船小屋 ――前編

やはり渡し舟は出ていないらしかった。

明日にならないと川向こうに渡れない。

小屋には船に乗りそびれた客人が集まっていた。

「どうも……よろしく」

善治(ぜんじ)は頭を下げた。

小屋にいる客人の数は、善治を除いて五名。夫婦者と思われる男女と、入れ墨が――前科者という証しである――腕に入れられたいかつい男、それと歌舞伎役者でもおかしくないような二枚目の若い男、そしていい着物を着た中年の女だった。

一同は沈黙を貫いた。

「……あ、あのう」

じろり、と入れ墨の男ににらまれ、善治はあわてて目をそらした。目の前の囲炉裏で燃えている火を見る。

外は轟々と鳴り響く強い風の音が駆け巡っている。とてもではないが舟は出せないだろう。

日はとっぷりと暮れ、月も出ていない。

「舟、いつ出るんでしょうね。明日ですかね」

「早く向こうに行きたいのに」

「そうだよ。出てくれないと困るね」

時折こんな会話が起こるが、すぐにそれも消える。

聞こえるのは薪が燃え、ぱちぱちと爆ぜる音だけだ。

――こんこん、と音がした。

「?」

一同は顔を上げる。

次の瞬間、ばん、と扉が勢いよく開いた。誰かが立っている。着物を強風にはためかせているのが見て取れた。

「……どうも。夜分遅くに」

それは若い男だった。


男はつかつかと中に上がり、空いている場所に腰を下ろした。

「皆、舟を待っているのか?」

「そうだよ」

「舟。来ねえか?」

「ああ」

それきり会話が途絶えた。男の問いかけに積極的に答えてくれる者はいない。

静寂の時間がどれだけ経っただろうか。

「退屈だな」

男が唐突に言った。

「よかったら、少し話をしないか?」

「なんで」

実に消極的な返事が返ってきたが、男は構わずに続けた。

「静かだとつまらんだろう。ちょっと興味深い話があるんだが」

ああ、と男は思い出したように声をあげた。

「申し遅れた。俺、夜凪というんだ。よろしく」

夜凪はにこりと微笑んだ。

柔和そうなその笑みを見て、善治はなんとなく自分も名乗らなきゃいけないような気がして、

「俺は善治です」

と、名乗った。

それにつられるように、夫婦者の二人が

「仁吉(にきち)だ」

「あたしは八重(やえ)」

と言う。

気まずそうな空気を漂わせ、自分も名乗らなければという気になったらしく、いい着物を着た中年の女性が

「私は、たき」

と言い、それに続いて二枚目の男が

「昭平(しょうへい)」

と言った。

そして最後の一人である入れ墨を入れた男が、他全員の視線に気圧されるようにして、

「源太郎(げんたろう)だ」

と名乗った。

「これはご丁寧に、ありがとう」

夜凪は丁重に礼を言った。

「――で、話って何なんだよ」

昭平が言う。

「ああ……、まあ、そうだなあ……」

「おい、もったいぶるんじゃねえよ。てめえ、自分から言い出しておいてそれは何なんだよ。ああ?」

源太郎がいきまく。夜凪は「まあまあ」と制して見せて、意味ありげにほくそ笑んだ。

「聞きたい……かい?」


ちょっとしたね、不幸な偶然が重なったんだよ。

ほんのわずかな間。すべては川岸と渡し舟の上で起きた。

まずは――とある二人組から始まった。

その二人は、男と女で、船頭がいないのに、勝手に舟を漕いで向こう岸に渡ろうとしていた。

一刻も早く逃げたかったんだよ。逃げる必要があった。

そう――早い話が、不義密通だった。そして駆け落ちしようとした。女房とその恋人。逃げたら二人で幸せになれると思っていたのかねえ。

そこで彼らにとっては、不運なことが起きた。

夫が追いかけてきたんだ。今にも出ようとした舟にすがりつくように乗り込んで、逃げた妻に詰め寄った。

そこで……夫は怒りに駆られて、持っていた匕首(あいくち)で妻を刺し殺してしまった。

かわいそうに。

妻が殺されてしまい、狼狽したのは妻の恋人だった。不義密通とはいえ、愛しい人が目の前で殺されてしまったから、当然だねえ。

それでまた、あってはならない事が起きた。

恋人が、夫の持っていた匕首を奪い取って、その場で夫の首を掻き斬ってしまったんだ。夫はそのまま川に転げ落ちた。

残された若い恋人は、かわいそうに、その場で胸を衝いて愛しい人の後を追ったんだよ。


「何だよ……それ」

その話を聞いていた一同のうち、さっと顔を青ざめさせた者がいた。

仁吉、八重、昭平の三人だ。ぴたりと動きを止め、まるで凍りついてしまったのかのように動かない。

「ど、どうしたんですか?」

善治が驚いたように声をあげた。

「どうしたんですか。何であなたたちが真っ青になるんですか。こんなの、この人が言った、ただの怪談話じゃないですか」

しかし三人はそれきり動かなかった。

その様子があまりに異様だったので、善治は言い知れぬ恐怖を感じた。

何だこれは。

この夜凪という人は一体何者なのだ。

この人たちに何をした?

