帳の巫女

天田

第1話 境界

 そこについては、多くの人が知っていた。藤花台とうかだい市北部に位置する白鷺しらさぎ山の麓にある古戦場跡地。そこは今は森になっているが、近年SNSやネット掲示板などで心霊スポットとして取り上げられ、多くの若者の関心を惹いていた。曰く、一度森に入ったら帰ってこられなくなるとか、帰ってきてもそれは別の何かだったとか、そういう類のものだ。では年寄りはどうかというと、古戦場の逸話を信じている者がほとんどだった。さる武将同士が戦い、多くの兵の命が失われ、山から市の東端に向かって流れる御徒川みとがわは赤く染まった。伝説はそんな内容だった。だがあくまで伝説は伝説。実際にそのような合戦があったかどうかは定かではなかったし、長い歴史の中で幾重にも尾ひれついた結果が今の話なのだろう。事実、歴史学や民俗学の研究者達の間では、合戦は確かにあったものの、そこまでの激戦ではなかったというのが統一的な見解らしい。



 今まさにその森の前に立つオカルト好きの若者は、ネット掲示板や動画サイトで調べた中で一番簡単に行けそうな中からこの場所を選んだのだった。

柾木まさき、聞こえてるか?」

「聞こえてるよ。風の音がうるさいな」

「しょうがないだろ、外なんだから」

 青年はスマートフォンのビデオ通話をオンにして、自分の顔をインカメラで映している。背後には砂利の道。カメラが映していない前方に森が広がっている。森の脇には『古戦場跡』と掘られた2メートルほどの石碑と、それを解説する立て看板があるだけ。森の中は木々の他にも藪がそこら中に生い茂っているが、獣道のような細い道があり、どうにかそこを通って中に入ることができそうだった。

「これアウトカメラにしたほうがいいかな」

「どっちでもいいだろ、そんなの。それより、ちゃんと帰ってこいよな、吉村」

 柾木と呼ばれた青年は退屈そうに、だがどこか心配そうに吉村青年に声を掛けた。吉村は頷くとアウトカメラに切り替え、森の中に一歩足を踏み入れた。ガサガサと笹藪がズボンに擦れる音がする。七月に長袖長ズボンの装備にしてきた彼は、片手でスマートフォンも持ちながら、時折斜めがけにしたウェストバッグからペットボトルを取り出し、水分を補給する。何かしらの怪奇現象に遭遇する前に熱中症で倒れては元も子もない。

「今なんか聞こえなかったか?」

「は?やめろよ。まだ入ってそんな経ってないって」

 そんな会話をしながら、吉村はどんどん森の奥に入っていく。やがて藪は途切れ、木々に覆われた広場のような場所に出た。円形をした木のドームのような場所だ。

 そこではたと気づく。鳥の声が聞こえない。風の音もしない。このドーム状の空間だけが世界から切り取られたように静寂に包まれている。

「なあ、ここってなんだろうな」

「はあ?俺に縺翫>縺ァ縺翫>縺ァもわかんねえよ」

「は?今なんつった」

「だから縺薙▲縺。縺ォ縺翫>縺ァ」

 本能的に恐怖を感じた吉村は、スマートフォンを投げ捨てた。枯れ葉の積もった地面にかさっとそれは落ちる。意味のわからない言葉を発する友人とこれ以上話すのはごめんだった。

 何かが起きている。ただの素人の自分でもそれは直感としてわかった。心拍数が跳ね上がる。

 がさ、と枯れ葉を踏みしめる音が聞こえた。がさ、がさ、がさ。それは歩いているように聞こえる。それも一人や二人ではない。何人もが自分を取り囲むようにこの木のドームの周りを歩いているように聞こえる。

 がさ、がさ、がさ。

 たまらずバッグから塩の入った袋を出す。こんなものが役に立つかはわからない。しかし心霊スポットと呼ばれる場所に行く以上、備えあれば憂いなしと持ってきたものだった。落ち葉を踏みしめる音はどんどん増えていく。塩の袋に手を突っ込んで一掴み取り出した。その手は恐怖で震えている。地面に落ちたスマートフォンからは相変わらず理解不能の言語で喋る柾木の声が聞こえてくる。

