第4話 秘密

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「ヘェーーイ!! エヴリバディー!!!」

 盛大に教室の扉を開け放っては、いきなりそんなことを大声で叫ぶ変人が突如現れた。

 クラスごとに教室は用意されているものの、所謂朝のホームルームのようなことは、週に一回しかない。基本的には講義のある教室へ各自で移動し、講義が終われば各自解散する。クラス単位で動くことは、それこそ何かしらのイベントでもなければ起こりえない。そして、一限の講義の前に教室にクラスメイト達が集まっているということは、これからそのイベントがあるということだ。

 見た所同じ学生のようだが、見覚えがない。上学年か、もしくは違うクラスの人だろうか。

「フンフフンフフーン♪」

 アフロに近い天パに糸目。口元は常に笑っており、鼻歌を歌いながら軽快なステップで壇上に上がる。

 教卓の前で立ち止まると、片手を目の上にかざし、何かを探しているかのように教室全体を見渡した。

 そう時間もかからず、

「お、いたいた。」

 どうやら突発的にこの教室にやってきたのではなく、もちろん教室を間違えた訳でもなく、明確な目的を持ってやってきたのだ、この男は。

 そして、その目的は見つかった。

 また鼻歌を歌ってスキップしながら、窓際の座席へ向かう。

 誰もが露骨な不信感、猜疑感を男に向ける中、男はある学生の座席の前で立ち止まった。

 少しの間、学生を眺めうんうんと一人勝手に頷いている。まるで、自分の答えが正しいことを確かめるかのように。

「フッ…………フッハッハッ!」

 一度ニヤけたかと思うと、突然高らかに笑い始めた。

「あーいや失礼。チミが、カイヅカ・ユウト、だね♪」

「……そ、そうですけど…………」

 流石のユウトでも、若干引いている。

 凍りついた教室の雰囲気を全く気にせず、グイグイとユウトとの距離を詰める。

「オレの名前は、シモンズ・スターライドさ。以後、お見知りおき♪」

「え、えぇ。よろしく……」

 顔が近すぎて、ユウトは座りながら目一杯仰け反っている。引きつった苦笑いも、彼には届かない。

 至近距離で差し伸べられた手を握るが、

「………………」

「………………」

 ユウトと握手を交わすと、シモンズは手を握ったまま自分の方にユウトを引き寄せた。

 至近距離以上に近い、唇と唇が触れそうな程に、近い。

 外から見たら、まるで口付けをしているように見えるため、教室内が変な意味でどよめいた。

 実際は口付けなどしていないのだが、開いているの閉じているのか分からないシモンズの目が薄っすら開いた。

 (僕を……見ている…………)

 独特な深緑を帯びた瞳。雰囲気や表情とはかけ離れた、鋭い眼光。

 顔を離し、シモンズは満足気に微笑んだ。

 しかし、すぐにいつものおちゃらけた雰囲気に戻った。

「これはお近づきの印さ♪」

 胸ポケットから二つ折りにした紙切れを、一方的にユウトに直接渡した。

「それじゃ、バイ♪」

 シモンズは嵐のように教室を去っていった。最後には、ごきげんようエブリバディー、なんて叫んでいた。 

「ユウト君! 彼と知り合いなの!?」

 シモンズと入れ替わりで、リクトとアリスがやって来た。

 妙にアリスが興奮気味なのは何故だろうか。

「ううん。彼とは初めましてだよ。アリスさんは彼を知ってるの?」

「勿論です!」

 両手を胸の前で合わせて、乙女のように瞳を輝かせた。

「シモンズ・スターライド。七家門スターライド家の時期跡取り候補。幼少期からプロデューサーとしての才能を発揮し、アパレルブランドを多く手掛けたことで有名です! ファッションに留まらず、数々のモデルやアーティスト、時には高級住宅の内装まで手掛け、彼が目を付けたものは絶対に売れるとまで言われています!」

 一人の世界にトリップしてしまったアリスを横目に、リクトに助けを求める。

「アリスさんはファッションに目がなくてですね、特に彼の手掛けるブランドがお気に入りなんですよ。」

「ええ! 彼は表に顔を見せないのでお名前しか知りませんでしたが、まさか同じ学校に所属しているなんて!」

 (彼女、こんな一面も持ってるんだ………)

