第2話 形見の爪
私の家にやってきたあの子は、私の部屋でのんびりと過ごした後、唐突に言った。
「ねえ、爪切りってある?」
あの子はローテーブルの前で膝を抱えるようにして座りながら、膝の上に開いた指を乗せて、爪を見下ろしていた。
あの子は几帳面な性格だから、伸びた爪が気になったのだと思う。
私は嬉々としてリビングに向かった。
爪を切るシーンを見れるなんて、滅多にあるものじゃない。あの子のレアなシーンを見られることに、私はとても興奮した。
私はリビングにある引き出しから爪切りを取って、自分の部屋に戻った。
爪切りをあの子に手渡す。あの子は頬にえくぼを作って笑うと、「ありがとう」と言った。
お礼を言われて、私の背筋に電流のような感覚が走った。幸福感とは、このような感覚をいうのだろうと思った。
私は無言のまま頭を下げて応えると、隅のベッドに腰掛けて、あの子を見つめた。視線であの子の全身を舐めるように、黙って観察する。
あの子は私の視線に気づいていない様子で、爪切りを始めた。ローテーブルの上にティッシュを一枚だけ敷くと、その上で右手の指へ一本一本、丁寧に爪切りを噛ませていく。
物音一つしない静寂の部屋の中で、パチリ、とあの子の爪を切る音だけが響いていた。あの子の白く細い指先から、爪が断ち切られていくその様子を、私は黙々と眺め続ける。
最初は、ただ興奮した。
あの子が使っている爪切りは、普段、私が使っている物だ。爪切りには私の爪のカスがまだ残っているだろう。それがあの子の爪と混じり合う様子を想像すると、まるで私とあの子が一つになったかのような錯覚に浸れた。
爪は遺伝子の残りカスなのだから、間違ってないよね?
しかし、その幸福感も、長くは続かなかった。
銀色の爪きりが彼女の指先に噛みつくにつれて、私の心は酷い嫉妬心に変わった。あの子の爪を切る権利を爪切りに奪われたような気がした。あの子の爪を切るなら、私の歯でも可能だ。なのになぜ、爪切りごときにあの子の爪を切る機会を奪われなければいけないのか、と、思う。
叶わない、醜い感情だ。異常な考えだとも思う。けれど、その欲望と嫉妬を抑えられない。
それほどまでに、私はあの子に恋焦がれていた。
そんな私の気持ちにも気づかないまま、あの子は爪を切り終えて、爪切りが吐き出したその爪を丁寧にティッシュに包んでゴミ箱へと投げ入れた。
そして爪を切り終えたあの子は何事もなかったかのように、私との会話を再開した。私は会話の流れに合わせて言葉を紡いだが、私の視線と興味は、捨てられたゴミ箱に注がれていた。
あの子の一部が、そこにあるのだ。そう思うだけで胸が高鳴ってならなかった。
「じゃあ、またね」
と言ったあの子の後ろ姿を玄関から見送り、私はすぐさま部屋に戻った。
急いでゴミ箱をあさり、すぐに目当てのものを見つけた。
私は、そっと、一つたりとも零さぬように、ティッシュに包まれたあの子の爪を取り出した。
恭しくその包みを開く。そこには確かに、あの子の一部があった。掌に乗るそれを眺めながら暫し呆然とした後、私は心の中で誓った。
宝物にしよう、と。
変態的な行為であることは、わかっている。切った爪を保管しようと思った、などという事実をあの子に知られたら、嫌われるのは確実だ。
でも、いいじゃないか。
どうせ私は、あの子を自分のものにできる機会など、永遠に訪れない。いずれあの子は、どこぞの男に奪われるのだ。それを私は、祝福する以外に道がない。
私の片思いは、永遠に叶わないのだ。
だったら、あの子の一部だけでも、私の所有物にしてもいいよね。ささやかな望みくらい、許されていいはずだ。神様は、私に残酷な個性を与えたのだから、ちょっとした変態行為で自分を慰めることくらい、構わないだろう。
あの子にバレたらまずいけど、異常性や変態性などは隠せばいい。自分で言うのも何だが、私は心からあの子を大切に思っている。あの子に気味の悪い思いをさせて傷つけるような真似は、絶対にしない。あの子がいる限り、私はこの劣情を隠し通せる自信があった。
そう、あの子がいれば。
「秋ちゃん! 日向生徒会長が、さっき、交通事故で――」
そう心に誓った、翌日の出来事だった。
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