「おい!吉村!大丈夫か!?」

 その声がスマートフォンのスピーカーから響いた瞬間、辺りの足音が一斉に止まった。吉村は柾木の問いに答えることができない。

 どさりと塩の袋が落ちる。それを持っていた人間の姿は、もうどこにもなかった。




 ◇




「伝承より現代の体験談の方が信憑性が高いというのは皮肉なものですね」

 和蝋燭の薄明かりの中、着物を着た妙齢の女性がその容貌に似つかわしくないスマートフォンを見ながら呟いた。彼女は知っていた。複数ある古戦場跡の噂話の中で現実に起こっている現象が一つだけあることを。それが『自分たち』の領分であり、その手で解決すべき問題であることも。彼女はスマートフォンを何箇所かタップする。すぐに障子の向こう側に人の気配が現れた。

「サクヤ様、御用でしょうか」

 男の声はそう言った。サクヤと呼ばれた女性は姿勢を変えることもなく、視線を動かすこともなく、静かに言った。

「古戦場跡の森の境界。破れ目が見えます。予備人員の確保を。とばりの巫女への連絡は私が行います」

 彼女にはこの世ならざるものや概念をその目で捉えることのできる力があった。その視野はこの藤花台市全域を覆うほど広い。超抜級の霊視能力だ。

「はっ。すぐに」

 障子の向こうがで男が頭を下げる気配があった。命を受けた男は速やかにそれを遂行するだろう。サクヤと呼ばれた女性はスマートフォンを片手で持ち、もう片手で画面をスワイプしている。心霊スポット、行方不明、そんな情報を見ていた。

 それらは彼女たちの『領分』に深く関係するものだった。ただ幽霊や怪異が出るなら祈祷師や退魔師に任せておけばいい。だが境界となれば話は別だ。魔を祓う者たちでは対処ができない。ゆえに自分たちがいる。和蝋燭の光に照らされて、濡れたような美しい黒髪が光っていた。




 ◇




 七月の上旬、雨も落ち着いていよいよ夏を迎えるかという頃のこと。学校ではちょうど中間テストの時期だ。常磐ときわソラもその他大勢の生徒たちとともに、立て続けのテストに苦戦していた。

 苦手科目の方が得意科目よりも多い。そんな風だから両親から塾通いを打診されていたりもしたのだが、何かと理由をつけてのらりくらりとそれを躱していたのだった。

 今日はそんなテスト期間が終わる日。最後の科目が終わった瞬間、教室全体からはため息やら歓声やらが上がる。無理もない。高校に入って最初のテスト期間なのだ。去年までの中学のそれとはレベルが違う。

「終わったあー。もう無理。頭働かないよう」

「ソラ、数学苦手だったもんね」

 隣の席のユリが話しかけてくる。中学からの同級生で家も近く、よく遊んでいる仲の良い友人だった。ソラは机に突っ伏しながら顔だけユリの方に向けて話している。

「ユリー。遊びに行こうよう。今日部活ないでしょー」

「ないけど、大丈夫?そんなんで遊ぶ体力ある?」

「ある!遊ぶとなれば力は湧いてくる!」

 ソラは跳ね起きると力こぶを作って見せ、そう言った。ユリはそんな彼女の様子に苦笑しながらも、帰り支度を進めていた。文房具を筆箱に入れ、スクールバッグに仕舞う。その様子を見てソラも慌ててスクールバッグに学用品を詰め込み始めた。

 準備の出来た二人は他の友人たちに声を掛けながら、揃って教室を後にした。階段を下りて昇降口に向かう。

「それで、どこ行く?」

 ユリが下駄箱からローファーを取り出しながら訊いた。

「駅前のカフェ!新作出たらしいし!」

「おっけー。じゃあそうしよっか」

 二人はそんな会話を交わしながら靴を履き替え、自転車で学校を出た。目的地である藤花台駅周辺まではおよそ15分ほど。初夏の陽気の中、二人は車に注意しながらも時折会話をしつつ、駅前に向かった。



