第6話 襲撃

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 フシミ・サイ。五十歳。

 数百年と変わらなかった七家門による統治体制に、唯一変化をもたらした張本人である。

 フシミ家は、元々カイヅカ家に仕える家だった。外交に疎いカイヅカ家に代わり、フシミ家は家主の側近として政治的手腕に長けていた。誠実で実直な人物が多く、カイヅカ家からの信頼は代々厚いものだった。

 受け継がれてきた伝統と他領よりも自由で差別のない領土で、彼は生を受けた。

 彼の幼少期は平凡そのものだったが、年々外の世界への関心を強めていき、抜きんでた頭脳を遺憾なく発揮していくこととなる。

 全ての発端は、あの日。

 魔鉱石を発見した、あの日から………



 

 コンコン、とドアがノックされた。

 ふと机の端に置いてある小さなモニタを見ると、一人の男が居室の前に立っていた。

 ここは校長室。

 訪れてきたのは見慣れた人物であった。

「どうぞ。」

 モニタの画面をタップすると、ガチャッと電子ロックが外される音がし、外の人物が入ってきた。

「失礼する。」

 武骨な男が窮屈なスーツを身に纏っていた。

 彼の名前は、ペテルギウス・ハルバード。七家門の一つ、ハルバート家の現家主である。

「ペテルギウス氏。御足労ありがとうございます。」

 サイは立ち上がりお辞儀をしたが、対してペテルギウスは無言のままサイに近づく。

「こちらこそ、毎度の魔鉱石の提供感謝する。」

 ようやく口を開いたかと思えば、野太い低音で小さく喋った。普段から多くを話さない性質たちなのだろう。

 サイは近くのソファに案内し、二人とも腰を据えたところで、

「本日はどのようなご要件で?」

「いつも通りの商談と……もう一つ。カイヅカ・ユウトについてだ。」

「………先に商談に入りましょう。来月も同様の供給量で問題ありませんか?」

 既に用意していた商談の契約書を取り出す。

「いいや。いつもよりも多く頼む。」

 ペテルギウスは、サイの予想を裏切り別の提示をしてきた。

「珍しいですね。何かご入用でも?」

「何、大した事ではない。」

 サイは目を細める。

 魔鉱石とは、今やフシミ領の特産品と言える。フシミ家は、需要が高まり続ける魔鉱石市場を意のままに操作することで、莫大な利益を生み出している。

 最初の取引先かつ最大の顧客が、一つ隣の領地を治めるハルバート家である。

 彼らは武家の家系で、代々屈強な戦士を排出している。また、人類軍が有する武器の殆どがハルバート領の工場で製造されており、ハルバート家が絡んでいない武器は存在しないとまで言われている。完全な弱肉強食を家訓としており、力に対する思いとそれに伴う実力が共に備わっている、人類軍の兵士の中核を担う家系なのだ。

 サイが魔鉱石を発見した時も、いち早くコンタクトを取ってきたのがペテルギウス・ハルバートであった。

 元来謀はかりごとまつりごとなどが不得手な家柄だが、今代の家主は力と共に知恵も身に付けており、今まで以上に表舞台へ出ている。

「…………いいでしょう。」

 しばらく相手の反応を伺ったが、ペテルギウスは眉一つ動かさなかった。一瞬の表情の遷移は、その人の心理をよく表している。それが分からない交渉人ほど重宝される存在はいない。

 嫌なタイミングだというのが正直な印象だった。現在、カイヅカ・ユウトの出現によって想像以上に現界がざわついている。今回の増量がそれと何か因果関係があるのではないかと疑っているのだ。

 事務的に両者がサインを書くと、

「ところで……フシミ・サイ殿はカイヅカ家に生き残りがいたのを前々から知っていた、ということかな。」

「………はい。」

 慎重に答える。何故なら、サイが七家門に加入できたのは、彼の助力あってこそのものだからだ。

「そうか。……何故私に言わなかった?」

 既に想定された質問だ。

「私にも立場がありましたので。カイヅカのメイドが彼を引き取ったようでしたが、危険を感じなかったので放置したのです。」

 サインが書き込まれた書類をわざとらしく大袈裟に取る。

「せっかく生きやすいよう慈悲を与えてやったというのに、残念ですよ。本当に。」

「………彼は何故今になって現れたのか。それも、本名を明かして。」

「ペテルギウス氏はカイヅカ・ユウトに何か目的があるとお思いですか? 何も問題ありません。ここにはもうカイヅカの居場所などどこにも存在していませんから。カイヅカ・ユウトには何もできませんよ。それに、わざわざやって来てくれたのですから、有効活用しないと。」

「彼のことは、君に任せてもいいのかな?」

「ええ、勿論です。彼には我々の礎となってもらいます。」

「…………」

 ペテルギウスは、少しの間沈黙していた。



               *



「いつも御足労頂き申し訳ございません。」

「いや、いい。こちらとしてもここなら安全だ。また頼む。」

「はい、喜んで。」

 ペテルギウスが居室を出た。

 入口にいたペテルギウスの護衛たちがいなくなったことを確認して、ようやく一息つけた。

 フカフカの椅子に深く腰かけ、深呼吸する。

 (何とか乗り切れた……か…………)

 ユウトが仮の戸籍を捨てた頃から覚悟していたが、想定以上に軽く済んだことにむしろ拍子抜けた。

 サイは重要な交渉を校長室で行うことが多い。それは、自宅よりも学校の方がセキュリティが強く、来訪側もいくらでも理由がつけられるからだ。仕事を一切家に持ち込むことがなく、公私混同を避けることが出来るのも良い点だ。

 実際、これは過去の自分の過ちの皺寄せだ。しかし、悲観的にならずにこの事態を利用して好転出来れば相応の成果を得られるだろう。

 (…………?)

