茶碗

 桐箱の蓋をすっと滑らせると、艶やかな瑠璃色が見えた。その美しさと色の深みに見とれ、己代みよは思わず、ほう、と息をついた。

 男にしては繊細な指が茶碗を手に取り、箱から持ち上げる。

 ことり、と卓の上に置いた。

「このお茶碗、どうしたんですか?」

 己代の問いに、桐箱の蓋を元通りに閉めていた手を一瞬止めて、

「いわくつきでね。引き取ったんだ」

 と、夜凪は答えた。

 己代は「ふうん」と返事をする。茶碗の美しさにすっかり見とれているようだった。

 夜凪は指先で、つう、と茶碗の淵をなぞった。

「この茶碗はね、ある茶道の家元が使っていたんだ。ここぞ、という時の大切な茶の会で使う、とっておきの品でね、何でも上方の有名な窯元の逸品だとか」

「それが何で、夜凪さんのところにあるんです?」

「それはだな――」


 その家元は、それは美しい、お公家のお姫様だったそうだ。祝言を挙げたがっている若者の求婚があとを絶たなかったとか。

 まあ、それはどうでもいい話だ。その姫様はね、それはそれはこのお茶碗を大切にしていて、きちんと手入れをして、信頼できる御付の者にしか触らせなかったそうだ。

 それである時、姫様は大切な茶の会を控えて、いつにも増して茶碗を手入れなさっていたところ、突如として血を吐いて倒れたそうだ。

 労咳ろうがい(結核)だったらしい。すっかり病の毒が手や足にまで回って、歩けなくなって、熱にうなされながらもその姫様は、「お茶の会が、お茶の会が」とうわごとを繰り返していたらしいが、かわいそうに、亡くなったんだ。

 息を引き取るその瞬間まで「お茶の会が」と言っていたらしい。よほど茶の会をお楽しみにしていたんだろうな。

 で、その茶碗だけ残ってね。

 姫様の法要が済んで、喪も明けて。そのあとになってからのことなんだけど、ある時に姫様の家の使用人のひとりが、姫様が大切にしていた茶碗に茶を淹れて、姫様の仏前に供えようとしたらしい。

 で、茶を点てる時に、湯を淹れるよな。そのあとに抹茶を入れる。そうして、茶筅ちゃせんでいざ茶を点てようと掻き混ぜていたら……変わったんだって。

 深い緑色のはずの抹茶が、真っ赤に変わった。

 最初はただの湯と抹茶だったそうなんだが、茶筅で混ぜているうちに、どろりと色が赤く変わって、まるで――そう、亡くなった姫様が労咳に苦しんで吐き続けていた血のようだった、と。

 それからしばらく、この茶碗は蔵の奥にしまいこまれていたらしいんだが。

 月日が経って、かわいそうに、そのお公家がお家の御取潰しになって。え? 御取潰しの原因? さあ、俺はそれについては何も聞いてないから……。

 とにかく、お家が御取潰しになったので、家の備品が全部人手に渡った。その中に、件のお茶碗もあったんだ。

 いわくつきとはいえ、見ての通りなかなかの逸品だよな。そこでとある長者が大枚はたいて買ったらしい。その長者もお茶の心得があったらしいんだが――まあ、こう言っては悪いが、金持ちの道楽だったそうだ。

 困った事に、その長者は、なかなかの豪胆だったらしく。血の色に染まる茶碗の話を聞いても「なんだそんなもの」と突っぱねたんだ。

 それで、長者は自分のところで茶会を開いて、大枚はたいて手に入れた逸品の茶碗を、お披露目しようとした。

 だけど――まず、奇妙なことが起きたそうだ。

 夜な夜なその長者の夢枕に、美しい女子の霊が立ったんだ。

 そう、言わずと知れた、あの姫様だよ。

「お茶碗を返してえ」と、それはそれは恨みがましい口調で訴えたそうな。

 しかしその長者も、なかなか肝が据わっててね。ただの夢だと割り切って、かまわずに茶会の当日を迎えたんだとよ。

 ――ん? 大丈夫か? 顔が真っ青だが。大丈夫? そうか。

 続けるぞ。茶会の日になって、長者は一番いい道具を取り揃え、件の茶碗も磨き上げて、会を始めたんだ。そうそう、わざわざ宇治の最高級の抹茶を取り寄せて。

 普通、茶会というものは、主催者が茶を立てて、いらしたお客に茶と菓子を振る舞うものらしいんだがね。長者はそれをしなかったんだ。

 それがねえ……案の定、その茶碗で点てたお茶が、血の色に染まったんだとよ。

 それをごまかす為もあったんだろうが。その長者はまず、手本と称して――茶会に招かれる客に手本は必要ないんだけどな――自ら点てた茶を飲んだそうだ。すごいよなあ。

 そうしたら。どうなったと思う?

 血の色に染まった茶を綺麗に飲み干して、なんだ何も無いじゃないかと一息ついた次の瞬間――。突然に長者が喉をかきむしった。

 口からどうっと真っ黒い血を吐いてね。赤じゃなくて、黒い血を。

 そうしてきりきりと三回ほど身体を回すように悶え苦しんで、ばったりと倒れて事切れてしまった。

 もう、茶会どころではなくて。当たり前だが。

 周りの者は、これは鴆毒ちんどくでも盛られたかと疑ったそうだが。

 でもな。抹茶も湯も、それこそなつめ茶釜ちゃがま柄杓ひしゃく茶筅ちゃせんに、茶匙ちゃさじに、袱紗ふくさ懐紙かいしも、もちろんや茶碗に至るまで、長者が触れたすべての道具が、長者自身で用意したもので、他の者が触れる隙は無かったそうだ。

 ……不思議だよなあ。


「そ、……そのお茶碗が、これなんですか」

「うん」

「ど、どうやって手に入れたんですか」

 己代は声が震えている。

「古道具屋で、二束三文で売られていた」

 夜凪は茶碗を手に、すたすたと部屋の外へ出た。そうして履物をつっかけ、こぢんまりとしているが手入れされた庭の真ん中へと出て――、あ、と己代が声をあげる間もなく、茶碗から手を放した。

 茶碗はまっすぐに落下し、踏み固めた固い土の上であっけなく砕け散った。

 ぱりん、と乾いた音がした。

 それが何のためらいも見せない動作だったので、己代は我が目を疑った。

「夜凪さん、どうして割っちゃうんですか」

 己代の狼狽したような声に対し、夜凪はこともなげに言った。

「姫様はね、自分以外の人間が、この茶碗で茶を点てるのが嫌だったんだよ」

 ――だから、もう誰も茶を点てる事ができないように。

「今ここで割ってしまえばいい」

 その口調があまりにあっさりとしていたので、己代はぽかんとしてしまった。

 今の話は本当だったんだろうか? それとも、夜凪さんの嘘? 嘘にしては真実味があったような気がするけど……。

 どっちだろう。

 己代には、このいわくつきのこの茶碗が、本当に血の色をした茶を点ててしまうのか解からない。夜凪が今聞かせてくれた話だけが、己代の知るすべてなのだから。

 本当はどうだったんだろう、と己代は思った。

 もうそれを確かめる術は、ないのだけれど。

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