 意外ではあるが、アリスのプライベートな側面を知れて、嬉しい気持ちもある。真っ当な学校生活を送ってこなかったユウトにとって、友人を作ることは新鮮な気持ちだ。友人の趣味趣向を知ることは、お互いを理解する第一歩だ。

 普段は大人しそうだが、貴族ばかりの校内環境が彼女の性格にブレーキをかけているのかもしれない。いやきっと、アリスだけではない。この学校に入学できた喜びは束の間、差別と格差に苦しむ日々に、みんなどう感じているのだろうか。

「ところで、ユウト君はさっき彼から何を頂いたのですか?」

 ふとアリスが、ユウトの手元に目を移す。

「あ、ああ。これね。メールアドレスが書いてあったよ。彼のものかな?」

 そうユウトが言うと、二人は納得して様々な予想を立て始めた。

 ユウトは、平然のように嘘をつく自分がどうしようもなく好きになれなかった。

 紙切れに彼のものと思われるメルアドが書いてあったのは事実だ。

 ただし後半に、続いてこう書いてあった。


 

『キミは、どう世界を変えていく?』


 

「ハッハッハ。相も変わらず人気者だね〜、ユウト様は。」

 嫌味たっぷりにそう告げてきたのは、シンジロウだった。

「今までひっそりと怯えながら生きてきたっていうのに! もしかして、今更ちやほやされたくて名前を明かしたのかな? もしかしてかまってちゃんなのかな!?」

 見下し蔑みながら、ユウトの前を横切り教室を出ていった。

 隣にいるリクトとアリスは、明ら様に不機嫌そうな態度を示したが、決して何も口にしなかった。

 これが現実だ。

 誰も、家門出身者には逆らえない。


 

               *



 広大なエーデルシックザール軍事学校の敷地内。校舎は比較的正門の近くに位置し、校舎を囲むように様々な施設が建てられている。その内の一つに、今ユウト達が来ている軍事演習場がある。

「やあ、よく集まってくれた。未来ある新入生諸君。」

 驚くことに、新入生達を出迎えてくれたのは、この学校の校長フシミ・サイその人であった。

「学校生活はどうだろうか。自分達が最高峰の教育機関に在籍していることをひしひしと自覚し始めた頃だと思うが、今日は早速この学校の最先端技術を知って頂きたい。」

 話も程々に、入口から大人の男性二人が入って来た。

 どうやら、新入生全員を集めた理由はそこにあるらしい。

 全員の視線が男性二人に集まる中、ふと遠くにいるシモンズと目が合った。彼はユウトに向かって控え目に手を振った。何故かユウトは気に入られてしまったのだが、その理由はまだ分からない。

「紹介しよう。こちらのお二人は、元人類軍の兵士であり、今はフシミ家の研究所のテストパートナーとしてお世話になっている。今日は特別に皆さんの前で『ある装備』を披露していただく。」

 二人は自己紹介することなく軽く一礼すると、再びどこかへ行ってしまった。入ってきた入口とは別の扉から出ていった事を見ると、準備をしに行ったのだろう。

 ある装備、というのは、恐らく巷で話題になっている『フレキシブルアーマー』のことだろう。

「ご存知の通り、我々フシミ家は『魔鉱石』を発見し、これを軍事産業に積極的に取り入れることで更なる飛躍を遂げました。今からご覧になるのは、その魔鉱石を防具に活用した高汎用性、高柔軟性を兼ね備えた一級品です。」

 最近フシミ家が新たな兵器の開発に注力していることは、フシミ家自らが公言していた。メディアによってそれは装備なのではないかと指摘され、フレキシブルアーマーという名前と防具であることは明かされたが、詳細は伏せられたままだ。ユウトや他の者にとっても、実際に目にするのは初めてだ。

 恐らく未完成なはずだが、今年は家門出身者が多く入学したために、ここで自分達の技術力をアピールしたいのだ。わざわざ『全体演習』と題して新入生全員を集めてまで、だ。

 時間を空けずに、二人が戻ってきた。

 集められた新入生達がどよめく。

 無理はない。

 さっきまでカジュアルな服を着ていたのだが、今は黒に近い灰色の全身装甲を身にまとっている。

 ただし、装甲と言うよりは最早薄いスーツのようだ。角ばって金属質な予想に反し、体のラインは崩さず沿うように密着している。関節部は色が淡く、装甲が薄いことを示している。逆に脛や腕、胸部には追加で鉄か合金でできた装甲が足されている。ある程度の柔軟性はあるものの、曲げる箇所では装甲が厚く出来ないのだろう。