 どうしてだろう。サイは、視線のようなものを感じた。回転式の椅子を一周まわし、部屋全体を満遍なく眺める。

 おかしな点は一つもない。物の配置、構成、書物の順番。性格上そういったことに敏感であるため、部屋に異常があれば気付きやすいはずだ。しかもここへ入るには、外側からなら室内のロック解除ボタンか、サイの指紋とパスワードの二重ロックを外す必要がある。万が一にも突破されることはない。

 (…………気のせいか。)

 人に言えないような事をしている時、無性に他人の視線を感じているように錯覚してしまうものだ。やましい心を抱く人は、周囲の向けられてもいない視線にも過剰に反応する。



 その後サイは、雑務をこなした後、昼食の為に部屋を出た。

 カチッ、と電子ロックが施錠される音が、誰もいないはずの校長室に響いた。

 五分後、再びこの音が部屋に鳴ることなど、誰も知らない。

 


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 一週間も経つと、新入生達は新しい生活に慣れていった。

「ユウト君、どこに行ってたんですか?」

「………」

「まあいいです。それより、ユウト君。昼ご飯、食べましょう!」

 午前の講義が終わると、ぞろぞろと人の動きが激しくなる。リクトとアリスは少しの間、ユウトがどこにいるのかが分からず探したが、ヒョンと教室に帰ってきたのだ。

 ユウトの存在は、未だ周囲の目を引く。貴族ら上級身分の者達は誰もが疎ましく目障りな眼差しを向けてくる。廊下でユウトを見ると、聞こえるような声で罵って笑ってくるなんて珍しくもない。入学条件緩和措置によって入学できた庶民家庭出身者は、ユウトに興味がある者もいるだろうが、どちらかと言えば厄介事や面倒事の類いとして見ている。常に目を引く存在と触れ合えば自然と自分も誰かの目に留まることになり、できるだけ目立たずにかつより良い将来を望む彼らの行動原理を鑑みれば、理に適った行動と言える。

 別にユウトは周囲の行動を意識していない。今はただ、そんなことを気にせず接してくれる友人ができたことが何よりも嬉しい。

 リクトとアリスはコンビニ袋を掲げて催促する。

 あの日以降、三人は音楽室で昼食を共にしている。ユウトの現状は二人とも理解しており、ユウトを想って一緒に音楽室へ付き合ってくれるのだ。リクトは、時々買ったものじゃなくて弁当箱を持参することがあり、アリスとシェアしたりしてた。

 本来食堂に行けば昼食代はタダなのだが、付き合って貰って感謝しかない。

「そういえば。」

 廊下を歩く最中、アリスが何かを思い出したようだ。

「この間の週末、漁港に行った時にユウト君、船についてリクト君のお父さんによく聞いてましたよね。船に興味あるんですか?」

「ああ、確かに。」

 リクトの記憶でも、漁港に着いた後ユウトは船について質問することが多かった印象だ。

「んー、まあそうだね。」

 中途半端な回答だったが、二人とも特に深く気にする様子はなかった。

「昔は他領との交流は薄かったから、例えば海運では一回で多くの物資のやり取りができるように大きくデザインされているんだ。最近はそういう風潮も廃れてきたから、大きな船に興味があったんだ。」

「へえー。ユウト君は物知りですね。」

 アリスがふと横を見ると、リクトも同じくへぇ〜と感心している表情だった。

「いや〜、実はよく知らなくて。」

「将来は漁師にならないの?」

「……うん。親に外に出ろって言われてて。」

 考えてみれば、漁師になるならこんなエリート学校にわざわざ遠くから通う必要はない。

「リクト君は漁師になりたくないの?」

「………僕も、よく分からないです。」

「…………」

 苦笑いを浮かべながら、決してユウトの目を見て話そうとしなかった。その表情の翳りが気になったその時だった。

「キャーー!!」

 女子の悲鳴が廊下を突き抜けた。

 前方からだった。エレベーター付近だろうか。どんどん人が集まっている。

 何事かと近くへ行ってみると、

「あ、あの……」

「キャーー! 近寄らないで!!」

 人混みの外からでもわかる。誰よりも身長が高く、ベージュのシャツとは対称的な黒い肌。

 ユウトは二人を置いて一人、人混みを掻き分けて最前列に飛び出した。

 見えた光景は、一人の女子が友人らしきもう一人の女子に抱きついて泣いていた。泣いている女子を抱える子は、ハックを睨みつけ庇うような姿勢を見せている。ハックの手には、一つのハンカチ。とても男物には見えない。

