暗がりの中

――あやかし、って本当にいるんですか?

「いるよ」

あっさりと夜凪にそう返答されて、新吉(しんきち)は拍子抜けした。

「え、あの」

「いるよ。妖(あやかし)はいる」

「でも、信じてない人もいるでしょう」

「そりゃあ、そうだね。そういう人には見えないんだよ」

「見える――」

「いるかもしれない、と思う人には、見える」

例えば、神社仏閣の裏山。人気の無い池のほとり。夕暮れ時の暗がり。人が立ち入らない静かな物置。

「妖というものは、もともとはそういった人間の思いや恐れからできているという。それが寄り集まって形を成したものが、確固たる妖だ」

「それは、ただの想像です」

想像。ひどく言えば妄想。

「そうだよ。でもね、人の思いってのは、なかなか侮れない力を持っているんだ」

例えば、今日は運がついている、と思って何かをすると、何もかもがうまくいったりする。逆に今日はもう駄目だ、と思っていると、何もかもうまくいかない。

「思いが運を引き寄せているんだよ」

妖についてもこれと似たようなもので、いるかもしれない、と思う。するとそんな思いに惹かれて、妖が寄ってくる。妖が生まれる。

いるかもしれない。あるかもしれない。それが存在の根源。

そんな曖昧なものなのか。

「そんな、ぼんやりしているんですか」

新吉は思わずそう言った。

夜凪はそんな呟きにもきちんと答えてくれる。

「そうだ。妖ってのはな、信じてもらえないと存在しないんだよ。でも、時々その思いが力をつけすぎて、暴走する。それが、人に憑く、ってことだ」

「憑く」

「妖に憑かれた人は、心の弱さに付け込まれて、悪さをすることが多い。妖そのものが実体を持っているって事もあるが。それはどっちかといえば珍しくて。――そうだな、狐が化けるようになったとか、猫が長生きして猫又になるとか」

「それは物の怪とは違うんですか」

「まあ、同じようなものじゃないか? 俺自身は、人に害をなすものを妖と呼んでいる」

「……よく、解かりません」

夜凪は「そうだろうね」と、別に怒るふうでもなく、笑った。

「そういう世界に縁がないと、ちょっと現実味が無いよな」

ところで新吉さん、と夜凪が続けて言った。

「買い物に行くとか、言ってなかったっけ? こんなところで油を売っていていいのか?」

「あっ」

そうだった。話に夢中で忘れていた。

「すいません、行ってきます!」

「行ってらっしゃい」

ひらひらと手を振る夜凪に、ぺこり、と頭を下げ、新吉はだっと駆け出した。


なんとか間に合った。

買い物を終えて、新吉は帰路を歩んでいた。

もう日がだいぶ傾いている。早く帰ろう。もうまもなく日が落ちきってしまう。

日が落ちると、一気に街は暗くなる。ところどころに灯篭が置いてはあるものの、暗闇を照らすには足りない。

そういえば今宵は朔の日(新月)だったろうか。月のうちでもっとも暗くなる夜だ。

新吉は何ともなしに暗がりを見つめた。

薄暗くなっている世界の、「陰」の部分は異様に闇が濃いような気がする。

例えば、灯篭に照らされた柳の後ろに伸びる影。波ひとつたてない淵の水面。火消し用に積んである桶が月明かりを受けて、そこからべっとりと地を這っている影。町屋と町屋の隙間の、細い空間。

何かあるような気がする。

何かが。

(――何が?)

何かいる。何かある。それは何だろうか。

――何か、としか形容できないものだ、きっと。自分が知っているどれでもない異質なものだ。

異なるもの。異なる世界。

(違う……世界)

自分がいる世界ではないところ。日のあたらないところ。人のいないところ。

それは――それが、夜凪の言うところの「そういう世界」なのだろうか。妖、物の怪、幽霊、そのような魑魅魍魎がいる世界。

こんな、ただの影に。ただの暗がり。暗い淵の奥底。何気ない隙間の空間。

(……すぐ、そこに)

――異質なものは、すぐそこに潜んでいる。

ぞくり、と悪寒が背筋を這った気がして、新吉はぶんぶんと頭を振った。荷物をもう一度掻き抱いて、足早にそこから離れた。

べっとりと黒い闇に恐怖心を抱いた。

足をせかせかと動かしながら、新吉はふと思い立った。

(夜凪さんの言う妖ってのは、こういうふうに『怖い』って思う心から生まれるのかもしれない)

今の今まで、そこはただの暗がりだった。しかし新吉はそこに恐怖を感じた。「何か潜んでいるかもしれない」という思いを抱いた。

妖とは、人間のそういう恐怖心から発生するのかもしれない。

(莫迦な)

気の所為かもしれない。でも、そう思ってしまった。思ってしまったのだ。

夜凪が言ったのだ――「人の思いってのは、なかなか侮れない力を持っているんだ」。

例えば、百人が暗闇を恐れる。そうしたらその暗闇は、百人分の恐怖心を溜め込んで、何か別のものになるかもしれない。

そう思ってしまったら、もうだめだ。それはただの暗闇ではない。恐怖心を糧に存在する、何かがそこにあるのだ。それをきっと「妖」というのだろう。

夜凪の言う通りなのかもしれない、と思った。

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