 首周りにはガードのようなものが取り付けられており、一目見て想像したのが靴の口だった。靴の口は、足首の挙動を大きく阻害せずに、しかしある程度のクッション性を兼ね備えている。そして踵部から後背部までの曲線味を帯びたヒールカップは少し高くなっており、人の足の構造に合わせた設計となっている。フレキシブルアーマーも同様に、人の最もな急所の一つである首を守り、かつ動き回りをそのままに保つために、側面部は少し低めに設定され、前面と後面は口蓋垂や後ろ首を守るよう少し高く設計されている。また、ここは極度に密着させずに余裕を持たせることで、首を普段通りに動かすことが可能だ。

「それじゃあ、いつも通りに。」

 二人に向かって、サイがそう呟くと、頷いた二人は奥に広がるフィールドに向かった。

 頭や顔を全面的に覆って守っていないのは、そうすると返って視界が塞がってしまうからなのか、それとも開発途中なのか。

 冷静に分析する中、他の生徒達はソワソワと胸が高鳴っているのが伝わる。

「では、初めに簡単なテストを行いましょう。」

 サイがどこかへ合図を送ると、何もなかった一面コンクリートの演習場に壁が何枚も生えてきた。

 テスターの二人が壁の前に立ち、サイが再び合図を送ると、

 ドォォォン!!

 人の倍高さも厚さものある壁が、その一突きで、その一蹴りで、いとも容易く木っ端微塵に砕かれた。

 これには今まで表情を崩さなかった貴族出身の面々も、驚きを隠せない。

 まるでこちらの反応を見計らったかのように、次々とテスターの二人が壁を思い思いに砕いていく。

 (あれは恐らくコンクリートで出来た壁。強度は実際に触ってみないと分からないけど、地面に落ちる激しい音から本物。高さはおよそ百七十センチ。厚さは三十センチ位。地面で固く固定されていてあの密度のコンクリートの壁を、簡単に壊してしまう威力。)

 彼らの表情は余裕そのものだ。スポーツ選手が楽しそうに会話しながらウォーミングアップしているかのような感覚に見える。

 「次。」

 サイの言葉と共に、次はドームのような形の天井から、片手で軽く掴めるくらいの太さの棒が二本伸びてきた。高さ数十メートルの所で固定されると、棒全体が赤く光った。

「OK。」

 テスター達が頷くと、二人でタイミングを合わせ、同時に飛んだ。

 常人では、垂直跳びで数十センチしか跳べない。それが、人間の肉体構造での限界だ。幾ら跳躍方法、トレーニング方法が科学的に最適化され進歩したとしても、我々が生身である以上上限はある。