 状況はシンプルだ。

 エレベーターを降りた女子の一人が、スカートのポケットからハンカチを落としてしまったのだ。エレベーターを待っていたハックは、そのハンカチを取って渡そうとしたのだ。

 誰も知る由のない事だが、ハックはエレベーターを待っている時、少し離れた壁際に立っていた。エレベーターから全員降りたことを確認して、ようやくエレベーターに入ろうとした。そして、たまたまハンカチが落ちる瞬間を目撃し、手を伸ばしたのだった。エレベーターを待つことでさえ慎重過ぎるほど自重して行動している彼が、こういう形で不意に善意を示したしまうのは、きっと彼が優しい青年であるからだ。しかし、その善意ある行動は相手には別の形に映っていた。

「ハンカチを盗むなんて! これだから色付きは嫌なのよ!」

 ハックを睨んでいた女子がそう叫んだ。野次馬達がヒソヒソと騒めく。

 (やだ、女の子のハンカチ盗むとか気持ち悪過ぎ。)

 (キモいし最低。)

 (というか何でここにいるんだよ。)

 (同じクラスじゃなくて良かったね〜。)

 人は事実にばかり注目する。誰かが犯罪を犯したとして、その人を非難するばかりで誰も背景を知ろうとしない。悪は悪でも、やむを得ない事情があったのかもしれない。同情はできなくても、そういう人がいるのかと今を省みることが出来るかもしれない。だが、多くの人はその過程ではなく起きた事象のみを真に受ける。特にそれが、日常的に差別されている人種であれば尚更だ。今この場で、冷静に状況を察することができる人が何人いる。仮にハックが盗ったのなら、どうして自分から声を掛ける。周囲に目撃した人がいないのなら、盗んだのではなく拾った可能性が十分にあるはずだ。その可能性を考えてもくれないのが、忌み嫌われ蔑まれている褐色の肌を持つ人達なのだ。

「そんなのもう要らないからどっかいって!」

 女子の悲鳴にも似た罵声は、ハックに鋭く突き刺さった事だろう。それでも簡単にハンカチを手放さないのは、無理に渡したり持ち帰ろうものなら状況は悪化するし、床に置いてしまえば事ハンカチが汚れてしまう。躊躇っている所を見て、つくづくユウトはハックの優しさを思い知る。

「……………。」

 ハックはハンカチをその場にそっと置いて、階段の方向へ向かった。

 うわっ、と驚きどよめいて、野次馬達がハックから急いで距離を取る。まるで危険な害虫が突然現れたかのように、ハックの周囲だけがぽっかりと隙間が空いてしまった。

 ユウトは咄嗟に彼の肩に手を伸ばした。

 が、寸前でその手を止める。

 (今の僕が、何て声をかけてあげればいい……。)

 ハックは明らかにユウトを避けていた。その理由を、ユウト自身わかっていた。

 中途半端な優しさは、かえってその人を苦しめる。

 じゃあどうすればいい。生まれも育ちも環境も待遇も何もかもが違った人生。

 一体。どうすれば。



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 帰路に着く三人。何だか一緒にいるのにも、随分慣れてしまったものだ。お互い交友関係は広くないため、自然と一緒にいることが増えた。

「それで、今日は買い物に行くんだっけ?」

「うん。ちょっと化粧品が欲しくて。」

 アリスは寮に入っており、校内の売店を使えば大抵の物は揃う。しかも一級品のものが。リクトは何度もアリスと買い物に行ったことがあるらしいが、初めてのユウトは当然疑問が湧く。

「アリスさんはどうして校外に買い物に行くの?」

 学校から少し離れた所に庶民的な商業施設がある。ユウトも度々訪れる場所だ。ただ、学校からなら歩いて二十分位はかかる。わざわざそんな所にまで買い物に行く理由を知りたかった。

「校内の物って高いものばかりじゃないですか。」

「確かにそうだね。」

「お金の問題というよりも、肌に合わないといいますか、何だかそういう買い物になれなくてですね。」

「落ち着くんだね。」

「そうです。」

 ただの高校生だったのに、いきなりいつもの三倍以上の値段の品々を買って生活するのは、アリスの言う通り慣れていないという感想が最も似合うのだろう。

「高いものだと妙に丁寧に扱ったり、置き場所に敏感になったりしちゃって。」

「わかる。俺もあんまりそういうのは使いたくないな。余計に神経使っちゃうというか。」

「そうそう。」

 リクトとアリスの会話に、昼のハックの件を思い出してしまった。

 ユウトも好んで高級品を使う趣味はない。貴族や家門の人達と比べれば、ユウトのそういった側面は庶民側のものだ。しかし実際は、庶民側と貴族側の中間と言った方がいいだろう。好んで使わなくとも、ユウトの身の回りには世間的には高いものがありふれている。二人の感覚は、わかるようでしんにわかっていないのだ。

