二 うつろの迷宮
翌週の土曜日。
ソラは家族に「友達の家に行く」と言って家を出た。なんとなく、ナユタの一人暮らしの家が気になったからだ。
メッセージアプリを立ち上げ、ナユタに「今から行ってもいい?」と送信する。すぐに「はい、こんなところでよければお待ちしています。部屋は一〇五号室です」と返事が返ってきた。
ソラは家の外に停めてあった自転車に跨ると、ゆっくり漕ぎ出した。ナユタの家まではそう遠くない。自転車で十五分もあれば着くだろう。
そうしてナユタの家に着いた彼女は、アパートの駐輪所の空いているスペースに自転車を停めた。一〇五、一〇五。部屋の表示を順番に見ながら歩いていく。あった。ここだ。表札に名前は書いていないが、この手のアパートでは珍しいことではない。隣近所に自分の名前を、存在を知られたくないというプライバシー意識がそうさせるのだ。
インターフォンを押す。ピンポーンという音に遅れて「はい」とナユタの声がした。
「私、ソラ。来たよ」
「お待ちしていました。今開けます」
その数秒後、玄関の内鍵が回る音とチェーンが外れる音が聞こえ、ドアが開いた。セーラー服ではない、ラフなTシャツ姿のナユタが上半身を覗かせた。
「こんにちは。ソラさん。どうぞお入りください」
「おじゃまするね」
ソラはやや遠慮がちに敷居を跨いで玄関に入る。玄関に靴はスニーカー一足だけ。中学校では指定のローファーなどはないのだろう。ソラが中学生の頃もそうだった。靴を脱いで上がる。その様子をナユタはじっと見ていた。玄関に入った瞬間から冷房が効いていて、暑い中自転車を漕いできたソラにとってはありがたかった。ナユタはソラを先導するようにリビングへ歩いていく。
部屋はすぐに現れた。なんてことはない、普通のワンルーム。勉強机があって、ベッドがあって、小さめのソファがある。ラグの類は敷かれていなくて、フローリングの床がそのまま見えている。
「どうぞ。お掛けください」
「あ、ありがとう」
なんというか、様付けの呼称は直したものの、言葉遣いがいちいち仰々しい。自分はそんなに大層なものではないのに。もっとくだけた口調で話してほしい。ソラはそんなことを考えていた。ナユタは部屋の隅に置かれていた冷蔵庫からペットボトルを取り出すと、ソラに渡した。スポーツドリンクのようだ。
「ここまで暑かったでしょう。飲んでください」
「うん、もらうね。ありがと」
実際に喉はからからだった。こればかりはナユタの気遣いに感謝しなければならない。ソラはそう思いながらキャップをひねって開け、中身をごくごくと飲み始めた。ナユタはソファの向かい側にあるベッドに座ってその様子を見ている。なんだか人に見られていると飲みづらい。ナユタからすれば見守っているといったところなのだろうが。
ペットボトルが空になると、ナユタはソラが何も言わずともそれを受け取り、分別用のゴミ箱に入れた。
「一人暮らし、長いの?」
「一年ほどになるでしょうか」
「ってことは中二の時からここで暮らしてるってこと!?」
「はい。おかげさまでそれなりに生活にも慣れました」
ワンルームの部屋の隅に設置されたキッチンを見ると、食器類もある程度置かれている。この様子だと自炊もしているのだろう。中学生とは思えない生活力の高さに、ソラは圧倒されていた。
「ところで修練のために一人暮らししてるって言ってたけど、具体的に修練って何やってんの?楔の力って私聞いたことないんだけど」
「はい。あれを使っています」
ソラは壁の一角を指し示した。それはちょうどベッドの枕の上にあたる部分だった。紙が二枚張られている。一枚はA4を横にしたくらいのサイズ。もう一枚は二十センチくらいの細長い紙。ここからではよく見えないので、ソファから立ち上がってベッドに近づいて見た。
そしてソラは戦慄した。A4用紙のほうは
「な、なに、これ……こんなの呪いじゃん!」
「はい。おっしゃる通り、これは呪詛です」
ベッドから立ち上がったナユタが、ソラの隣に来て平然とした口調で言う。
お札や祝詞の書かれた紙の四隅を燃やすことは、その効力を反転させ呪いに転じさせることを意味する。それをナユタはあえてやっているのだ。しかも祝詞は神代文字を使って書いている。神代の言葉で書かれた祝詞はそれだけで強力な力を持つ。それが反転することがどれだけ危険なことか。
「ご安心ください。この呪詛は私が私に向けたものです。他人に効力は及びません」
「いや、そういう問題じゃ……」
「これが修練なんです、ソラさん」
静かに、しかしきっぱりとした口調で言われて、ソラはそれ以上言葉を続けることができなかった。
「己に呪詛を向け、それを跳ねのけ場を固定する。それが楔の力を高めるための修練なのです」
ナユタは穏やかな口調で語るが、やっていることは正気の沙汰ではない。一歩間違えれば自分に向けた呪詛に命を奪われてしまってもおかしくないのだ。
とはいえこれだけ強力な呪詛がありながら、確かにこの部屋は安定している。『巫女の眼』で見るまでもなく、そう感じた。空間は穢れで歪んでおらず、きれいに整っている。これが楔の力というやつなのだろうか。確かに先週の古戦場跡でも、幽世の入口がすぐ目の前にあるにもかかわらず、あの場の空間は安定していた。
「うん……まあ、わかった。理解はした。納得はしてないけど」
「ありがとうございます。私はまだまだ未熟ゆえ、日々修練が必要なのです」
大きくため息をついたソラは再びソファに座る。ナユタもベッドに座りなおした。ナユタの両親もこの状況を知らないわけではない。というか、ナユタの家系はずっとこんなことを続けてきたのか。色々あって聞きそびれてしまったが、今日こそは祖母に楔の一族について聞いてみなければならない。中学生の一人暮らしというだけでも気がかりなのに、こんなことをずっと続けているとなれば、ソラの性格上、とても放っておけるものではなかった。
そう思っていたところだった。ショートパンツのポケットに入れていたスマートフォンが震えている。画面には『鏡見サクヤ』の文字。嫌な予感が一気に膨れ上がるが、出ないわけにはいかない。通話ボタンを押してスマートフォンを耳に当てた。
「常盤です」
『鏡見です。先日の古戦場跡、ご苦労様でした。予想以上の規模だったようですが、何とか対処できたようですね』
「えーと、はい。なんとかなりました」
『ところで常盤さん。今どちらに?』