狼狽している善治と、青ざめて動かなくなった三人、そして表情を変えないたきと源太郎を見やり、夜凪は何事も無かったかのように、

「続けるぜ」

と言った。


その惨劇を見ていた人間がいた。

別の舟に乗っていた船頭と客人が、その瞬間を見てしまったんだ。

ところでこの船頭、実は前科者でね。物盗りの罪で刑を受けたあと、船頭の職に就いたばかりだった。

そして、客は裕福な商家の御内儀(おかみ)さんだった。絹仕立ての良い着物を着て、幾らかの金子(きんす)を持って、どこかへ出かける途中だっただろうね。

その御内儀さんが、別の船で起きた惨劇――駆け落ちの二人と夫の惨劇だ、を見てしまった。意識が逸れた。

船頭は悪い癖が出た。

御内儀さんが気をとられた隙に、その持っていた荷物を奪い取ってしまったんだ。

結構な大金を持っていたのかね。それともそう見えただけなのかも。

とにかく、船頭は強盗を働いた。

御内儀さんは当然、奪い返そうとする。

しかし船頭――いや、前科のあるその男のほうが、力が強かった。

御内儀さんは振り払われ……川に、落とされて。不幸なことに、彼女は泳げなかった。

川は決して浅くはない。渡り舟で渡るぐらいだからね。

御内儀さんはそのまま溺れてまったそうだ。

金子を奪った男のほうも、自業自得といっては悪いが、そこを通りかかった男に飛び掛られて、舟の上で脚を滑らせた。

そして舟縁に頭をぶつけて、そのまま死んでしまった。


「……うそ」

今度は、たきが真っ青になっていた。

「嘘だろう? 私は、今こうしてここに――」

その様を見た源太郎が今度はおびえたように後退りする。何か見てはいけないものを見てしまった、とでも言うような表情だ。

「何を言っているんですか?」

声をあげたのは善治だった。

「あなた方どうしたんです? こんな、こんな人の、わけの解からない怪談話なんかで青ざめて! ――あなたもあなただ!」

今度は夜凪に向かって怒鳴りつけた。

「みんなを怖がらせて、何が楽しいって言うんです? 悪趣味にもほどがある!」

夜凪は澄ましたままだ。善治の叫びを無視して、そして

「なあ皆、……もう、ここにいなくてもいいだろう?」

と、言った。

その瞬間。

青ざめていた五人に、異変が起きた。

仁吉は首元がぱっくりと斬れ、赤い血がだらだらと流れ出す。自分でその傷口を触り、真っ赤に染まった掌を見てそれに恐れおののいた。

八重は腹を抑えた。一瞬苦しそうに息を詰めたと思ったら、見る見るうちに着物の腹のあたりがじわじわと赤く染まっていく。

昭平は胸をかきむしるようにしてもだえ転げた。そしてはだけた胸がおびただしい血で濡れるのが見えて、暴れるたびにそれが飛び散る。

たきは、突然ずぶ濡れになった。たった今まで乾いた着物を着ていたのに、水をかぶった様子もないのに、突如として頭の先から着物の裾、足袋の先まで大量の水を吸い込んだようになって床まで水が染み出し、髪からもぼたぼたと水が滴った。

源太郎は突如として昏倒し前のめりに倒れた。そして後頭部から水芸の水か何かのように血が噴出すのが見えた。

「ひいいいっ!」

それらすべてを見てしまった善治は、悲鳴を上げて飛びずさった。

そしてその悲鳴を合図にしたのかは知らないが――五人は一瞬でその場から掻き消えてしまった。

善治は情けない悲鳴をあげるばかりだった。

「ひいいい!」

完全に腰が抜けた様子で、船小屋の部屋の隅にずりずりと後ずさった。

夜凪はそんな善治を見やり、すましたままだ。

「もう、もうやめてください!」

善治はやっとの事でそう言った。

「あなたは物の怪か何かですか! 私たちを食う気なんですか?」

「食う?」

「だって、今、皆さんが消えたじゃないですか!」

夜凪は善治の声を完全に無視した。つんと澄ました横顔に、善治は吼える。

「怪談話はもうこりごりだ!」

「あのなあ」

夜凪は静かに言った。

「もう、あんたも気づいているんじゃないか?」

静寂が部屋を包んだ。

「何……を」

善治は表情を凍りつかせた。

「何に気づいていると――いうんです」

その声音は明らかに異常だった。硬く冷たく、感情を一気に失ったような声。

「さっきの話だけどね」

夜凪は無視して続けた。

「何……ですか」

善治は恐々とした面持ちと声音で問う。

「――まだ、続きがあるんだよ」

こう、静かに、しかしはっきりした声音で言った。

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