く渦巻いていた。

(なんでだろう。楽しかったのに、寂しかった)

 ナユタが室内に足を踏み入れると、常時発動している楔の力により、みるみる穢れが浄化されていく。

 カバンを机に置いて教科書類を整理し始める頃には、すっかり部屋の穢れは消え去り、いつも通り空間は安定性を取り戻していた。

(家族って、なんだろう)

 制服から部屋着に着替えながら、その問いがぐるぐると頭の中を巡っている。自分の家族、その当たり前と、ソラの家族の様子。その違い。

 両親からは期待されていたと思う。三代空いてようやく生まれた次代の楔。だから厳しい修行をつけていたのだろうし、楔の責務について毎日のように教育していたのだろう。

 姉についてはよくわからない。たぶん、嫌われていたのだと思う。姉は力を持たずに生まれた。だから力を持った自分のことを嫌っていた。それが日常だったから、理由は考えたことがなかった。

 ナユタは左手のブレスレットを見た。

 あの家で生活して、そして今一人で暮らして、そしてソラに出会って、こうして鏡見家公認のペアとなった。両親の言っていたように、楔の宿命はこれで果たすことができる。

 ――それでも、なぜだろう。

 ソラの家の、あの温かさ。羨ましいと思った。自分には一生かかっても得られないものを見た気がした。自分を確かに受け入れてくれていたのに、ひとりぼっちな気がしていた。

 なぜだろう。

 考えるたびに心のどこかに澱が積もっていく気分だった。違う、と慌てて否定する。これはカルチャーショックみたいなもの。他の家に行くことなんてなかったから、きっとそれで違いに戸惑っているだけに違いない。

 ――そうに決まってる。

 その思考はブーブーというスマートフォンのバイブ音で中断された。

 ハッと我に帰る。机の上に置いたスマートフォンが震えている。ナユタは机に近づくとスマートフォンを持ち上げた。非通知。恐る恐る通話ボタンをタップして耳に当てる。

「はい」

 電話口からは何かの雑音が聞こえる。それはまるで木々のざわめきのような、あるいは大勢の人の囁きのような。

 さわさわ、ざわざわとした音は続いている。接続不良だろうか。怪訝に思ったナユタが、そのまま電話を切ろう思って耳を離そうとした瞬間だった。

「――は―――か」

「え?」

 電話はそれで切れた。

 確かに最後、誰かが何か言っているのが聞こえた。もちろんはっきりとではない。途切れ途切れで、遠ざかったり近づいたりしている感じだった。

「今のは……?」

 霊的な気配は感じられなかった。やはりただの接続不良だったのだろう。ナユタはそう結論して、そのまま椅子に座ると学校の課題を片付け始めた。




 ◇




 翌週、月曜日。

 昼休みに教室の自分の席で、授業中に配られた教師お手製の大量の教材プリントを整理していたナユタに、クラスメイトの久田ひさだスミレが話しかけてきた。

「千司さん千司さん、『黒い人』って都市伝説、知ってる?」

「『黒い人』、ですか?いいえ、初めて聞きました」

 スミレはクラスの中でもオカルト好きで有名で、それこそ時代が時代なら、こっくりさんをやろうとクラスメイトに誰彼構わず声を掛けていだろうと思えるような少女だった。

 今この瞬間は、ナユタが『黒い人』の都市伝説を聞いたことがないと知って、新しく都市伝説を広める喜びに内心打ち震えている。

 スミレはちょうど空いていたナユタの隣の席に座って話し始めた。

「あのね、夕方とか夜に街を歩いてると、急に人の気配がなくなって、それで振り返るといるの」

「いる」

「そう。見上げるくらいの大きさで、黒いボロボロの服から覗く白い腕と足、男とも女ともわからない『何か』。それで出会っちゃった人は言葉を掛けられるんだって。『どこそこへいきませんか』とか、『どこそこはどこですか』とか」

 スミレは怖さを引き立てるかのように、あえて淡々とした口調でゆっくり話す。

「それが『黒い人』の都市伝説、というわけですね」

「そうなの!怖くない!?」

 境界や、ときには怪異に関わることもあるナユタにとっては、正体不明の怪異か、存在しない単なる都市伝説と片付けられる。しかし目の前で顔を輝かせているスミレを前に、そんな冷徹とも言える推論は口が裂けても言えなかった。

「ぞくっとしました。帰りは遅くならないようにしないといけませんね」

 少し大げさかな、と思うくらいの身振りを交えながらスミレの言葉に応える。

「でしょでしょ。それでこの話には続きがあってね」

 そう言うとスミレは椅子を寄せて、顔を近づけてきた。少し声を小さくして、話の続きを始めた。

「実はさ、私の先輩が『黒い人』に遭ったらしいんだよね」

「え、その方は無事なのですか?」

「うん、やばいと思って思いっきり逃げたら大丈夫だったんだって」

 実際に遭った人がいるとなれば話は別だ。逃げたら大丈夫だったとのことであれば、害意のない霊的存在なのだろうが、都市伝説になるくらいだ。出現例はそれなりに多いのだろう。

 ふと、思った。ソラはこのことを知っているのだろうか。現世にいる霊的存在は、それだけで境界のほころびの原因になりうる。

「ちなみに久田さんの先輩が遭遇した場所は」

映見はえみ町。あの辺心霊スポットも多いしさ。それでかもね」

「なるほど」

 映見町と言えば、二週間ほど前にソラとナユタが異界問題を解決した廃ビルのあるあのエリアだ。若者の間ではゴーストタウンと呼ばれており、心霊スポットとされる場所も多い。

 それに関連した怪異か?だがそうと断定するには、まだ根拠があまりに少ない。

「ありがとうございます。久田さんのお話はいつもぞくぞくしますね」

「え、ええ?そうかなあ、えへへ。また面白い話聞いたら教えるね!」

「はい、ぜひ」

 そこで昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。スミレはじゃあねーと言いながら自分の席へ戻っていく。

 都市伝説の中には古戦場跡のように本当に境界の破れ目につながるものもある。『黒い人』がそうだとは言い切れないが、ナユタは言い知れぬ胸騒ぎがした。これはソラに知らせておいたほうがいい。あとで電話なりメッセージなりしてこう。

 整理し終わったプリントを片付け、次の授業の教科書を出しながら、ナユタはそんなことを考えていた。



 その日の夜。

 ナユタは自宅の机に向かって勉強をしていた。学校の課題はすでに終わり、今は受験勉強のために駅前の大型書店で買った問題集を解いているところだった。

「ふう」

 さすがに疲れた。卓上のアナログ時計を見ると、時刻は午後十時。食事を摂ったのが六時半ごろ。修練や入浴の後で勉強を始めたのが8時前だから、二時間ほど集中していたことになる。

(さすがに休憩しようかな)

 酷使した頭は糖分を欲していた。ナユタは冷蔵庫に向かって中身を確認するが、糖分補給になりそうなものは何もない。

 すこしがっかりして冷蔵庫を閉じると、財布とスマートフォンを持って玄関に向かう。ここから徒歩十分ほどのところにコンビニがある。そこで何か甘いものを買おう。ついでに気分転換に歩いて行こう。そう考えて外に出た。

 午後十時の住宅地とあって、人通りはほぼ皆無だ。りいりいという虫の声が夜の中に響き渡っている。昼間はそれなりに暑いが、この時期、この地方ではまだ夜はさほど暑くない。涼しいとまではいかないが、過ごしやすい気温だ。

 コンビニも徒歩圏内にあって、自転車を使えばスーパーも遠くない。あの両親がそこまで配慮したとは思えないが、今の家は場所も含めて結構気に入っていた。

 一人暮らしで孤独を感じたことはない。それが当たり前だったから。不思議なことに、人の中にいるほうが孤独を感じた。それがなぜだか、やっぱりわからない。

 住宅地を歩いていく。ほとんどが戸建て。どの建物にも人の営みがある。またソラの家族を思い出した。視線が下る。歩道と車道を隔てる白線をなぞっている。

 そうしている内にコンビニに着いた。街灯が照らす夜道を歩いてきた目に、コンビニの明かりはいささか明るすぎた。店内に入ると同時に目を細める。ナユタは店内を回り、スポーツドリンクとプリンを二つ持ってレジに向かった。

「ありがとうございましたー」

 店員の事務的な挨拶に軽く会釈をして、コンビニを後にする。

 再び虫の声に包まれた住宅街を歩いていく。来た道を戻っていくだけだが、好物のプリンが手に入ったことでテンションは少し上がっていた。単純な自分に内心呆れてしまう。もしかしたらその呆れた笑みは顔に出ていたかもしれない。

 戸建てが並ぶ道を街灯に照らされて進む。頭は帰った後の勉強のことに切り替わっていた。時間もそこそこ遅くなってきたし、明日も学校があるから、あと一章分問題集を進めたら寝よう。

 十字路に差し掛かった。真っ直ぐいけばアパート。右に曲がればソラの家の方面だ。そのまま道を横切って進もうとした。


 ――その時だった。


(?)

 気がつくと、夜を包んでいた虫の声が聞こえない。

 耳鳴りがするような静寂がそこにある。

 なによりも、なによりも、自分の背後から強烈な視線を感じた。

 思わず立ち止まる。気のせいだ。そう考えて、ゆっくりと後ろを振り返った。

 街灯の脇に、何か大きなものがいる。街頭が照らしているはずなのに、そこだけ暗く見えた。白い腕と足がある。それが黒い服を着ている、と気づくまで少し時間がかかった。

 ボロボロの黒い布切れを体に頭から被っているような、そんな格好。身長は隣の街灯と比べても優に二メートル以上はあるだろう。

 顔は見えない。というか、顔の部分は街灯の明かりに近いはずなのに、そこだけどういうわけか真っ暗闇になっている。ちょうどそこだけ黒塗りのモザイクがかかっているかのように。

 ナユタの全身が硬直する。家族について考えていたことも、プリンのことも、全部頭の中から吹き飛んだ。怪異の類にはある程度冷静に対応できる。楔の力はこの瞬間も展開されている。にもかかわず全身の細胞が叫んでいた。

 あれはどうにもならない、と。自分の力ではどうにもならない、と。

 体全体を支配するのは、生物として当たり前に備わった本能的な情動。恐怖。

 かひゅー、かひゅー、という掠れた呼吸音が自分のものだと気づくのに、少し時間が掛かった。全身から冷や汗が吹き出す。心臓が激しく脈打っていて、胸が苦しい。だが動けない。戦うことも逃げることもできず、ただその場に凍りついている。

 は身じろぎもせず、こちらを『見ている』。顔は見えないのに視線を感じる。そこを中心に段々と周囲が暗くなっていくような錯覚を覚えた。いや、実際にそうだったのかもしれない。

 ガサッ。

 耳が痛くなるような静寂の中、音がした。それはナユタの手からコンビニの袋が道路に落ちる音だった。その音によってナユタの意識はひと欠片の冷静さを取り戻す。

 一歩、後ろに下がった。緊急時だ。コンビニの袋を悠長に拾っている場合ではない。は左右にゆらゆらと揺れているだけで、向かってくる気配はない。ナユタはそのままもう一歩下がる。に変化はない。