「え、えーと、友達の家、です」
『なるほど。楔の一族と友達になったわけですね』
どくんと心臓が跳ねる。サクヤの霊視能力の強さはソラも知っているが、まさかそこまで見抜かれているとは思っていなかった。実際は六家の監視網に引っかかっただけだったのだが。ともかく、ソラは小さく息をつくと、観念したように話し始めた。
「古戦場跡で会いました。あの場所で境界を閉じられたのもナユタの、彼女の力のおかげです」
『なるほど』
サクヤはしばらく沈黙した。何かを考えているのか、ソラに推し量ることはできない。
『常盤さん。しばらくそのナユタという少女とともに行動してください』
「え?え?一緒にですか?」
『はい。楔の一族の力があれば帳の儀もやりやすくなるでしょう?』
それは否定のできない事実だった。
「うぐ……わかり、ました」
『話が逸れてしまいましたね。今回の依頼です。藤花台市西部の再開発区画。そこにひときわ気の淀んでいる場所があります。そこを調査し、もし境界の破れがある場合はこれを修復してください』
藤花台西部、
「わかりました。ナユタと二人で行けばいいんですよね」
『はい。二人で現地に向かってください。座標はメッセージで送ります。それでは』
電話が切れた。肩をすくめてスマートフォンを再びポケットにしまう。ナユタはそれをどこか心配そうに見ていた。
「あの、ソラさん、今のお電話は」
「六家の鏡見サクヤさんからの調査依頼。藤花台の西にあるゴーストタウンの調査だって。ナユタと一緒に行けって言われたよ」
「六家の方と直接お話出来るなんて……私もご一緒していいのですか?お力になれるのなら、ぜひ」
二つ返事で承諾するナユタ。尊敬やら決意やら色々な感情が混じった瞳がソラを見つめる。正直気乗りはしなかった。確かにナユタの力があれば儀式がやりやすくなるのは古戦場跡で実証済みだが、こんな自分を痛めつけるような生活をしている彼女をこれ以上怪異の世界に関わらせたくなかった。だがサクヤの、六家の指示には従わなければならない。
「それじゃあどうする?まだ午前中だし、夕方になるとまずいから、今日にでも行く?」
葛藤を抑えながら、ソラが訊いた。
「はい。私は構いません」
そう言うだろうなとは思っていたが、ナユタは即答した。ソラは唇を結んで少し肩を落とすと言った。
「……ナユタ、シャワー借りてもいい?」
「はい、構いませんが……禊ですか?」
「そ。簡易的なものだけどね。ナユタも浴びとくといいよ」
「わかりました。そうします」
気の淀みの激しい場所に行けと言われている以上、備えておくに越したことはない。ソラはナユタに案内されて浴室に向かった。
◇
藤花台駅前のカフェチェーン店で早めの昼食を済ませた二人は、電車に乗って二駅の映見駅に着いた。改札を抜けると藤花台駅前とは打って変わって、シャッター通りが広がる寂れた歓楽街が広がっていた。
サクヤが送ってきた座標を地図アプリに入力する。どうやら現場はこの歓楽街の奥にあるビルのようだ。メッセージには座標の他に、ビルの入口は開けてあることと、電気は通っていないので探索の際は階段を使って欲しいということが付記されていた。
二人はアーケードの中を通っていく。ゴーストタウンと呼ばれてはいるが、もちろん完全に無人ではないし、営業している店もある。時折開いているシャッターや営業している店から聞こえてくる音が安心感を与えてくれた。
地図アプリに示されたポイントに向かう道は真っ直ぐではない。アーケードの途中の路地を入り、さらに進んでいく。昼だというのに本格的に人の気配が希薄になってきた。どこかの民家から聞こえてくるテレビの音。エアコンの室外機の風。ダクトから流れてくる何かの匂い。人は確かにいる。だがどこかその存在は不確かで、もしかしたら本当は誰もいなくて、ただ機械が動いているだけなんじゃないかと思ってしまう。
「ソラさん、大丈夫ですか?」
急に静かになったソラに、ナユタが声を掛ける。ソラはこの雰囲気に飲まれかかっていた。境界の破れ目が目の前にあるのならそれを閉じれば終わる。しかし地域一体を覆うじっとりとしたこの重苦しい空気は、そうシンプルに解決できるものでもない。ソラはそういう自分の力の範疇を超えたものが苦手だった。自分の存在の小ささや不確かさを突きつけられる気がしたからだ。
狭い路地を抜け、少し広い道路に出た。車通りはない。人通りは若干あるが、昼という時間を考えればやはり少ない。アプリによれば目的地はこの通り沿いにある。スマホと辺りを交互に見ながら、二人は寂しい通りを歩いていった。
この辺りは住宅地というより商店と雑居ビルが乱雑に建てられた通りのようだった。ほとんどシャッターが下りており、落書きがされている。アスファルトもところどころ隆起したりひび割れたりしているし、確かに夜に来れば格好の肝試しスポットだろうなとソラは思った。
そして二人はそこに着いた。なんてことはない、五、六階建てくらいの雑居ビル。自動ドアではない、押して開けるタイプのドアが付いている。ソラは『巫女の眼』でもってビルを中心に周囲を見た。サクヤが言っていた『淀んでいる』という表現は正しい。気の流れがほとんどなく、停滞している。まるで循環ポンプが止まった水槽だ。中の水がどんどん汚れていくのと同じように、このビルを中心に周囲の気に穢れが混じっている。
ソラは斜めがけにしたウェストバッグの中から、御札を取り出した。その数は三枚。サクヤからの依頼はいつ来るかわからない。そしてその時に何が起こるかわからない。備えあれば憂いなしということで、ソラは常に数枚かの御札を持ち歩くようにしていた。
「ナユタも持ってる?」
「はい」
ナユタは小さめのショルダーポーチの中を探り、ソラと同じく三枚の御札を取り出した。ソラのほうに差し出して見せる。
「ちょっと貸して」
差し出された御札を受け取ると、合計六枚を両手で扇状に広げて持つ。ソラは視線を上げると深呼吸をするように大きく息を吸った。そして吸った息を小さく細く吐く。それを三度繰り返した後、もう一度息を吸うと、広げた御札に吹きかけた。
「それは……巫術、ですか?」
「まあね。ほんと言うと私は苦手なんだけど、このくらいならなんとか」