 生まれが違うだけで、育った環境が違うだけで、それが分かり合えない要因となる。今の人間社会の現状だ。

「ねえ、アリスさんは最近の授業はどう?」

「私、結構難しいかも……」

「……実は俺も…………何か貴族達みたいに生まれの身分が高い者って、こう能力は低いけど威張ってるみたいな印象があったんだけど、実際は頭いい人多いんだよね。」

「私もそう思った。」

 (でもそれは、根本的な問題でもある。)

 確かに二人が感じたように、一般的な学力で言えば貴族や家門の人間は優秀な者ばかりだ。しかしこれは、単に上級の者が質の良い教育を、下級の人が粗野な教育を受けているからに他ならない。

 現在の現界は各領地独自の専制政治によって成り立っている。庶民に参政権はなく、あくまで自分たちが利益を得るための道具としか思っていない。また、庶民に高等教育を受けさせることは確かに領地の力となるだろうが、返って反乱分子を生み出す要因となってしまう。だから上の者は人によって教育レベルをある程度操作し、一種の選民を行っている。現界の外に存在する魔人や天人達への差別意識の植え付けは、自分達から目を逸らすカモフラージュとしてはうってつけであり、そのまま志高く人類軍へ入ってくれればいい駒が一人増えることになる。

「ユウト君はどうなんですか?」

 リクトの問いかけに、ユウトは答えづらいと思いつつ本心を語る。

「僕はまだ大丈夫かな。」

「やっぱり凄いな、ユウト君は。勉強にはどれくらいの時間取ってるんですか?」

「んーと、そうだね。僕は……!!」

 真っ先に反応したのは、ユウトだけだった。急に言葉を止めて目付きが強ばったユウトを怪訝に見つめる二人。

 十分に広い歩道を三人で横に並んで歩いており、道路側からリクト、アリス、ユウトの順で横並びだ。それにも関わらず、ユウトは反応した。

 黒塗りの大型ボックスカーが、三人の脇に止まった。スピードは遅かったものの、キキッと急制動の音が響いた時点で、リクトとアリスが道路側を振り向く。

 その時には既に、ユウトは動いていた。

 声を荒げて警告したところで、二人が即座にそれを理解して行動する時間がない。

 だから足に力を込めて、一歩でアリス、リクトの前を通り過ぎて車とリクトの間に割って入る。この時、通り過ぎ様にリクトを道路から遠ざける方向へ押し倒した。手荒く押したため、リクトの体はアリスを巻き込みながら激しく倒れた。

 同時に、ボックスカーのドアが勢いよく開かれ、戦闘服を着込んだ人物達が四人降りてきた。肌の露出が極端に少なく、顔もすっぽりと覆い隠され性別が判断できない。さらに、彼らは両手に大きな自動小銃を携えていた。

 ユウトが割って入ったタイミングで、丁度車から先頭の人物が降りてくるところだった。

 その人物と目が合った。

 一瞬で確信した。

 これは、常人の目ではない。

 プロの目だ、と。

 先頭の人物が車から降りきって銃を構える直前、突然とどこからか盛大に白煙が発生した。

 一瞬にして周囲が煙に包まれて視界が遮られた後、ドサッとリクトとアリスが地面に倒れた音だけが聞こえた。続いて車から降りてきた人物達の会話が聞こえた。

「どうなっている!」

「構わん! 打て!」

 隣に立つ仲間の顔ですら薄らとしか認識できない程、煙は濃かった。しかし彼らは、標的が前方にいてかつ味方がまだ車から降りたばかりだという状況から、誤射で味方に当たる確率はほぼゼロであるため、視界が遮られていようと瞬時の判断で銃撃を開始した。

 数秒前まで平和に流れていた中心街に、ダダダダダッ! と銃声が鳴り響く。四つの銃声がランダムに折り重なることで、非現実的なレクイエムを奏でている様だった。

 アリスの悲鳴も、リクトの叫びも、全てかき消された。

 三秒間乱射が続くと、襲撃者達は驚きの状況に直面する。

 視界に突如としてユウトが現れた。腕を伸ばせば触れられる距離まで近づかれても気付かなかったのは、銃声と煙で聴覚と視覚が充分に機能していなかったからだ。

 (何故生きている!?)

 ユウトは左端の襲撃者へ仕掛けた。低い姿勢で近づき、銃を持つ腕を掴んだ。そして腕を上げさせて懐を開き、そこへ拳を叩き込んだ。

 (!!)

