アンリ、走る
ダンスパーティー前夜。アンリとジョンは、夜中、密かに屋敷を抜け出した。
なるほどジョンの言った通り、屋敷の警備は数日前からかなり手薄だった。アンリは先導するジョンの後をつきながら、彼の言葉の正しさを確信した。
ベレットは、多くの戦闘要員たちを連れて屋敷を出たらしい。
ならば、それ相応の理由があると考えた方が自然だ。
「屋敷を出たら、駅まで走るぞ」
ジョンの指示に頷いて、アンリはふと立ち止まった。屋敷の中はしんと静まり返っている。
「……ここまで人が少ないなんて、あり得るのかな」
ぽつりと呟くアンリに、ジョンは「は?」と怪訝な顔をする。アンリはジョンのもとへ駆け寄りつつ、「ごめん、でも」と口ごもった。
「人があまりにも少なく、ない、か? 戦闘要員だけじゃなくて、普通の使用人たちの数も、いつもと比べて少ない、気が」
「今は、それを気にしてる場合じゃないだろ」
アンリは「そうだね」とジョンに同意する。後ろ髪を引かれつつ、彼へと続いた。
屋敷の中庭を抜け、後は門を出るだけ。暗闇の向こうに、ぼんやりと柵が白く浮かんでいる。
そのすぐ横に、人影があった。
「お坊ちゃま。どこへ行かれるのですか」
執事が、立っていた。その手には、ナイフが握られている。アンリも懐に仕込んだナイフを抜き、ジョンをかばった。
「きみに言うべきことは、何もない。そこをどいて」
「いいえ。大方、旦那様の邪魔をしようとしているのでしょう」
苦々しい表情で、執事が首を横に振る。そしてゆっくり、二人のもとへと歩み寄っていく。
「お坊ちゃま、お戻りください。そこの犬は、私が処分いたしますので」
うん、とアンリは頷いた。
姿勢を低く落とし、執事へ向かって突進する。
「おい、馬鹿!」
焦るジョンの声を浴びながら、アンリは執事とナイフを交わした。執事はアンリに危害を加えられないのか、魔法を使えないようだった。
「ジョン、支援して!」
「この考えなしが……!」
背後でジョンが呪文を詠唱する。黒い靄が立ち上がり、執事を取り囲んだ。
対する執事も短く呪文を唱え、光球を打ち上げる。辺り一面が明るく照らされ、屋敷の窓がちらほらと明るくなった。
「応援呼びやがった」
ジョンは舌打ちをしつつ、再び呪文を唱える。執事とアンリの足元が崩れ、執事の身体がぐらりと揺れる。
アンリはその隙を見て、彼の脚を払った。不安定な足場から跳躍し、泥沼と化した一帯を抜ける。
「逃げよう」
「言われなくても」
二人は全速力で屋敷を出た。背後から使用人たちの足音が聞こえたが、決して振り向かない。
人混みの多い年末の通りを走り抜け、駅へと向かう。夜行列車の切符を買って、ぎゅうぎゅう詰めの車内にもぐりこんだ。
ふ、と息をついて、二人は椅子へ座り込む。泥だらけの二人の姿は目立っていたものの、大きな騒ぎは起きていないようだ。
「……順調すぎて、怖いくらいだ」
アンリは呟いて、口の端を吊り上げた。身体についた土を払う。ジョンは窓の外を、ぼんやり眺めていた。
列車はやがて車輪の
そこでようやくほっと息を吐いて、ジョンは首元のマフラーを緩めた。車内に冬の隙間風が吹き込み冷えるが、アンリの身体は熱い。
ジョンはそのまま膝に手を当てて、深くうなだれた。その頭頂部を眺めつつ、「今更後悔してるの?」とアンリはからかうように言う。
「……そうかもな。もう、戻れないと思うと」
その言葉に、アンリは思わず黙り込んだ。ジョンは自嘲するような笑みを浮かべて、「でも、俺が決めたことだから」と手で髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。深く、震える吐息を吐き出した。
「そうだ。俺が決められた、たった一つのことだ」
ジョンの中で、この裏切りは、よほど大事なもののようだった。アンリは静かに頷いて、「ありがとう」と彼だけに聞こえるよう囁く。
「お前に礼を言われることでもねえよ」
ふん、と鼻で笑うジョンに、いつもの勢いはないようだった。アンリは唇をへの字に曲げて、腕を組む。
「僕が、ありがとうって言ってるんだよ」
アンリはそう言って、ジョンの治ったばかりの足を、自らの足でつついた。ジョンはそれに怒るでもなく、「俺は病み上がりだぞ」とだけ言って目を瞑る。
二人は列車の中で眠り、夜明けとともに都へ着いた。
学園へは、さらに馬車を乗り継ぐ必要がある。
二人は安い乗合馬車に乗り、学園を目指した。時刻は昼を回った辺り。
警備の目を掻い潜り、外庭へと侵入する。
アンリにとっては、わずかな時間ながらも暮らした学び舎だ。どことなく、胸が切なくなる。
ふと、アンリの耳たぶがじんと痺れた。
びくっと肩を震わせるアンリに、「どうした」とジョンが怪訝な顔で振り向く。首を横に振りつつ、アンリは耳元を押さえた。
「なんでもない」
そうか? とジョンはいぶかしみつつも、講堂へと向かう足を止めなかった。
アンリのピアスのキャッチ。その裏側で、一筋の光がひらめいた。
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