アンリとレオナードの秘密の授業

 レオナードの口車に乗せられた翌日。アンリは旧図書室に魔法陣の図面を持ち込み、床へと広げた。レオナードはそれを、アンリの肩越しに覗き込む。


 それは机に収まらないほど大きく、何枚もの紙を継ぎはぎにして書かれていた。黒いインクで円陣が何重にも重なって描かれており、呪文が円の中心から木の枝のように伸びている。


 さらに文字列を中心に細かな円や幾何学模様が描かれており、なかなかの迫力を放っていた。


「何の図面だ?」

「先日お見せした、ハンカチを元に戻す魔術の応用編です」

「ふむ」


 アンリは寝不足の目でレオナードを見上げた。魔法陣に指を置き、その淵を何度も指でなぞる。へにゃりと笑って、こてんと首を傾げた。


「殿下が協力してくださるならと思って、一通りの理論を考えてきました」


 レオナードは、知ったような顔で魔方陣を見て頷いた。アンリはそれを一瞥し、魔法陣へと向き直る。


「あの魔術では焦げたハンカチを元の状態に戻しました。いわばリセットですね」


 アンリは早口で、興奮気味に話す。円の端から端をぐるりと指さした。


「今回はリセットではなく、ストップです。元の状態を記録しておかないと作動しないあれと違って、励起している元素自体をエーテルへと変換する試みです」

「ふむ……」


 あまり芳しくないレオナードの反応をよそに、アンリはうきうきと立ち上がった。ぐるぐると紙の周りを歩く。


「魔法陣は、外側から順に作動していきます。一番外の円で四大元素を感知し、次の階層で分析・分解を行います。そして中心へ向かうにつれてエーテルへの変換が進み、最終的に基底状態になります」


 すらすら話すアンリに、そういえば、とレオナードはわざわざ肩越しに魔法陣を覗き込む。


「俺たちは基本的に、特定の元素しか扱えないはずだろう。なんで魔法陣を使うと、他の元素も扱えるんだ?」

「いい質問ですね」


 途端に、アンリが喜色満面で振り向いた。レオナードが一歩引くと、アンリはつかつかと自分の鞄のもとへ歩み寄る。鞄の中を漁って、ノートを取り出した。そのまま机にかじりつき、ペンを握る。


「僕たち人間が魔術を詠唱で使用するとき、魔法陣などの文字・記号を介して使用するときでは、全然メカニズムが違うからです」


 アンリはへたくそな棒人間を描き、その周りを同心円で囲んだ。


「生物は、すべて四大元素への干渉能力があります。口頭言語による魔術行使は、直接身体を介して魔力を使うので、肉体そのものの持つ魔力同調性が鍵なんです」


 レオナードはアンリの説明を半分聞き流しながら、彼の手元を見つめた。そっと背後から覆いかぶさるように手を突いてみても、説明に夢中の彼は気づかない。アンリは机にかじりつきながら、滔々と続けた。


「基本的に、人間は特定の元素への協調性が高いことが多いのです。なので、身体を介して魔力操作を行う場合、その元素のみ扱えるのです。ではなぜ魔法陣や魔道具はどの元素も扱えるのかというと、肉体を使わないからです。人間はあくまで起動スイッチや動力源であって、魔力を扱う主体ではありませんから」


「もっと簡単に言ってくれ。難しすぎる」


 レオナードが耳元で囁くと、ひゃっとアンリが声を上げた。そのまま机に突っ伏した彼に、レオナードが覆いかぶさる。


「俺は魔術が苦手だから、もっと簡単に言ってくれ。アンリ先生」


 なにか、本当に、よくない気がする。アンリの薄い胸の中で心臓が大暴れして、耳の奥にまで響くほど鼓動が大きい。このままでは、彼に聞こえてしまう。


「は、はなれてください」

「これ、いやなのか?」


 そう言って、彼は左手をアンリの下腹部に手を回し、引き寄せた。右手は右耳に伸びて、ピアスのついた耳朶をいじる。

 彼の身体にアンリが密着し、十六歳にしては逞しい身体とか大きな手とか、レオナードの男の要素が気になって仕方ない。


「いやか?」


 あ、う、と言葉に詰まったアンリに、レオナードが低く笑った。


「いやじゃないんだな?」

「あ、はい……」


 あっさり認めるアンリに、レオナードは肩口に顎を置いて、深く息を吐いた。アンリはとにかく、きょどきょどと目を泳がせる。手の置き場所がなくて、そっと机の上で指を組んで、祈るように掲げた。