 そもそも、人間が軽く膝を曲げて地面から上に向かって跳ぶとき、それを『飛ぶ』とは表現しない。

 フレキシブルアーマーを『防具』としてでなく『装備』として紹介したのは、その点に理由がある。

 あれは、生身の人間の領域を超えた可能性を引き出せる。使う人の訓練次第で、いかようにも用途が増える。だからこその『フレキシブル』なのだ。

 絶大な爆発力で飛んだ二人は、固定された棒に触れることに成功した。

 赤色の発光が緑の発光に切り替わった直後、自然と拍手が沸き上がった。

「凄いね、リクト君。」

「うん! まるで鳥のように飛んだよ! あの二人!」

 隣のリクトとアリスが楽しそうにテスターの様子を眺めながら会話をしている。

「――――ユウト君はどう思う?」

 リクトがユウトに話を振ってきた。

 前の話から深く聞いていなかったのもあるが、ユウトは一瞬きょとんとした様子で返事をしなかった。

「ユウト君?」

「……あ、うん。そうだね。僕もそう思うよ。」

 何故なら、彼の目が少年のようにキラキラと輝いていたから。

 その後も、二人に合わせて会話を弾ませる。

 しかし、胸中は曇っていた。

 誰も本質的に理解していない。

 この『兵器』は、一体何の目的で開発されたのか。これを開発したのは誰なのか。

 この力が、一体誰に向けられるのか。

「最後に軽く模擬戦を見てもらいましょう。そこで。」

 言葉を区切ったサイは、ある学生を指差してこう言った。

「どうでしょう、テストのために、彼と戦ってもらうというのは。」

「…………え……?」

 全員の視線が、集まる。

 端で目立たないように立っていたハックに。

「そう、君だよ。サイアド・ハック君。」

 名指しで呼ばれ、ハックは震え上がった。今から常識を超えた装備を手にした軍人と戦えと、そう言われ呆然と固まってしまった。

「ちょっと待って頂けませんか、校長!」

 声を上げたのは、ナギト・メーク。フシミ家に並ぶ、七家門の一つ。

「どうしたのですか? ナギト・メーク君。」

「あの装備をさせた者とさせていない者を直接戦わせるのは非常に危険です!」

「なに、御心配には及びません。これはあくまでテストですよ。それに、彼はあの色付きですよ? 人間を超えた力が一体どれ程通用するのか、テストするのは当然でしょう?」

「い、いや、しかし――」

「問題ありません。私がそう言っているのですから。」

「…………。」

 口調はそのまま、語気を強めてナギトを言いくるめる。

 表情はにこやかなままだが、確実にナギトを視線で脅していた。これ以上の口論は、家同士の問題に発展し兼ねない。家門出身であるとはいえ、向こうはその家主でこちらは一学生。家族に要らぬ心配と手間をかけさせたくないナギトは、黙るしかなかった。

「それに、彼も立派な軍人の卵です。人間の発展のために尽力は惜しまないでしょう。ねえ?」 

 その問いかけに、ハックは以外にも妙な納得を覚えてしまった。

 自分みたいに差別されている人種が、入学金を払えたとはいえ、貴族や家門達が通うエリート校に入学を許可されたワケ。

 欲しかったのだ。貴重なサンプルが。

 魔人に近い血を持つ色付きの、肉体サンプルが。

 (僕は……僕は……)

 ただみんなと同じように学び、同じように笑う。そんなありふれたことを望んでいたのではなかった。しかし、ここで自分と自分達の人種の将来を変えられる第一歩を踏み出したいと願っていた。それが蓋を開けてみたら、上の人間のモルモット扱い。

 一縷の希望は、崩れ落ちた。

 本能的に理解してしまった。きっと自分が何をしようと、彼らを変えることはできないと。自分達に降り注ぐ差別の嵐を止める手はないと。

 無気力のまま、フィールドに向かう。学生達のヒソヒソと笑い罵る声が聞こえる。当然だろ、という視線を向けられる。

 (しょうがないじゃないか。この学校を創った偉い人がそうしろって言うのだから。僕が、逆らえる訳ない。)

 段々と苛立ちが募っていった。普段抑圧してきた、現状への不満と怒りや憎しみ。

 沸々と膨れ上がる感情は、力に変換される。

「死なない程度でテストしろ。」

 そうインカムからテスターに指示を出すサイの声は、しっかりとハックに聞こえている。わざとだ。

 さっきは紳士そうなテスターの二人も、ハックが前に立つと、壁を見るような目で楽しげだ。

 僕は人間じゃない。

 そうハックが思うには充分だった。

「サイアド・ハック君。好きに打ち込んでくれたまえ。」

 サイが発破をかける。

「……う、うあああ!」

 抑えていたものを吐き出すように、自分でも聞いた事のない雄叫びを上げながら、テスターの一人に突進していった。

 誰かを殴ったことも蹴ったこともないハックは、無茶苦茶に手足を振り回した。

 アッハッハッハッハッ、と笑い声が広がる。

「いっ……」

 全ての攻撃をノーガードで受けても、ダメージを与えるどころかピクリともその場から動かなかった。加えて、攻撃したハックが逆にダメージを受けている。拳からは血が流れ、足は服の下で見えていないが内出血で腫れている。

「ああ! ああっ!」

 頭ではわかっているのだ。何をやったって意味がないって。それでも、ハックの体は攻撃をやめなかった。痛みに泣いて、それでも声を上げて立ち向かう姿を、みんなは笑って見ている。