 思い切ってアパートの方向に体を向けて走り出そうとした、まさにその瞬間だった。

「うちはどこですか」

 男とも女ともわからない声が、後ろから聞こえた。


 ナユタはそのまま全力で住宅街を走り抜け、アパートに辿り着くと、机の引き出しから和紙に包まれた塩を取り出し、部屋の四隅に盛り塩をした。効果があるかはわからない。だが今は少しでも安心が欲しかった。

(今、のが、まさか)

 恐怖や逃走によってドーパミンやらアドレナリンやらが大量に分泌された脳は、とてもではないが勉強できる状態ではなかった。

 ナユタはスマートフォンを取り出すとメッセージアプリを開いた。ソラが都市伝説を知っているかどうか、そこまで今は考えが及ばない。とにかく伝えなければという考えだけが頭の中にはあった。

「『黒い人』に遭いました」

 やっとの思いで、その一文だけをソラに送信した。




 ◇




 翌日、火曜日の放課後。

 ナユタとソラは昨夜『黒い人』が現れた十字路にいた。今日はちょうどソラの家で祖母に修行をつけてもらう約束をしていたのだが、ナユタから連絡を受けたソラの提案で急遽足を伸ばして調べることになったのだ。

 二人は塀に沿って自転車を止めると、『黒い人』がいた街灯の下に立った。

「ここで毎違いない?」

「はい。間違いなくここでした」

 ソラは視覚を『巫女の眼』に切り替えると、その場をくまなく見る。アスファルトの地面、塀、街灯を下から上まで。さらに十字路をぐるりと一周。

 十字路、つまり辻は古くから境界と考えられてきた場所だ。怪異が現れても不思議ではないし、境界のゆらぎやほころびがあってもおかしくはない。

「うーん。特にそれっぽいものはないみたい。穢れもないし、境界も安定してる」

「そう、ですか」

「いや、ナユタのことはもちろん信じてるよ。それだけは安心して。たぶん私たちの知らない未知の怪異なんだと思う。ほら、私たち境界の問題には対処できるけど、怪異の専門家じゃないからさ」

 裏切られたとでも言いたげな表情をしたナユタに、ソラが言葉をかける。取り繕うのではなく、本心からの言葉を。

「確かに、そうですね。私たちの知らない何かなのかもしれません。ただ、その、遭遇した時直感的に感じたのですが」

 ナユタは視線をやや落とす。昨夜の恐怖が蘇ってきたのか、少しずつ声も小さくなっていく。

「私の力ではどうにもならない相手だと感じました。もう逃げるしかないと」

「ナユタにそこまで感じさせる相手か……」

 ソラは腕組みをしてしばし考え込む。楔の力を持ち、そこにいるだけで空間を浄化でき、かつ常に冷静なナユタに凍りつくほどの恐怖を与える相手。

「この後さ、おばあちゃんに聞いてみようと思う。何か知ってるかもしれないし」

 それは妙案に思えた。帳の巫女が多かった時代を知る祖母なら、怪異と遭遇したこともあるかもしれない。あるいはそういった事例を知っているかもしれない。

「わかりました。せっかくですし、お話を伺ってみたいです」

「おっけー。じゃあ行こうか」

 二人は自転車に跨ると、十字路をソラの家の方面に曲がって走り出した。時刻は午後三時半過ぎ。七月も下旬。まだまだ明るい時間帯だった。

 二人は緩やかな下り坂を並走していく。ソラの家までは十分ほどだ。



「ただいまー」

「おじゃまいたします」

 ソラの家に着いた二人が玄関ドアをくぐると、奥の方で襖の開く音が聞こえた。二人は靴を脱いで上がる。少しして祖母が玄関に現れた。

「ああ、おかえり。それにナユタちゃん。いらっしゃい」

「ただいま、おばあちゃん」

「おばあさま、今日はよろしくお願いいたします」

 ナユタは祖母に向かって深々と礼をする。気軽にどうぞと言われても、この人は先代の帳の巫女。そして何より楔である自分に巫女としての修行をつけてくれるのだ。

 祖母のほうもナユタの性格をこの短期間で理解したのか、仰々しい態度や言葉遣いに口を出すことはしなかった。

「二人ともついておいで」

 そう言うと祖母は神社のある東側に向かって廊下をゆっくりと歩き出した。ソラとナユタはそれについていく。リビングダイニングの隣を抜け、トイレの隣を通り、現れたのは渡り廊下だった。どうやらここで神社とつながっているらしい。

 祖母はそのまま進んでいく。渡り廊下を抜けると、廊下が左右に分かれていた。左に曲がって歩いていくと、現れたのは細い注連縄が掛かった木の引き戸。

 祖母がそれを開ける。よく手入れされているのか、スーッと滑らかに開く。二人は祖母に続いて中に入った。

「さあ着いた。とはいってもソラにはいつもの場所だね」

 そこは神社の一般的な本殿によく似た、広々とした板張りの部屋だった。本殿のものより幾分簡素な神棚が置かれ、その前には果物や野菜などが供えられている。また部屋の四方には注連縄が掛けられていた。

「この部屋は……?」

 やや戸惑いながらナユタが訊く。

「ここは本殿の隣にある部屋でね。昔から帳の巫女の修行のために使われてきたんだ。まあ秘密の部屋だね」

 ナユタの質問に祖母が答える。隣でソラもうんうんと頷いていた。

「さ、二人ともこっちにおいで。そこで正座して」

 部屋の中央あたりを指す祖母。ナユタはソラに導かれるようにその場所へ行き、二人は並んで正座をした。それを見届けた祖母は神棚の横の筒に立ててあった、青々とした葉のついた榊の枝を手に取る。

「それじゃあ準備を始めるよ。二人とも、心を静かに」

 祖母はそう言うと、神棚の正面に向かって一礼してから、再び二人の方に向き直る。榊の枝を両手で持ちながら、祝詞を唱え始めた。

 それが祓の祝詞であることは、ナユタにはすぐにわかった。

 祖母は祝詞を唱えながら二人の周りをぐるりと回り、最後に祓い給い清め給えと締めくくると、再び神棚の正面に立って一礼し、榊の枝を元あった筒に戻した。

 場の空気が変わった。少なくともナユタにはそう感じられた。霊的な、それも陽の気で空間が満たされているような感覚を覚える。

「ナユタちゃん。丹田はわかるかい」

「はい。へその下のあたり。霊力の循環の起点であり終点でもある重要な場所です」

「うんうん。満点の回答だ。ソラにはいつもやらせてるけどね、今から瞑想をしてもらうよ。鼻からゆっくり息と一緒にこの部屋に満ちる気を取り込んで、それを丹田に溜めて、またゆっくり吐き出す。これを繰り返すんだ。そうすると丹田が霊力を生み出す力を鍛えられる」

 己の内を巡る霊力が増幅することは、その身に宿る力が増すことを意味する。なぜこんなシンプルな方法に思い至らなかったのか。なぜ両親が正しいと言った呪詛による鍛錬が絶対だと思っていたのか。ナユタは己の価値観を揺さぶられる感じがした。

「ソラ、ナユタちゃん。始めようかね。目を閉じて」

 二人はゆっくりと瞼を閉じた。静謐な空気の中、チーンとりんの音が響く。始まりの合図だ。

 ナユタはゆっくりと息を吸い込む。空間に満ちる陽の気が体の中に入ってくるのを感じた。それはあの異界の中で感じた穢れとはまるで違う、温かくて柔らかな光が差し込んでくるかのような感覚だった。

 その光は空気とともに体の奥へ進み、丹田へ到達する。ナユタの体内の霊力と混ざり合い、溶け合い、全身を駆け巡って再び丹田へ戻って来る。

 今度はゆっくり息を吐いた。物理的には不要になった二酸化炭素だが、概念的には体に溜まる負の気が出ていく。そうして丹田を意識しながら、空気と気を取り込むゆっくりとした呼吸を続けた。

 数分間それをした後、再びりんの音が部屋に響き渡る。二人は目を開けた。

「ソラ、だいぶ集中力が上がったね。霊力の量も質も随分と良くなった」

「ほんと?はー、よかった。巫術がダメダメな分、こっちはなんとかしなきゃって思ってたからさ」

 ソラが伸びをしながら言う。

「ナユタちゃん、どうだったかね」

「はい、その、うまく言えないのですが、体に霊力が満ち溢れている感覚です。楔の力の展開範囲も広がっているように思います」

 祖母はそれを聞いて笑顔でうんうんと頷いて言った。

「楔には巫女の素養があるからねえ。今のナユタちゃんはまだ本来の力がうまく流れていない状態なんだ。だから今の一回だけでもそれだけ違いが感じられるんだよ」

「え!ナユタの力ってまだ伸び代が全然あるってこと?」

 足を崩して座り直したソラが心底驚いた様子で声を上げる。ナユタは言葉を失っていた。今までの力がまだ本来のものではない。であれば、自分の本来の力とは一体どれほどのものなのか。

「ナユタちゃんは外から内に来るものを拒む力は強いけど、内から外に力を及ぼすのは、まだまだ赤ん坊みたいなもんさ。楔の力はこれからどんどん伸びてくよ」

 外から来るものを拒む力は、呪詛による修練の賜物だろう。では内から外へ及ぼす力とは?場を安定させる力のことだろうか。

「あの、内から外へ、というのは、どういった力なのでしょうか」

 率直に聞いてみる。

「なんだい。ご両親から聞いていないのかい。楔の力は空間を安定させること。だけどその本質は、外から来るものを拒む結界と、外の穢れを祓う浄化の二つにあるんだよ。だから楔はその力が強力になれば、弱い怪異くらいなら簡単に浄化できてしまう。ナユタちゃんの先代は、怪異が入れば一瞬で祓ってしまえるくらいの領域を作れたって聞いてるよ」

「楔が、怪異に……」

 それで思い出した。昨夜のことを。もし自分の力が今よりずっと強力になれば、『黒い人』も祓えるのだろうか。

「おばあちゃん。現役だった頃にさ、怪異に遭ったことない?こう、黒い服を着て二メートルくらいあって、顔が暗くて見えない感じのやつとか」

 思い出したのはソラも同じだったようだった。

「さてね。そういうのには心当たりがないね。というか、怪異に関係することは六家の専門部隊が対応してたからね。私たちには基本的に戦う術がないから」

 六家に怪異担当の専門部隊がいたというのは、ソラもナユタも初耳だった。だが、六家が戦闘手段を持たない帳の巫女だけで、怪異の出現が予期される境界の問題に対応するとも思えない。そう考えれば納得のいく話だった。

「おばあちゃんありがと!ナユタ、私の部屋行こ」

 ソラは何かを思いついたのか、跳ねるように立ち上がった。ナユタも若干戸惑いながらそれに続いて立ち上がる。

 ナユタは祖母に礼を言うと、さっさと部屋を出ていこうとするソラを追いかけた。



「『黒い人』ですか。その都市伝説自体はこちらでも把握はしています。千司さんが実際に遭遇されたとのことですが、こちらでは千司さんの証言に合致する怪異は補足できていません」

 ソラは部屋に着くなり電話を掛けた。相手はサクヤだった。スピーカーモードにして二人で聞けるようにしてスマホをローテーブルに置く。

「あの、六家には怪異担当の専門部隊がいると祖母から聞きました。そちらでも確認はできていないんですか?」

「おばあさまからお聞きになったのですね。結論から言えば、確認はできていません。そもそも専門部隊と言っても、帳の巫女のように厳密に組織化されているのではなく、その地方にいる退魔や除霊の専門家と協定を結んで、便宜上、部隊としているだけのものなのです」

