飛縁魔
ざり、と土を踏みにじる音がして、夜凪は顔を上げた。
「ああ、あんたか」
夜凪は久方ぶりに対面したその客人に、そう答えた。
なんだい。そのにべもない返事は。
「それ」はそうぼやく。そして口角を吊り上げ、まったく怒りを表さずにその場で立ち止まった。
客人が来たってのに、茶も出さないのかい。そう言って、それは家主の許可も得ずにどっかりと縁側に腰を下ろした。
「あんた、人ではないだろう」
夜凪はそう言い返す。
なんだい随分な言い様だねえ。この姿のどこが人じゃないって言うんだい。どこからどう見ても「人」じゃないか。
それはそう言う。今の状況をいかにも楽しんでいるのが解かる。
「あんたは妖だろう」
夜凪はちくりと棘を刺すように言い、まあいいよ、と茶の準備を始める。
「あんた、茶なんて飲むんだな」
夜凪は湯を沸かしながら、おかしげに言う。
妖は答えた。そりゃあ茶ぐらい飲むさ。飲まなくてもいいけどね。人の食べるものや飲むものは、実に旨い。飲み食いが楽しみの一つなのさ。
「――でも、あんたの腹は満たせないだろう」
夜凪は核心を突くように言い放つ。
妖はぴくりと眉を吊り上げた。
――そうさね。私の腹が満たされる事はない。だって、私が喰らうのは、人の欲だからねえ。特に人に対する執着心や恋情さ。男から女への、女から男への。実に旨いもんさ。
妖は言い、妖艶な笑みを浮かべる。
夜凪はその笑みを見て、そして何の関心も抱かずに、妖の目の前に茶を出した。
「普通の人は、あんたのその笑みで参ってしまうのかね」
そうさ。私のこの笑みはいわば餌だ。食いついてきたら釣り上げるのさ。そしてたっぷりと喰らってから、開放する。そう妖は答えた。
「悪趣味だねえ」
夜凪はわずかに眉をひそめた。
もう、人を殺めてはいないだろう? 妖は笑って言った。
「殺めたら承知しねえぞ」
夜凪はぴしりと言う。
表情こそ笑っているが、声音には冗談の色を感じさせなかった。
解かっているさ。
そう妖は答えた。
夜凪は茶を妖の前に差し出す。そしてもう一度釘を刺すように言った。
「殺めたら許さねえからな――飛縁魔(ひのえんま)」
藤助(とうすけ)は三十歳の紙透き職人だ。二年前に所帯を持った。
女房の年のころは二十。名は紫乃(しの)。若さ溢れるその風貌は溌溂としており、愛らしい雰囲気は人目を引く。藤助にとっては恋女房だった。
しかし、最近の藤助にとって、けしからん事なのだが、ちょっと気になる女ができた。
女の名は「あき」。新内節の師匠である。
近所でも有名な小町娘で、街を歩くだけで絶えず声をかけられるような美人である――が、この娘、ちょっとした悪い噂を持っていた。
いつも違う男を連れている。
一遍に複数の男と付き合っている、という噂が挙がった事は無いが、いろんな男をとっかえひっかえ渡り歩いている印象があった。
しかも、実は新内節の師匠というのも肩書きだけのようなもので、実際はあっちこっちの男と良い仲になっては男の家に転がり込んでいるという評判。
しかし藤助はそんな女の虜になってしまったらしい。
界隈の噂話はもっぱらこの話題で持ちきりだった。
最初はただの興味本位だ。しかしそれは徐々に、藤助の女房である紫乃への同情や冷やかしへと変化していく。
旦那を盗られた哀れな女房。いや、解消なしの旦那を受け止めている太っ腹な奥方。もしくは、旦那の浮気にも気づかないまぬけな女。
巷はこういった、若い女房を面白おかしくからかうような噂で持ちきりだった。
「ひどい人だな、あんたは」
夜凪は言った。茶器を手に包み込み、たぷんと波打つ茶を眺め、たしなめるとも、ただつぶやくだけともつかない口調で。
なんだい? 妖は応えた。
「噂をさらに煽っているようにも見える。自らに有利に運ぶように、わざと。ひどい人だ、人を躍らせている」
夜凪は抑揚のない声音で言った。
妖は笑んだ。
いいじゃないか。人が噂によって踊らされるのが楽しいのさ。見ていて飽きない。
夜凪は渋い表情になった
「ひどいね」
私はね、あんたらが言うところの「妖」だよ。人間が振り回されるのを見るのが好きで、何が悪い? それが妖だよ。
夜凪は溜息をついた。
ところで何かないのかね? 茶請けになるようなものさ。
妖はずうずうしくも菓子を求めた。何の前触れもなくふらりと夜凪の所に来訪して、勝手な事をほざいている。まったく気が利かないねえ。
夜凪は妖の声を無視して、どん、と目の前に煎餅を載せた皿を置いた。
妖はそれを見て顔をしかめた。なんだい随分とぞんざいだねえ。もっと丁寧に扱えないのかい。まったく今の若い者は。
そう言いながら煎餅を口に運ぶ。
若く溌剌としたその顔が煎餅をかじるのは、思わず見とれてしまいそうになる。
しかし夜凪はそれにまるで興味を示さず、自らも煎餅を口に運んだ。
「で、何しに来たんだ。ただ茶を飲みに来ただけじゃねえだろう」
夜凪はぶっきらぼうに言った。
ちょっと顔を見せに来たのさ。この街はそろそろ出ようと思ってね。
妖は言った。
「どこかへ行くのか?」
ああ。この街にはもういい男はいないからねえ。今の獲物も、そろそろ旨味がなくなるから。
「旨味か」
夜凪は突き放すように言った。
なんだい、人を喰うみたいかい? 妖はからからと笑う。
夜凪は言い返した。
「ぞっとしないね」
その妖の名前は、飛縁魔といった。
かつては時の権力者に言い寄り、国を堕落させた妖だという。
海の向こうの清の国が大昔、まだ殷と呼ばれていた時代、その国におわした紂王は、妲己という側室に溺れ、国を滅ぼしたという伝説がある。
その妲己は九尾の狐だったとも、あるいは飛縁魔だったのではとも、いわれている。
異性を惑わせ、狂わせる妖。
そして己に注がれる恋心を喰う妖。
それが、飛縁魔だった。
――いやだねえ、私とあんたの仲じゃないか、いけずな事お言いでないよ。
飛縁魔はそう答えた。
あんたがこんまい餓鬼だった頃から、あんたを知っているんだよ。
夜凪はその言葉に苦笑した。
「餓鬼とは失礼だな。でも、あんたは変わらねえな」
これでも婆(ばばあ)さ。そう妖は答えた。
夜凪は嫌味を言うように、こう返した。
「あんたは男でも女でもないだろう。その時々で性が変わる。どちらでもあり、どちらでもない」
そうだねえ。二十年前は爺(じじい)だったかねえ。
妖は言う。
もっとも、外見が年寄りだと、人は釣れないのさ。だから、いつも若い姿をしているけどねえ。いいよ、この姿は。便利だろう?