「んー!おいしー!」

 クリームがこれでもかと乗った桃のドリンクを飲みながら、ソラが幸せそうに言う。ユリも同じものを注文して飲んでいた。もはやカロリー爆弾である。

 ユリにとっては体型維持のためにエクササイズやらにいそしむ自分と違って、何もしないのにスレンダーな体系を維持できるソラが心底羨ましかった。

 それはそれとして、美味しい。

「やっぱ疲れた時は甘いものだね」

 ユリが言う。ソラはストローから口を離すと何度も頷いた。

「そうそう。私達は疲れ切ってる。だから体が求めてるんだよ」

 ソラはそういうと再びストローを加え、飲み始める。そうしているうちに、カフェのテーブルの上に置いてあったソラのスマートフォンが震え始めた。着信のようだ。

「ソラ、電話じゃない?」

「あ、ほんとだ。って、え?」

 着信元を見たソラの表情が一瞬で変わる。ソラはドリンクをテーブルに置くと両手でスマートフォンを持ち上げ、通話ボタンを押して耳に当てた。

「はい。常磐です」

『常磐さん。鏡見かがみです』

 デジタル信号に変換されてもなお、透き通るような女性の声がスピーカーから聞こえてくる。鏡見。その名は一気にソラを日常から切り離した。ユリに聞こえないように左手で持ったスマートフォンの口元に右手を当てて、声を小さくして話す。

「何かあったんですか?」

『白鷺山古戦場跡、ご存知ですか?』

「えっと、確かその、心霊スポットの……」

『広域霊視をしたところ、境界に破れが見つかりました。心霊スポットの噂話もその影響かと思われます。すぐに対処して頂けますか?』

「ええーっと、私一人で、ですか?」

『もちろんです。現状市内で手の空いている帳の巫女はあなた一人なのですから』

「わ、わかりました。対応します」

『よろしくお願いします。それでは』

 それで電話は切れてしまった。まずいことになった、とソラは思った。今すぐにでも行かなければならない用事が出来てしまった。呑気にドリンクを飲んでいる場合ではない。

「ソラ?どうしたの?何か大事な連絡?」

「そ、そうなんだ。家の手伝いですぐ帰ってこいって」

「ああ、ソラの家、神社だもんね。詳しくないけど、そういうことなら行ってきなよ」

 理解のある友人で助かった。ソラは心底そう思った。残っていたドリンクを一気に飲むと、立ち上がる。

「それじゃあ私、行くね。ごめん。また今度遊ぼう」

「うん、気をつけてね」

 店内のゴミ箱に空の容器を入れると、急いで外に停めてあった自転車にまたがり、漕ぎ出す。ここから古戦場跡までは30分はかかる。周囲の人払いはしておいてくれているだろうが、急ぐに越したことはない。




 ◇




 境界。それは生者の住む現世げんせと、死者の世界である幽世かくりよを隔てるもの。壁。カーテン。ヴェール。衝立ついたて。たとえは何でもいい。とにかく二つの世界が交わらないように間に存在しているのが境界だ。しかし境界は絶対不変のものではない。ときにほころび、破れ、ねじれ、二つの世界の境が曖昧になってしまうことがある。

 そうして生まれたほころびから幽世の存在が現世に漏れ出し、超常的な現象を引き起こす。俗に心霊現象と呼ばれるものもそのうちの一つだ。ゆえに心霊スポットとは、ソラの電話相手の言う通り境界がほころんでいるか、破れているかして、現世と幽世が部分的に繋がってしまっている場所のことを指すとも言える。