 六家の専門部隊の実態はともかく、そちらでも確認ができていない。つまり一般に出回っている都市伝説としては把握できているが、それ以上はなにもない。怪異としての確認もできていなければ、対処もできてないということだ。

「最近、藤花台とうかだいで『黒い人』の遭遇例が増えています。専門部隊の方を送って頂くことは可能でしょうか?」

 今度はナユタが電話の向こうのサクヤに向かって言った。直接遭遇したナユタからすれば、もし退魔や除霊の専門家を派遣してもらえたなら、これ以上ない安心材料になる。

「残念ですがそれは難しいですね。今は夏場で、あちこちで怪異の対応に追われています。そちらに回せるほど人員に余裕はないのが実情です」

「そう、ですか」

「ところで先日お渡しした御守ですが、『黒い人』を前にして何か変化はありましたか?熱を持ったり、重くなったりとか」

 そういえば何も感じなかった気がする。常に着けているが、あの時も特に変化はなかった。少なくともナユタの極限状態の意識ではそう感じられた。

「いえ、何もなかったと思います」

「わかりました。では常磐さんのほうはどうでしたか?あれは二つが霊的につながっています。片方に異変が起きればもう片方も連動するようになっているんです」

 ナユタはソラの顔を見る。ソラは肩をすくめて首を振った。

「私のほうも何もありませんでした」

「そうですか。少しこちらでも調べてみましょう。それと専門部隊は送れませんが、代わりに調査の専門家を送ります。明日、天見神社で合流してください」

「調査の専門家、ですか?」

 二人は訝しげに顔を見合わせる。対怪異ではなく調査とはどういうことだろう。今必要なのは怪異を倒すための人材ではないのだろうか。

「はい。私の予想なのですが、今回の『黒い人』、正体を突き止めることが必要になりそうです。お二人も知っていると思いますが、怪異に対処するためにもっとも必要なのは、怪異の正体、すなわち真名です。そちらへ向かう者はそういった事柄の調査に秀でています。私が保証しましょう」

 サクヤの言葉には説得力があった。納得した二人はサクヤの提案を承諾して、電話を切った。



 夕焼け空の下、ナユタは自転車で家路を急いでいた。黄昏時にあまり外にいたくない。それこそ何かしらの怪異に出くわしてもおかしくないからだ。

 だが、そんな心配に反して体は軽やかだった。今日から始まった巫女の修行。そのたった一回ではあるが、体内を流れる霊力に陽の気が混ざり、力強く循環している。そのせいか、楔の力もいつもより少し広い範囲に展開されているような気がした。

 天見神社からの登り坂を抜け、例の十字路に差し掛かる。嫌な気分になったが、今日は何もいない。ほっとして右折し、アパートへの道に入る。

 昨日のことでプリンもスポーツドリンクもお釈迦になってしまったが、しばらく夜は出歩く気分になれなかった。出前で済ませてしまおう。それか休みの日にスーパーでまとめて買っておくか。

 セミの声はこの時間でもまだ聞こえる。もう数時間もすれば夜の虫たちの声に変わるだろう。セミの声のに包まれて、住宅街を自転車で走っていく。

 巫女の修行を受けて、ナユタの心には葛藤が生まれていた。

 両親の言っていたこと、両親から教わったことは本当に正しかったのだろうか。しかし両親から教わった修練で力が付いたこともまた事実。だがソラの祖母はナユタの中にまだ眠れる力があると言っていた。両親はそのことを知っていたのだろうか。

 考えがぐるぐると頭の中を回る。思考が完結しないまま、自転車はアパートに着いた。

 駐輪所に停め、鍵を掛け、一〇五号室に向かう、その一歩を踏み出した時だった。


 強烈な視線を感じる。


 それはナユタのアパートの隣の道路を挟んだ向こう、距離にして二十メートルほど向こうからだった。突き刺すような視線ではない。ただぼんやりとこちらを眺めているような、そんな漠然とした感触を伴った視線。

 その感覚には覚えがあった。だから見たくなかった。でも頭は脳の命令を効かずに、ぐぐぐっとそちらへ動いてしまう。

 そして、見た。一軒家の塀を軽々超える背丈の。ボロボロの黒い布から覗いた、細く白い手足。頭のあるはずの部分は不自然に暗い。セミの声はいつの間にか止んでいて、何の音もない静寂だけがそこにあった。

 どうして。それがナユタの頭に浮かんだ思考だった。なんで?どうしてまた私なの?私が何かした?悪いこと、した?

 それは怒りに似ていた。道路の向こうにいる『黒い人』にというより、この状況の理不尽さに対する怒り。修業によって取り込まれた陽の気がかろうじて恐怖心を和らげてはいるが、それももう限界に近い。

 恐怖と怒りがないまぜになって、ナユタの思考を支配していく。

 は相変わらずゆらゆら小さく揺れるだけで、こちらに向かってくるわけでも、何かをするわけでもない。ただそこに佇んでいるだけだ。

 ふと、サクヤの言葉を思い出して、左手のブレスレットに意識を向ける。熱を持ってはいない。おかしな重みも感じないし、そこに流れる霊力にも異常はない。

 恐怖心が理性を埋め尽くす刹那、ナユタの体が動いた。道路の向こうに佇むから視線を外して、一気に一〇五号室に走り寄り、鍵を回してドアを開けた。

 ――その瞬間。

「やまへいきませんか」

 二十メートルは離れているにもかかわらず、不自然にはっきりと、の声が聞こえた。




 ◇




 翌日、水曜日の放課後。

 ナユタは学校が終わって真っ直ぐに天見神社へ向かった。六家の派遣する調査の専門家との合流のこともあったが、一刻も早くソラに会って昨日のことを話したい。メッセージではなく直接伝えたかった。

 神社に着いたナユタは、先日と同じように鳥居前の駐輪スペースに自転車を停めた。鳥居を境内へ入ると、そこに生い茂る木々にとまっているのか、セミの声が降り注ぐ。それに秩序はまるでないが、ナユタにとっては神域で聞くセミの大合唱は、どこか神気を帯びた音楽のように思えた。そう錯覚するほどまでに追い詰められていたのかもしれない。

 その姿はすぐに見つかった。ソラだ。おそらく彼女も学校から帰ってきたばかりだろう。制服姿のままセミロングの髪をポニーテールに結び、手水舎周りの玉砂利を熊手で整えている。

 ゆっくりと歩み寄って声を掛けた。

「ソラさん」

「あ、早かったね。って大丈夫?なんか顔色があんまり良くない気がするけど。なんかあった?」

「また……」

「また?」

「その、遭いました。『黒い人』に。今度は私の家の前で」

 その言葉を聞いてソラが目を見開く。その表情にナユタへの疑いは一片もない。もちろんはじめから疑っていたわけではない。それに今のナユタの暗い表情が、なによりその話の真実味を増していた。

「そうか……とにかく無事でよかったよ」

「……はい。あの、参拝をさせて頂いてもいいですか?」

「もちろん。行ってきなよ」

「ありがとうございます」

 目の前の手水舎で手と口を清めると、本殿に向かって参拝を始める。相変わらず作法は完璧だったが、その内心は穏やかではなかった。

(どうかこの地を、そして叶うなら私をお守りください)

 普段なら自分の安全など祈ることはない。ナユタが祈るのは常に皆が住まうこの街の平穏。だが今は違う。すがるような思いで、本殿に祀られる神に向かって祈りを捧げた。

 参拝が終わったナユタが振り向くと、参道から本殿へ上がる数段の階段の下にソラが立っていた。いつの間にか熊手は片付けていたようで、その手には何もない。

「気分はどう?」

 参道に下りたナユタにソラが声を掛ける。

「少し、落ち着いた気がします」

 本音が八割、強がりが二割といった感じの言葉で答えた。

「そっか。それならよかった」

 そこで二人の会話が途切れたちょうどその時、鳥居の向こうの駐車場に一台の車が入ってくるのが見えた。車が駐車スペースに停車すると、エンジン音が止まる。しばらくすると誰かが車から降りてくるのが見えた。

 その人物は鳥居の前で一例をすると、右側から鳥居をくぐって境内に入ってきた。手水舎で手と口を清めると、ソラとナユタの横を通って本殿前に登り、どこか荘厳さを感じさせる二礼二拍手をした後、しばし手を合わせて何か祈っているようだった。

 参拝が終わったその人物は本殿に向かって一例をすると、参道に下り、ソラとナユタの前で立ち止まった。

「遅くなって申し訳ない。常磐ソラさん、千司ナユタさん」

 身長一五三センチのナユタから見て、頭ひとつと少しくらい背の高い、細身の若い男性だった。ツーブロックにした七三分けの髪を整髪料で掻き上げるように整えている。

「あの、あなたがもしかして」

 ソラが恐る恐るといった様子で男性に訊く。

「そう、鏡見サクヤ様の命を受けて来た、六家の諜報部員。刀城とうじょうミツルだ」

 どうぞよろしくと言って、二人に軽く頭を下げた。二人もそれにつられるように、よろしくお願いしますと頭を下げた。



「大体の事情はサクヤ様から聞いているよ。それに諜報部のほうでも『黒い人』の都市伝説は把握している。ただ今のところ、それが境界の問題につながらないことから、対抗神話の流布も含めて、対処の必要はないとされているんだ」

 神社の鳥居近くの奥まったところにある石のベンチに三人並んで座りながら、前提情報を確認している。ナユタとソラは刀城が車から出してきた、よく冷えたペットボトルのジュースを飲みながら聞いている。

「しかし今回は帳の巫女の関係者である千司さんが実際に遭遇した。それも二回。正直言ってあまり良い兆候には思えない。境界の問題に発展する可能性も否定できないと僕は考えているんだ」

「『巫女の眼』で出現場所を確認しましたけど、特に穢れや境界のほころびはありませんでしたよ」

 ソラがペットボトルから口を離して言う。

「それはあくまで今のところは、という話だよ。怪異は現世での存在が持続するにつれて徐々に空間に負荷をかけるようになっていく。今はなんともなくても、いずれ境界を破るものに成長してしまうことも考えられる。だから長期的な視点で見れば、境界を守護する我々にとって無害な怪異なんてものは存在しないんだ」

 ナユタは視線を落とす。玉砂利の隙間にセミの翅が挟まっているのが見えた。ああ、ここで死んだんだ。またどうしようもなく暗い気持ちになる。

「でも、じゃあどうしてナユタにつきまとうんですかね」

「それはこれから探っていくしかないな。正体がわかればその理由もはっきりすると思う」

 魅入られたとか憑かれたとか、そういう感覚とも違う。ナユタは二回の遭遇時のことを思い出すが、からは執着のようなものは感じられなかった。だからこそ気味が悪い。仮に何かしらの縁が結ばれてしまったのなら、それこそ厄介だ。怪異との縁を切るのはとても難しいからだ。

「ところで『黒い人』は遭遇者に『どこそこへいかないか』とか『どこそこはどこか』とか、そういうことを言うようだね。千司さん。嫌なことを思い出させてしまうようで悪いが、『黒い人』は何を言っていたか覚えているかい?」