ナユタから受け取った三枚を返しながらソラが言う。帳の巫女ができるのは境界を閉じる帳の儀だけではない。それが自然界に満ちる力を使う巫術だ。巫女の使う術としては基礎的なものだが、ソラはいくら修練を積んでも自然界の力を取り込む能力が伸びなかった。せいぜいが今やったくらいの規模の巫術くらい。今ソラが使ったのは簡易的な祓いの術式だ。これで二人の持つ御札の効果は多少なりとも上乗せされるだろう。
二人は御札をそれぞれのバッグに仕舞い、改めてビルに向き合う。
「ところでナユタ、過去視で何か見える?」
「……少し、待ってください」
ナユタは一度目を閉じると、ぱっと開いた。今その目に映るのは現在の風景ではない。黒い人影が何人も通りを通っていく。自分たちをすり抜けて車が通っていく。ナユタの眼はどんどん年月を遡っていった。
ふと、上からなにかの気配を感じたナユタは、咄嗟に身を引く。
ドン、バシャッ、と音を立てて黒い人影がさっきまで彼女が立っていた地面に叩きつけられていた。すぐにそれは消え、さらに時間を遡る。
ドン、バシャッ。同じ場所にまた黒い人影が落ちてくる。
人影はまた消える。ドン、バシャッ。また音がする。
ナユタは諦めたように一度目を閉じ、再び開けた。
「どうしたの?大丈夫?」
時間が現在に戻る。ソラが急に後ろに下がったナユタを心配そうな表情で見ていた。
「……はい。あの、このビル、この数年で飛び降りが何件もあったようです」
「あー、えーと、この場所に?」
ナユタが身を引いてできたスペースに目線を送りながらソラが訊く。
「はい。見えた限りでは」
「うう、そっか……」
ソラは暑さのせいではない、嫌な汗が出るのを感じた。数年レベルであればまだ死者たちの残穢が残っている可能性もある。だが入口で立ち止まっている暇はない。このまま夕方になってしまえばそれこそ危険だ。黄昏時は境界がゆらぎやすくなる。その前に仕事を終えて帰らなければ。それに今日は二人がかりだ。そう自分に言い聞かせる。
「ナユタ、中に入ろう。離れないようにしようね」
「はい。もちろんです」
ごくりとつばを飲み込んで、ソラは入口のガラスドアの取っ手に手を掛けた。サクヤのメッセージの通り、キィと音を立ててそれは簡単に開いた。ソラに続いてナユタもビルに入る。昼の光が差し込む廊下はせいぜい十メートル程度で、左手には階段があり、右手奥にはドアがある。奥にはエレベーターがあるが、メッセージが正しければあれは使えない。全体的に思った以上に狭く、探索にはそこまで時間は掛からなそうだった。
そして二人の背後でガラスドアが閉まった、その瞬間だった。
「は?」
瞬きをした瞬間、景色が変わった。さっきまでの手狭なフロアではなく、眼前には等間隔に蛍光灯が点いた長い廊下が伸びている。ソラが咄嗟に振り返ると、入口のガラスドア越しには血のような夕焼けが広がっていた。慌ててドアの取手に手をかけて押し開けようとするが、ドアはびくともしない。引いても同じだ。完全に閉じ込められてしまった。
「ソラさん、これは……」
隣にいたナユタが不安げな表情で言う。
「うん……異界、だね……」
か細い声でソラが答えた。気の淀みのせいか、ナユタが視た死者たちの残穢のせいか、はたまた境界のほころびのせいかはわからないが、ビルが異界化している。幽世とは似て非なる、現世の理を外れた世界だ。
二人は改めて廊下を見た。切れかかった蛍光灯のピン、ピン、という音が不安を煽る。まるで何かを呼んでいるかのように感じられた。そして壁にはところどころに赤黒いシミが飛沫のように散っており、それも相まって先に進むことに強い忌避感を覚える。
ソラは試しに『眼』で廊下の先を見てみた。案の定、負の気が充満している。
「ここ、悪い気がすごく濃い。このまま居続けるのは危ないかも」
「ですが入口は閉じられてしまいました……」
「そうだね……せめて開けた場所でもあればいいんだけど」
そこまで言って思いついた。ナユタも同時に思い至ったようだった。
「屋上か」
「屋上、ですね」
ひとまずの目的地は決まった。二人は顔を見合わせて頷き合うと、意を決して歩き出した。
◇
異界と化したことでビルの構造は大きく変わったらしく、明らかに外見から推測できる容積を無視した構造になっているようだった。最初の廊下を進んで、現れた角を左に曲がると、また同じような廊下が現れる。壁の赤黒いシミはさっきより増えていた。
「階段を探さないといけませんね」
「だね。あと一応、御札はいつでも出せるようにしといて」
「わかりました」
廊下を進みながら会話を交わす。ソラもウェストバッグのファスナーを開け、いつでも御札を取り出せる態勢を整えた。これだけ濃い負の気の中で、しかも飛び降りが何件もあった建物の異界だ。いつ怪異に遭遇してもおかしくない。ソラもナユタも霊的な存在に対する攻撃手段を何も持っていない。怪異に出くわしたら、戦うのではなく、逃げるか隠れるしかないのだ。
次の角を曲がったところで廊下の様子が変化した。廊下の中ほどの壁に、いくつか引き戸が現れたのだ。しかしそれ以上に二人の意識を惹きつけたのは、蛍光灯の激しい明滅だった。
これまでも廊下の蛍光灯のどれかは切れかかったように点滅していたのだが、奥の蛍光灯が明らかに異様な激しさで明滅している。それと同時に周囲の温度が急激に下がっていくのを感じた。
寒い。異界とはいえ、夏で空調も効いていない屋内で寒さを感じることなど、普通ではありえない。
二人の間に一気に緊張が走った。
ソラとナユタは顔を見合わせ、歩く速度を落として進み始めた。
蛍光灯の激しい明滅は、奥から徐々に手前に近づいてくる。一個、また一個とチカチカする蛍光灯が変わっていく。そしてその明滅の中で徐々に何かの姿が見え始めた。
とん、ずー。とん、ずー。その何かが進むたびにそんな音が廊下に響く。姿がはっきり見えたのは、二人との距離が十メートルほどになったところだった。
それはスーツ姿をしていた。
革靴を履いた足でとん、と一歩踏み出し、ぐねりと曲がったもう片足をずー、と引きずって進んでいる。腕は両方とも明らかにおかしな方向に折れ曲がって垂れ下がっていて、頭部は柘榴の実が弾けたように割れて、左右がずれている。
飛び降りた者だ、ということは二人とも直感的にわかった。
ソラの頭の中では警報が鳴り響いていた。まずい。明らかに自分たちに向かって来ている。あれに捕まれば異界に取り込まれるのと同義だ。今すぐに逃げなければ。けれど体が動いてくれない。怪異を前に、冷静な思考を恐怖が上回ってしまっている。
