アンリ、朝食を拒否する

 アンリの意識が、少しずつ浮上していく。最初に背中へやわらかな感触があり、目を開けると、白い天井があった。


「ここは」


 身体を起こし、辺りを見渡す。調度品に見覚えはなく、慌てて窓から外を見れば、マグノリアが見えた。


「お屋敷だ」


 アンリが茫然と呟くと同時に、扉が開いた。侍女たちが入ってきて、粛々とアンリの前に並ぶ。


「身支度を手伝いにまいりました」


 は、とアンリは笑った。彼女たちは、例外なく、アンリを疎んでいた使用人たちだ。

 ベレット侯爵の考えることが、嫌というほど分かる。きっと、自分が命ずれば、この使用人たちは思いのままだと思っているのだろう。


「いいよ。自分でやるから」

「しかし……」


 侍女たちの顔に、わずかな緊張と怯えが走る。アンリは彼女たちをじっと見つめた。


「なに。今更、おべっかなんか使う必要はないだろ」

「か、閣下が、アンリさまのお手伝いをしろと」

「そう」


 アンリはひどく残酷な気持ちになった。このまま彼女たちを突き返せば、きっと酷い仕打ちを受けるのだろう。そうしたら、アンリの気持ちは、晴れるのだろうか。

 ゆっくり、アンリは息を吐き出した。


「……分かった。着替えを手伝って」


 その一言に、ぱっと彼女たちは顔をあげた。アンリは無表情に「はやく」と催促する。

 彼女たちは慌てて部屋中に散った。アンリの衣服を選び、顔を洗う湯を持ち、みすぼらしいアンリの頭髪をくしでとかす。

 なるほど、とアンリは鏡を見て思った。髪油でしっとり濡れて輝くアンリの髪は、ごくごく色素の薄い、プラチナブロンドだ。


 身支度を整えられて、アンリは食堂へと送り出された。そこにはすでにベレットが座っており、無表情に「来たか」と座るよう促す。

 大人しく椅子に座れば、すぐに食事が運ばれてきた。


「食欲がありません」


 アンリがぽつりと呟くと、「体調が悪いのか」とベレットの表情が動揺で揺れた。


「すまない。話を聞けば、お前は満足に食べられていなかったそうじゃないか……」


 それを、あなたが、言うのか。アンリはひたすらに、やわらかそうなパンを見つめた。


「あなたがおかしな陰謀をやめれば、僕の食欲も戻ります」

「アンリ」


 呆れと安堵の混じった、奇妙なあたたかさのある声がベレットの口から漏れた。


「それはできない。これは、私たち家族の悲願なのだ」

「お母さんは、それをどう思っていたいんですか。あの人なら、ぜったいに止めたはずです」


 アンリが食らいつくと、ベレットは首を横に振った。


「彼女は、王族のせいで深い心の傷を負った。話してはいないが、きっと賛同してくれているだろう」

「そんなこと、思うわけない!」


 吠えたてるように、アンリは叫んだ。あんなにやさしい人だ。たとえ自分を酷い目に遭わせた相手だとしても、死ぬほどの目に遭わせようなんて思うはずがない。ましてや、その親類というだけで、そんな凶行に及ぼうだなんて。


「閣下。今すぐ計画をやめてください」

「聞き分けのない子だ」


 ふう、とベレットがため息をつく。アンリの言葉が届いている様子は、まるでない。アンリの側にずっといた癖に、今更愛しているふりなんかしてくる癖に。胸の内に、どす黒い何かが渦巻いていく。


「食べなさい。アンリ」

「一食くらい抜いても平気です。暗殺者として育てられている間、それが当たり前でしたから」


 唇の端を吊り上げて言うと、「そうか」とベレットは頷いた。


「では、お前が食べないというのに、使用人たちが食べていい道理はないな」


 は? と、アンリの口から間抜けな声が漏れた。使用人たちの頭が、わずかに前へと沈む。


「待ってください。それこそ道理がない。僕が勝手に食べないだけで――」

「お前は、そういう目に遭ってきたのだろう。ならば、彼らも同じ目に遭わせなければ」


 狂ってる。アンリは目を瞑った。意を決して目を見開き、パンを掴む。

 行儀悪く、そのまま口へと放り込んだ。かじりつき、噛みちぎり、咀嚼する。スープも品のない仕草で器を傾けて、一滴も残さず飲み干してやる。


「これで、彼らが食事を抜かれる道理はないですよね」


 ベレットの目が、うっそりと細められた。アンリは、それを真っ向から睨み返す。


「お母さんによく似て、優しい子だ。立派に育ったな」


 アンリはそれ以上は聞かず、椅子を引いて立ち上がった。いつも音を殺して歩く癖があるはずなのに、今日はやたらと踵の音が耳に着く。


(こんなところ、はやく逃げ出さなくちゃ)


 アンリは自室へ戻り、部屋を漁った。武器の類は一切ない。その代わり、アンリに与えられていた魔導書と、欲しがっていた本が、たっぷり棚に納められていた。


「こんなもの、今あったって……!」


 くそ、くそ、と何度も悪態をつく。悔しい。どうにもならないもどかしさと、怒りと、恐怖が胸の中で混ざり合う。

 レオナードのことを思い出した。ベレットは間違いなく、彼を殺すつもりだ。


 逃げ出して、学園へ戻って、レオナードにこのことを伝えなければ。焦るアンリの背後に、足音が響いた。


「……なあ。お前、あの計画を止めたいんだろ」


 振り向くと、使者が立っていた。腕と脚が折れているようで、奇妙な立ち姿でそこにいる。酷い折檻を受けたのだろう顔は、ひどくやつれていた。


「そうだ」


 だけどアンリは、彼の傷に一切構わずそう答えた。使者は歪んだ笑みを浮かべて、アンリの側へと寄る。


「閣下の計画のあらましは俺も聞いている。……手を、組んでほしい」


 裏切りを囁く使者の言葉に、アンリは理由も聞かずに頷いた。使者は唇を噛み、くしゃりと顔を歪める。何度も頷いて、やっと口を開いた。


「作戦決行は、三か月後。場所は、学園の講堂。――学年最後のダンスパーティーを、ベレット侯爵が狙っている」

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