 ナユタを気遣いながら刀城が尋ねる。脳裏に、あるいは聴覚に、こびりついたあの声が再生される。高くも低くもない、男でも女でもない、あの声。

「一回目は『うちはどこですか』、二回目は『やまへいきませんか』。そう聞こえました」

「なるほど……。探っているのか、誘っているのか。行動原理がまだ不明瞭だな。でもありがとう。貴重な情報だよ」

「あの、こういう怪異って他にはないんですか。例えば伝承とか」

 ソラが訊く。ナユタはハッとしてソラの顔を見た。都市伝説というフォーマットに引きずられすぎていたのか、伝承の線は頭にはなかったのだ。

「伝承か。『黒い人』の特徴から真っ先に浮かぶのは『黒衣くろごろも』とか『黒無常こくむじょう』。あとは福島県の伝承にある『黒塚の鬼婆』。それから『おしろいおばけ』なんてのもいる」

 刀城は指を折りながらひとつずつ数えるように名前を挙げていく。

「ただ後に挙げた二つは女性の妖怪で、遭遇者をおどかしたり襲ったりするから、今回のケースには当てはまらないね。伝承から考えるなら、おそらく『黒衣』か『黒無常』。ちなみに『黒衣』は黒い服を来た幽霊や妖怪の総称みたいなものなんだ」

 ソラとナユタはふむふむと黙って聞いている。

「だけどもし『黒無常』だった場合は厄介だ。これは死者の魂をあの世へ連れて行く役割があるとされている」

「えっと、それってつまり……」

「そう。境界に穴を開けられてしまう可能性があるんだ。仮にそうなら早急に対処しないといけない。もっとも今はまず正体を突き止めないといけないけどね」

 刀城はそう言うと立ち上がった。

「二人とも、今から調査に出かけよう」

「今から、ですか?」

 思わずナユタの体が硬直する。今の時刻は四時近い。また『黒い人』が家の前にいたら。そう考えてしまった。

「大丈夫。ちゃんと二人とも車で家に送り届けるから。常磐さんの親御さんにはあらかじめ伝えてある。千司さんはここまで自転車で来たのかい?だったら僕の車に自転車を積んでいけばいいさ」

 目の前の鳥居のすぐ向こうには、刀城の乗ってきたやや小ぶりだがゴツいデザインの四駆が停まっている。たしかにあれなら自転車の一台くらいは積めるだろう。

「わかりました。ナユタ、それで大丈夫?」

「はい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」

「よし。それじゃあ行こうか」

 三人は車に向かって歩き始めた。



 刀城が車を走らせてまず向かったのは、ナユタのアパートだった。駐車場の空いているところに車を停め、三人は外に出た。

 まずナユタが二回目に遭遇した時、『黒い人』が立っていた住宅の塀の前に行く。ナユタの中には心理的な抵抗感があったが、それを思ってかソラが手を握っていてくれたので、少し気持ちは楽になった。

 ソラは『巫女の眼』でその場所を見る。やはり穢れや境界のゆらぎ、ほころびなどはない。空間は相変わらず安定している。

「やっぱり痕跡みたいなものはありませんね」

「ああ、そうだね。なにも見えない」

 刀城の物言いに違和感を覚えたのか、ソラが訊いた。

「刀城さんも霊視ができるんですか?」

「ああ、まあそんなところだね。歩きながら説明するよ」

 三人はコンビニのある方向と逆、南に向かって歩道を歩き始めた。

「端的に言うと、僕には『巫女の眼』の劣化版のような力があるんだ」

「え?『巫女の眼』?劣化版?どういうことですか?」

 ソラは理解が追いついていないようだった。もちろんナユタも同じ。本来『巫女の眼』は帳の巫女にしか発現しない特殊能力であるはず。劣化版と刀城は言ったが、なぜそれを彼が持っているのだろうか。

「実は僕の家は帳の巫女の家系でね。けれど僕の代は僕一人しか生まれなかった。知っていると思うけど、帳の巫女の家系に生まれた女性は、たとえ巫女の力を継承していなくても何らかの霊能力を持っている。僕の場合は本当にレアケースなんだよ。帳の巫女の家系とはいえ、本来女性しか発現しないはずの、それも帳の巫女にのみ授けられる『巫女の眼』に近いものを持って生まれたんだ」

 そこにどんな因果があったのかは、誰にもわからない。ソラもナユタもどう反応していいかわからずにいた。

「まあ、『眼』を持って不都合な目に遭ったことはないから、僕自身はむしろ仕事の役に立ってありがたいと思ってるんだけどね。ほら、もうすぐだよ」

 家々の切れ目に赤いランプを掲げた建物が見えた。交番だ。ちらっと覗くと、警官が一人で机に向かっているのが見えた。

 刀城は遠慮なく入っていく。二人も恐る恐るそれに続いた。

「すみません」

「はい。どうしましたか」

「『僕たちのことは何も怪しくない』。いいですね?」

 警官が声を掛けるなり、刀城はいきなりそう言った。椅子から立ち上がった警官は一瞬動きを止めてボーッとした表情になったかと思うと、頷いて元の様子に戻った。

「この辺りでここ一、二年年の間、不審者の目撃情報はありますか?」

「不審者ねえ。ちょっと待っててくださいよ」

 警官はそう言うと背後に立っていた棚を上から下へと探り一冊のファイルを取り出して持ってきた。手に持ったままパラパラとめくる。

「あー、一昨年は空き巣が二件ほどありましが、不審者情報はありませんね。去年あたりはひったくりの事件がありましたけど、今年の頭に解決してましてね。それ以来はこのあたりで不審者情報はないですね」

 警官はファイルを閉じながらそう言った。

「なるほど。ではパトロール中に不審なものがいたりだとかは」

「そういったものも報告されてませんね」

「そうですか。ありがとうございました」

 刀城は頭を下げて踵を返し、ソラとナユタを伴って交番を出た。警官は三人のことは特に気に留めることもなく、再び椅子に座って何かの書類を書き始めた。

「うん、一般の目撃例とりあえずないとみてよさそうだ」

「あの、先程のあれは呪言じゅごんですか?」

 ナユタが訝しげに訊く。交番に入るなり刀城が警官に掛けた言葉。あれからは強い霊力を感じた。

「呪言というか、言霊を使った催眠みたいなものだよ。その気になれば記憶操作もできるけど、今回はそこまでは必要ない。あくまで『僕らが来た』という印象を消せればいい。さっきの警官も少しすれば僕らのことなんて忘れてしまうだろう」

 刀城は住宅街に立ち並ぶ街灯を見上げながら、言葉を続ける。

「そうだな、これは影を薄くするようなものなんだ。認識干渉の術式としては初歩的なものだけど、これが結構役に立ってね。特に警察関連は何かと面倒だからさ」

 そんな話をしているうちにナユタのアパートに着いた。積んであったナユタの自転車を下ろすと、三人は車に乗り込む。



 続いて三人がやって来たのは、ソラのクラスメイトである宮部ユイナの知り合いが『黒い人』らしきものと遭遇したという与野坂地区だった。ちょうどソラたちが駅前と呼んでいる芦田あしだ町と、廃ビルのあった映見町の間にあるエリア。ここには藤花台市役所もあることから、芦田町に並んで賑わっている場所だった。

 与野坂駅前のコインパーキングに車を停め、三人は車から降りる。

「二人ともちょっとこっちへ来てくれるかい」

 ソラとナユタは運転席側のドアの前に立つ刀城のところへ歩いていった。時刻はすでに午後五時。まだまだ明るいとはいえ、日は傾いて陽光はオレンジがかり始めている。

 目の前に並んで立つ二人に、刀城は言った。

「これから常磐さんの知り合いが遭遇したという商店街で聞き込みをするわけだけど。その前に認識干渉の術式を僕ら自身に掛けるよ」

「さっきのを私たちに、ですか?」

 やや怪訝な様子でソラが訊いた。

「うん。一応六家諜報部の規則でね。調査の痕跡は己の手で消すのが原則なんだ。それに人気のある場所でいちいち僕らを見た人に術式を掛けて回るのはあまりに効率が悪い」

 一応は納得のいく説明だった。確かにそれぞれ違う制服を来た少女を連れた三十代くらいの男性があちこち回っていたら、直接聞き込みをされなくても怪しまれてしまうだろう。

「わかりました。よろしくお願いいたします」

「私も。お願いします」

「ありがとう。それじゃあまず二人とも、片手を出してくれるかい」

 ソラとナユタはおずおずと利き手を刀城に向かって差し出した。

「今から使うのは仮にも呪術だからね。君たちの心理結界が弾いてしまうかもしれない。だから僕の霊力と君たちと霊力を一瞬だけつなげて道を作る。その道を通じて術式を送り込むんだ」

 そう言うと刀城は差し出された二人の手に片方ずつ、両手を重ねた。

「いくよ」

 二人は頷く。

「『我らはうつせみ。人々の心に留まらざりし、陽炎なり』」

 その言葉を聞いた瞬間、ピン、と空気が張り詰めた感じがした。悪意や害意の類ではない何かが、合わせた手と、それから言霊に乗って耳から魂に届いた感覚。

「これでよし。僕らの存在感は希薄になった。話しかければ会話は成立するが、十数分も経てば相手は僕らのことを忘れてしまう。街にいる人たちも、僕らに注意が向くことはなくなる」

 刀城は手を離しながら言う。透明人間になったみたいだな、とナユタは思った。

「あの、この術式の効力っていつまでもつんですか?さすがに家族とか学校でもスルーされるのはちょっと……」

 ナユタはそこまで考えが及ばなかったが、確かにソラの言う通り、日常生活に支障を来してしまったら困る。

「それは大丈夫。さすがに帳の巫女の家の人には効かないし、君たちの霊力なら一晩寝れば効果は消えるよ」

 ほっと胸を撫で下ろすソラとナユタ。これで心置きなくここでの聞き込み調査に専念できそうだ。

 刀城は、じゃあ行こうかと言うと二人を連れて、駅前商店街に向かっていった。


 与野坂商店街。

 そこは昔ながらの商店街を発祥としながら、近年は若年層をメインターゲットに、スペシャルティコーヒーを出すカフェやジェラートなどのスイーツ店、雑貨店や小規模なブランドショップ、無農薬野菜の店や食べ歩きのできるグルメなどが軒を連ねる、いわゆるおしゃれな商店街を目指して発展していた。

 三人がまず向かったのは商店街入口のアーチを抜けてすぐの場所にある交番。ここでも先程と同じように、不審者情報がなかったか刀城が警官に尋ねる。

「そういったものは……いや、ちょっと待ってください」

 警官が机の中からバインダーを取り出してパラパラとめくる。そして目的のページを見つけたのか、開いてじっくりと見てから言った。

「これ、正直うちでもどう扱ったらいいのかわからない案件なんですがね、一ヶ月くらい前に商店街の、ほら、ちょっと奥の方のところ。あの路地があるあたりですかね。あそこで幽霊を見たって駆け込んできた女性がいましてね」