そんなソラの様子を見かねたのか、ナユタがその手を引っ張り、すぐ横にあった引き戸を開けて部屋に二人で飛び込んだ。そのまますぐに引き戸を閉めるナユタ。部屋の中に照明はないが、どういうわけか互いの表情が分かるくらいの仄かな明るさがあった。
周囲を見ると、事務机が乱雑に置かれている。ソラはナユタに礼を言おうと口を開きかけたが、ナユタは自分の口の前で人差し指を立てた。どん、ずー、とそれが近づいてくる音がする。ソラは頷いてナユタに答えた。
二人は入口から離れた壁際にしゃがみ込んだ。ソラはウェストバッグから御札を一枚取り出すと、床に置いた。そしてナユタの肩を掴んで引き寄せる。
それが移動する音に、ガラガラ、という音が加わる。引き戸を開けている音だ。その音は段々と近づいてきて、ついにソラ達のいる部屋の戸が開けられる。
それが入って来るのが見えた。相変わらず、出来損ないの操り人形のようなぐちゃぐちゃな格好の体躯を引きずりながら、部屋の中を探し回っている。ソラ達のことは見えていないらしい。
御札は厄除けや魔除けなど様々なものがあるが、その本質は結界を張ることにある。今二人が持っている御札はソラの巫術によって、穢れを跳ね除ける程度のものが、霊的なものに対する認識阻害レベルにまで効果が高まっていた。
それは二人の目の前を通ったが、二人には気づかない。そのまま通り過ぎて反対の戸から不快な音を立てて体を引きずりながら出ていった。とん、ずー、という音は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「ぷは」
ソラとナユタは同時に息を吐いた。御札は燃やしたかのように真っ黒く変色している。
「ごめん、ナユタ。助かった」
「いえ、問題ありません」
二人はそう言いながら廊下に出た。蛍光灯の明滅は収まっている。アレはひとまず去っていったらしい。ソラは念のため『巫女の眼』で見てみるが、異常な存在や気配は見当たらなかった。安全を確認した二人はさらに先へ進んでいく。
「ごめん。私さ、ああいうの実は苦手で……」
「死霊ですか?」
「うん、まあ、そう。帳の巫女のくせにって話なんだけどさ。私たちの仕事は悪霊退治じゃないし……」
「確かにそうですね。私たちは境界を守護する者ですから」
話しながら角を曲がると、そこには階段があった。学校にあるもののように、踊り場がある、くの字型ものだ。ソラとナユタはそれを登っていく。二人の足音がうつろな迷宮に響いていた。
◇
「お姉ちゃーん!また私のモバイルバッテリー持ってったでしょ!お姉ちゃーん!」
ソラの一歳下の妹、常磐カンナはぷんぷんと怒りながら家中を回っていた。何かと相手の持ち物を無断で拝借するのがこの姉妹の悪癖だった。
「ソラならいないよー」
母がリビングから顔を出しながら言う。普段はこの神社の家の主婦であり、禰宜も務めている。
「え!なんで!」
「友達の家に行くって言ってたよ。その後に鏡見さんの仕事があるって連絡が来たけど」
鏡見さんの仕事。それはつまりサクヤからの依頼を意味する。母もカンナも帳の巫女の力は持っていないが、その意味するところは理解していた。カンナは大げさに肩をすくめて見せる。
「しゃーないなー。帰ってきたらマジでこれだからなー」
顔の前に拳を突き上げておどけた表情をするカンナ。そんな彼女だが、姉が使っているそこそこ高いシャンプーを勝手に使っていることは黙っている。結局は姉妹というわけだ。
「カンナ。暇なんだったらこの書類、お父さんのとこに持ってって。社務所にいると思うから」
「え!なんでえー!」
それは常磐家のなんでもない日常の一コマだった。
◇
「行き止まり、ですね」
「……だね」
あれから幸いにして怪異に出会うことなく階段をいくつか登ってきたのだが、四階層目の廊下の先に階段はなく、無機質なコンクリートの壁があるだけだった。ソラは『眼』で見てみるが、抜け道や不可視の通り道などはない。正真正銘の行き止まりのようだった。
二人は歩いてきた廊下を振り返る。この階にはドアノブのついた扉が不規則な間隔で並んでいた。顔を見合わせて頷き合う。二人は分かれて片っ端からドアを調べ始めた。ガチャガチャとノブをひねってみるが、ほとんどのドアは鍵が掛かっているのか、開くことはなかった。
「ナユタ!ここ開いた!」
廊下にソラの声が響く。ナユタは小走りでソラの方に向かっていった。二人は部屋の中を覗く。ここも照明がないにもかかわらず、ぼんやりと明るい。これ以上得体の知れない空間に入っていくのは心理的に抵抗感があったが、廊下の先が行き止まりである以上、今は先に進むためのヒントが必要だった。
部屋の中には書棚といくつかの事務机が置かれ、机上には雑然と紙や本が広げられている。いくら薄明るいといっても文字が読めるほどではない。ソラはちょうどよく机上に置かれていたデスクライトのスイッチを入れた。思った通り、廊下の蛍光灯と同じく電気が点いて、広げられた紙の山を照らし出す。ナユタもソラの隣に来て、それを覗き込んだ。
「これは……新聞記事ですね」
「そうだね。昭和五十五年?この辺りが栄えてた頃のものみたい」
黄ばんだ新聞紙を取り上げて見る。一面記事ではない、地方のニュースが小さく載ったページ。『繁華街の飛び降り。警察は自殺と断定。白昼の事件に地方住民は震撼』とある。
「ナユタが見たのってこれのこと?」
「いえ、おそらく私が視たものよりもっと前のものでしょう。私が遡れるのはせいぜい二、三十年ほど前なんです」
「っていうことは、ナユタが視た連続の飛び降りよりも前に、ここでは飛び降りが起こっていたってことか」
ソラは持っていた新聞を置くと、ナユタと手分けして紙の山を漁り始めた。異界から脱出するにはそれを成立させているルールを知ることが必要だ。この異界を形成しているものの一つは、飛び降りで命を絶った者たちの残穢で間違いない。
「だけど、それでここまでの異界ができるものなのでしょうか?ここでは私の楔の力も十分に発揮できません。何かに干渉されているような感覚です」
「楔の力が……?うーん、何人も命を絶ったことは大きな事件だけど、確かにそれでこの規模はちょっと違和感があるよね」
そう言いながら二人でガサガサと紙の山を探る。新聞記事とそれ以外を整理しながら紙をめくっていくうちに、一際黄ばんだ古い紙が現れた。古い地図のようだ。横長A3くらいのそれは、上の方に「昭和三十年 藤花台西 映見町図」と書かれているのがかろうじて判読できた。