「あの、これってなにかまずい体勢な気が」

「何がどうまずいんだ?」

「えーっと」


 上手く言語化できないアンリに、レオナードが頬ずりをする。耳元でしゃらりとピアスが鳴って、胸の奥がうずうずした。


「まずいことは、何もないだろう」

「でも、誰かに見られたら……まずいんじゃ……」

「こんなところ、誰も来ないだろうが」


 お互いが身じろぎをするたびに、身体のあちこちが擦れる。アンリの身体はだんだん火照っていき、「耳が赤いぞ」とレオナードはからかった。その吐息すらくすぐったくて、アンリは身をよじる。


「だめ……」

「何が?」


 うう、と首を横に振るアンリに、レオナードの腕の力が弱まった。ゆっくりと、指がへその辺りから離れていく。


「ん、う」


 それが少し寂しくて、アンリは腿をすり寄せた。レオナードの手は下腹部から太腿へと滑り、「どうかしたのか?」と優しく、心をくすぐるように囁く。アンリはとうとう立っていられなくなって、机にしがみついてひんひん悲鳴をあげた。


「いじわるです」

「そうだぞ。お前にだけいじわるだ」


 からかうようなレオナードの声に、きゅうとつま先が丸まった。心臓がうるさくて、身体が熱くてたまらない。じっと蹲るアンリは、ずりずりと身体を動かしてレオナードの方を向く。恐る恐る見上げると、レオナードの顔も真っ赤だった。


「あれ」


 惚けたように言うアンリに、彼は「見るなよ」と慌てて顔を手で隠す。それがどうにも、アンリの胸のやわらかいところをくすぐった。


「隠さないでくださいよ」


 今度は、アンリが彼に顔を近づける番だった。アンリがにじり寄るにつれ、レオナードはじりじりと後退する。


「ねえ、レオナード殿下」


 悪ふざけで興奮するアンリたちの身体が、壁際へと近づく。レオナードは壁を背後にしゃがみ込み、「勘弁してくれ」と泣き言を言った。


「あなたが始めたんでしょう」


 アンリが笑いを含んだ声で言うと、彼はぽうっと口を開けて、アンリを見つめた。


「かわいい……」


 一瞬のことで、アンリはその単語の意味が分からなかった。レオナードが育った国の言葉かと思っていた。

 二人がしばらく見つめ合っていると、夕食の時間を知らせる鐘が鳴る。その重低音を耳にしながら、二人はまだお互いから目を逸らせなかった。


「……ご飯の時間ですね」

「そうだな。食堂へ行かないと」

「はい」


 先にアンリが立ち上がろうと、身体を起こす。膝を立てた瞬間、レオナードが彼の腕を強く引いた。そのままアンリは体勢を崩し、レオナードの胸の中に飛び込む。


「殿下?」


 驚いた声を上げるアンリをよそに、レオナードの腕は力強く彼を引き寄せた。そのまま彼はアンリの首筋に顔を埋め、息を吸う。アンリはじたばたともがいて抵抗を試みるが、まるで効いていない。


「そ、そんなところ、吸わないで」


 熱い吐息が首筋にかかって、困る。アンリは途方に暮れて、無言のレオナードの腕の中で天井を見上げた。

 レオナードはしばらくそうした後、ゆっくりとアンリを手放す。二人の間に籠っていた熱が放たれ、身体が常温にまで冷えた。


「行くぞ」


 何事もないかのように立ち上がる彼に、アンリも慌てて続く。これが普通の知り合い同士や友人同士で行うこととは、とても思えなかった。

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