第8話 小さな英雄

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 エーデルシックザール軍事学校では、競い合うというのが日常だ。家門や貴族の出身者が多く通い、白黒をつけることで家の格や品位を示す。ここはそういう場所だ。

 毎月末には、各科目のテストが行われる。通称月末試験。

 勿論順位は公開される。成績への影響は期末程大きくないとはいえ重要な要素だ。

 入学して間もない一年次も例外ではない。試験範囲は狭いが、初めて互いの実力を測る機会となり、十全な備えが必要となる。

 しかし問題点がある。

 新制度で入学規制が緩和され、貴族の生まれではない一般領民も学力と金があれば入学が許可されるようになった。だが、そもそも高等学校までの教育レベルは貴族らと一般人らでは異なり、それ故に入学時の能力は優劣がハッキリとしている。入学して一月ばかりの成長はたかがしれている。圧倒的な差は埋まるものではなかった。



「おはようございます…………」

 リクトはゲッソリとした様子だった。隣のアリスも同様だ。

「おはよう。今日は二人とも元気少ないね。」

「ユウト君………今日は成績発表ですよ。…………はぁ、想像しただけで胃が………」

 成績は将来の進路に関わってくる。特に一般領民出身者は、将来を見据えて入学する者が大半だ。彼らにとってこれはビックイベントなのだ。

 どうやら、朝の時間に成績が一斉に端末に送信されるようだ。端末から自分の成績のみならずクラスの成績がわかる。

 一限の講義の前に、全員が教室に揃っていた。

 送られてくると予告された時間まで、異様な静けさが教室を覆っていた。

 時刻が訪れた瞬間、クラス内の端末からピピッ、と連続した電子音が響き渡った。

 食いつくようにみんなが端末を除く。

「…………はぁ〜〜〜。」

 バタンと机に端末を置いて、長い長い溜息をこぼしたリクト。どう見ても良くない成績だろう。

 (六位…………)

 ユウトの成績だ。

 母集団が二十人とすると良い方ではあるが、元家門の人間としては悪い成績の部類だ。

「ユウト君は何位でしたか?」

「端末で見れるよ。」

「あ、そっか。」

 リクトは間の抜けた質問と返事を零した。ユウトも他のクラスメイトの成績を確認してみる。

 (一位は…………フシミ・シンジロウ。流石に凄いな。二位は、ナギト・メーク。三位は、アバン・イグーシオ。………やっぱり上位は家門もしくは貴族出の学生しかいない。)

 その後も端末の画面をスクロールしていく。

 アリスは十位、リクトは十五位だった。試験前、リクトは不安しかない顔だったが、アリスはそこそこ自信があった様子だった。入念に備えてきたのだろうが、それで真ん中の順位というのは、アリスにとっては少し落ち込むところだった。

 (彼は…………)

 とある人物の名前を探していたところ、

「おやおやおや? カイヅカ家であらせるユウト様が六位!? 何かの手違いかな?」

 どこからともなく、シンジロウが現れて見下すように皮肉を口にした。

「もしかしたら試験中お腹を下したのですか? それとも突然利き腕の激痛に苛まれて――」

「いいや、僕の実力だよ。」

「………………ぷっ」

 シンジロウのわざとらしい演技を遮って本音を口にしたが、惚けた彼は高らかに笑い始めた。

 面白い、楽しい。そういった感情ではなく、他者の侮蔑を精一杯込めた笑いだった。

「そんな事だから家が無くなったんだ。プライドも力も何も持たないから。惨めだなぁ~。」

 隣にいるリクトが敵意を剥き出しにしたが、決して何も言おうとしなかった。

 それは領民として、一人の人間として正しい選択だとユウトは思った。

 実際、ユウトの心には一切響いていないし届いていない。こんな事で問題を起こすのは間違っている。

 (……………?)