 しかし、襲撃者も上手であった。腕を掴まれるくらい近づかれ、かつ利き手を抑えられた時点で、銃を持っていては不利だった。一瞬の局面を判断した彼は、銃を手放し、体の重心を後ろに逃がしながらユウトの拳を辛うじてガードしたのだ。ユウトに掴まれていた手を振り解くと、そのまま背後に飛び退いてユウトと距離を取った。

 すかさずユウトも距離を詰めようとしたが、ユウトの存在に気付いた他の三人がこちらに詰め寄ってきた。

 今度は味方が巻き込まれる危険があるため、銃を構えながらも打たずに迫ってきた。

 (一人くらい捕まえたかったけど……)

 引き際を感じ、煙に乗じて姿をくらました。

「我々も撤退する。」

 煙に紛れているのは、襲撃者にとってもメリットはある。目撃者がいたとしても姿を見られずに済む。再びユウトを捕捉することが困難であり、煙がいつ晴れるか分からない状況だからこそ、早めの撤退を決めたのだ。

 それを知らないユウトは、再び銃撃してくる可能性を考えて撤退を選んでいた。リクトとアリスを見つけようとしたが、元いた場所にないなかった。

 一瞬驚いたものの、ユウトは努めて冷静だった。攫われた可能性を捨て、細い脇道があったことを思い出す。

 ユウトが押し倒したことで、二人は匍匐ほふくのような体制になり、銃撃は逃れたはずだ。現に、血痕は見られない。であれば、銃撃が鳴り止んだ隙に裏道へ逃げ込んだ可能性はある。

 ユウトも脇道へ駆け込む。

 煙は脇道の入口辺りで止まっており、煙を抜けて視界が晴れると、二人の後ろ姿が確認できた。走って遠ざかろうとしていた。

 またいつあの襲撃者が追ってくるか分からない。もしかしたら別働隊がいるのかもしれない。この裏道では道幅が狭く袋叩きだ。ここならば部外者にバレることもないだろう。巻き添いになった二人には説明せざるおえないが、いち早い離脱を考えて、仕方なく決断を下した。

 (使うしかない!)

「二人とも!!」

 背中に声をかける。道幅が狭いため、リクトがアリスを引いて縦に並ぶ形で走っていた。アリスは聞き覚えのある声に振り向いた。

「ユウト君!!」

 ユウトが手を伸ばしたのを見て、アリスも手を伸ばした。

 手と手が触れる直前、視界に入った。

 縦に重なって視認が遅くなった。アリスの手を引いて前を走るリクトの、更に前を走る三人目の人物を。

 リクトとその人物がアリスの声に反応して後ろを振り返った。

 (君は!?)

 疑問を残したまま四人は光に包まれて、その場から一瞬の内に跡形もなく消え去った。

 


               *



 ドサドサッ、とみんなが地面に倒れた。

 いや、落ちた、という表現の方が適切かもしれない。

「いって………」

 リクトは目の前が白く輝いたと思ったら、次の瞬間盛大に尻もちをついたような痛みに襲われ、訳も分からないままゆっくりと立ち上がる。

「……アリスさん!?」

 記憶が段々と蘇ってきて、先程まで手を取っていた彼女のことが真っ先に頭をよぎった。

「いててて………」

「アリスさん。良かった………」

 後ろで同様にアリスが立ち上がろうとしていた。安堵でため息がこぼれた。

「リクト君………ここはどこ………?」

「僕も分からない。」

 周囲を見渡すと、ここは開けた場所で、芝生が一面に広がっていた。近くには屋根付きのベンチや大きな一本木もある。

 おかしい。一秒前と後で記憶が合わない。

 (確か、煙が急に広がって………)

 その時、近くでもう一人の人物が目を覚ました。

「………ここは………?」

 彼は、見覚えのない光景に戸惑う。

 リクトは彼の前に駆け寄り、丁寧にお辞儀した。

「ナギト様。助けて頂き、本当にありがとうございます。」

 遅れてアリスも駆け寄る。

「ナギト様! お怪我はございませんか!?」

「……ええ。私は平気です。それより、ここは?」

 あの時ユウトの目に映ったもう一人の人物の正体は、ナギト・メークであった。

「分かりません。」

 アリスが答える。

「そうですか…………あっ。」

 ナギトの間の抜けた声は、リクトやアリスに向けられたものではない。ナギトの視線に引き寄せられるように、二人も後ろを振り返った。

 そこには、紫の布袋を肩にかけた、普段通りのカイヅカ・ユウトの姿があった。

「ユウト君! 大丈夫ですかっ!? 一体何が!?」

 リクトは心配で駆け寄ったが、それと同時に別方向から足音が聞こえた。

 芝生を駆ける音が、二つ。

「………ユウト様………。」

 カオルとカエデ、二人が屋敷の方角から走ってきた。

 ナギトとリクトとアリス、カオルとカエデ、そしてユウト。

 三者の視線が交わる。

 誰もが、今の状況を完全に理解していなかった。

 ユウトの心境は複雑だった。

 リクトらの無事が確認できて安心する気持ちに加え、現状の理解と今の状況の説明、ナギト・メークがいる理由、などなど。悩ましい事案が山積みだ。

「とりあえず中に入ろう。話はそれからで。」

 ユウトはみんなを先導する形で屋敷の方へ歩き始めた。意思を汲み取ったカオルとカエデは、どうしていいか分からず立ち尽くす三人に、どうぞこちらへと誘導した。

 渋々、というよりは何が何だか訳も分からないままとりあえず歩いてはいるが、流石に疑問をぶつけざるおえなかった。

「あの、ここは?」

 リクトの質問には、ユウトが答えた。

「ここは僕の家さ。」

「ユウト君の? ………広いし大きい…………」

「元はカイヅカ家が所有する別荘でした。」

 カオルが説明を付け加える。

「別荘………この大きさで………?」

 アリスも呆然と歩くしかなかった。到底庶民では想像できない豪華な屋敷と広大な庭園。テーマパークの一角と言われても不思議じゃない広さだ。二人は知らないが、これでも他の家門や貴族に比べたら小さく狭い方なのだ。金融に精通しているアンジェシカ家の邸宅は、この程度で驚いているようではショック死してしまうだろう。

 (この人達はユウト君のご家族の方なのかな?)