 二つの世界は分かれていなければならない。これは神話の時代から定められているルールだ。それゆえ境界は常に監視され、管理され、守護されている。


 そして境界を守護する役目を担っているのが、帳の巫女と呼ばれる存在だ。六家ろっかと呼ばれる六つの家から始まった役職であり、ほころび破れた境界を修復し、現世と幽世の衝突を防ぐ重要な役割を果たしている。帳の巫女の能力は血筋によって継承されており、今では六家の分家筋にあたる者にも力が発現するようになったことから、全国に広く分布している。

 ソラの生まれた常磐家も、その分家筋にあたる家だった。常磐ソラは今代の帳の巫女。先代は祖母だった。母は巫女の力を持たなかったが、強い霊能力を持っている。血筋にあたるものはたとえ巫女の力を発現しなくとも、何らかの超常的な能力を持って生まれるのだった。


 六家のうちの一つ、鏡見家の現当主である鏡見サクヤは、ソラとの電話を切ってから少し息をついた。彼女自身に帳の巫女としての能力はない。その代わりにこの強力な霊視能力を授かったのだ。少なくともこの藤花台の街で起きる事象であれば、なんであれ彼女の視界に入らないものはない。

 境界の揺らいでいる場所はまだいくつかある。それにこれから本格的に夏になる。夏は現世と幽世が一年のうちで最も近づき、衝突の危険が高まる時期だ。ここから先の時期は、さすがにソラ一人に任せるわけには行かない。

 眼の前の書き物机に置かれているノートPCには、藤花台周辺の帳の巫女の名簿と地図が表示されていた。大規模な儀式が必要になるだろう。それはなにも藤花台に限ったことではない。そのために六家では粛々と水面下で準備が進められていた。




 ◇



 駅前から三十分、市の北に位置する白鷺山に向かうなだらかな坂道を自転車で登り続けたソラは、ようやく現地付近に辿り着いた。さすがに体力には自信があるとはいえ、登り坂を三十分も漕ぎ続けるのは堪えた。大粒の汗が頬を伝う。首筋も蒸れて気持ち悪かったので、スカートのポケットからヘアゴムを出して、セミロングの髪をポニーテールに結んだ。

 ここから先は未舗装の道路で、雨でぐちゃぐちゃになった地面が乾いて固まっているため、凹凸おうとつが激しくて自転車ではスムーズに通れない。歩いていくしかない。ソラはスクールバッグを肩に掛けると自転車の鍵を掛け、歩き始めた。

 古戦場跡のさらに上には何かの工事現場があって、その車両が時たま行き来していた。それで地面が踏み荒らされていたのだ。

 ソラはスマートフォンの地図アプリを開いて現在地を確認する。史跡として登録されているから、地図には『古戦場跡』と表示がされていた。

 徐々に坂道の傾斜は険しくなっていく。ローファーでここを登るのはさすがに無謀と言わざるを得ないが、他に選択肢もない。まっすぐに登っていくと展望デッキと思われる東屋が見えた。心霊スポット探訪の目印とされている場所だ。あれが見えたらもうすぐそこ。

 ソラは視覚を切り替え、『巫女の眼』を起動した。仏教では浄眼じょうがんとも言われるその眼は、鏡見サクヤほどではないが概念的な存在を可視化する力があった。『眼』には周囲の境界面が見える。ここはひとまず整っていて、修復の必要性はなさそうだ。怪異の類も見えない。

 だが巫女としての直感が危機を伝えている。この先は危険だと。何か強大なものが待ち構えていると。ソラは周囲への警戒を解かずに先へ進んでいく。進んでいくごとに嫌な気が増していくのを皮膚感覚として感じていた。



 そして着いた『そこ』の惨状に、ソラは言葉を失った。

 境界が割れて幽世の風景が見えている。木々の高さを優に超える巨大な亀裂。そこから垣間見えるのは、どこまでも広がる星空。一見美しい風景だが、あれは死者の世界だ。決して生者が立ち入ってはならない。