 シンジロウはその後もユウトを罵倒し続けた。みんながいる前で。

 しかしユウトは、そんな事よりも気になることがあった。

 (ハック君がいない………)

 さっきまで座っていたはずだったが、いつの間にかどこかへ消えていた。

「それにしても、あの野蛮人はまさかの最下位! おいおいやっぱり学もないのか!?」

 シンジロウはハックの事もみんなの前でバカにした。そう、今回の試験のクラス最下位はサイアド・ハックだった。

 これには、クラス内からクスクスと笑う声が聞こえた。貴族の女子学生らだろう。

「…………」

「はは。そんなに睨むなよ。お友達がバカにされて怒ったか? もしかしてお前の奴隷だったりして!」

 その時、ピロン、とユウト自身が持っている端末に通知が入った。

 シンジロウから目を逸らして確認すると、ハックからメーセージが送信されていた。

 (ハック君………)

 彼から連絡をくれたのは初めてのことだった。入学式の日に連絡先を交換したはいいが、ユウトも普段は端末でメッセージのやり取りを行わない性格だったため、お互い送受信はなかった。

 本来は嬉しいはずだが、現在ユウトはハックから避けられている。つまり、このタイミングのメッセージに心当たりはない。

 胸騒ぎを抑えながら、メッセージを開く。

 中身は、果てしない長文だった。

 

『突然の連絡申し訳ございません。

 少しだけ私の話にお付き合いください。


 私は、生まれながらに肌の色が皆とは違う色付きでしたが、家族や町のみんなは温かく人情味のあるいい人達だらけでした。色付きのみで構成されている私の町は、私たちにとっては居心地の良いところでした。私がまだ社会を知らなかった頃は、この楽しい時間が外の世界では絶対に有り得ないことなど想像もしませんでした。しかし、私や町の子供達が一時でも社会の現実を知らずに過ごすことが出来たのは、その分の重荷を大人達が背負っていたからです。


 私の父は、私が幼い内に死にました。事故で死んだと母は言っていますが、今は本当ではないと思っています。父の死後、母は私を含めた三人の子供を育てるために、無理をして働いていました。苦労を隠すように笑った姿を見て、私は自分が何かをしなくてはと思うようになりました。幸運なことに、私は勉学については他の人よりも秀でていて、町のみんながお金を出しあって私をこの学校に入れてくれました。みんな、私を応援してくれました。愉悦に浸っていたことはありません。浮かれていたこともありません。ですが私は、この学校に通えば、きっと何かを変えられると信じていました。すぐに変わるとは思っていません。むしろ、私のような人間が来ていい場所じゃないと誰もに拒絶されても仕方のないことです。しかし、私のような人間がエリート校に通うことで、何か違う未来があるのだと…………思えば、これを心の支えにして、日々の苦しみを耐えてきたのかもしれません。


 町を離れ貴族や家門の人達が多く通う学校に一人、もう一ヶ月になります。この短い期間で私が気付いたことは、私が何をしようとも、彼らと彼らが創るこの世界は何一つ変わらないことです。決して変わらないのだと、思い知らされました。今までも侮蔑の目を向けられてきましたが、比べ物にならない程の悪意。私が気に食わないとか目障りだとかそういうことではなくて、私の存在自体を否定してくるのです。罵り嬲り殴り蹴り心を抉る。私の知る世界の外は、こんなにも私達を否定する。そして私は、私が思う程強くはなかった。心残りは沢山あります。母や弟妹のことを考えると葛藤で押し潰されます。町のみんなは借金をしてでも私を学校に入れてくれて、恩を仇で返すような行いは最低最悪です。それでも私は…………私は、どうしようもなく、自分の背中を押したくてたまらないのです。この苦しみから、この悲しみから抜けられる喜びが目の前にあって、自分の立場も役割も責任も全てを殴り捨てて自由になれるその一歩を、私は進みたいのです。いきなりこのような話をされてご迷惑だったと思います。惨めな私をお許し下さい。』

 そして最後に一文。

 脈絡もなく始まった突然の独白は、こう書かれて締めくくられた。



『私の事は、どうか忘れて下さい。』



 ユウトはすぐさまハックのアドレスに電話をかけた。

 (繋がれ! 繋がってくれ!)