 アリスはカオルとカエデを不思議に思ったが、とても聞けるような雰囲気ではなかった。

 (ん?)

 周囲の光景にばかり気を取られて気付くのが遅れたが、ユウトが、普段から携帯している竹刀袋以外に銃をぶら下げていた。

「ユウト君、それ………」

「………後で話すよ。」

 アリスとリクトは、銃を見たことで状況が想像以上のものだと認識し始めた。不安と緊張で冷や汗が滲んできた。

 そんな彼らを、カオルとカエデは温かく家に迎え入れた。手荷物を預かり、一旦全員が居間に集まった。

「カオルさん、周囲は?」

「問題なく。セキュリティ面に関しても、問題なく稼働しております。」

「そうですか。」

 当面の安全は確保出来た所で、ユウトはまず彼に目を向けた。

「ナギト・メーク君、だよね。君がどうしてあの場所に?」

 ユウトはナギトと会話した事がなく、接点は同じクラスメイトという位だ。

 この疑問は、リクトとアリスも感じていたことだった。

 ナギトはみんなの前に出た。

「私は寮ではなく兄の家に住んでいて、丁度帰宅方向だったんです。三人とも襲撃前に近くのコンビニに寄られましたよね? あそこから出てくるのが見えたんです。」

 確かに三人は襲撃地の近くのコンビニに寄っていた。

「距離もあって、それに今まで特段話したこともなかったクラスメイトだったので、声をかけることはありませんでしたが、その時に三人に近付く黒い車に気付きました。その後は二人を連れて裏路地へ逃げ込んだのです。」

 つまり、ナギトは最初から遠目で見ていたのだ。三人が襲撃される瞬間を。

 ナギトはもう一歩前に出た。まるでユウトを問い詰めるみたいに。

「一つ、貴方に質問をしてもいいですか?」

「……」

 ユウトは無言で続きを促した。

「私は煙が発生する直前まで車を目で追っていました。ですから、車から降りてきた人達のことが少しだけ見えました。目元以外を隠し、分厚く黒い服で銃を持った…………」

 「……………」

 ユウトが黙っていることが、余計に非現実的な出来事に現実味が帯び始めた。

 あの時リクトとアリスが聞いた大きな音は、やっぱり。

 ユウトは持っていた銃をみんなに見せた。

 これは、襲撃者の一人から奪った銃だ。

「銃に詳しいわけじゃないけれど、これはその辺の小悪党が持てるような粗悪品には見えない。それに、彼らは明らかに素人じゃなくて、訓練を受けた兵士だった。」

「ユウト様、それは………」

「カエデさん………ごめんなさい。」

 ユウトが彼女にどうして謝ったのか、まだ部外者である三人は理解できない。

「いいえ。どうしてユウト様が謝るのですか。私達は既に覚悟を決めております。」

「………ありがとう。」

 苦笑いを精一杯隠しているように見えた。

「タナカ・リクト君。アリス・ルージュさん。そして、ナギト・メーク君。申し訳ない。僕のせいで君達を危険に晒してしまった。」

 ユウトは三人を前に、深々と頭を下げた。

「僕のせい?…………つまり、あいつらはユウト君を狙ったってことですか!?」

 リクトの質問に、ユウトはゆっくりと面を上げて、こう言った。

「話すよ。どうしてこうなったのかを。」

 


               *



「結論から言う。襲撃者が何者なのかは僕にもわからないけど、差し向けたのはフシミ家の可能性が高い。」

「「「!!!」」」

 家門が動いて一人の人間を殺そうとするなど、それも街中で堂々と。家門の人間であるナギトにとっては、ある意味で衝撃と言えた。元とはいえ、既に権力も力も持たない青年一人を殺す理由が思いつかない。

「話は十五年前に遡る。カイヅカ家全員が死亡したとされている、あの火事。あれは事故ではなく事件だった。」

「!! …………となると……」

 ナギトだけは、その言葉の意味を瞬時に理解出来た。

「そう。カイヅカ家は火事に装って何者かに殺された。」

 衝撃で、唖然とするしかなかった。三人とも、ただユウトの話の続きを黙って聞いた。

「あの日、僕はメイドの親子に連れられてあの場所から逃げた。今でも覚えている。家族の悲鳴、叫声、断末魔。家が燃える音、焼け焦げた匂い。僕が生き延びたことを知ったフシミ家は、僕に新たな戸籍を用意した。これは明らかな口止めだった。確固たる証拠こそ何一つないけれど、僕達は犯人をフシミ家の家主、フシミ・サイだと考えている。実際、さっきみたいにプロを差し向けたり武器を手に入れたりと出来るのは、かなりの権力者に違いない。そして、僕が名前を明かしたこのタイミングで、だ。」

