逃げた先にあったのは王子

 広い校舎を走り、木々の生い茂る中庭を走って一目から逃れる。やっと追っ手を撒いて、怒声が聞こえなくなったところで立ち止まった。


 少し息切れしながら、ゆっくり辺りを見渡す。アンリの目の前には、森の中にたたずむ古い建築物があった。


 大きく背の高い建物の割に、採光のための窓は小さく、閉塞した印象を受ける。どっしりとした石壁は黒ずんでおり、少しみすぼらしく見えた。


 扉には「図書室」と銘が打たれており、「旧」という但し書きの紙が貼られている。木の扉は建付けが悪く、全体重をかけて引っ張らないと動いてくれない。


 やっと扉を開くと、そこは濃密な古い紙のにおいに満ちていた。中は埃っぽいものの、建物や設備の劣化はそれほど進んでいないようだ。壁一面が本棚になっており、さらに本が収納された棚がいくつも立ち並んでいた。


「わぁ……」


 アンリは思わず、感嘆の声を上げた。旧図書室ということもあり、蔵書数はそれほど多くないようだ。それでも古い本独特の、どこか甘いその空気に、胸が高鳴った。アンリは目を輝かせ、中に入ろうと身を捻じ込もうとする。と、「ここにいた」と、背後から声がかかった。振り返れば、アンリを追いかけてきたらしいレオナードが、そこにいた。


「で、殿下」


 彼は息ひとつ乱さずアンリに歩み寄り、「さっきはすまなかった」と、またアンリを真っすぐに見つめた。その視線に、無意識に身体が奥へと逃げる。手を離したところで扉は再び閉まり、ばたんと大きな音が立った。


「あなたが謝ることなんて……!」


 慌てて彼に跪き、目を伏せた。王族への最低限の礼儀をやっと思い出したのと同時に、自分がしでかしたことの重大さにも思い至る。


 最悪、殺されるかもしれない。この王子や侯爵にではなく、この国の法とかに。


「いいんだ、別に」


 立って、とレオナードが促した。アンリはのろのろと立ち上がり、彼を見上げる。アンリより二つ年下にも関わらず、レオナードの方が体格がいい。


 いいなぁ、と目を細める。そのしなやかな肉付きの身体に、一瞬羨望の視線を向けた。


「この学園で、身分なんて野暮なものを持ち出すつもりはないよ」


 彼は輝かしい笑顔をアンリに向ける。う、と思わず目を細めた。どうやらレオナードは、本当にかなりの人格者らしい。


「こんな場所もあるんだね。ほら、俺は新入生だから、知らなくて」


「僕もよく知りません……今日からここに編入してきて……」


 なんとか会話を繋げたくて、言葉をひねり出す。レオナードは目を瞬かせて「そうなんだ」と頷いた。


「じゃあ、新人同士だね」


 人懐っこい声色に、アンリは目を細めた。もしかしたら、彼の中に「先輩」という概念はないのかもしれない。


「そう、ですね?」


 どうすればいいのか分からない。思わず疑問形で帰すアンリに、彼は快活にまた笑った。


「うん。いい友達になれそうって思うよ」


 率直に人へ、ためらいも照れもなく友好の意を表明する人に、アンリは生まれてはじめて出会った。


 うまく受けごたえできずに口ごもると、「ごめんね」と彼はなぜか顔を曇らせる。


「こっちに来てからよく言われるんだ。人との距離が近すぎる、って。戸惑わせてしまったかな」


 どう考えてもアンリの方が悪いのに、レオナードの方が謝り倒しだ。アンリは「謝らないでください」と首を横に振るが、これも正解の返答ではないだろうことは分かっている。


「うん、分かった」


 レオナードは素直に頷き、閉じてしまった扉に手をかける。そしてあっさり開き、「中に入ろうよ」とアンリを促した。断りたいが、上手い言い回しが思いつかない。ぐるぐる考えている間に、レオナードに図書室内へ連れ込まれていた。


 あれよあれよと隣り合ってボロボロのソファに座り、「君の名前は?」と名前を尋ねられている。


 答えないわけにはいかないので、アンリはしばらく口ごもった後、ぺこりと頭を下げた。


「アンリ、です」


 レオナードは小さく頷いて、「アンリ」と音を口の中で転がした。


「覚えたよ」


 彼の真っすぐな視線に、アンリはすっかりたじろいでしまった。彼と仲良くなっておけば、後々便利だろうとは思っている。


 そう思うきちんと程度に、アンリは汚い人間で、打算的で、性格も悪い。


「そうですか」


 だからアンリは、そっぽを向くことを決めた。レオナードは眩しすぎて、アンリには関わり方がよく分からない。だから、あまり関わりたくない。どうせ侯爵の命令通りに殺すつもりも、その実力も、アンリにはないのだ。


「アンリは、どこの出身なんだ?」


「田舎です」


「へぇ。得意科目は何かある?」


「魔術が……」


 ぽそりと呟くと、「へぇ」と彼は目を丸くする。


「すごいな。俺は全科目の中で、魔術が一番苦手なんだ。もしよければ、教えてほしいくらい」


 あれ、とアンリは首を傾げた。


「殿下は、火元素と風元素を操れると伺っておりますが」


「操れるだけで、得意とは一言も言っていない」


 苦笑する彼に、へぇ、と間の抜けた相槌を打った。アンリはそわそわと身体を揺らし、「火と風が扱えれば、いろいろなことができますよ」とぼそぼそ呟いた。


「風は火を煽り、力を強くします」


「よく言われるんだけどなぁ」


 顔をしかめる彼が、当たり前な十六歳に見えた。アンリは小さく笑って、「逆もそうなんですよ」と手を上に伸ばした。


「ちょっと遠回りした説明をしますね。高次元の物質であるエーテルは、低次元にいる我々の前に、白い光、純粋な魔力として現れます」


 唐突に語り出したアンリに、レオナードは目を白黒させる。興奮に少し頬を火照らせながら、アンリは続けた。


「エーテルは高次元の存在なんです。そこからさらに、下の次元にある四大元素へと分岐していきます」


 目を輝かせて語るアンリを、レオナードはじっと見つめている。


「……それで?」


「四大元素は高次元物質であるエーテルを介して、お互いに関連しているんです」


 楽しい。アンリは頬を紅潮させ、必死に舌を動かした。


「だから一つの元素からエーテルを介し、他の元素を操作することも理論上はできるんです。元素イチを使い、エーテルに変換してから元素ニに再変換して、間接的に操作する」


 アンリはべらべらとまくしたてながら、レオナードの瞳を見つめた。紫の瞳は透明な視線で、アンリを見据えている。


「あなたは火と風を扱うのが得意だから、なおさらそれが簡単だ。それから風の持つ性質で直接火を強めることが容易にできるし、逆もそうです」


 少し前のめりになって語るアンリの話を咀嚼しようと、レオナードは懸命に頷いていた。彼なりに咀嚼しようとしているのか、レオナードは口元に手をやる。


 アンリはそれに構わず、両手をぱたぱたと動かした。


「殿下は火元素と風元素を直接扱える。それだとみんな、風を使った火の強化に目が行きがちなんだと思います。派手だし、光るし」


 だけど他にもいろいろできる、とアンリは拙く続けた。


「風を火で強化して、瞬間的に加速する。空を肉体のみで飛行できるはずです。その分、繊細な操作をしないと事故って大怪我するけど」


「事故って大怪我」


 オウム返しにするレオナードに、アンリは「でも、他にもあります」と笑いかけた。楽しい、楽しい、楽しい! 生まれてはじめて、同年代と、好きなことを話してる!

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