 警官と対面する刀城の後ろで、ソラとナユタは思わず息を飲んで顔を見合わせた。

「もしかしてその幽霊というのは、こう、とても大きくて、黒い服を着ていたとか」

「あれ。もしかして有名な話なんですか?そうなんですよ。それで一応調書は作ったんですがね。どうしたもんかと」

「なるほど。ありがとうございました」



「交番に来た女性というのが、ソラさんのクラスメイトのお知り合いでしょうか?」

「どうだろう。ユイナは知り合いがいつ遭遇したかまでは言ってなかったしな」

 ソラが首をかしげながら言う。

「とにかくここで目撃情報が得られたのは大きいよ」

 時刻は午後五時半。会社の終業時刻まではまだ早く、それほど人も多くない商店街。交番で聞いた目撃場所に向かってソラとナユタを先導しながら、刀城が背中越しに声を掛けた。

 与野坂商店街の長さは二百メートル程度。そこに数十件の店が軒を連ねている。

 三人が数分歩くと、すぐにその場所に辿り着いた。雑貨店と肉屋の間にある、細い路地。ナユタが奥を覗き込むと、その先は住宅街に繋がっているようだった。

 道幅二メートルあるかないかくらいの道路に転々と街頭が立っている。

「お二人とも、何か見えますか?」

 ナユタの言葉に、ソラも刀城もそれぞれ首を振った。

「だめ。やっぱり穢れもないし空間も安定してる」

「こっちも同じだね。痕跡らしきものはなさそうだ」

 膝をつきながら地面を集中して見ていた刀城は、立ち上がって二人の方を見る。少し考えてから切り出した。

「霊的な痕跡がない以上は聞き込みで証拠を集めるしかない。まずは路地の両隣の店に聞いてみることにしよう」

 三人はまず駅側の雑貨店からあたることにした。ドアをくぐると、小さな店内には所狭しとビードロや風鈴などのガラス細工が並べられている。ソラとナユタは物珍しそうにキョロキョロと眺めているが、刀城は真っ直ぐにレジカウンターに座る四十代ほどの女性に向かって行った。

「すみません。少しお話を伺いたいんですが」

「はい?なんですか?」

「こちらの店主さんですか?」

「はい、そうですが」

 やや怪訝そうに女性が応じる。

「私は舞浜高校で歴史を教えている教員でして。この二人は私の教え子なんですが。課外授業の一環で、この辺りの民間伝承を調べるためにお話を伺って回っているんですよ」

「へえ、そういう授業もあるんですね」

 流れるような刀城の嘘に、女性は疑う素振りも見せなかった。おそらく身分を偽って調査を行うのは日常茶飯事なのだろう。刀城のほうも手慣れている。

「実はこの辺りで幽霊や妖怪を見たという話がありましてね。こう、見上げるような身長の黒い服を着たモノが夕方頃から夜にかけて佇んでいるんだとか。そういったものを見聞きしたことはありませんか?」

「幽霊をですか?あいにく私はそういうの信じてないんですよね。ホラー映画は見ますけど、どっちかっていうと幽霊よりゾンビもののほうが好きで」

 あまり面白くなさそうな様子で答える。

「そうですか。では店主さんご自身やお店の周りで、そういったものを見聞きしたことはないということですか」

「ですね。特になにもありませんでしたね。お役に立てる話もできないで申し訳ないですが」

「いえ、とんでもない。お時間を取らせてしまって。こちらこそ申し訳ありませんでした。失礼します」

 刀城は頭を下げると踵を返してドアに向かって歩き出した。二人もそれぞれ軽く頭を下げると、それに続く。

 次に三人は路地を挟んで反対側の肉屋を訪れた。通りに面したガラスケースには様々な肉が並んでおり、いかにも昔ながらの肉屋といった風情だ。

 刀城は少し高い位置にあるカウンターに向かって声をかける。恰幅の良い五十代くらいの男性が柔和な表情を浮かべながら、店の奥からやってきた。

 先程と同じ様に高校の課外授業の一環で話聞いて回っていると言うと、男性は感心したように「勉強熱心でいいねえ」と言った。

「この辺りに怪談話の噂がありましてね」

 刀城はそう切り出すと、雑貨屋の店主にしたのとほぼ同じ話を肉屋の男性にもする。男性は太い腕を組みながら聞いていたが、やがて何か思うところがあったのか、組んでいた腕をほどいて言った。

「そういやうちの娘がそんな話をしてましたねえ。高校生にもなってそんなお化けがどうとかどうなんだって正直思ったもんですが」

「娘さんは実際に見たんですか」

「ええ、そう言って怖がってましたよ。遅くに肝試しなんか行くからですよ、そりゃ」

 呆れが七割、心配が三割といった様子だ。

「ちなみに娘さんが肝試しに行かれた場所はわかりますか?」

「ああ、映見町です。若者の間じゃ心霊スポットだの何だのとか言われてるらしいじゃないですか。娘もそれ目当てで行ったようでね」

「なるほど」

 映見町。ナユタのクラスメイトの久田スミレの先輩が遭遇したのも、確か映見町だったはずだ。

 最後にひとつと前置きして、刀城は肉屋の男性に訪ねた。

「お店の前に盛り塩がしてありますね。取り替えたのは最近ですか?」

「ええ。毎週月曜日に取り替えるようにしてるんですよ。それがなにか?」

「ここ一ヶ月で盛り塩に変わったことはありませんでしたか?例えば黒くなって溶けていたりだとか」

 その言葉を聞いて、ナユタは『黒い人』に最初に遭遇した時、部屋に盛り塩をしたことを思い出した。立て続けに色々あって、今の今まですっかり忘れていたのだ。

「いえ?特に何も」

「そうですか。いや、お話を聞かせていただいてありがとうございました」


 聞き込みをしたのは交番も入れれば三軒だけだったが、思いのほか時間がかかっていたらしく、時刻は午後六時近かった。商店街は徐々に夜の客で賑わい始めている。

 三人は混み始めた商店街を抜け、駐車場に向かっていた。

「あの、先程のお肉屋さんの盛り塩のお話で思い出したのですが」

 歩きながらナユタが刀城とソラに声を掛けた。二人とも歩いたままナユタの方に視線をやる。

「実は最初に『黒い人』に遭った後、私も部屋に盛り塩をしていたんです」

「なるほど。それはその後どうなったんだい?」

 駐車場に近づき、車のキーをポケットから取り出しながら刀城が訊く。

「それが……何も。白いままで」

「結界まで近づいて来なかったか、干渉するだけの力を持っていないか……」

 ソラが顎に手を当てながら言う。

 駐車場に着いた三人は刀城がリモコンキーで解錠した車に乗り込む。刀城は運転席へ。ソラとナユタは後部座席に。

「出現場所にあれだけ近かった肉屋の盛り塩が黒変していなかったことをみると、通常の穢れをまとった怪異とは違う存在とも考えられそうだね。ともかく今日は与野坂で一件、映見で一件、それぞれ遭遇の証言が得られた。僕のほうで持ち帰ってさらに分析してみるけど、二人も気になることがあったら教えてくれると助かるよ」

「はい」

「わかりました」

 運転席から後部座席に顔を出して話していた刀城は笑顔で頷くと、顔を戻してエンジンを掛けた。

 その後、それぞれの家に二人を送り届け、その日の調査は終了となった。




 ◇




 翌日、金曜日。

「ねえ、ソラ。今いい?」

 それは昼休みの終わりかけ、皆が授業の準備をそろそろ始める頃合いだった。

「どうしたの、ユイナ。なんかあった?」

 いつもなら比較的テンションの高い部類に入るユイナだが、どういうわけか深刻そうな顔をしている。

「あのさ、覚えてる?『黒い人』の都市伝説」

「もちろん」

「遭ったんだって。私のお兄ちゃん。隣の逆板さかいた市の大学に通ってるんだけど、藤花台に肝試しに来て」

 えっと思わず声が出る。最初はユイナの知り合い。次は兄。段々近づいてきている。感染性の怪異の感触はしなかったが、自分の勘が鈍っていただけだろうか。

「ちなみに、どこで?」

「映見町だって言ってた。二、三人で来てたみたいなんだけど、みんな見たって」

 がっくりと肩を落として、つぶやくように言う。

「次は私なのかな。やっぱりお祓いとか、受けたほうがいいのかな……」

 ユイナは本気で悩んでいる。きっとソラが思うより、ずっと深刻に。

「心配ならうちの神社でお祓いできるよ。とりあえず参拝するだけでも違うかもしれないけど」

「ほんと!?そしたらお祓い、お願いしようかな……」

 霊的な要素の絡まない事案において、お祓いなどの儀式は基本的に本人が納得するためにある。お祓いをしたからもう大丈夫といったように。

 だがそんな気休めでも、今のユイナにとっては必要に思えた。

「お父さん神主だから、相談しておくよ。連絡するね」

「ありがとう。ソラ。ほんとに」

 いつになくしおらしいユイナを見て、ああ、これは本当に堪えてるなと感じたソラだった。一刻も早く自分たちの手で解決しなければならない。



 放課後。

 ソラ、ナユタ、刀城の三人は、映見駅前の喫茶店で合流した。

「やあ。わざわざこっちまで来てもらって申し訳ないね」

 喫茶店奥、窓際のボックス席に座った三人は、お冷を持ってきた店員にそれぞれ注文を伝える。

「二人とも、何か身の回りであったかい?」

 刀城はおしぼりの袋を破りながら、向かいに座るソラとナユタに訊く。

「あの、少し前の話になってしまうのですが……」

 ナユタが遠慮がちに小さく手を挙げた。

「私のクラスメイトから、先輩が映見町で『黒い人』に遭遇したという話を聞きました」

「あ!それ、私も今日お兄さんが映見町で遭ったって話聞いたよ」

「ふむ。やはりそうか」

 刀城は何か納得した様子でカバンを漁ると、タブレットを取り出す。しばらく何かを操作した後、画面を上に向けて二人にも見えるようにテーブルの中央に置いた。画面には藤花台市の地図が表示されている。

「今の二人の話も合わせて、我々が見聞きした中でも映見町での遭遇事例が多いように思う。そこで類似の事例を調べてみたんだ」

 とん、とタップすると、地図上に無数のピンが降ってきた。その多くが映見町一帯に刺さっており、与野坂、芦田と行くにつれて徐々に少なくなっている。

「もちろんこれはあくまで『類似の案件』だから、『黒い人』以外も含まれている可能性は十分にある。それこそ前に言った『黒衣』みたいにね。映見から波状に広がっているようにも見えるが、この偏り方は明らかに異常だ」

 店員が注文の品を持ってきたので、刀城は一旦タブレットを引っ込める。アイスコーヒー二つ、メロンソーダ一つがテーブルに置かれる。店員は笑顔で礼をして去っていった。

「ちなみに『黒い人』の都市伝説のサイトも調べてみたよ。まとめサイトじゃない、オリジナルのスレッドのほうをね」

 ソラはアイスコーヒーを、ナユタはメロンソーダを飲みながら聞いている。

「具体的にはスレ主、ああ、君たちにはこの言い回しは通じないか。ええと、スレッドを立てて一番最初に体験談を書き込んだ人のIPアドレスを解析した」

「えっと、IPアドレスって……なんか大事なやつ、でしたっけ」

「PCの住所のようなものですよ、ソラさん」

 意外にもしっかりネットワークの知識を持っているナユタに内心驚きながら、刀城は言葉を続けた。

「千司さんの言う通り。それでわかったんだ」

 刀城はアイスコーヒーを一口飲んで、言葉を続けた。

「一番初めの書き込みは、藤花台市内からされたものだった」

 周囲の温度が数度下がったような錯覚に陥る。つまり、それは。

「都市伝説自体が藤花台発祥ってことですか……?」

「そういうことになるね。ちなみにスレッド内の他の書き込みのIPアドレスもすべて解析したが、実に三割が藤花台市内から書き込まれたものだった。しかもそれらの書き込みには共通点があって、何かしら言葉を掛けられたというものなんだ。これは市内で出回る噂話や、千司さんの体験とも一致するね」