 一秒が果てしなく長く感じる。

 今すぐ動くべきか。だが場所が分からない。なら通話を繋げて冷静に話し合った方が。もし繋がらなかったら? なら今すぐ………

 思考が巡る。

 その時、通話が繋がった。

「ハック君! 今どこに!?」

 突然大きな声を出して立ち上がったため、陰湿な言葉を投げ続けていたシンジロウは驚いて固まってしまった。

 教室にはハックを除いた全員がいる。試験結果に満足している人や数人で結果について話し合っている人。その全員が静かになり、代わりに何事かとユウトを見た。

 隣にいたリクトとアリスは心配していた。ここまで激しく動揺したユウトを見た事がなかったからだ。

 少し離れて座っていたナギトも耳を済ませる。

 端末越しにまず聞こえてきたのは、ハックの声ではなく、強風がハックの端末のマイクを擦る音だった。

 嫌な創造が現実になろうとしている。

「そこにいるのなら返事をしてくれ!」

「………………………………この学校はデザインに凝った造りをしてますから、無理をすれば屋根に登ることが出来ました。」

「(一体…………なにを、…………)」

「せめてもの抵抗で、あの人達に見せつけてやろうと思います。…………私は、本当にどうしようもなく、希望を抱くのが好きなようです。」

「一体何を!?」

「ユウト様の眼差しは、他の人とは違いました。ユウト様に出会え事が、ここに来て唯一の救いでした。」

 ユウトの言葉を聞かず、自分の言いたいことを一方的に言っている。今生の別れの準備のようだった。



「さようなら。」



 ユウトの中で、何かが弾けた。

 ハックとは最近出会ったばかりで、深い繋がりも交流もない。

 自分の目的と同じように、物事はゆったりと揺蕩うものだと思っていた。一人の力は全体と比べると果てしなく芥子粒で、枠組みから変えようとしたら長い時間が必要だ。この瞬間ハックを救えなくても、自分が目的を果たしていけば、いずれ助けられる。これは楽観でも軽視でもなく、より現実に根付いた思考だと思っていた。

 しかしそれは、この学校に通い始めると、日に日に揺らいでいった。

 今、この瞬間、助けを求めている誰かがいる。

 大義の為に少数を切り捨てるのか?

 将来を見据えてその場に留まるのか?

 これは楽観でも軽視でも現実的な視点でもない。



 ただ現実から目を逸らしているだけだ。



 弾けたのは、きっと、心の奥底にあった葛藤だ。

 悩む日々に、彼は、彼らは、答えを示してくれた。

 ようやく、進むべき道が分かった。

 だから。




 君を死なせはしない!!!




 不思議なことが起こった。

 ユウトが立ち上がる時に掴んだ、いつも携帯している紫の竹刀袋。

 通話が切れた瞬間に、ミシミシミシと何かが軋む音が聞こえると、包みが光を放ちながら破れ崩れていった。まるで内部から爆発したみたいに。

 紫の布切れが宙を舞い、中から現れたのは『杖』だった。


 そして、ユウトの姿が消えた。

 一瞬の内に。


 驚く暇もなく、バリンッ!! と窓ガラスが割れる破裂音が響く。数秒遅れて、立っていられない程の強風が教室内を襲う。

 


 ユウトは目にも留まらぬ速さで駆け抜け、窓ガラスを薄い板のように砕いて外に飛び出た。

 ユウト達のいた教室は十階に位置する。充分に高い位置だ。

 だが、ユウトは落ちない。

 外へ飛び出た勢いを殺すと、重力に従わずに空中に留まった。



               *

 


 ここに立っていると全ての物が小さくて、自分の悩みもこれと同じように小さければと思ってしまった。

 それでもハックは、一歩を踏み出した。

 人として、生物として犯してはいけない一歩を、踏み出した。

 最も許されざるその行いのみが、彼に許された唯一の自由だった。


 目を瞑る。

 重力に身を任せ、全身で風を受ける。

 死ぬ間際に走馬灯を見ると言うが、そんなものを感じる間もなく、意識は遠のいていく。

 覚悟と、後悔と、満足感と、恐怖感がごちゃごちゃに混ざりあって。


 (これが………死………………)





 …………

 痛みも、安らぎも、いつまで経っても訪れない。

 そもそも、何故自我何てものがまだ存在している?



