純白のカサブランカ

鈴ノ木 鈴ノ子

じゅんぱくのかさぶらんか

 今年もまた庭にカサブランカが咲いている。

 緑色の細葉を纏って垂直に伸びる茎、頂点に純白の花弁を持つ花。

 濃緑が溢れる真夏の庭に白と香りを伴った清涼を漂わせ、数株の大輪の花が無風の中で凛として立っていた。

 透き通る氷に冷やした炭酸水を注いだガラスコップ二つをお盆に載せて片足を引きずりながら長窓まで近づく、庭へ降りる足かけに白いTシャツ姿を着た痩せた男の背中が見えた。


「ねぇ、開けてくれる?」

「あ、ああ」


 長窓越しの声に振り返った彼の口角と眉が緩んだ優しい笑顔に心が温かくなる。カラカラとサッシの開く音と共に熱気が冷気の室内へと流れ込んできて、私の肌をやんわりと炙る。


「炭酸水だけど、いいわよね」

「ああ、喉が渇いてたんだ、ありがと」


 彼が立ち上がってお盆を受け取ってくれる。私は動きの悪い右足をゆっくりと折り曲げながらその場へと座った。彼は何も言わずに私が座り終えるまでを見つめてから、お盆を私の近くに置き足掛けへと再び腰かけた。


「はい、乾杯」

「ああ、乾杯」


 彼にガラスコップを渡して私も手にしたところでそう言って軽く触れ合わせるようにした。

 風鈴のような涼しい音が鳴る。互いに微笑みを零してからゆっくりと口をつけて飲み、やがてコップから口を離しそのまま視線の高さまでそれを上げた。

 ガラスコップの中で炭酸の泡の粒が立ち昇って透明な氷が泡と戯れて遊んでいる。その先に陽の光に照らされた純白のカサブランカが輪郭をぼやかせながら咲いていたのだった。



 彼、田中源三郎との私、西島弓美が出会ったのは小学校3年生の夏休みのことだ。

 隣の家が長いこと空き家だったがそこに彼の家族が引っ越してきた。挨拶に我が家へと訪れた母親の後ろで恥ずかしそうにしていた姿を今でも覚えている。

 互いに幼かったが故に友達になるのも早かった。

 一週間もすれば互いに家を行き来してゲームや読書をして遊んだ、漫画の趣味もゲームの趣味もフィーリングが合っていて、どれもこれも互いにすんなりと受け入れることができた。だから、あっという間に気心も知れる。夏休み中は学校の友達に紹介しながら、みんなでも遊んで楽しい夏休みを過ごした。


「田中源三郎です。お願いします」


 各学年3クラスしかない小学校の3年2組に彼は転入してきて、そこには私と夏休みに遊んだ友達もいたから、彼もすぐにクラスに馴染めた。席は私の隣で教科書を忘れることの多い彼のために机を合せて勉強していた。小学校6年生までを同じクラスで過ごして、席替えで時より一緒になると机を合わせた。


 小学校から中学校へ、思春期を迎えた頃から私達の関係は変化を迎えた。

 女友達と付き合いが多くなった私は外見もますます女らしくなった。

 美人と自分で言うのはどうかと思うけれど、周囲の中でも人一倍は飛び出ていて、街中で遊んでいた際に芸能事務所へとスカウトもされた。父は反対だったけれど、母は賛成してくれて私はその道へと足を踏み入れた。厳しい世界だったけれど必死の努力が認められて、一輪の花と共に笑顔を見せるシャンプーのCMを皮切りに、オーディションの末に映画の数本に出演させて頂き、ありがたいことに連続ドラマからも声が掛かった。


「明日から東京に行ってくるね」


 連続ドラマの撮影から帰宅すると隣の庭先で土いじりをしている彼を見つけて、なぜかそう声を掛けていた。

 連絡先は知っていたけれど関係はすっかり途切れてしまっていて、話すことも学校ですれ違っても挨拶を交わすこともなくなっていた。ただ、彼が学校でどう過ごしているのかはよく知って、いや、噂で聞いた。

 

 園芸部の百合狂い。


 揶揄う意味も込めてこんなあだ名をつけられたのだと思う。そこで文字通り彼は運命的な出会いをしたらしい。

 私のCMが流れていた頃に彼は部活で花屋を訪れた、そこに冷蔵ガラスケースのなかに一本の純白のカサブランカがあった。その神々しいまでの美しさに心を奪われて帰りにそれを買って帰ったそうで、それからというものカサブランカを育てることに全力を注ぎ始めた。部活動の傍らでも、自宅でも、それを一生懸命に育てていて、その姿を私も自宅の窓から、学校や仕事帰りに、夕暮れの校舎の窓から、世話をする背中を幾度となく見た。