 しょうがない、仕方ない。

 だってこれが、変えようのない世界の常識、当たり前と言うものなのだから。

 いくら抗っても、無意味だ。無駄だ。無価値だ。

「はぁ、はぁ、はぁ。」

 体力が限界に来て、ようやくハックはその手を止めた。

 傷一つ付けられなかった。その事実が、余計に彼を惨めな思いにさせた。

 どう足掻いたって、何も変えられない。

「はぁ〜。」

 飽きてきたのか、テスターは欠伸を漏らした。

「もういいだろ。」

 見物していたもう一人のテスターがそう声を掛ける。

「それもそうか。」

 ズカズカとハックに近寄っていく。

「それじゃあ、とりあえず一発!」

 膝に手をついて呼吸を乱しているハックのみぞおち目掛けて、テスターが腕を大きく振りかぶり、そして、

「やめ――」

 思わずナギトが声を上げた時だった。

 頬を微かな風が素早く叩いた。自分だけが感じたのか、それともみんなが感じたのか。そもそも風だったのか、思い違いだったのか。

 どちらにせよ、次の瞬間、パァァンン!! と大きな破裂音と共に激しい風圧が学生達を襲う。

 周囲に落ちていた壁の瓦礫は撤去されておらず、盛大に舞い上がった砂塵によって視界は遮られた。

 (一体何が!?)

 ナギトが困惑の中、ただ一人、シモンズだけは愉悦に浸っていた。

「あれ、ユウト君!?」

 ようやく、リクトが先刻まで隣にいたはずのユウトがいないことに気付く。

 リクトは直前に、ユウトが小さく何かを呟いたのを聞いていた。そのため、余計に今の状況が飲み込めない。

「度が過ぎてますよ。」

 砂埃の中、ハックに迫ったテスターはその声をしっかりと聞いた。彼も今の状況を全く飲み込めない一人だ。

 分かっていることはただ一つ。

 自分の拳が、誰かに止められているということ。

 (まさか、止めたのか!?)

 有り得ない。しかし、現実にそれが起きてしまっている。

 視界がクリアになるに連れて、一人の姿が浮き彫りになる。

 フィールドにいるはずのない、四人目の姿が。

 (カイヅカ・ユウト!?)

 ナギトは痛感する。まだこの学校に入学して数日しか経っていないが、一体何回彼に驚かされればいいのだと。

「ユウト君!? なんであんな所に……」

「校長。」

 一人の大きな男が、サイの前に立った。

「流石に今のはやり過ぎなのではありませんか。」

「………これはこれは失礼した。フラウディウス・ハルバート君。こちらに何か手違いがあったようだ。」

 サイは白々しく非を認め、遠隔でテスターにテストの終了を告げる。

 テスターの二人が含みありげにフィールドを去って行く。

 その事を確認すると、フラウディウスは一礼して元いた位置に戻っていった。

「それにしても、よく寸前で止めたものだ。ただ、相手があれならやってしまっても構わなかったのだがな。」

 インカムを通じて、誰にも聞こえない声量でサイがテスターと会話をする。

「い、いえ………」

 サイはこう考えていた。

 テスターの彼は、ハックを殴る寸前、誰かが割って入ったのを感知して拳を止めたのだと。一瞬の事で、割って入ったのが人なのか物なのかの判断も難しく、それが仮に貴族や家門出身の学生だった場合、アーマー装備時の拳を受ければ一大事だ。総合的に判断して、テスターの彼は拳を寸前で止めた。

 実際は割って入ったのがユウトであったため、であればいっその事とつい言葉を漏らしてしまったのだった。

 曖昧な返事で返した彼の胸中は、雇用主との会話よりもユウトに囚われていた。

 (俺は止めたんじゃない。全力じゃなかったとはいえ、軽く人が吹っ飛ぶ力だぞ!? それを、あいつは止めたんだ! 真正面から! そもそも、どっから湧いて来やがった!?)

 それぞれの思いが交錯し、事態は収束を迎える。

 ユウトは何も言わずに、ハックの半身を支えてここの演習場に備えられた医務室に向かった。

 ハックもその間、下を俯いたまま、一言も口にしなかった。



 (フラウディウス・ハルバート。)

 七家門の一つ、ハルバート家出身にして、時期家主としての将来が確約されている。一族随一の肉体と頭脳を持ち合わせ、将来を嘱望されるハルバート家の有名人。

 (僕は……僕は………)

 ナギトは、ここ最近分からなくなっていた。

 将来家門を背負う身として、責任と配慮ある行動をしなければならない。特に、ここエーデルシックザールは他の家門や貴族出身の子達が沢山通う。失礼なく、恥ずかしくない行動が求められるはずだ。家門同士のいざこざなど以ての外だ。