 そしてそこから瘴気と呼んで差し支えないほどの負の気が吹き出している。それはちょうど森の中で渦を巻き、天に向かって登っている。

「うっ……く」

 ここからでも負の気の影響がある。ソラの経絡系にそれが侵入する感覚があった。慌てて霊力を体内で加速させ、侵入してきた気を追い出す。

(これを一人で、か。サクヤさんも無茶言うよなあ)

 境界の割れ目は森の中にあるようだった。ここからでは術の効き目が薄い。直接割れ目の前で儀式を行う必要があった。

 ソラはスクールバッグをその場に置くと、意を決して石碑の脇にあった獣道に踏み込む。スカートから露出した脚を笹薮が引っ掻くが、今はそんなことを気にしている場合ではない。先へ、先へと進んでいく。やがてぽっかりとドーム状に開けた場所に出た。境界の割れ目はもう目の前だ。

 ふと、そこにうずくまる人影があった。半袖のセーラー服を着た少女の姿をしている。『眼』で見てみるが、現世の人間のようだった。

 ちょうどドーム状の空間の中央で地面に手をつくようにしている。ソラは慌てて駆け寄って声をかけた。

「ねえ、あなた、大丈夫?」

「……ぁ、巫女、様、ですか?」

 ここに巫女が来ることを知っているということは六家か帳の巫女の関係者だろうか。だがともかく今はこの子を助けなければ。この子は幽世の近くにいすぎた。その影響を受けているのだろう。

「巫女、様。大丈夫、です。私はくさび。この『場』を固定、します」

 言っていることの意味はよくわからなかったが、幽世に直結しているにしては確かにこの空間の強度は高い。不思議なほどに安定している。この子に聞きたいことは山ほどあるが、今は境界を閉じるのが先だ。これ以上はもうだめだ。

 ソラは立ち上がると、まっすぐに境界の割れ目を見据えた。

どこまでも広がる星空と草原。死の世界。一体ここで何人がこの破れ目の向こうに消えてしまったのだろう。

両手を破れ目に向かってかざす。

現世うつしよ幽世を分かち給いし大神よ」

 帳の祝詞。それは現世と幽世の間に文字通り『帳』を降ろすための、祈りの言葉。

「畏み畏みもうす」

「黒き光出でし境にて」

 周囲に蛍のように金色の光が飛び交い始める。それと同時に負の気の渦は徐々にその勢いを弱め、小さくなっていく。

木々の高さを越すほどの亀裂も、パキパキと音を立てながら段々と塞がり始めた。

「今一度そのかんぬきを掛け」

「帳を下ろし給え」

 唱え終わると同時に負の気は一気に割れ目へと吸い込まれていき、最後にはバシンと勢いの良い音を立てて境界が閉じた。もう向こう側には森しか見えない。星空も、草原も、そこにはなかった。

 ソラは大きく息をつくと、その場にへたり込んだ。

「巫女様。ご無事ですか」

 セーラー服の少女が寄り添ってきた。その顔をよく見る。不思議な見た目だ。頭頂部が黒で、毛先に行くほどに銀髪になっていくボブヘア。整った顔立ち。歳は自分とほとんど同じくらいに見える。その制服から藤花台市内の中学校の生徒であることがわかった。

「ちょっと気が抜けただけ。あなたは大丈夫?」

「心配には及びません。私は平気です」

『眼』を使って彼女を見る。不思議な霊力の循環の仕方をしているが、それ以外に目立った損傷は見られないようだ。帳の巫女でもない人間があれだけ幽世の傍にいてなんともないなんてことは普通では考えにくい。

それに『空間を固定する』という彼女の言葉。分家筋の人間に発現する特殊能力だろうか。少女の正体が気になるが、今はひとまず。

「とりあえず、ここ出よう」

「はい」

 二人は笹薮を抜けて森を出た。もうここで行方不明だの幽霊騒ぎだのが起きることはない。とはいえ、一度染み付いてしまった心霊スポットという烙印は、そう簡単に払拭できるものではないが。