 2年生の夏休みには花の品評会で彼の育てた純白のカサブランカが優秀賞に輝いた。校舎の一部の花壇にも純白のカサブランカが植えられて私や他の生徒に「花は綺麗だ」と思わせてくれて、私も少しだけ花に興味を抱くきっかけにもなった。

 ただ、心無い人間もいる。

 ある日、園芸部の花壇が荒らされた。カサブランカは地面で花弁をバラバラにされて散らばり、そして他の園芸部員が大切に育てていた草木や花々も無残にも荒らされて悲惨なありさまだった。

 3学年の素行の悪い先輩達が行った行為で数人が先生に呼ばれて園芸部に謝罪をしたらしい。学校側は謝罪で穏便に済ませようとしたらしい、だが、その内のリーダー格の先輩が「所詮、花じゃねぇか」と口走ったのを彼は聞き漏らさなかった。その場で先輩と取っ組み合いの喧嘩となった。そして、彼は校舎の2階、生徒指導室の窓から先輩を窓の外へと投げ落とした。殴り合いの喧嘩は先生が仲裁できるレベルを超えてしまっていて、応援の先生を呼びにく間もなく、先輩は叩き落されてしまったと、謝罪の連中の中にいた友人の彼氏が震えながら話していたと聞いた。

 警察と学校と保護者同士で話し合いがもたれたが、不思議と事件にはならなかった。一応、1週間の自宅謹慎だったらしいけど、放課後に園芸部の花壇で部員達を新しい苗などを植えて世話をしている彼の姿を顧問の先生も黙認していたからきっと形式上の謹慎だったのだろう。問題は先輩の方だったようで、警察レベルの悪事が表面化したらしく、夜逃げ同然で街から去っていった。あだ名の最後の狂い、それはキレたらヤバイ男が変化して尾尻についたと言う訳だ。


「そうなんだ、気を付けて頑張って」


 素敵な笑顔とともに彼は持っていた鋏で世話をしていた純白のカサブランカの一本を茎の真ん中から切った。


「お祝い」

「あ、ありがと」


 近づいて差し出されたカサブランカを受け取る、いつの間にか私よりも背丈が伸びていて引き締まった顔に男らしさが溢れていた。話を聞いていてヤバイ奴と思ってもいたけど、出会った頃と変わることのない彼がそこに居た気がした。


「根元から切らないんだ」


 ふっとそんな言葉が意味もなく口をついた。花屋やスタジオで見かける切り花のカサブランカは茎も長くとられているけど、彼がプレゼントしてくれたのはその半分の長さもない。それが妙に気になった。


「ああ、根元で切るとね、球根が弱っちゃうから。短くてごめん」

「違うの、変な意味じゃないから、貰えてすごく嬉しい、頑張る勇気が沸いたよ」

 

 優しく胸元に抱いてちょっとあざといけれど笑顔を見せてみる。彼の顔が真っ赤に染まって照れ隠しのように笑う。あの頃の屈託のない笑顔が嬉しかった。

 

 結局、夢は長続きしなかった。

 中学の途中から大学3年生までは順風満帆とまではいかないけれど、それなりに仕事ができていたと思う。オーディションにも受かっていたし、主役の座も射止めたりもして、無我夢中にいや、我武者羅に働いていた。

 でも、正直、無理をし過ぎていた。

 ある撮影現場での撮影後、私は意識を失って倒れた。運の悪いことに、階段の傍で‥‥‥。

 病院での検査の結果は脳神経の病気ということが判明した。そして倒れた際に階段から落ちたことによる片足の神経損傷で痛みの続く後遺症が残ってしまい、結局は大学と同時に仕事も卒業して私は実家でしばらく療養となった。


「久しぶり」


 夏の夕暮れ、夕焼けが綺麗に空を彩っているなかの帰宅だった。

 出かけていく時と同じように彼が土いじりをしている背中が見えた。思わずそう言って声を掛ける。振り返った彼は心配するわけでもなく、きっと普段通りの顔で私を見た。


「おう、おかえり」


 彼のその言葉に思わず涙腺が緩む。

 悔しいとか羨ましいとかそんな気持ちは東京で嫌というほど、泣いたし、喚いたし、散々に人を恨んでばかりだった。怨嗟の中で次を見つけることもできず、ただ、苦しんでいるだけだった。投げかけられる言葉すべてが良い意味には聞こえずにいて、それにもさらに苦しんだ。どこに行っても「可哀そう」がついて回る、「同情」がついて回る。それが嫌で嫌でしかたなかった。