 ようやくリクトやアリスも事態を掴めてきた。

 十五年前のあの日。あれは事故と見せかけた事件であり、唯一の生き証人であるユウトを犯人が消そうとしたのだ。

 しかし、リクトはその話よりも心を激しく動かされた事実を再び確かめた。

「ユウト君。」

 リクトの声は震えていた。怯えているようで、怖がっているようだった。

 ユウトはしっかりと彼の目を見つめた。

「ユウト君は………事件の日のことを、鮮明に………覚えているんですか………?」

「うん。覚えているよ。」

「…………」

 きっと、これまでとこれからの人生において、リクトは自分をこんなにも責めることはないだろう。

 カフェでの出来事を思い出す。あの時はただ、ユウトの存在が希望に思えた。十五年前のあの日から、リクトの住む町はすっかり変わってしまった。両親が辛い思いをしてきたことも知っている。子供は親の気持ちに敏感で、いくら隠そうと振舞っても直感的にわかってしまうものだ。自分の行為で少しでも好転してくれれば良かった。ただそれだけで良かったのに、全く考慮していなかったのだ。ユウトの気持ちを。

 ユウトは今、あの時のことをはっきりと覚えていると言った。

 どんなに辛かっただろう。どんなに壮絶だっただろう。目の前で家族が殺され焼かれ、その中で自分一人だけが生き残って、一体どんな心境だったのだろうか。

 ユウトは、自分のあの時の発言を聞いて、一体何を思ったのだろうか。悲劇のヒロインのように自分を語る自分を見て、一体何を。

「いいんだ、リクト君。」

 ユウトは俯くリクトの肩に優しく手を置いた。

「確かに僕は、以前まで狭く平穏な生活を望んでいた。でも今は違う。名前を明かした以上、こういう事態は覚悟をしていたんだ。それに、君は家族や町の人達を想って行動していた。僕の名前を利用しようとする者が現れるとは思っていたけど、君は違う。利用しようとは考えていなかった。ただ願っただけだ。それは寧ろ僕の背中を押してくれたんだ。謝る筋合いなんてないし、気負う必要もないんだ。」

 リクトにはわかってしまった。これはその場しのぎや嘘でも何でもなくて、彼の本心なのだと。

「今日はみんな、ゆっくり休んでくれ。家まで送るよ。カオルさん。」

「……………………はい。わかりました。」



 三人はカオルの誘導で外へ出た。

 カエデは留守番を任され、カオルが運転し助っ席にはユウトが座った。

 後部座席に座った三人だったが、とりあえず学校に向かってアリスを寮に届けることになった。

 リクトの家は車では随分と時間がかかるため、リクト本人が駅まで良いと提案した。丁度近い時間の電車があり、一本で着けることに加え、ユウト以外に危害は向かないだろうとの判断で次にリクトを駅まで送り届けた。

 その間、誰も話さなかった。今日の事態を各々受け止める時間が過ぎ、身に降りかかった非現実にどう反応したらいいのかが分からなかったのだ。

 しかし、彼は違った。

 私は最後でいいです、と言ったナギトは、提案通り最後に送迎することになった。

「カイヅカ・ユウト君。話をいいですか?」

 駅でリクトを降ろした直後だった。

「はい。いいですよ。」

「先程の話。疑問が幾つかあります。」

「………」

 ナギトは、この沈黙を肯定的に捉えた。

「一つ目は、今回の襲撃の犯人についてです。貴方はフシミ家を疑っていましたが、私はフシミではないと考えます。まず、今まで貴方を生かしてきたフシミが、わざわざこのタイミングで襲う理由がありません。もし貴方が本名を明かして世に出てくることが嫌なら、その前にどうにでもできたはずです。であれば、真犯人は別にいると、私は思います。そしてもう一つは、私たちがどうして貴方の家まで一瞬で移動したのかです。」

 銃撃されたことで既にリクトとアリスの頭はパンク状態。そこへ更に十五年前の件や七家門の一つがユウトを殺そうとしているなど、現実をかけ離れた話ばかりで、全く処理が追い付いていなかった。だから最大の非現実をすっかり忘れていた。