 そこで初めて、自分が浮いていることを感じた。



「『ヒトの人生は祝福に満ちている。もしそれを受け取っていないなら、君の人生は始まってすらいない。』」



 それは、ユウトの声だった。

 目を開ける。

 果てしない青空と、どこか悲しげに笑うユウトの顔。

 理解が追いつかないハックに、ユウトは言った。

「僕が間違っていた。」

 何に対して何を間違えていたのか。

 ハックに向けた発言のようで、どこか自分に向けた宣言のようでもあった。


 ユウトは宙に浮き、うえから降ってきたハックの斜線上に滑り込んだ。ハックは重力に引き寄せられて加速度的に落ちていたが、ユウトに近づくごとに失速していき、最終的にはユウトの両腕に抱きかかえられた。

「僕が世界を変える。」

 自分のことを少しでも慰めようとしてくれる気持ち、決心を定めた真っ直ぐな意志、そしてどこか儚げでか弱く脆い微笑み。

 ハックがこの光景を忘れることは、一生ないだろう。



「僕が世界を変えてみせる。たとえ、この世界を滅ぼそうとも。」

 


                *



「一体何が起きたんだ!?」

 ユウトがいなくなった教室は、ハリケーンでも通ったのかと思われるくらい物が散乱していた。床に繋がれた大きな机すら、一部引き剥がされて遠くに飛び散った。幸い怪我人はいないようだが、誰もが呆然と状況を見つめるしかなかった。

 しかし、そんな彼らは更に理解の範疇を超えた光景を目にする。

 教室にぽっかりと空いた大穴から、ユウトが戻ってきたのだ。それも、一回りも大きいハックを両腕に抱きかかえて。

 重力を感じない挙動と杖を携え外から舞い降りる様は、神々しさすら感じる。

 ユウトは軽やかに着地すると、窓から少し離れた所まで歩き、ハックを床に下ろした。

 ハックは腰が抜けているのか、立ち上がろうとしても力が上手く入っていない様だ。

 教室内の誰もがただそれを眺める中、真っ先に駆けつけたのはリクトだった。

「ユウト君!」

 リクトはユウトに駆け寄り、無事を確認していた。

 無論リクトは今の状況を全く理解していない。だが、咄嗟に体が動いたのだ。

 続いてアリスも駆け寄った。その様子を見て、ナギトは自分と彼らの違いについてようやく理解した。

 (僕には、真っ直ぐな心が足りなかったのか。)

 人間社会の頂点に君臨する七家門の一つ、メーク家として生まれ、次期当主として各方面へ対処しなければならないナギトは、否が応でも他人を疑うことを求められた。そしてそういった世界に浸かりすぎていた。動くよりも先に、思考が働いてしまうのだ。

 入学式の日、ハックが上級生に虐められている時もそうだ。場面に遭遇し、まず状況を考え、自分やにとって何が最良なのかを考えていた。そしてそれは、自分の願望に沿ったものではなく、家門の人間としての相応しさを基準にした物差しだった。

 彼らとの触れ合いで気付かされたのはユウトだけじゃない。ナギトもまた、漸く答えに近づけた。

 そうして、ナギトも彼の元に駆け寄る。

「ユウト君、大丈夫ですか!?」

「うん、大丈夫だよ。ありがとう、リクト君。」

 リクトは、ユウトが引き起こしたであろう現象の数々を疑うことよりも先に、ユウトを心配した。その気持ちに対して、ユウトはありがとうと言ったのだ。

 (……………)

 ユウトは、こんな状況でも、関係なく自分の元に来てくれた三人の顔を見る。

 彼らが答えをくれた。

 だから今度は、自分がその証左を示す時だ。

「僕は世界を変えたかった。今のように支配と差別が蔓延るこの世界を。完全な平等とは言わずとも、誰もが笑っていられるような、誰もが前を向いて歩けるような世界にしたいと思っていた。今やっと、どうすればいいのか分かった。」