二人は顔を並べて地図を覗き込む。
「ここが駅でしょ。これが多分アーケード?かな」
「そうするとこの一本隣の通りがこのビルの通りになりますね」
「だね。えーと、ビル、ビル、ん?ない?」
「この頃にはまだ建てられていなかったのでしょう」
「そう、か。……あれ?これ、は?」
ソラの視線は地図のある一点に不自然に吸い寄せられた。それはちょうど今二人のいるビルのある場所とほぼ同じ場所だった。
尾の部分が右に折れた矢印のような地図記号が書かれている。あまりメジャーな記号ではないが、神社の家の娘であるソラも、楔の一族であるナユタも、その意味するところは知っていた。
「祠?」
「祠、ですね」
ナユタはそこではっと気づいたのか、積み上げた新聞紙の山をガサガサと漁ると、一枚の黄ばんだ新聞紙を取り出した。地域のニュースを小さく小さく取り上げた記事が載っている。『商業ビル建設反対の声。地域住民に親しまれた神様』。
「これか……」
二人の中にストーリーが出来上がってきた。このビルの建設前には祠があり、地域住民に信仰されていた何かの神様が祀られていた。そこにビル建設の話が持ち上がった。地域住民は当然反対したが、結局祠は取り壊され、ビルは建設されてしまった。この異界をここまで強力なものにしているのは、壊された祠の影響なのだろう。
「でもそうすると飛び降りとの関係がわかりませんね」
「確かに……」
二人がそうして話しているところだった。
どちゅ、どちゅ、と重い湿った音を立てながら、何かが近づいてくるのが分かった。ソラは咄嗟にデスクライトの電源を切り、ナユタと一緒に床にしゃがみ込んだ。肩を寄せ合い、御札を床に置いて結界を張る。
どちゅ、どちゅ、という音は二人のいる部屋の外で止まった。
二人は息を殺してそれが去るのを待つが、いつまで経っても気配が消えない。それどころか周囲の穢れがどんどん濃くなっていくのが感じられた。ナユタと密着しているおかげか、ほんのすこしだけ楔の力の恩恵で浄化できているが、これ以上濃くなるとさすがに危険だ。ソラは御札をさらにもう一枚取り出すと、早くも黒ずみ始めた一枚に重ねて置いた。
その瞬間だった。
ガッシャーンと壁を突き破って、それが部屋の中に入ってきた。二メートルはありそうなぶよぶよとした不格好な肉の塊が、かろうじて人の形を保っている。膨れた腐肉には無数の手や足がぶら下がり、それらは肉塊が動くのにつれてぶらぶらと揺れている。顔には白い布が張り付いており、それの表情を窺うことはできない。時折首をかしげるような動作をしながら、まっすぐにソラとナユタに向かって確実に一歩ずつ、どちゅ、どちゅ、と近づいてくる。
(結界が効いていない!?)
「ナユタ、逃げるよ」
ソラは御札を持ってナユタに耳打ちした。ナユタは頷いてソラの手を取ると、二人は立ち上がった。アレに視覚があるかはわからないが、明らかに自分たちを知覚している。それが破ってきたのとは反対の壁伝いに、ソラが先行して移動を始めた時だった。
「オま ゎ し モ らゥ」
距離があるにもかかわらず、それの声がすぐ耳元で聞こえた。ソラの全身が粟立つ。声を上げることもできない。ソラが恐怖に凍りついている隙に、それは腐肉で出来た腕をぐにょりと伸ばし、ナユタの首を掴んだ。
「う、ぐ」
ナユタの苦しむ声で、ようやくソラの呪縛が解けた。振り向いて叫ぶ。
「ナユタ!」
「ソ、ラ、さ、ん……」
どちゅ、どちゅ、とそれは伸ばした腕を手繰るように近づいてきた。布で隠れて表情は見えないはずなのに、なぜだかそれはとても嬉しそうに見えた。
「おマえわ゙、ツかヮレるダケ」
「な、に、を」
「おマえわ゙、■■タめダケのイ゙ノち」
それがぶくぶくとした声で話す。ナユタに向かって、その存在を侮辱する言葉を吐いている。
ソラの怒りが恐怖を上回るのには、それだけで十分だった。付き合いは短いが、ソラからすれば十分親しい知人になったナユタに対する侮辱は、それが死霊によるものだったとしても許しがたいものだった。
「お前が」
自身の内側を霊力が普段の数倍のスピードで回転する。
「ナユタを」
そして何より、自分の胸、ちょうど肋骨の間あたりが熱くなるのを感じた。
「語るな!」
ソラの体は自分の内側に生まれた力に従って動く。先程まで新聞記事を読んでいた事務机に飛び乗ると、そこを足場にしてそれに飛びかかり、ナユタを掴んでいる方の肩を思い切り殴り飛ばした。腐肉の肩は緑の光を散らしながら爆発したかのように飛び散り、そのまま塵となって霧散した。
「げほ、げほ、げほ」
「大丈夫?ナユタ!」
「だい、じょうぶ、です」
そうは言うが、掴まれていた首の部分は穢れで黒く変色している。それを見たソラの怒りがまた爆発する。
それと正対したソラは、思い切り拳を握ると腐肉の腹に向かってストレートを叩き込んだ。また緑の明るい光が飛び散り、それは最初に突き破ってきた穴を通って部屋の外まで吹き飛ばされた後、廊下の壁に叩きつけられた。それから最後の抵抗とばかりに腕を伸ばしていたが、やがてべちょりと床に倒れると、黒い塵になって消えていった。
「ナユタ!ナユタ!」
ソラは腐肉から解放されてへたり込んでいたナユタに駆け寄った。
「けほ、ソラさん、ありがとうございました。助けていただいて」
「それより首!穢れが移ってる」
「このくらいなら時間が経てば大丈夫です。楔の力は私の体には正常に働いているようですから」
「そっか、それならよかった……」
「それよりも、さっきのは……」
御札も祝詞もなしにあれだけの規模の死霊を相手に一方的な戦闘をしたのだ。怪訝に思われても仕方がない。
「自分でもよくわかんない。昔からカッとなると突っ走るところはあるんだけど」
自分の中に湧き上がってきた正体不明の力。恐怖を上回る怒りに突き動かされるように、いや、まるで支配されるかのように動いた体。こんなことは初めてだった。ソラの手は怒りの余波で震えている。
ナユタは立ち上がると、ソラの震える手を両手で優しく包んだ。ソラは目を丸くしてナユタの顔を見る。
「古戦場跡の時と一緒です。またソラさんに助けられました」
「ナユタ……」
にっこりと笑うナユタ。その首はまだ穢れで黒ずんでいる。
「私のために怒ってくださって、ありがとうございます」