 残る七割は単にスレッドの空気に同調したか、あるいは黒衣のように類似の怪異に遭遇した事例だったのかもしれない。だが一スレッドの中とはいえ、世界に公開されている匿名掲示板でたった一つの市からの書き込みが三割というのは異常に思えた。

「そういった諸々の情報を総合して、僕は映見町に何らかの原因のようなものがあると推測している」

 確かに映見町には心霊スポットと呼ばれる場所もいくつかあるし、先日の廃ビルのような場所もある。特に後者の異界はサクヤの広域霊視でも見通せなかった。

 そういう意味では映見町には何かがあってもおかしくない。ソラもナユタもそう思っていた。

「今回も聞き込みですか?」

 空になったグラスをテーブルに置きながら、ソラが訊く。

「うん。基本的にはそうだね。空いている店は少ない。虱潰しに聴き込んでも、そこまでの労力にはならないだろう」

 刀城はナユタのグラスも空になっていることを確認すると、行こうかと声を掛け、伝票を持って立ち上がった。二人もそれに続く。

 会計を済ませて外に出ると、藤花台には珍しく纏わりつくような湿気を感じた。



 閑散とした駅前の一際寂しい一角で、与野坂商店街での調査時と同様、言霊による認識干渉の呪術を掛けた後、三人は映見商店街のアーケードに入っていった。

 映見商店街は与野坂商店街の倍ほどの長さがあり、当然店舗数も多い。だが現在営業しているのはそのうちの二割程度。

 アーケード周辺は高齢者の比率が多いこともあって、車で二十分ほどのところにある大型スーパーに行く人は少ない。シャッター通りと揶揄されていたとしても、依然として周辺住民の生活基盤となっていることに変わりはないのだ。

 ポロシャツにチノパンの刀城が先導し、その後を制服姿のソラとナユタが続く。午後四時という時間もあってかほとんど人はおらず、靴音がアーケードに響いているような気さえする。

 三人は立ち並ぶシャッターの列を歩いた先で、開いている店を見つけた。婦人服などが並んでいる。洋品店のようだ。

「ごめんください」

 ハンガーの列を避けながら、一列になってこじんまりとした店内に入る。有線放送か何かなのか、歌謡曲が小さく流れているのが聞こえた。

「はあい」

 レジカウンターの奥の暖簾をくぐって出てきたのは、七十代くらいの女性だった。刀城は女性に偽りの事情を説明する。

「はあ。こんなところまで来て偉いねえ。若い子が来るなんてないから、なんだか嬉しいよ」

「あの!私たちこの辺りの伝承とか民話を聞きたくて」

 刀城にばかり任せておくのが忍びなかったのか、ソラが切り出した。

「いいよ。なんでも聞いておくれ」

「ちょっと怪談みたいなものなんですけど、夕方とか夜に、こう、見上げるくらい大きな黒い服を着た幽霊っていうか、妖怪っていうか、そういうものの話に心当たりはありませんか?」

 先程までニコニコとしていた女性は、ソラの話を聞くと急に神妙な面持ちになる。そして口を真一文字に結んだ後、大きく溜息を着いてから話し始めた。

「ああ、それね。知ってるよ」

 三人は思わず顔を見合わせる。

「もう三、四十年前くらいになるかね。夜遅くに店を開けてるとね、立ってるんだよ。店先に。背丈はあんたが言ったように見上げるくらいだから顔は見えない。だけど立ってるんだ。ぼーっと」

「それは何か言ったりするのですか?」

 今度はナユタが質問した。

「いんや。ただ立ってるだけ。だけどこの店だけじゃない。あっちこっちの店の前に立ってるんだ。だからここいらの店の間じゃ、夜遅くまで開けとくなってのが暗黙の了解になってるんだよ。今でもね」

「それが何なのかはわからないのですか?」

「さあねえ。悪いけど私に話せるのはこのくらい。せっかく来てくれたのに申し訳ないね」

「いえ、大変貴重なお話でした。どうもありがとうございました」

 刀城はここが引き際とばかりに礼を言って踵を返す。二人もそれに続いた。


 その後、三人は開いている店に手当たり次第聞き込みをした。八百屋、魚屋、菓子屋、肉屋……。だが聞き出せる話は洋品店と同じ。が店先に出るから、夜遅くまで店を開けていてはいけない。

「あの、刀城さん。商店街の人たち、何か話したがっていないこと、ありますよね」

「私もそう感じました。話の切り方が不自然です」

 アーケードを歩きながら、二人はそれぞれに違和感を口にする。どの店の店主も何か含みを持たせているというか、あるいは詳しく話すことを忌避しているというか、そういう雰囲気があった。

「そうだね。僕もそう思う。これは最悪術式を使わないといけないかもしれないな」

 そんな不穏なことを言いながら、刀城はアーケードの終わりのほうで営業していた乾物屋に入っていった。

 レジカウンターで茶を飲んでいた細身の好々爺然とした老人に声を掛け、偽の身分を伝えると、どうやら話好きの人物のようで、聞いてもいないのに映見町の歴史について話を始めた。

 刀城は巧みに話を逸らし、『黒い人』に話題を変える。すると老人の表情がみるみる曇っていく。

「ああ。そりゃ『おはしらさま』の祟りだよ。みんなそう信じてる。話は聞かなかったのかね」

「ええ」

「まあ、そうだろうな。みんな話したがらないだろうさ」

 ここに来て初めて聞く言葉が出てきた。おはしらさま?ソラもナユタも頭の中は疑問符でいっぱいだった。

「ちなみのその『おはしらさま』というのは」

 刀城が老人の顔色を伺いながら訊く。

「『おはしらさま』はここいら一帯の人間みんなが大切にしてきた神さんだよ。あのーほれ、この商店街の向こうの通りに昔お社があってね。毎日誰かしらが水とか花とか菓子なんかをお供えしてたもんだよ。もう三、四十年前の話になるかね」

 老人は懐かしそうに、大事な思い出を語るように話す。

「だけどそこにビルが建つってんで、お社が壊されちまった。それで商工会長もあんなことになっちまって……。それでお社を壊された『おはしらさま』は、今でも壊したもんを探して回ってるっちゅう話よ」

 ソラとナユタは同時に顔を見合わせた。その話には聞き覚えがある。

「なるほど。そうでしたか。住民の方々に親しまれていたんですね」

「そうよ。あっちの通りのもんに聞いてみ。今でもあん時のこと覚えてるはずだよ」

「ありがとうございます。二人とも行ってみようか」

 刀城は失礼しますと頭を下げると、二人を伴って店を後にした。

 店から少し距離を置いたところでソラが切り出した。

「今の話、私たち知ってます。廃ビルの異界の中にあった新聞記事で読みました」

「本当かい?お社が壊されたっていう……」

「はい。正確には、ビル建設予定地に祠があり、それがおそらく建設時に取り壊された。地域住民に親しまれた神を祀った祠を壊すことに対する反対運動も行われており、最終的にはビル完成後に反対運動の旗頭だった商店街の会長が屋上から飛び降り自殺を図っています」

 ナユタの補足を聞いた刀城は眉間に立ち止まり、眉間に皺を寄せて考え込んだ後、言った。

「少し確かめたいことがある。廃ビル近くで聞き込みをしよう」


 三人はアーケードをそのまま抜け、ぐるりと回って廃ビルの通りを進み、その場所に来た。ソラとナユタにとっては、できれば二度と来たくなかった場所。ビルは相変わらずそこにそびえ立っている。

 刀城はビル付近の平屋の住宅のチャイムを手当たり次第押していく。不在なのか居留守なのか、なかなか反応がない。

 ここでだめなら場所を変えようと最後に押した家から、「はいよ」と返事があった。磨りガラスの引き戸がガラガラと開いて、腰の曲がった偏屈そうな男性が出てくる。

 刀城が偽の身分を話すと、意外にも男性は食いついてきた。「何が聞きたいんだ」としわがれた声で尋ねてくる。

「あのビルが建つ前に祠があったかと思いますが」

「ああ、『おはしらさま』か。建設会社の連中、ひでえもんだ。ぶっ壊しやがって。おれは毎日外の椅子に座って見てたから知ってるよ」

「なるほど。ではお伺いしたいのですが、祠が壊される前、地鎮祭のようなものをやっていた様子はありましたか?神主のような人が来たりして、とか」

 ソラもナユタもその質問の意図がよくわからなかった。

「いいや。そういうもんは来なかったね」

「そうですか」

「毎日御神体を磨いてたんだ。うちにはきったねえぼろきれしかねえけど、そん中でもきれいなの探してさ」

 男性は悔しそうに語る。

「御神体、ですか」

「そう。黒いんだよ。石。名前は忘れちまったけど、墓石とかと同じようなやつだ」

「なるほど」

 それからも男性の話は続いた。祠を壊されたことが余程悔しかったのだろう。どれだけ愛着があったか、どれだけ手入れをしたか、そんな話が口から吹き出すように出てくる。

「そうでしたか。ちなみに『おはしらさま』に詳しい方はご存知ですか?」

「え?ああ。昔の映見病院のとこに住んでる水田っての。あんたの言う歴史だの何だの、そういう小難しい話が好きな爺さんがいるよ。行ってみな」

「ありがとうございます」


 旧映見病院。現在では使われておらず、若者の間では映見町の心霊スポットの一つとして扱われている場所だ。廃ビルの通りを北上した先にある。

 三人は歩きながらここまでで得た情報を整理していた。

「まず『黒い人』は『おはしらさま』と呼ばれる土着神みたいですね」

「はい。そしてその御神体はおそらく黒い御影石だった。『黒い人』が黒い服をまとっているのは、おそらくそれに由来するものかと」

 ソラとナユタが順に言う。

「でも刀城さん。さっき聞いてた地鎮祭がどうって、どういうことですか?」

 ポニーテールに結んだ髪を直しながら、ソラが訊いた。

「工事で祠を壊す場合、新しい祠に神様を移すための儀式を行う必要があるんだ。だけど聞いた限りでは必要な儀式は行われていない。これはかなりまずい状態だよ」

 柔和な表情を保っている刀城だが、内心の焦りは二人が見てわかるくらいに滲み出ていた。


 デコボコのコンクリートの道を抜け、北上する坂道に差し掛かったあたりで旧映見病院が見える。坂でも平らに建物が建つように均されていて、道路側には石垣が積まれていた。

 周囲に点在する民家を一軒ずつ見ていくと、目的の水田家はすぐに見つかった。昭和の文化住宅に真新しいインターホンが取り付けられている。

 刀城はインターホンのボタンを押した。ややあって「はい」と男性の声がする。刀城が偽の身分と目的を伝えると、「ちょっと待ってくださいね」と嬉しそうな声が返ってきた。

 内鍵が回る音に遅れてドアが開く。現れたのはやや太めだが健康そうな老人だった。刀城が改めて詳細を言おうとすると、「あーいいから入って入って」と言う。断りきれず、三人は水田氏の家に上がった。