――あんた、また帰りが遅いのかい?
職場に繰り出す亭主の背に向かい、紫乃は言った。
おう。ちょっと行ってくらあ。
藤助は紙屋で紙透きの仕事を終えた後、決まってどこかの飲み屋に寄ってくる。いつもならばこれだけだったが、最近はどうも違うようだ。
どうも……あの女、あきの所へと寄っているのではないか。紫乃には解かっている。
若い女としっぽりと。ひょっとしたらその先までも、進んでいるのではないだろうか。
――あんた。
――なんだい?
藤助は振り向いた。その顔には、かつてのような、紫乃に対する熱はないように見えた。
――気をつけるんだよ。
藤助は、おう、とおざなりな返事をして、木戸をくぐった。
どうも退屈でねえ。妖は三枚目の煎餅を頬張りながら言った。
退屈な男だよ。もはやあれはそんなものになっちまったのさ。
飛縁魔は恋心を操る。
自らに恋心を抱かせ、その熱を喰い、恋情を味わい、生きながらえる妖。
しかしその力は、「自らに恋心を抱かせる」という点においては突出したものだが、「他人への恋心を操る」というものではなかった。
つまり、異性を自らに夢中にさせて奪う事はできるが、第三者への恋を止める事はできないのである。
藤助は今まさに、このような状態だった。
彼の恋を止める事は、誰にもできない。
昔ならばこのような事は許さなかった。他人への恋に落ちるその前に、恋情ごと生命力すらすべて食い尽くしてしまう。
しかし今はそれを許してしまう。いや、許さざるを得ない状況なのだ。
人間を殺めなくなった今、恋心が尽きた時点で、そいつとはおさらばだった。
もっとも旨い時期は、出逢いからその熱が完全に醒めるまでの、一番情熱的な時期だ。
恋が終わったら必要ない。
恋心が女房への愛に変化していったら、それはもう恋ではない。家族愛だ。
飛縁魔はそれを好まない。だから、恋心だけを喰らうのだ。
それが他所の女に向けられるものになっても、飛縁魔にとっては同じ事だ。
――困ったねえ。あの亭主は。
確かにそうかもしれない。所帯持ちでありながら、他の女に現を抜かしている。不義密通の一歩手前だ。
そろそろ潮時かねえ。妖はさほど困った様子も見せずに言ってのける。
人の恋情というのは、出会った時が一番激しいのさ。激しく、濃く、そして旨い。
所帯を持った男にはそれが無いのさ。
「仲の良い夫婦に魅力はないのか?」
と、夜凪は問うた。
無いさね。それは恋情ではない。家族に対する愛情さ。喰っても旨味は少ない。そう妖は答えた。
「そんなものかね」
そうさ。
妖は手の中で湯飲みを弄ぶ。
――それと同時に、この飛縁魔に対しての激しい恋情を失くした男も、旨くは無い。
あの藤助も……亭主も、もはやそれになっているようだよ。
困ったねえ、と妖はさほど困っている様子をうかがわせずに、笑った。
女房がいるのに。こりゃあ、三行半(みくだりはん)でも書かせて別れさすかねえ。
「――書かせる? わざわざ書かせるのか」
夜凪は問うた。
妖は答える。
ああそうさ。縁切り寺に行ってもいいが、何せ時間がかかる。寺にこもって離縁まで三年も待っていたら飢えちまう。だから男に書かせるのさ。
ちょいとその気にさせるのさ。妖の力侮るでないよ。三行半を書かせるくらいなら造作も無い。人の心を操るのは簡単さ。なんてったって、私を好いてもらう事だってできるんだから。
三行半さえ書かせたらおさらばさ。また姿を変えて名を変えれば、誰とだって所帯を持てる。
今度は久々に男の姿になってみようかねえ。
ふっくらとした唇を舐めながら、色気を含んだ表情で飛縁魔は言った。
さて、行こうかね。
夜凪が声をかけた。
「もう行くのか?」
ああ。茶と煎餅を馳走になったね。
飛縁魔は礼を言い、立ち上がり、戸口から外へ出て行きかけた。
「亭主にひどい事だけはするなよ」
夜凪は去り行く背中に声をかけた。
ああ、解かっているともさ。
こう答えて、飛縁魔――紫乃は、うっそりとした笑みを浮かべた。
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