 ユウトはハックの肩に優しく触れ、もう一度三人の顔を眺めて、こう宣言した。

「初めから彼らを変えようとしていたのがそもそもの間違いだったんだ。彼らが変わらないなら、僕達だけの新しい世界を創る。そうすることでしか今の世界に変化を与えられないなら、僕はこの道を後悔はしない。」

 誰もこの意味を理解出来ていない。それでもいいと思った。いずれ分かる時が訪れるのだから。

「さあハック君。行こう。」

「………え?」

「君の家に連れて行ってくれ。」

 ハックは従うしかなかった。ユウトの優しい手に引かれて教室を後にした。

「ユウト君!」

 慌てて追いかけてきたリクトが、二人の背中に声を掛ける。

「………後でしっかりと説明するから。」

 そう言って笑うユウトは、いつものユウトだった。

「………ナギト君、後は頼む。」

 ナギトは静かに頷いた。



 二人が見えなくなると、警備の人と教師数人が駆けつけた。

「何事ですか!?」

 教室内を覗くと、唖然としてしまった。

 それも仕方ない。

 壁に大きな穴が空いていて、教室内がぐちゃぐちゃに混ぜられたみたいな惨状になっているのだから。

「申し訳ございません。窓ガラスが突然割れてしまったようです。強い吹き込み風で室内も荒れてしまいましたが、怪我をした者はいません。」

 ナギトが冷静に信憑性の欠片もない状況説明をしたせいで、余計に混乱した様子だった。

 自然に窓ガラスが割れたと仮定しても、この大穴と室内の荒れようはどう説明できる。

「ここの設計や施行には、我々メーク家が関わっているはずです。家を代表してお詫び申し上げます。」

「ナギト・メーク様! これはきっと何かの間違えではないでしょうか。メーク家のミスなどとは誰も――」

「私が後程手配するようにします。それで宜しいですか?」

 警備や教師の人達は、家門の跡取りであるナギトがメーク家のミスと言った事態に慌てた。客観的に見れば家門に責任を押し付けたようにも見て取れてしまう。メーク家が温厚な家門であれ、問題を引き起こすのは宜しくないため、彼らはナギトの言うことに従った。

 


 その日の出来事を、鮮明に明確に説明できる人はいなかった。だから、この一件は何かしらの不備という曖昧な形で処理されることとなった。



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 教室を出たユウトとハックは、学校を無断で早退し、駅へと向かった。

 長い電車の旅路の最中、二人に交わされた会話はない。

 ハックは薄々気付いている。ユウトはハックをわざわざ見送るために同行しているのではない。自分が今回の出来事を家族に話すことを促しているのだ。

 また、その行動原理を理解している。一度死のうとした自分が、今後生きていくにはこの件をしっかりと片付けないといけない。そしてそれは、誰にも相談しなかったことに起因する。

 (……………電車で誰かの隣に座ったの、初めてだ……………)