 通された居間には布団が外されたこたつがテーブル代わりに置かれており、テレビ台にはこけしや狛犬、シーサーの置物が所狭しと並んでいる。

「こんなもんしかなくて若い子には申し訳ないけど」

 そう言いながら台所のほうからやってきた水田氏は、テーブルの上に菓子鉢に入った袋入りの和菓子や煎餅、お盆に乗った麦茶のグラスを四つ、両手で持っていた。よっこいしょと言いながらそれを並べる。

 お盆を片付けて戻って来た水田氏は、空いている席に座った。具体的な年齢は分からないが、歳の割に相当若々しく見える。

「それで、この地域の民間伝承についてでしたっけな?」

「ええ。具体的には『おはしらさま』についてお聞きできたらと」

「『おはしらさま』ね。祠も壊されてしまって。本当に残念でなりませんよ」

 眉尻を下げて言う。

「『おはしらさま』にはどういった伝承があるか、ご存知ですか?」

「あーええとね、まず『おはしらさま』はね……」

 水田氏は手を伸ばしてティッシュボックスの乗るスツールに置いてあったメモ帳とペンを取った。

「漢字でこう書くんですよ」

 ――『御柱様』

「柱、ですか?」

 思わずナユタの口から言葉が溢れる。

「そう、柱。もともとあの祠は分社でね、本社は高路山こうろさん高路たかみち神社なんだよ」

 高路山。藤花台市北西の端にある小さな山だ。

「それで、そこでお祀りしていたのが『天柱尊あまはしらのみこと』という神様で。この神様は遥か昔に天が落ちてこないように支えてくださったという伝説が残っているんだ」

「なるほど。それが一般大衆に広まって、親しみを込めて『おはしらさま』と」

 刀城が麦茶を飲みながら言った。

「天を支える柱の神様……」

 ナユタは『黒い人』の姿を思い出した。見上げるような背丈。あれが天を支える象徴だったとしたら。

「ビル付近で祠を壊す際に必要な儀式が執り行われていなかったというお話を伺ったのですが」

「そのようですね」

「では新しい祠も」

「作られたという話は聞いていませんね。本来なら新しい祠を作って、それから古い祠で儀式を行って御霊を移してから取り壊すというのに」

 刀城は相槌を打ちながら聞いている。ソラは地鎮祭でたまに父親が出かけることはあるが、祠を移しに行くという話は聞いたことがなかった。当然、具体的な儀式の内容も知らない。

「ちなみに祠の御神体は今どこに?」

「さあ……おそらくビルの下かどこか……。あっという間でしたからね。今となってはもう」

 仮にビルの下、地中に御神体か祠の一部があったとしたら。連続飛び降りだけでは説明のつかなかった強力な異界も、正式な儀式を経ずに壊された祠の残留思念のようなものが合わさったのだとしたら説明がつく。ナユタは袋入りの最中を食べながら考えていた。

「あの、高路神社の御神体なんですけど」

 ソラがおずおずと声を上げた。全員の注目が集まる。

「もしかして黒い御影石だったりしませんか?しかも大きな」

 それを聞いた水田氏は一瞬目を丸くした後、言った。

「いや、優秀な生徒さんですね、先生。その通りだよ。黒い御影石の角柱でね。高さは、どのくらいだったかな、二メートル以上はあったはずだよ。最後に見たのはもう何十年前になるかわからないなあ」



『おはしらさま』の話はそこで終わり、しばらく水田氏の思い出話に付き合ってから礼を言って三人は家を後にした。

 時刻はもうすぐ午後六時。夕焼けが照らす道を歩いている。

『うちはどこですか』

 それはナユタの家を聞いていたのではない。きっと壊されてなくなってしまった祠を探していたのだ。

『やまへいきませんか』

 たぶん、街に長くいすぎた『おはしらさま』は、高路山への帰り方を忘れてしまった。だから誰かに連れて行ってもらおうとしたのかもしれない。

「『黒い人』は迷える神様だったのですね……」

 しんみりとしたナユタの声に、歩きながら刀城とソラはその顔を見る。夕暮れの光が、ナユタの神妙な面持ちを照らし出していた。

「そうだね。人々の傲慢が招いた悲劇だ。あまつさえ、それを都市伝説として消費してしまっている」

 ああ、『おはしらさま』もひとりぼっちなんだ。みんなに愛されていたのに、家を追われて、怖がられて、怪談話にされて。だったら自分も同罪だ。ナユタはそう思った。

「私は」

 だったらせめて、できることをして報いなければ。

「私は、『おはしらさま』を高路神社にお戻しするべきだと思います。すぐにでも」

 刀城は驚いたような表情で、ソラはナユタならそう言うだろうなという表情で、それぞれ立ち止まってこちらを見ていた。

「僕も反対はしない。実際、と思う。だけど今すぐにとなると、それなりのリスクがある」

「リスクですか?」

「うん。祠の儀式の話は聞いていたよね?本来神様に場所を移って頂くためには、御霊移しという儀式が必要になる。だが今回の場合、もともと『おはしらさま』がいた祠はすでにない。だからその代わりとなる依代を使う必要があるんだ」

 それが何を意味するか、ソラもナユタもわからないはずはなかった。

「私が依代になります」

 ソラが決意に満ちた声でほとんど即答する。

「帳の巫女も、巫女であることには変わりありません。だったら神降ろしの器になれるはずです」

「ソラさん……」

 強い意志の宿るソラの目を見た刀城は、降参とばかりに息をつくと言った。

「……わかった。ただし危険だと判断した場合はすぐに中断して、六家の専門班に引き継ぐ。それは約束してほしい」

「わかりました」




 ◇



 廃ビル横の駐車場でソラとナユタが待機していると、刀城の四駆がバックで入ってきた。運転席から降りた刀城はそのまま車の後ろに回ると、バックハッチを開けて二人に声を掛ける。

「荷物を下ろすのを手伝ってくれるかい」

 刀城はトランクに置いてあったナイロン製の大きな黒いバッグのファスナーを開けると、ソラとナユタに次々と中の物を渡していく。ソラには紙垂がいくつも付いた縄を。ナユタには筒と榊を四本ずつ。

「常磐さんはその縄を円になるように広げて。千司さんはその外側、四隅に筒を使って榊を立ててほしい」

 言いながら刀城は和紙の包みに入っていた塩を自分の体にかけたあと、ナイロンバッグに入っていた紙垂の付いた棒――御幣――を取り出した。

 ソラとナユタは手早く指示された通りに縄と榊を配置していく。

「よし。それで大丈夫。二人ともありがとう。それじゃあ常磐さんは円の中心に立ってくれるかい。千司さんは円の外に」

 縄と榊で作った簡易的な結界。その中心にソラが立つ。ナユタは言われた通りそのすぐ外側に移動した。

「ちなみに千司さん。楔の力をこの結界全体に展開することはできるかい」

「やってみます」

 ナユタはその場にしゃがみ込むと、地面に手をついた。その手を伝わって空間に楔の力が広がっていく。それを刀城は『眼』で見て確認していたようだ。

「なるほど。ここまでとは……。祝詞もなしに空間全体が祓い清められている……。これならすぐに神降ろしに移れそうだ」

 そう言いながら結界に入ってソラの目の前に立つ。

「いいかい?今から始めるよ」

「はい。いつでも」

 刀城は頷くと、御幣を真正面に構えるように持った。


「掛けまくもかしこき 高天原たかまがはらかむいます 天照大神」

 刀城が祝詞の奏上を始めた。神降ろしの祝詞。それはナユタもソラも、初めて聞くものだった。

瑞霊みたまを此の地に招き 我等の祈りを 聞し召したまえ」

 いつもの刀城とはまるで違う、重く厳かな声。夕闇の中に響き渡るようなその声に呼応するように、徐々に変化が起こり始めた。

 それを最初に感じたのは楔の力を展開していたナユタだった。結界の中に何か、大きな力の渦のようなものが収束していくような感覚。それは祝詞が進むにつれて徐々に大きくなっていく。

 そして祝詞も後半に差し掛かった頃、ついにそれが姿を現す。

 ボロボロの黒い布をまとった見上げるほどの背丈。細長く白い手足。闇に包まれた顔。『黒い人』、否、『おはしらさま』の姿がソラの背後に滲み出すように現れた。

 ゆっくりとソラに近づくと、背後からおぶさるように体に手を回していく。そしてその姿がソラの中に消えていこうとした、その瞬間。

 パンッ、と何かが弾けるような音と共に明るい緑の光が飛び散って、『おはしらさま』が後方に仰け反り、数歩後ろに下がる。

「う……ぐ……」

 ソラもソラで苦しそうに胸を押さえている。

 明らかな異常事態に刀城も祝詞を中断し、ソラに駆け寄る。

「大丈夫か!?」

「ぅ……は、い……でも……入って、こられなかった、みたい、で」

「……失敗か。しょうがない。専門班に連絡を……」

「待ってください!」

 刀城がスマートフォンを取り出そうとした時、ナユタの声が響いた。刀城もソラも驚いた様子でナユタを見る。

「私がソラさんの代わりに依代になります」

「それは」

「楔の一族はもともと帳の巫女の血筋から分かれた家系。であればその末裔である私にも巫女の、器としての素質があるはずです」

「しかし……」

 刀城はナユタの圧に押されてはいるが、彼女を依代にすることは躊躇っている様子だった。いくら巫女の血が混ざっているとはいえ、楔は正式な巫女ではない。そのナユタを依代にすることには、予測不可能なリスクを伴う。

「もう時間がありません!早く!」

 見れば『おはしらさま』は足元から徐々に姿が薄くなっていっていた。

「……仕方ない。千司さん、結界の中央へ!」

 刀城はまだ胸を押さえているソラの手を引きながら結界の外へ連れて行き、今度はナユタの前に立って最初から祝詞の奏上をやり直し始めた。

 再び『おはしらさま』の姿がはっきりと濃くなっていく。それはソラの時と同様、後ろから抱きつくようにナユタの方から白い腕を回してきた。

 刀城が祝詞の最後の一節を唱え終わった時、『おはしらさま』はすーっとナユタの体の中に吸い込まれるようにして消えていく。その瞬間、ナユタは膝をついてゆっくりとうずくまり、やがてその場に転がるようにして倒れた。

「千司さん!」

「ナユタ……!」

 刀城が駆け寄り、その体を抱き起こす。息はあるが、神をその身に降ろしたことで意識状態が変質しているようだ。何かを呟いているようだが聞き取れないし、こちらからの呼びかけにも答えない。目は閉じられたままだ。

