侯爵家にて

 ぐん、とアンリの身体に重力がかかる。一瞬の浮遊感の後に、石造りの冷たい空間へと身を投げ出していた。咄嗟に受け身を取って転がるアンリをよそに、使者は床を硬い靴底で叩く。


「よくもやってくれたな」


 アンリは冷たい石畳に手をつきつつ、彼を見上げてにやりと笑った。


「よくやった、の間違いだろ」


 彼は顔をしかめることもせず、アンリの胸倉を掴んで頬を張る。鋭い破裂音がしんとした空間に響き、アンリの左の頬がひりひりと熱を帯びた。

 アンリは甘んじて、それを受けた。使者は粛々とアンリの手を後ろへ拘束し、「立て」と淡々とした声で指示をする。


「閣下のもとへ連れていく。そこで沙汰を受けろ」


 アンリはうなだれつつ、乾いた笑みを口からこぼした。これで終わりだ、と、砂を噛むような実感が空っぽの胸を満たす。

 これからもベレットは王族の暗殺をたくらむだろうが、少なくとも、自分がそれに手を染めることはない。アンリの命はきっと、ここで終わるのだ。

 暗く冷たい廊下を進み、やがてアンリは広い空間へ出る。

 鉄さびと水の臭いが漂う、重苦しい空間。気の滅入るような重苦しさを吸い込んで、アンリは一歩進み出た。


 ベレットは、すでにそこへ立っていた。一部の隙もなく着こなされた紳士服は、しかしスラックスの裾がわずかに濡れていた。よく磨かれた革靴には泥がついている。

 アンリが違和感を覚える隙もなく、ベレットの視線がアンリを捉えた。


「アンリ」


 ベレットが、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。その手がアンリの頭へと伸びる。

 反射的に目を瞑ったアンリの頭に、あたたかい何かが乗った。


「無事でよかった。我が息子よ」


 はく、と喉元で空気が凍った。目を恐る恐る開けてみると、ベレットが、優しい顔でこちらを見降ろしている。後ろで手を縛っていた戒めは、側に控えていた騎士が解いた。


「……閣下?」


 蚊の鳴くような声でアンリが問いかけると、彼は「驚かせたかな」とやわらかな声色で言った。

 服の下で、全身の肌が粟立つ。気持ち悪い。何を考えているか分からない彼が恐ろしい。だけど、与えられるまま慈愛に、すがりつきたい。


「アンリ」


 そのまま、彼の手がアンリの左の頬へ滑り落ちる。赤く腫れたそこを優しく撫でた彼は、使者へと視線を滑らせた。


「お前がやったのか」


 使者は目の前の光景に、茫然と立ち尽くしていた。ベレットは側仕えの騎士に目配せをする。騎士が剣を抜き、使者へと歩み寄っていく。

 逃げようとする使者を、他の騎士たちが捕らえる。逃れようと暴れる彼へ、剣が振りかざされた。


「やめろ!」


 アンリは咄嗟に、騎士と使者の間に滑り込んだ。使者を抱きしめるようにかばい、騎士を見上げた。

 騎士はベレットを見やる。ベレットは首を横に振った。その顔には、苦笑が浮かんでいる。


「お前は優しいな」


 剣は鞘へと戻され、アンリの身体からどっと力が抜ける。無意識に緊張して食いしばっていた歯の隙間から、ふるえる吐息が漏れた。

 使者は身体を震わせながらアンリを睨む。その目に涙が光っているのを見て、アンリは彼を睨み返した。


「こちらへおいで」


 ベレットはアンリを呼び、アンリはたっぷり間を開けて立ち上がる。歩み寄ろうとしても、少し手前ですこんと足腰の力が抜けた。へたりこむアンリに、「もう大丈夫だ」と、ベレットは膝が汚れるのもいとわずしゃがむ。


「これまで酷なことをしてきた。不甲斐ない父を許してくれ」


 父親。アンリの記憶の奥底で、あたたかい何かが閃いた。誕生日を祝ってもらったこと、贈り物をもらったこと、優しく頭を撫でられたこと。母と父とアンリで、笑い合ったこと。


「おとうさん」


 震える声で、アンリはベレットを呼んだ。ベレットは優しく微笑み、アンリの手をとる。


「驚かせてしまったね。もう大丈夫だ」


 何が、大丈夫なんだろう。アンリは恐怖と怒りで震えた。それと同じくらい、目の前の男に抱き着いて、甘やかしてほしい自分がいる。

 吐き気がしそうだ。


「もう少しだ。もう少しで、私たちの夢がかなう」

「わたしたちのゆめ」


 茫然と言葉を反芻するだけのアンリの手を握って、ベレットは顔を寄せる。


「お母さんを酷い目に遭わせた奴らを、私たちの手でやっつけるんだ」


 幼い子どもに話しかけるような口ぶりで、ベレットは恐ろしいことを言う。ひ、ひ、と言葉がアンリの喉奥に貼り付いて、音にならない。


 つまりベレットが、アンリを王家への暗殺者として育ててきた、意味とは。


「私たちが、王家を倒して、この国を治めるんだ。お前はそのために、がんばってきたんだ」


 ひとつひとつ言い聞かせるように、ベレットは言う。アンリは茫然と彼を見上げて、首を横に振った。


「……どうして、急に、僕へ優しくなったんですか」

「お前ひとりに背負わせすぎたと、反省したんだよ」


 それだけ? アンリの胸に、ナイフの背を当てられたときのような冷たさが走る。ベレットはなおも続けた。


「お前の手で、王族を倒してほしかったが、難しかったな。よくがんばってくれた」


 何を言われても心に積もらない。ぽっかりと大きな穴が開いて、その闇の中へとベレットの言葉が放り投げられていく。


「第二の手段がある。お前の考案した術式をもとにした、より大掛かりなものだ」


 アンリの目の焦点が、一気にベレットへと収束した。彼は愛おしいものを見る瞳でアンリを見つめ、「お前は賢い子だ」と囁く。


「お前が作った、物質をエーテル変換する魔術だったか。私にはよく分からないが、あれを発展させると、爆発も起こせるらしいな」


 アンリは目を見開き、「それは」と呟いた。


「周りの元素をエーテルへと変換し、それを別元素へと再変換する。たとえば、風元素と火元素にすれば、大爆発が起こる」

「そうなのか? やはり賢いな」


 目線だけで、アンリは周りを見渡した。誰も、かれも、じっと二人を見つめている。


「いずれにせよ、それはお前の手柄になるだろう。あとは、お父さんがなんとかする」


 生まれてはじめて、眩暈がするほどの怒りを覚えた。アンリは立ち上がろうとするも、脚に力が入らない。


「ふざけるな」


 息も絶え絶えに吐いた言葉と同じくして、目の前が真っ暗になる。アンリが最後に感じたのは、自分を抱きとめるあたたかな感触だった。

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