 ユウトはこんな自分にも寄り添ってくれる。今の沈黙も、ユウトの表情からは怒っている様子はない。ハックが話すのを優しく待っている。

 この日初めて、電車でずっと座っていた。



 町の入口に着いた。

 ハックの後ろに、ピッタリとユウトがついて来ている。

「……………」

 ハックは何か言おうとしたが、止めて町へ入った。

 ユウトも続く。

 まだ太陽が真上にある時間だ。町の人達がハックに気付くのにそう時間はかからなかった。

 加えて、ハックの帰宅がいち早く広まった原因の一つが、見知らぬ青年がハックの後ろについているからだ。それも、黒人ではない人が。

 ハックの元気のなさも相まって、町の人達がハックに集まり始めた。と言っても、話しかけようとはせず、一緒について来て遠目に様子を見ている感じだ。

 ハックの自宅に着く頃には、道路は町の人で埋め尽くされていた。

 彼はこの町の英雄。その影響力は、ユウトの想像を超えていた。

 既に母親が玄関先で不安げに待っていた。

「サイアド…………どうしたの?」

 集まった人達も、この雰囲気に全員が静まり返った。

 ハックの言葉を待っている。

 それを重荷に感じ口が固くなったハックの背中に、ユウトが優しく触れる。

「…………僕は……………………僕は今日………………………学校の屋上から………その、………飛び降りたんだ………………」

「…………な、なにを…………言っているの…………………?」

何て言ったらいいのだろうか。何て表現すればいいのだろうか。考えがまとまらないうちに話し始めたハックは、唐突かつ簡潔にありのままの事実を口にした。

 ハックの母は、困惑しながらも聞き返した。聞き間違いだと信じるように。

 それに対してハックが俯いたことで、母は確信に至った。

 駆け寄ってハックの服を強く握り、問い詰めるようにこう言った。

「どうして………どうしてそんな事をしたの?」

 震えた声だった。

 当たり前だ。自分の息子が自殺しようとしたなんて聞いて、冷静でいられる母親がどこにいよう。

「ごめん、なさい…………ごめんなさい。」

 ハックは泣いて謝った。謝り続けた。

 そして、話す決心を固めた。

「僕……僕は、本当は、毎日………毎日辛くて、痛くて、苦しくて…………町ゆく人は僕を避けて遠くから石を投げる。学校ではずっと陰口を言われて、…………いじめも沢山受けた。食事もまともに許してくれない。料理にはゴミを入れられ、転ばされた僕に唾を吐き捨ててこう言う。どうして生きてるのって…………耐えないとって思ったんだ。みんなにお金出してもらって、それに、僕が頑張ればみんなの生活が変わるかもしれない。現実と理想の板挟みで…………誰にも言えなかった! 母さんはいつも仕事で疲れてた! 僕を学校に行かせるために、いつも疲れを隠して頑張ってくれた! 町の人達も、家族じゃない僕なんかのためにお金を出してくれた! その期待に答えたかった! でも僕は、僕は、強くなかった!」

 自分の肩にのしかかる期待と責任。家族や町人に見せる笑顔と、外で見せる苦悶のギャップ。嘘に嘘を重ね、己の身で支えきれないほどに膨れ上がった後悔と重圧。それでも一人で頑張ろうとした結果、耐えられなくなって破裂した。

 ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も何度も謝っている。うずくまって、子供のように泣きじゃくって、謝罪の言葉を叫び続ける。その光景に、母親も、集まった町の人も、絶句していた。

 誰もが、当たり前のように、ハックに期待していた。ハックの気持ちを知ろうともしないで。

 悪意ではない。純粋な善意だ。

 この町の生まれの人達は、皆外に一歩出れば人権なんて度外視した醜い現実が待っている。それが理由で一つにまとまって生活をしているのだが、閉鎖的であれば当然発展はない。知識も技術も、外に一歩も二歩も遅れをとる。現に、この町で携帯端末を持っているのはハックだけだ。そんな時、ここに閉じこもっているのは勿体ないと言われる才能を持った子供が現れた。サイアド・ハックだ。体格に恵まれ運動センスもよく、頭脳は町随一だ。町の人達は、彼の将来を思って町の外を薦めた。きっと辛いことが沢山あっても、閉鎖的空間で一生を終えるよりかは、外の世界を知り、もっと大きく成長して欲しい。それが彼の人生にとって良いことだと信じた。ハックはそれを、自分が頑張ってみんなの偏見を変えたいと考えるようになった。

 誰も悪意はない。この町の誰も悪くない。

 悪いのは……………

「ごめんなさい、サイアド…………………ごめんなさい。私、あなたの気持ちを何にも知ってあげなくて、ごめんなさい……………」

 家族は、抱き合って泣いた。

 落ち着き始めたところで、ユウトはようやく口を開いた。

「ハック君も、お母さんも、この町の誰も悪くない。悪いのは、今のこの世界です。」

「……………ユウト……さま?」

「あなたがサイアドを助けて下さったのですか?」

 母親の質問に、ユウトは頷かなった。

 ユウトはまだ、救っていないと思っている。

 誰一人。近くの人でさえ。

「…………自己紹介が遅れました。僕の名前はカイヅカ・ユウト。ハック君とは同じクラスメイトです。」

「…………カイヅカ……………」

 ユウトの名前を聞くと、聴衆達はザワザワと動揺した。

 彼らはネットワークの情報を取得する術を持たない。何故だか分からないが、ユウトにまつわる情報はニュースや新聞などメディアでは公開されていない。出回っているのはネットニュース記事か公共ネットワークの掲示板などだ。