ソラにはその笑顔がどこか痛ましく思えた。ナユタの暮らしぶりを見て、これまでの言動を聞いて、そして行動を見て思ったが、彼女には自分を大切にするという考えがおそらく限りなく小さい。あの腐肉はそんなナユタの内面を読み取ってあの言葉を発したのかもしれない。
(いつか、ナユタが自分を大切にできるようになるといいな)
帳の巫女と楔の一族。二人を分かつ因習は、もしかしたらソラが思っている以上に残酷なのかもしれない。だからこそ対等な友人として接したいし、こうしてナユタのことを案じてもいる。いつかこの思いがナユタに届くことを信じて。ソラは空いていた片手でナユタの手を握り返した。
「あ、ソラさん、あれを」
廊下側を見ていたナユタが声を上げた。ソラが振り向くと、腐肉の飛んでいった先の壁に穴が開いている。二人は手を離すとそちらへ歩いていった。瓦礫を踏み越えて廊下に出て、直径一.五メートルほどの穴を覗き込む。奥には階段が見えた。
「……行こうか」
「……はい」
まだこの異界の謎は残っているが、今は屋上へ急がなければ。ソラが先に穴をくぐり、ナユタがそれに続く。他の階段と同じように、くの字型のそれが蛍光灯の明かりに照らされてあった。二人は階段を登り、五階層目へと進んでいく。残りの御札はナユタの持つ三枚。屋上まではどのくらいかかるかわからない。
◇
五階層目の廊下に出るなり、ソラは『眼』であたりをくまなく見る。霊や怪異の存在や気配は見えない。だが四階層目のように突然現れる可能性もある。あの時は自分のよくわからない力でなんとかなったが、同じことが再現できるかは未知数。残りの御札も少ない。そろそろこの異界の仕組みを解明して屋上への道を開く必要があった。
廊下にはまたいくつかドアが並んでいる。再び手分けして開いているドアを探す。今度はソラが見つけた。灰色のドアを開けると、先ほどと同じように書棚と事務机が置かれた部屋が広がっていた。事務机の上には紙の山の代わりにノートのようなものが置かれている。開いてみると、スクラップブックのようだ。
「下で見た記事も張ってありますね」
「これ、続きがあるね」
スクラップブックには先程見た新聞記事よりさらに最近のものも張ってあるようだった。二人は慎重に一ページずつめくりながら切り抜かれた記事を見ていく。祠の取り壊し。ビルの建設開始。ビルのテナント募集の広告。
「あ、これ。これ見て」
「これ、は……」
ソラが見つけた記事に、ナユタが言葉を失う。『商店街会長◯◯◯◯氏 飛び降り自殺。ビル建設に抗議の遺書見つかる』。二人は記事の続きを読む。祠の取り壊し反対の旗頭だった商店街会長が、ビル建設後に屋上から飛び降りた。そして自宅の部屋からは祠の取り壊しを悔やみ、ビル建設に今なお反対するという旨の抗議文じみた遺書が発見された、というものだった。商店街会長はとても人望の厚い人物だったらしく、地域住民は大きなショックを受けている、とある。
ソラはページをめくる。すぐ次のページに日付の近い記事があった。『●●●●ビルでまた飛び降り。商店街会長の後追いか』。商店街会長の人望ゆえ、その悲しみのあまり後を追ったのではないか、と記事には書かれている。
「ウェルテル効果、というやつでしょうか」
「ウェルテル、なに、それ?」
「有名人などが命を絶ったという報道がされた際、その後を追う人が増加するという現象のことです。現在ではその影響を鑑みて芸能人などの自殺報道には規制がかけられているそうです」
「なるほどな。芸能人じゃないけど、地元の有名人の自殺報道でそれが起こったと」
「断定はできませんが、その可能性もあるかと」
「ってことはナユタの視た連続飛び降りはこれがはじまりになってる……?」
「遡った年代からしておそらくそうだと思います」
ふうっとソラは息をつく。商店街会長の死に後を追った人の死が重なって、それがある種の力場となって死を呼ぶようになってしまった。死に死が重なり、穢れが堆積して気が淀み、いつしかこのビルは異界化した。そしてそこに取り壊された祠の影響が重なり、ここまでの規模の異界になった。
「とりあえず、このビルと異界の謂れはそんなところかな」
スクラップブックから目を上げて、ソラが言った。
「屋上はこのビルにとって特別な場所のようですね」
「うん。死ぬ人が死ぬために行く場所。それ以外の人には、たぶん辿り着けない」
「どうしましょう……私たちは死ぬわけにはいきませんし」
二人は考え込んだ。もしこの推測が正しければ、自分たちはいくら階段を登ったところで屋上には辿り着けない。あいにくと死にたいと思ってもいない。ソラはいっそ降霊術でも使おうかとも考えたが、こんなところで何が降りてくるかわからない。あまりに危険すぎる。
(どうすれば……)
ソラはナユタを見た。首の黒ずみは先程よりだいぶ薄くなっている。家であれだけの呪詛を使って修練をしているのだ。穢れを跳ね除ける力も相当に強いのだろう。
そこまで考えて思い至った。あの四隅を燃やした祝詞と御札。穢れ。
「ナユタ。死ぬ直前の人ってどんな状態だと思う?」
「死ぬ直前の人、ですか?限りなく死者に近い生者、でしょうか」
「それ!それだよ」
「それ?ですか?」
「私たちも同じ状態になればいいんじゃないかって話」
「っ!それは、まさか!」
「うん。魂が保てる限界まで穢れを取り込む。ここなら穢れが充満してるし、心理結界を開放するだけですぐに集まってくると思う」
「ですが!それはあまりにも!」
慌てた様子で言うが、ソラの決意は固いようだった。ナユタは諦め様子でふうっと息をつくと、言った。
「わかりました。屋上についたらすぐに浄化する。それだけは約束してください」
「わかった」
二人は廊下に出る。ソラは改めて『眼』で確認するが、やはり霊や怪異の気配も存在もいない。二人は並んで目を閉じ、それぞれの内面に意識を集中する。魂を守るために幾重にも張り巡らされた内なる結界、心理結界を部分的に解放した。
「うっ」
「くっ」
途端に紙に垂らした墨汁のように、穢れが内面に染み込んでくるのを感じる。じわじわと内側を侵食してくる。まるで無数の手が生えた黒いモヤが体の中に入ったかのような感覚だ。そこら中に手を伸ばして、触ったところを次々と穢していく。
死の穢れ。死ぬ直前の人間の状態を再現するため、二人はそれを受け入れた。
「だい、じょうぶ、ナユタ?」
「はい、なん、とか」