「………そうだね。僕はあくまで状況証拠からそう推察しただけで、本音を言えばフシミの犯行とは思っていない。」

 ユウトは何を思ったのか、二つ目の話題については触れないこととした。

「目星は付いているのですか?」

「いいや。でも銃の出処から分かるかもしれない。」

 ユウトにとっても、フシミがこのような大胆な手段を取るとは思っていない。だが、現状フシミ以外の犯人を思い付かないのも事実だ。だから、あの銃だけがヒントだ。

 ナギトはユウトの言葉を受けて、何か考えているようだった。

「ナギト君。巻き込んでしまって申し訳ないけれど、君は今後この件に関わらない方がいい。僕と関わるのも良くない。」

「………それは、僕が家門の人間だからですか?」

 ユウトは答えなかった。

 しばらくの間、沈黙が狭い空間を突き抜けた。

 ナギトの家に近付くと、手前で止めて下さいとナギトは言った。兄達にバレたくなかった。

 了承したカオルは、家が見えるあたりの距離で車を停めた。

 しかし、ナギトは降りようとはしなかった。

「…………私は、今の差別社会が嫌いでした。ただ生まれが良かっただけで一生の地位を確立し、他者から搾取することしかできない彼らに、酷い嫌悪感を幼い頃から抱いていました。何故他者を傷つけるのか、何故他者を差別するのか、何故他者を虐げるのか、私には理解できません。………でも、私がそう思っていただけで、実際は彼らと何ら変わらない人間なのだと最近気付かされました。入学式があったあの日、指定された教室とは別の教室で、一人の新入生が上級生に虐められていました。蹴られ殴られ罵られ。それでも彼はうずくまって抵抗を示さなかった。私はそれを見つけた時、いじめていた加害者に嫌悪感を覚えながら、何もしませんでした。所謂上流階級の生活に図らずとも浸っていた私は、そういったいじめを日常茶飯事の感覚で見てきました。だから、いじめられていることに関しては何も思いませんでした。私がどう考え行動したところで、この世界から差別は無くならない。どんなに彼らを説得しても、絶対に無くならない。そう思って、自分は彼らとは違うと思い込んで、何もしませんでした。その時、貴方が来ました。貴方はそれを見つけると、何も躊躇することなく止めに入りました。そして、教室からその男子学生を連れ出す時、一瞬私と目が合いました。その時の貴方の瞳に映る私は、いじめていた彼らと何ら変わらないものでした。冷たく威嚇し、軽蔑する目。私がいつも彼らに向けている眼差しで、貴方は私を見た。そこで初めて気付きました。何もしないことは、加害者と同じなのだと。」

 ナギトは、また思い出す。何度でも思い出す。あの時の、ユウトの瞳を。瞳の中に映る自分を。それはきっと、彼の人生において消えることはない、一生の戒め。

「それから、私は貴方のことが気になるようになりました。今まで話したこともない人にこんなことを言われて気持ち悪いかもしれませんが、私は貴方のことをもっと知りたいです。私が持っていないものを持っている、貴方のことを。」

「…………それが、理由?」

 ユウトは、どうしてナギトがこんな話をしているのか、大体の見当はついていた。

「………そうです。が、それだけではありません。今まで目を逸らしてきたものを、今度はしっかりと見つめて、考えて、そして行動したいのです。だから……だから私も協力します。」

「…………。」

 後部座席に座るナギトからは、助っ席に座るユウトの表情は見えなかった。しかし、明らかに答えを出し兼ねている様子だった。

「家門や貴族の情報については貴方よりも精通しています。きっと役に立てます。」

 ナギトにとって、これは天命だった。

 今までユウトのことを気がかりに思いつつ、接点を見出すことが出来ていなかった。それが、通りすがりの事件で偶然にも接点を得た。想像通りでも期待通りでもないが、ここを逃げてはいつまでも昔の自分のままだと、そう思った。

「………」

 ユウトはまだ答えなかった。

 だが、突然車のドアを開け、外へ出た。バタンとドアが閉まると同時に、今度は後部座席のドア、ナギトの反対側のドアが開いた。

 ユウトが乗ってきた。

「わかった。」

 ユウトは顔が見えない状況で話を進めず、しっかりとナギトの目を見て話した。

 ユウトとしては、リクトやアリスにはこの件に関わってほしくなかった。命の危険が伴うからだ。しかし、協力者が欲しかったのも事実で、特に他の家門の情報は得にくいため、この話はユウトにとって益になる提案だった。

「これからよろしく。ナギト・メーク君。」

 差し伸べられた右手をナギトは握り返す。

「こちらこそ、よろしくお願いします。カイヅカ・ユウト君。」

 



 今思えば、これが始まりだったのかもしれない。



 *



 ナギトが車を降りた後、自宅へ帰る最中の車内。

「ごめんなさい、カオルさん。覚悟を決めたつもりだったけど、いざこうなると僕は……」

「いいんですよ。私もカエデも望んでいたことです。私達のことなんか気にせず、ユウト様は好きなようにやればいいのです。」

 つい先日まで咲き誇っていた桜は、もう散り散りに落ちて貧相な風景になってしまった。

「彼らには話すんですか?」

「………どうだろう。でも、今日の出来事を考えれば、知っていると不都合になる可能性もあるから。」

 ユウトの言う不都合とは、狙われるという意味だ。

「そうですか。」

「カオルさんは反対?」

「いいえ。ユウト様の言う通り、特別な力を持っているから特別、という訳ではないことを理解してくれる人が、一人でも多く現れることを願っています。そうなれば、きっと受け入れてくれます。」

「そうだね。ありがとう。」

 ユウトは帰る。自分を受け止めてくれる家族がいる家へ。

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