 彼はただ一言、そう言って出迎えてくれた。

 なんの着色もない、普通の挨拶、それが私には嬉しかったのだった。


「ほい」


 彼は持っていた鋏で世話をしていた純白のカサブランカの一本を茎の根元から切って差し出してきた。


「ありがと‥‥‥、根元からって球根弱っちゃわない?」

「ああ‥‥‥、大丈夫、それくらいなんとなかるさ」

「そうなの?」

「うん、あ、ご両親から聞いたけど、これからこっちで暮らすんだよな」

「そ、そうだけど‥‥‥」

「じゃぁさ、ウチの店手伝ってくれない?」

「店?」

「そ、花屋、お袋に手伝って貰ってるんだ、たまにでいいから頼めない?」

「考えとく、落ち着いてから答えでもいいかな」

「ああ、待ってるよ」


 彼と別れて引っ越しの荷物が溢れる自室にはいると、受け取った純白のカサブランカを花瓶に入れて飾る。電気もつけずにその花瓶を窓際の足元に置いて私はその隣に座った。夢破れた陰鬱が漂う室内が肌寒く感じて、思わず身震いする。憂鬱な気持ちになり始めて1人膝を抱えて蹲ろうとした時だった。

 

「綺麗‥‥‥」

 

 空から月光が室内へと差し込んでくる。

 月明りを受けて純白のカサブランカが凛と輝いて、私の視線を釘付けにする。

 スマホが不意に音を奏でると彼からのメッセージが届いていた。


【行く時と同じものを送ってしまって、気を遣えなくて、ごめん】

【ううん、嬉しかった。帰ってきたって辛さじゃなくて安心できたし、それに今、凄く綺麗に咲いて私を助けてくれてる】

【それならよかった。まずはゆっくり休んで、それからさっきの話よろしくお願いします】

【うん、わかった、いつでも連絡していい?】

【お店に居たら返事遅くなるけど連絡はいつでも大歓迎だよ】

【ありがと】


 単純な私なのかもしれない、でも、今はこの心地よさに甘えて、私は月下で輝く花をしばらくじっと見つめて無垢な時を過ごした。

 翌日は良く晴れた朝と目覚めの良い気分を迎えて、引っ越しの荷物を片付けては海に浮かぶブイのように浮き沈みを凝り返した、けれどその都度、窓の外から見える隣の庭には土いじりをしている背中があって、なんとも言い表すことのできない安心感をくれる。気持ちが落ち着くまでには少し時間が必要だったけれど、朝夕、たまの昼間に見える背中が嬉しかった。


「今いいかな?」

「おう、いいぞ」


 早朝、暑い朝日が当たりを照らし始めた頃、私は早朝の世話をしている彼に声を掛けた。

 その日はお店は休みだったようで、早朝の仕入れにはでかけていないようだ。草木の花々の世話と咲き乱れるカサブランカの世話を焼いている彼が手を止めて、普段通りの顔つきで振り向いた。


「手伝いしてみようと思う」

「そりゃ有難い、明日から頼むよ」

「初めてだけど大丈夫?」

「ああ、誰だって最初は初めてさ、大丈夫、手取り足取り教えるよ」

「なんかいやらしい‥‥‥」

「なんでだよ!」


 私がそう言って笑いながら揶揄う、彼もまた冗談で返して同じように屈託なく笑った。


「せっかくだ、ほら」


 彼は純白のカサブランカの花を茎の真ん中から切って私に差し出してきた。


「ありがと。そういえばこうやって誰かにあげたりするの?」


 受け取りながら、気になったことを安易に聞いてみる。


「い、いや、まあ、そんなことはどうでもいいだろ」


 笑顔が急に真っ赤になり、反論の声の最後が聞き取れないほど小さくなってゆく。


「もしかして私だけ?」 


 カサブランカを優しく抱いて意地悪く上目遣いで聞いてみた。とたん、彼が真っ赤な顔したままで私を見つめる。


「ああもう、本当に似合う女だな。初めてテレビに出た時のシャンプーのCM覚えてるか?」

「懐かしいこと言うのね、もちろん、初めてだったから覚えてるわよ」

「そのCMでさ、一輪の花と笑顔を向けてただろ」

「ちょっとまって!てことは‥‥‥」

「そうだよ、純白のカサブランカを持って笑顔を向けてた。それが俺の始まりだ」

「うそ」

「嘘を言ってどうするんだよ」

「じゃぁ、こうやったら……」


 純白のカサブランカの花を顔の高さまで上げてから、私はあの時と同じように笑顔を見せる。

 真っ赤な顔が更に赤みを帯びてゆくのが目の前で良く分かって、段々と私の方も恥ずかしくなって顔に熱が籠ってきた。


「やっぱり似合う女だな、本当に綺麗だよ」


 私と視線を合わせたまま彼ははっきりと言い切って、それに恥ずかしくなって俯いた私は何も言い返すことができなかった。

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純白のカサブランカ 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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