穢れは概念的には魂を、物理的には脳を侵食している。あまり時間を掛けると思考まで影響を受けてしまうだろう。本当に死者になってしまう前に屋上に行かなければ。二人は廊下の角を曲がって階段を登っていく。
一段がやけに重い。ああ、ここから落ちたら死ねるのかな。そんな考えがふと浮かんで、ソラは頭を振って思考を吹き飛ばした。
一段、また一段、ずしりと重い体を引きずりながら登っていく。
幽世に飛び込んだら死ねるのかな、と考えた。電車に飛び込んだら死ねるのかな、と考えた。ナユタの呪詛を受けたら死ねるのかな、と考えた。手首を切ったら死ねるのかな、と考えた。薬をたくさん飲んだら死ねるのかな、と考えた。このビルから飛び降りたら死ねるのかな、と考えた。
「ソラ、さん、!」
隣で階段を登っていたナユタが、ぼそぼそと何かを呟いていたソラに呼びかける。ソラははっと顔を上げてナユタを見た。いつものソラの顔ではあるが、穢れの影響で生気はなかった。それはナユタも同じだった。互いに生気のない顔を見合わせている。
「もうすぐ、です」
「ああ、そう、だね」
文字通り亡者のような足取りで踊り場を通り、最後の階段を見上げる。先には廊下ではなくドアが見えた。おそらくあれが屋上へ繋がる最後の扉だ。
「急ぎましょう……」
楔の力がない分、ソラの方がナユタよりも穢れの影響を受けやすい。そのことを見抜いたナユタが声を掛ける。ソラはゆっくりと頷いた。
「ああ、いかなきゃ」
二人は最後の階段に足を掛け、登り始めた。ナユタはソラの腕を自分の肩に回して、引っ張り上げるように一段ずつ踏みしめていく。足元のおぼつかないソラの体を支えるという意味もあったが、体を密着させることで少しでも楔の力の影響を与えようという試みだった。
階段の段数は二十にも満たなかったが、死の穢れを取り込んだ満身創痍の二人にとっては恐ろしく長い道のりに感じられた。だがついに扉の前に辿り着いた。
ナユタはソラの腕を持っているのと反対の手でドアノブをひねった。鍵は掛かっておらず、それは簡単に回る。押して開けるとそこには夕焼け空が見渡せる屋上が広がっていた。夕焼け空はどこかちぐはぐで、ちぎり絵のようにところどころ青空になっている。そんな風景が一面に広がっていた
いや、正確には少し違う。ソラを伴って屋上に出たナユタが直上を見上げると、そこには空間にぽっかりと円形の穴が空き、そこから星空が見えている。
「これは……境界の、破れ目……!」
それまでナユタに肩を借りていたソラが、体を離した。屋上に柵の類はない。その向こうに飛んでしまいたい。その甘美な欲求と、境界を閉じなければならないという巫女の使命の間でソラの心は揺れ動いていたが、かろうじて後者が勝った。
「はじめる、よ。ナユタ。私、もう、そんなに、長く、もたない」
「わかり、ました」
ナユタはその場に両手をついた。開放空間に出たことで停滞していた気の流れや吹き溜まっていた異界の穢れは幾分マシになったのか、楔の力が周囲の空間に及んでいくのを感じた。
「ソラさん、いけます」
ソラは震える両手をやっとの思いで持ち上げ、上空の穴に向ける。その指先は穢れの影響で黒ずみ始めていた。
「現世、幽世を、分かち給いし、大神よ」
目を閉じ、もつれる舌で帳の祝詞を唱え始める。
「黒き、光、いでし、境にて」
徐々に金色の光が粒子となってソラとナユタの立つ地面から昇り始めた。
「今一度、その、閂を、掛け」
異界を形作っていた死の穢れが穴に吸い込まれ始めた。それと同時にちぐはぐな夕焼け空も元の青空に戻り始める。
「帳を、下ろし、給え」
周囲の穢れや負の気を吸い込みながら、上空の穴は徐々に小さくなっていく。
「かしこみ、かしこみ、もう、す」
唱え終わると同時に、穴は完全に塞がった。そしてすべての力を使い果たしたのか、ソラがその場に崩れ落ちる。
「ソラさん!」
ナユタが駆け寄ってソラを抱き上げる。幸い頭は打っていないようだ。だが死の穢れを取り込んだ影響がかなり強く出てしまっている。楔の力は空間には強力に作用するが、人体には能力者本人を除いてほとんど効かない。つまり今のナユタに出来ることはなにもなかった。
(どうしたら……どうしたら……)
ナユタが涙を浮かべながら半ばパニックに陥っていると、ショルダーポーチの中でスマートフォンが震えるのを感じた。取り出してみると非通知とある。おそるおそる通話ボタンを押した。
「……はい。はい、そうですが。え!?いや、はい。間違いありません。はい、はい。そうです、今すぐに!危険な状態です!お願いします!」
◇
夢を、見た。
満天の星空の下、どこまでも続く草原を走っている。とても楽しい。ねえ、■■■■■もそう思うでしょ?自分より背の高いその影はにっこりと微笑んで頷いた。言葉はないけれど、確かに気持ちは伝わってくる。ああ、楽しいな。ずっとここで遊んでいられたらいいのにな。■■■も連れてくればよかった。さらさらとした草の感触がとても気持ちいい。あっちにはこんな場所なかった。こんなに好きに走り回れるところ、私はじめて。星がたくさんあってずっと明るいし、ここならいつまでだって遊んでいられそう。ねえ、そうだよね。
その人は少しかがんで私をぎゅっと抱きしめる。柔らかい感触。いい匂い。安心する。そして私の耳元でそっと囁く
「ソラは■■■へ■■■■■いけ■■か■、わ■■この■■つ■■■■■■」
それを聞いて私はとても悲しい気持ちになる。なんで?どうしてそんな事言うの?ずっとここにいようよ、ずっとここに。ずっとずっとずっと。
その人は私の顔を見て言った。
「■ラだ■は■■■■■■■■■■■■■■。■■」
私にはもうその人が何を言っているのか聞こえなかった。楽しい気持ちも、悲しい気持ちも、柔らかい感触も、いい匂いも、その人の声も、顔もすべてどこかに行ってしまった。それは草原の中を探しても探しても、結局見つからなかった。
◇
「ん……あ、れ?」
ソラが目を覚ましたのは、どこか広い部屋だった。神社の本殿を思わせる板張りのそこに布団が敷かれ、寝かされているらしい。
「ソラさん!大丈夫ですか!?」
すぐ隣に座っていたナユタが声を上げる。
「ナユタ?私は……」
記憶を必死に手繰る。異界化したビルの屋上で境界を閉じて、そこからはもう覚えていない。何か夢を見ていたような気もするが、それもおぼろげで思い出せない。ソラは改めてナユタを見た。首のところにあった黒い穢れはきれいになくなっている。
