船小屋 ――後編
夜の船小屋で二人の人間が膝を突き合わせていた。
一人は善治。船を待っている若者。
もう一人は夜凪。先ほどから、恐ろしい話を善治に聞かせている男。
他にも船を待つ客がいたが――皆、善治の眼前から煙のように消え失せてしまった。
自分の死の瞬間をもう一度繰り返して見せて。
「さて……話の続きだが」
夜凪はまた語り始める。
さて。
そんな金目当ての残忍な犯行を見ていた者がいた。
そいつはたまたまそこを通りかかった。川で鮒でも釣ろうとして、竿を引っさげてぶらぶらと歩いてきただけの、ただの若者だった。
若者は、さてここらで竿を垂らそうか、と何気なく川べりを見下ろしたら、そこで凄まじい出来事が起きているのに気がついた。
いい着物を着た女性を、船頭が川に突き落とした瞬間だった。
咄嗟に若者は船頭に飛び掛った。
船頭は抵抗した。倒れざま、最期の抵抗をした。
船べりに頭をぶつけながらも、さっきまで自分が吸っていた煙管(きせる)を手に掴んで、思わず若者の胸倉を掴んで――。
「嘘だ!」
善治は絶叫した。もう何も見たくないというように眼を閉じ、もう何も訊きたくないというように両手で耳を塞いだ。
しかし夜凪の声は、その両手をすり抜けて善治を惑わす。
「そんなの嘘だ!」
「嘘ではない」
夜凪はきっぱりと、容赦のない声で言い放つ。
「すべては不幸な偶然だった」
「俺は違う」
「煙管で」
「違う、俺は、俺は――」
「運悪く、その吸い口で」
「違う!」
「吸い口が嫌に尖っていた」
「違うっ!」
「船頭に力いっぱい突き出された腕に握られていた」
「嘘だ!」
「心の臓を」
「ちがう!」
「――一突き。たったそれだけで」
「俺は、死んでなんかいない――!」
ぱん、と手を打ち鳴らす音がした。
「……?」
善治は目を開けた。
彼の目の前で、夜凪が胡坐をかいたまま、胸の前で手を合わせていた。
夜凪は静かに言う。
「あんたは、ここにいてはいけない」
「――嫌だ」
「ここで死んだ瞬間を繰り返してはいけない」
「嫌だ」
「ここに縛られてはいけない」
「嫌だ!」
「彼岸へと逝かなければいけない」
「いやだぁ!」
「黄泉へと逝かなければいけない」
「俺は死んでなんかいない!」
「さもないと、あんたは妖になってしまう」
「俺は死んでなんか――!」
「善治さん」
夜凪はとどめのように、言った。
「あんたは、亡くなったんだ」
……一瞬、空気が凍りついた。
善治は急激に立ち上がり、夜凪に飛び掛ってきた。ばたんと夜凪は床に背を着く。骨が浮いた長い指が、夜凪の白い首にかかり、ぐっと絞めあげる。
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」
夜凪は抵抗を見せない。首を絞めあげられているというのにその顔を歪める事もなく、声もあげず、息が詰まる事もない。
幾ら絞めあげても抵抗がない事に違和感を――いや、恐怖を覚えたのは善治のほうだった。
「……な、解かったろう」
夜凪は静かに声をあげた。
「あんたに、もう、身体は無いんだ」
善治の動きがぴたりと止まった。恐る恐るといったふうに、手の力が緩む。
そしてがくりとうなだれた。
「そう、なのか。やっぱり」
夜凪はすっと膝を正し、善治の顔を両手で挟みこちらを向かせた。
「ここにいては、あんたは妖になってしまう。そうしたら、もっと苦しい思いをする。ずっと救われないまま苦しんでしまう」
「俺は、どうしたらいいんだ? 俺、怖いよ」
「怖いだろうな。でも、あんたは自らの死を受け入れなくてはならない。このままここに縛られてはいけない」
「縛られる?」
「あんたは既にここに縛られかけている。未練が呪縛となってここから抜け出せないでいる。このままでは永遠に苦しみ続ける事になる。――でも、今なら、あんたは抜け出せる。この此岸(しがん)から抜けて、彼岸(ひがん)へと行く事ができる」
「あの世は極楽ですか?」
善治の言葉に、夜凪は笑みを浮かべた。
「俺は坊さんではないから、よく解からねえ。俺はちょっとばかし、妙なもんが見えるだけの男だ。でもあんたは誰かを守ろうとした奴だから、きっと悪い目には遭わねえと思うよ」
「そうか……」
善治はほっと肩の力を抜いた。
「もうここにいなくていいのか」
そして最期に一度笑みを浮かべると、ふっ、と夜凪の眼前から消えた。
夜凪は船小屋を出た。
小屋は荒れ果てて、とても使えるような状態ではない。
壁は剥がれ落ち、屋根は崩れ、窓の格子は完全に折れてどこかへ行き、その機能を失っていた。
風ひとつない河原の中、夜凪は葦を掻き分けながら歩き去った。
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