 ソラは自転車を押し、二人は歩きながら話をした。

「単刀直入に聞くけど、あなた六家の関係者?」

「六家の関係者だなんて畏れ多いです。私はただの分家筋の者。巫女様にお仕えする使命を帯びた者です」

 分家筋の人間であることは正しかった。しかし巫女に仕えるとはどういうことなのか。

「私は過去を見る『眼』を賜った者であり、先程のように巫女様の儀式場を整える『楔』となるべく生まれた者です」

 過去視に空間固定。能力だけ見れば一線級の霊能者といっても過言ではない。しかし楔とは何だ。そんな話は両親からも祖母からも、鏡見サクヤからも聞いたことはなかった。

「巫女様?」

「あ、えっと、その『巫女様』っていうの、止めない?なんかやりづらい」

「失礼しました!えと、では、その、何とお呼びすれば……?」

 少女は心底困ったような表情を浮かべてソラの顔を窺う。ソラは溜息をつくと言った。

「私は常磐ソラ。ソラでいいよ」

「ではソラ様」

「せめてさん付けにしてくれる?」

「はい、ではソラさん、と」

 苦笑しながらソラは言った。巫女に仕えるという使命はよほど深くこの少女に刻まれているのだろう。今のやり取りでそれがよく伝わってきた。

「あなたの名前は?」

「千司ナユタと申します」

「ナユタね。その制服、藤花台二中の?」

「はい。今は中学三年生です」

 歩きながら話していた二人は、いつの間に中心市街地へ入っていた。車の通りが増えたことに、どこか安心感を覚える。人間の気配がすることが安心材料だった。

「ナユタはどこに住んでるの?」

「ちょうどこの先のアパートに一人暮らしをしています」

「中学生なのに!?」

「はい。修練にはちょうどいいからです」

『楔』の修練がどういうものかはわからないが、中学生に一人暮らしをさせるあたり、両親もそれなりに覚悟やらなにやらをもっているのだろう。ソラには到底理解しがたい世界だった。

「あ、連絡先、交換しとこっか。これからも会うかもしれないし」

「光栄です」

 二人はメッセージアプリの連絡先を交換した。程なくしてナユタが一人暮らしをしているというアパートの前に着いた。念の為『眼』で見てみる。特に異常は見当たらない。土地にも悪いものはない。至って普通の二階建てアパートだ。

「ソラさん、ここまでで結構です。私はこれで」

「あ、ああ。うん。またね。あんまり無茶しないようにね」

 ナユタは自転車にまたがって去っていくソラに深く礼をすると、アパートの部屋に入っていった。




 ◇




 夢を、見た。

 自分の体の中、ちょうど肺や心臓の入っている辺りから何かが出てこようとうごめいている夢。それは手を両の肋骨に掛け、ぎぎぎと隙間を開いていく。痛みは感じない。ただ自分が別の何かに置き換わってしまうような、そんな感覚を覚える。

 ばぎ、と肋骨がまとめて割られる。自由になったそれは内側から思い切り胸を突き破って外に飛び出した。血まみれの腕。鋭利な爪。それとほとんど同時に、周りの異変に気づく。

 自分は草原に横たわって満天の星空を眺めているのだ。その星空からだらーっと蜜が垂れるように黒い腕が何本も伸びてきて、今しがた自分の胸を突き破った腕を掴む。ずるずると赤い腕が引きずり出される。肘、肩、頭、そして。

「はあッ……」

 ソラはそこで目が覚めた。ひゅーひゅーと荒い呼吸音が自分のものだと気づくのに、一瞬時間がかかった。初めて見る夢ではない。これまで何回か同じような内容の夢を見てきた。星空の下、草原にいる夢。それはまるで。そこで思考を止める。