「起きましたか」
頭の上の方で聞き慣れた声がした。静かな足音が近づいてくる。ソラは体を起こした。あれだけ重かった体もすっかり軽くなっている。
ナユタのいるのと反対の側、祭壇のある方に鏡見サクヤの姿が現れた。いつもは電話越しに声を聞くだけなので、直接会うのは随分と久しぶりだ。
「サクヤさん……」
「千司さんに連絡をして、こちらでお二人を回収しました。詳細は千司さんから聞きましたが、無茶をしましたね」
「えっと、その、すみません」
「しかし結果として自力で境界の破れ目を発見し、これを閉じて脱出した。その成果については素直に認めましょう。それにこれは私の落ち度でもあります」
サクヤは困ったような笑みを浮かべながらそう言った。彼女の広域霊視とて万能ではない。屋上の境界の穴、ビルの異界。それらは霊視では発見できなかった。
サクヤの広域霊視は鳥瞰視点から街を見るようなもので、よほど意識を集中しなければ建物の内部までは視えない。もしビル内部が異界化していることが事前わかっていたならば、二人だけで行かせることはなかっただろう。
それにおそらくあの境界の穴は、ビルの異界を踏破してはじめて辿り着けるようなものだったのかもしれない。
「いえ、そんな。でもどうやってあの状態の私たちの治療を?」
「私たちはサクヤ様から霊力を頂いたのです」
「へ?霊力を?」
ナユタの答えにソラの思考が一瞬停止する。
「千司さんのおっしゃるとおり。私の霊力をあなたたちに注ぎ込んで、死の穢れを洗い流し、霊力を新たに入れ替えたのです」
サクヤがさらりと説明する。
「いや、でも他人の霊力を入れるって、それって血液型の合わない血を無理やり輸血するようなものなんじゃ……」
ソラが自分の頭の中にある知識を引っ張り出して言った。霊力は個人によって固有の性質を帯びている。ABO型で表せるパターンよりも遥かに多く、人の数だけバリエーションがあるといっていい。だから他人同士の霊力にはほとんど互換性がなく、移植や譲渡は不可能に近い。それがソラの中の常識だった。
「はい。基本的にはそうですね。ですが私の霊力はいわば無色透明。どこの誰にでも適合できるもの。ゆえに他者に分け与えることが可能なのです。これも私が持って生まれた能力のひとつですね」
「な、なるほど……」
サクヤは笑顔で頷くと、今度はナユタの顔を見て言った。
「さて。今後の話をしましょうか。その前に千司さん、こうして楔の一族の方と直接お会いできて嬉しく思います」
その言葉にナユタは、床に頭をぶつけるかという勢いで頭を下げた。
「こ、こちらこそ、六家の、鏡見家のご当主様にお目にかかれて光栄です!」
「もう。そんなにかしこまらなくていいと言っているじゃありませんか」
「で、ですが!」
どうやらこのやり取りはソラが眠っている間に何度も繰り返されていたらしい。ナユタらしいといえばらしいが。ソラは思わず吹き出してしまった。
「ソ、ソラさん……!」
「いや、ごめん。あんまりにもナユタらしくて」
「お二人ともこの短期間で随分と仲が良くなったのですね。楔の一族は資料によればナユタさんの三代前で途絶えたとされていましたが……血筋と能力はしっかり受け継がれていたようで安心しました」
「あの、サクヤさん。結局楔の一族って何なんですか?」
今がチャンスとばかりにソラがサクヤに訊く。
「楔の一族は六家の分家筋、つまり帳の巫女と近い血筋にあたる一族です。今ではこの藤花台の、千司さんの家系が最後になってしまいましたが。ともかく、帳の巫女の力は有していないものの、本来祝詞や巫術によって可能になる空間を浄化し安定させる術式を生来の能力として持っており、かつては巫女と組んで行動し、帳の儀のサポートを行っていたそうです。楔という名の由来は、現世の空間を繋ぎ止め安定させる能力から来ているようですね」
その説明はナユタの断片的な説明、そしてソラが体感したナユタの能力と合致していた。サクヤの説明によれば、ナユタはその最後の一人ということになる。ソラはナユタのほうに視線を遣った。ナユタはまっすぐにソラの顔を見て、頷いた。サクヤの説明はすべて正しいと言わんばかりに。
最後の一人。その両肩にはどれだけの重圧が乗っているのだろう。修練といって自分自身に呪詛を掛けていた様子を思い返しながら、ナユタのことがなおさら放っておけなくなった。
「説明した通り、帳の巫女と楔の一族は本来二人一組で行動するのがこの地域での古い習わし。こうして今代の二人が相まみえたのも何かの縁でしょう。これからは正式にお二人で組んで、他の巫女たちとともに、この街の境界を守護してください」
二人はそれぞれ頷いて、サクヤの言葉に応じた。サクヤは満足気に頷くと、立ち上がって祭壇のほうに歩いていった。祭壇の手前に置かれていた三方を持ち上げると、踵を返し、再び二人のもとに返ってくる。三方に敷かれた紙の上には、小さな珠の連なった数珠のようなものが二つ、置かれている。
「お二人とも、これを左手に」
「これは?」
ソラがそのうちのひとつを手に取ってはめた。外からの光を受けてキラキラと光るそれは、天然石で出来ているようだった。
「特別性の御守です。そしてお二人の霊的な繋がりを強める作用があります」
ナユタも手に取って、左手に通す。まるではじめからそこにあったかのように不思議なくらいしっくりと馴染んでいる。
「霊的なものにもある程度の干渉力を持つはずです。上手に使ってください」
パワーストーンと言ってしまえばそれまでだが、鏡見家謹製の御守だ。そこら辺の眉唾など比べ物にならないくらい、正真正銘の本物の力を持っている。その証拠にブレスレットからは確かな霊力が感じられた。
それから二人はサクヤに礼を言ってから、鏡見邸から出て、用意されていた送りの車に乗った。順番にそれぞれの家に向かう車の中で、二人はブレスレットを見ていた。それは御守ではあったが、どこか二人が正式なペアになったことを証明するもののように見えた。ソラにとってはそれがどこかくすぐったく、ナユタにとっては嬉しかった。
そうして二人の長い一日が終わった。すべてがきれいに解決したわけではないが、ともかく生きて帰ってこられたのだ。
ソラは車の後部座席から窓越しに空を見上げた。ちょうど夕方の月が輝き始めたところだった。
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