 カイヅカ家。十五年前に事故で一家全員が死亡したとされており、彼らが住むこの地域も元はカイヅカ領内だ。

「僕は、元七家門カイヅカ家の生き残りです。」

 その言葉を聞いた町の人達は、次々と地面に膝をつけて頭を垂れた。例え今は家門でなくても、ユウトがカイヅカ家であるということは、彼らにとっては真偽に関わらずこうするのが当たり前なのだ。

 それに対してユウトは、自分も土下座をした。

「申し訳ございませんでした。」

「カイヅカ様! お止め下さい!」

 ハックの母親がユウトが頭を下げるのを止めさせようとしたが、それでもユウトは額を土に擦り付けた。

「ハック君は今日、自ら命を絶とうとしました。それを助けたのは私ですが、彼に寄り添い手を差し伸べられなかった私にも非はあります。むしろ、私の中途半端な優しさが、かえって彼を苦しめてしまった。本当に、申し訳ございませんでした。」

「ユウト様! そんな、そんな事ないです。ユウト様は僕に対しても優しくしてくれました。」

 ユウトは顔を上げたが、立ち上がろうとはしなかった。

 彼らと同じ目線で在り続けた。

「こんな事があって、親御さんとしては大事な息子をもう学校に通わせたくないと思われてるかもしれません。ハック君自身も、こんなことがあってもうあんな所に行きたくないと思ってる事だと思う。でもどうか、学校を辞めないで欲しい。僕と一緒に、世界を変える手伝いをして下さい。この通りです。」

 ユウトはもう一度地面に額を擦り付けた。

 これは単なるユウトのエゴだ。

 どう言葉を見繕ってもそれは変わらない。

「……………ユウト様は、教室で世界を変えると言いました。僕なんかが一体何を…………」

「ハック君。僕の生まれは確かに恵まれていた。人間社会の頂点に位置する七家門の一つ。そこに生まれたという事実は変わらない。でもそれは、僕が特別な人間だということではないんだ。自分にとって特別な存在がいても、世界にとって特別な存在なんて、誰もいやしないんだ。だから、僕はみんなと変えていきたい。勿論、ハック君とも。」

「………僕、と…………」

「そう、君とだ。」

「………………お母さん。」

 ハックは、ユウトへの返事の前に、母に言葉をかけた。

「…………サイアド………」

 やはり心配や恐怖が勝っていた。

「僕、初めてなんだ。家族や町のみんな以外で…………初めてだった。信用していいんだって思えたのは。僕は、ユウト様を信じたい。ユウト様が何かをしようとしていて、その手伝いができるなら、僕はやってみたい。彼に対する恩返しや負い目だけじゃないんだ。本当になりたいんだ。目指したいんだ。大きな過ちを犯した僕にもう一度そのチャンスがあるなら、もう一度………」

「サイアド…………」

 母親は泣いていた。それと同時に、嬉しかった。

 今までは辛いことや苦しいことしかなかったのかもしれない。でも今は、こんなにもしっかりと前を見てる。

 それだけが、彼女にとっての唯一の救いだった。誰も経験のない外の世界に、単身で送り出したことへの、唯一の救い。

「わかったわ。あなたがそうしたいなら、私は応援するわ。本当に、今までごめんなさい。」

「僕の方こそごめんなさい。でも、もう負けないよ。」

 家族は再び抱き締め合う。

 ハックの人生は、漸く始まりを迎えた。

 その後、周囲の町人達が次々とハックに謝った。次第にハックの周りには人が集まり、その人波に紛れるようにユウトはその場を去った。

 最初はみんながハックに謝っていたようだが、次第に励ましや応援の声が届けられるようになった。うっすらと笑い声が聞こえるのを、背中越しにユウトは聞いていた。

 ユウトの姿は、強風で巻き上げられた砂埃にかき消された。

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