咄嗟に自分の内側に意識を向けた。霊力の流れは乱れていない。むしろいつもより穏やかに循環しているといっていいくらいだ。

 だがあの夢は普通ではない。祖母に相談すべきだろうか。同じ帳の巫女の力を持つ祖母であれば、あの夢のことを何か知っているかもしれない。そう思ったから。

 枕の隣に置いてあったスマートフォンを見る。午前3時。こんな時間に連絡して話し相手になってくれる人物に心当たりはなかった。祖母も寝ている。

 すぐに寝る気になれなかったソラは、キッチンに向かった。真っ暗な中をスマートフォンの明かりを頼りに進み、グラスに水を注いで飲む。それを二回繰り返した。それで少し落ち着きを取り戻して、自室に戻って、ベッドに入った。

 しばらくスマートフォンでSNSを見たり、ゲームをしたりして眠気を紛らわす。今寝るとあの夢の続きを見てしまう気がしたからだ。そうこうして抵抗すること一時間、空も白み始めた頃、ついに眠気に勝てなくなったソラは、再び眠りに落ちていった。今度は夢を見ることなく、朝、遅刻ギリギリの時間に母親に叩き起こされるまでぐっすりと眠ったのだった。




 ◇




「サクヤ様。楔の少女と帳の巫女が接触をしたようです」

 和蝋燭が照らす部屋の外、障子越しに男が話しかける。鏡見サクヤは表情を変えることなく、和室に似つかわしくない目の前のノートPCを操作しながら答えた。

「そうですか。悪くないタイミングですね」

 ノートPCの操作を終えたサクヤは部屋の祭壇に向かう。

「古戦場跡の心霊スポットの噂には対抗神話の流布を」

「はっ。承知しました」

 対抗神話とは、平たく言えばある伝承や民話を否定するための伝承だ。いちばん有名なもので言えば、口裂け女に対抗するためのおまじないとして『ポマードと3回唱える』というものがある。

一度境界が破れた心霊スポットは、その噂がそのままの形で口承され続ける限り、いつまた幽世との通路が開くかわからない。ゆえに六家はその諜報網を使って心霊スポットの謂れを否定、上書きする新たな噂話を流布し、都市伝説を無力化してきた。今全国にある都市伝説や心霊スポットの噂話のうち、人知れず六家の手が加わっているものは数知れない。

「それから、もうあまり時間がありません。『大門の儀』の段取りも決めておかなければなりませんね」

 刻限は夏。特に八月の中旬辺り。もっとも現世と幽世が接近する時期。夏祭りやお盆のシーズンだ。それらはもともと神や祖霊に祈りを捧げる儀式だったものの名残だ。今でも一定の効果はあるが、信仰心が薄れた現代では境界を支えるほどの力は期待できない。

だからこそ帳の巫女が必要になる。頻発することが予測される怪奇現象への対処と、各地でほころぶであろう境界の修復。そして何より、祖霊が帰ってくるタイミングに乗じて、幽世から侵攻してくるかもしれない存在の阻止。

帳の巫女に戦うための能力はない。彼女たちにあるのはあくまでも守る力。現世と隔幽世。その二つの世界が近づく八月中旬、帳の巫女たちは現世を幽世から守る番人としての責務を果たすことになる。決して公に知られることなく、あくまで裏の存在として。



 それはここ藤花台とて例外ではない。このタイミングで楔の少女、つまりナユタとソラが出会ったのは偶然だが、サクヤにとっては僥倖だった。楔の一族はその名の通り存在自体が現世の楔となる者。言い換えれば空間を祓い清め、その強度を上げる能力ということになる。それは昼にナユタがソラに説明した通り、儀式の場を整え、円滑に帳の儀を執り行うために役立つ。

 サクヤは視覚を切り替えて霊視を始めた。次のほころびはすぐに見つかった。部屋の外に控えている男に指示を出し、現地に一番近い帳の巫女を向かわせる。藤花台市は広い。全域をソラ一人でカバーすることはできない。

(あの楔の少女……存在が役立つのは間違いないとしても、しかし……)

 サクヤの霊視を持ってしても、その行く末まで探ることはできなかった。もし六家にとって、そしてソラにとって不都合なことがあれば、その時は手を下すほかない。

 ともあれ、今は二人の関係を静観することしか出来なかった。

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