 ナユタを抱き上げた刀城は、急いで車へ向かう。胸の苦しさが和らいだのか、ソラも小走りでそれに続いた。

 ソラが後部座席のドアを開け、刀城がナユタを乗せる。ソラも乗り込むと、ナユタの頭を自分の膝に乗せた。

「ここから高路神社までは一時間ちょっとはかかる。その間『眼』でずっと千司さんの様子を見ていられるかい?」

「はい。大丈夫だと思います」

「よし。それじゃあ行こう」

 刀城はゆっくりと車を発進させた。




 ◇




 何もない真っ白な地平。

 見渡す限りの白の中に、ナユタは立っていた。目の前には『おはしらさま』の黒い姿がある。

 恐怖は感じない。

「ずっと、ひとりぼっちだったのですね」

 声が不思議な具合に反響する。『おはしらさま』は変わらず立ち尽くしたまま。けれどナユタには、頷いたように見えた。

「私もひとりぼっちです。自分の家族の中にいても、ソラさんのご家族に迎えられても、学校のお友達と一緒にいても。人といるのにひとりぼっちなんです」

 なぜ自分はこんなことを話しているんだろう。

「『おはしらさま』の悲しみや寂しさに比べれば、私のものなんてちっぽけなものです。『おはしらさま』はずっと街の皆さんに親しまれていたのに、帰る場所を奪われて、怖がられて。私なんかが想像することすらおこがましいです」

 その表情は白い空間でもなお黒い闇に包まれていて見えない。だが微かに首を振ったように思えた。そんなことはない。比べるものではない、と。

「私は映見町で『おはしらさま』の話を聞いて、勝手に私と似ていると思ってしまいました。私も、『おはしらさま』も、ひとりぼっちだと」

『おはしらさま』はゆっくりとナユタに近づくと、その長い手を伸ばしてナユタの頭に触れた。そして黒髪混じりの銀髪をぎこちなく撫でる。

 そこに言葉はない。

 あるのはただ、神と人の子との間に芽生えた、共感に似た何かだけ。




 ◇




 映見町を北上する道路を刀城の四駆がひた走る。後部座席でソラがナユタの頭に手を置きながら、『眼』で霊力の流れを常に監視していた。

 ナユタの霊力は時折一瞬流れを止めたり、かと思えば勢いよく流れたり、まるで不整脈のようだ。神を宿している影響で魂に負荷が掛かっているからかもしれない。しかしソラにも刀城にも、それに干渉して正常に戻す力はない。

 正常に戻るとしたら、それは神がナユタの中から抜けるしかないのだ。

「あと少しだよ」

 刀城がそう言ってから二十分ほどして、道は舗装された道路から未舗装の道になった。ガタガタと車が小刻みに揺れる。

 車はそのまま未舗装の登り坂を十数分登った後、開けた場所で停まった。

「車で行けるのはここまでだ。ここから先は徒歩で参道を登っていく」

 よく見れば、ヘッドライトの照らす先には古びた鳥居の立つ細い山道がある。

 刀城はエンジンを切るとグローブボックスから細長い懐中電灯を二本取り出し、片方を後部座席のソラに渡す。そして運転席から降りると、外から後部座席のドアを開けて言った。

「千司さんをこっちへ」

 ソラはナユタの体を押すように起こすと、そのまま車外で待っていた刀城の背中へ乗せた。刀城はナユタを受け取るとしっかりと背負い直し、ポケットに突っ込んでいた懐中電灯を片手に持った。

「トランクのナイロンバッグを持ってきてくれるかい?儀式用の道具が入ってる」

「わかりました」

 ソラも車を降りると、バックハッチを開けてナイロンバッグを取り出し、持ち手を肩に掛けた。もう片方の手で懐中電灯を持つ。

「よし。行くよ」

 懐中電灯のスイッチを入れた刀城が言った。ソラも懐中電灯を点けてそれに応える。二人は広場を進み、鳥居を抜け、参道である山道を登り始めた。

 高路山は少し高い丘程度の標高しかない。とはいえ石の混じった土の登り坂をローファーで登っていくのは、さすがのソラでも簡単ではなかった。おまけに今は大きな荷物も持っている。

 足元を照らしながら慎重に、それでいて急ぎながら一歩一歩進んでいく。

 セミの鳴き声はすっかり静まり、あたりはりいりいとうるさいくらいの虫の声に包まれている。日は沈み、西の空が少しだけ紫に見えた。

 刀城はこの道を参道と言ったが、ところどころに大きな石が転がっていたり、草が伸びてきていたり、とても人が手入れしているとは思えない。一応道があるということは人の行き来はあったのだろうが、長い事放置されていたに違いない。

「千司さんの様子はどうだい?背負っていると見えなくてね」

 足元と前方を交互に照らしながら、刀城が訊く。

「霊力の循環が不規則なままです。かなり負担がかかっているみたい」

「そうか。あまり長く留めておくのはまずいな」

 山道は徐々に急になっていく。ソラはローファーの足元を持っていかれそうになりながらも、なんとか踏ん張って刀城についていった。

 やがて刀城の照らす先に、本殿と思しき建物の屋根が現れる。二人は歩調を早めて坂を登りきった。

 かくしてそこには、小屋くらいの大きさのかなり古びた社があった。正面の戸は内側に向かって倒れており、中の様子が丸見えだ。その中には懐中電灯の光を反射する物体があった。

 社の天井近くまである、黒い御影石。それが社の基礎部分に組み込まれているであろう、石の台座に乗っている。御影石の形状は昼に水田氏に聞いた通り、角柱だ。そのちょうど真ん中あたりに紙垂のついたボロボロの縄がかろうじて巻かれている。

「これが……」

「ああ。『おはしらさま』、いや『天柱尊あまはしらのみこと』の御神体だ」

 社の縁にナユタを下ろして寝かせながら、刀城が言った。

「榊を出してくれるかい。まずはこの場を清める」

 ソラは肩に掛けていたナイロンバッグを下ろすと、四本の榊を出して刀城に渡す。受け取った刀城は榊を束ねて持ち、ナユタに向かって独特なリズムで振り始めた。

 それと同時に祝詞を唱え始める。ソラにも聞き覚えのある清めの祝詞だ。流れるように祝詞を奏上し終わった刀城は、ソラのほうに振り向いて言った。

「榊は戻してくれていいよ。今度は御幣を。これから御霊移しを始める」

 刀城はソラから御幣を受け取ると、真っ直ぐにナユタを見据える。




 ◇




 ナユタは白い世界の中にいた。正面には黒い姿の神。

「……?今、何か聞こえたような……」

 それは『外』で刀城が唱えている、御霊移しの祝詞だった。ナユタにはどこか遠くから聞こえる声として感じられる。

「『おはしらさま』は天を支えてくださった神様だと聞きました。この地をお一人で守ってくださったのですね」

 それはあくまで伝説で、今目の前にいる神性が実際にそのようなことをしたかはわからない。それでもナユタは感謝を述べた。たった一人で、誰に助けられることもなく、天を支えたとされる神に。

「私もそんなふうになれたら、なんて思ってしまいます。ひとりぼっちでも、片思いでも、私には大切な人たちがいますから」

 遠くから聞こえる声は、歌のようにも思える。温かく安らぎを覚える旋律。

「私はまだ弱いです。強くなりたいです。ひとりぼっちでも、人知れず大切な人たちを守れるくらい、強く」

 その言葉に反応したのか、黒い神が長く白い手をナユタのほうに伸ばした。何かを握っているようだ。ナユタは両手を差し出す。その手の上に何かが落とされた。

 黒い神の手が引いていく。ナユタは自分の手を見た。その上に小さな黒い御影石が乗っている。

「これを、私に……?」

 黒い神は身をかがめるようにゆっくりと頷いた。

 よく見れば、その体躯は足元から徐々に金色の粒子になって散っていっている。

 歌のような声は段々と大きくなっていた。刀城の祝詞が終盤に差し掛かっているのだ。

「もう、行ってしまわれるのですか?」

 また大きくゆっくりと頷く。ナユタ本人は自覚していなかったが、その魂はすでに限界に近かった。それに黒い神は、いるべき場所にこれでようやく戻れるのだ。

 ナユタは小さな御影石を胸の前でぎゅっと握りしめた。

「ありがとうございます。『おはしらさま』。いいえ、『天柱尊あまはしらのみこと』様。これからもこの地をお守りください。私はいつでもあなたのことを覚えています」

 黒い神の姿が金色の粒子となって消えるその刹那、真っ暗で見えない顔が柔らかな笑みを浮かべた。

 そんな気がした。




 ◇




「ユタ……!ナユタ!」

 自分を呼ぶ声に引っ張られるように、意識が浮かび上がる。

 目を開けると、どこかの社の軒下、涙を流すソラと心配そうな表情を浮かべる刀城の姿が、床に置かれた懐中電灯に照らされて浮かび上がっていた。

「ソラ、さん。刀城、さん。」

「ナユタぁ!」

 体を起こしたナユタにソラが抱きつく。状況が完全に飲み込めずに困っていると、抱きついているソラの肩越しに刀城が説明を始めた。

「まず、ここは高路神社。御霊移しは無事に成功して『天柱尊あまはしらのみこと』は御神体に戻られた。だけど神降ろしの影響で千司さんの魂にかなりの負荷が掛かっていたようでね。神霊が抜けた後もしばらく目を覚まさなかったんだ」

「そう、だったんですね」

 相変わらず自分に抱きついてグズグズと泣いているソラの背を、とんとんと優しく叩いた。

「もう、大丈夫ですよ」

「……ほんとう?」

「はい。具合も悪くありません」

 ソラは体を離してナユタの顔を見ると、「よかった」と呟いて、またぎゅっと抱きしめた。

 ナユタはソラの背に手を置きながらあたりを見回す。もうすっかり夜だ。その中で二本の懐中電灯が社を照らしている。その奥にあるのは黒御影石の角柱。

天柱尊あまはしらのみこと様。私は私の大切な人たちを守ってみせます)

 心の中で小さく呟いた。




 ◇




 後日、鏡見邸。

 刀城はサクヤのもとに『黒い人』事件の顛末についての報告に来ていた。和蝋燭が照らす室内で、タブレットを挟んで二人は対面している。

「今回はあなたたちの地道な聞き込みが功を奏しましたね。私の広域霊視にもあなたたちの『眼』にも見えなくなるほど神気が薄れていたとは」

 タブレットには藤花台の地図が表示されていた。

「ええ。あと一歩で零落し切るかというところで御神体にお戻しできたことはなによりかと」

「そうですね。本物の怪異になる前に対応できたことは喜ばしい。対抗神話の流布は?」

「すでに開始しています。拡散速度からみて、数ヶ月もあれば都市伝説を無力化できるかと思います」

 サクヤは「それは結構」と言うと、タブレットの画面をスワイプする。そこには刀城が事前に提出していた報告書のPDFが表示されていた。

「ところでこの報告書では、常磐さんへの神降ろしが失敗したとありますが」

「ええ。何かに弾かれるように不明な光が散り、神霊を受け付けませんでした。常磐ソラ。真名はおそらく『から』であり『くう』。器としてはこれ以上ない存在定義のはずなのですが」

 サクヤはそれを聞いてしばらく考え込んだ後、言った。

「常磐さんの一件、極秘扱いとします。あなたも他言無用でお願いします」

 穏やかながら有無を言わせぬ雰囲気に、刀城も従うほかなかった。

 その後二、三の確認を終えると、刀城は礼をして部屋を去っていった。


「こちらも残された時間は多くはない。そういうことでしょうね」

 サクヤは祭壇に向き直ると、小さく呟いた。

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