 そう思っていた。

 彼らを理解出来ている訳ではない。平気で差別と暴力を繰り返し、金と権力にしか興味がない人達。

 しかし、どんなに人格的に嫌悪したところで、自分は家門と領地を背負っている。個人の判断で多くの人の人生が左右される。

 ユウトとの出会いで、それが揺らいだ。

 さっきのフラウディウスの行動もそうだ。自己中心的と捉える反面、何もしない自分はどうなのかと問いかける。

 答えは、まだ分からない。



               11



「ユウト君、一緒に昼食をどうですか?」

 勿論断る理由もなく、

「うん、いいよ。」

 ユウトは、学校ではリクトやアリスと一緒にいることが多い。

「ハハッ、またあいつかよ。ホント犬みたいだな。」

 教室の奥の方から、誰かの声が聞こえた。シンジロウだ。

 リクトはよくユウトと一緒にいることから、一部ではリクトをユウトの犬だと揶揄しているのだ。

「………ユウト君、行きましょう!」

 聞こえていないふりをする。

 アリスも同様だ。

 反論ができないから、反応するだけ無駄なのだ。多くの庶民が身に付けている処世術の一つだ。

 リクトに引かれるように教室を出る。

 まだ知り合って間も無いが、リクトとアリスは自分に友人として接してくれている。それが、ユウトにはとても嬉しいことだった。

 しかし同時に、それによって二人がさっきのように要らぬ言葉を掛けられてしまうなら、それは悲しい。

「大丈夫ですよ、ユウト君。」

 ちょっとした表情の変化に気付いたリクトは、ニッコリと笑って見せた。

「それより、ハック君は大丈夫でしょうか。」

「私も心配です。彼、血も流れてたし、大丈夫かしら。」

「うん、大丈夫だよ。医務室の先生が診てくれる所まで一緒にいたから。骨にも異常ないみたいだし。」

 ハックを案じてくれる人は、ユウトだけじゃない。声を大に出来ないだけだ。

「所で、誘ってくれて水を差すようだけど………」



               *



「音楽室?」

 三人は食堂ではなく、八階の隅っこに忘れられたかのようにか細く存在する音楽室の前にやって来た。

 音楽室なんてあったんだ、みたいな顔で突っ立っている二人をよそに、ユウトは教室を出る時から持っていた小さな手さげバックから鍵を取り出す。

「鍵? もしかして……」

「そのもしかしてだよ、アリスさん。」

 ユウトは子慣れた手付きで解錠し、扉を開ける。

 リクトとアリスが驚いた点は二つ。

 一つは、最先端をいく新設校だというのに、扉のロックが電子キーやパスワードでなくアナログなキーだということ。恐らくここの他に鍵何てものを使う部屋は存在しない。それは、この音楽室を粗雑に扱っている証拠なのだ。

 もう一つは、なんといってもその鍵をユウトが持っていた点だ。しかも、職員室から借りてきたのではなく、所持して持ち歩いている。

 (同棲する彼女に合鍵を渡すようなもの!)

 妙な妄想をしたリクト。まあ、意味合いは間違っていないが。

「別に誰もいないから、安心して。」

 決して大きいとは言えない音楽室。二十人一クラスが入ると窮屈さを覚えるだろう。パッと見音楽室らしいものはグランドピアノ位で、多くもない楽器達は隣の教師の居室に置かれており、防音遮音性に長けて独特な湿度を含んだ部屋と化している。

 ユウトが適当な椅子に座ったため、リクトとアリスは目を合わせながらソワソワと近くに座る。

「はい、これどうぞ。」

 ユウトは二人に、パンや飲み物が入った袋を一つずつ渡した。

「いや、ユウト君。やっぱり受け取れないですよ。」

「そうですよ。ユウト君が買ったのに、私達が頂くなんて。」

「いいのいいの。僕がこっちに誘ったんだから。だって、二人とも食堂で食べる予定だったから持ち合わせなんてなかったでしょ?」

「それは……」

 ここへ来る前、購買でユウトは二人分の昼食を買ったのだ。最初二人は音楽室に行くことを知らなかったし、ユウトが意外にも大食いなのかと感心すらしていた。蓋を開けてみれば自分達の昼食を買ってくれていたのだ。

「食堂に行くと、色んな人に声を掛けられてね。ああいう賑やかさは少し苦手でね。」

 自己紹介で本名を明かして以降、学校のみならず現界中に広く知れ渡った。

 カイヅカ家に生き残りがいた、という事実が。

 学校では一躍有名人。登校中や廊下を歩いている時ですら声を掛けられる。

 リクトとアリスは、ユウトの発言『色んな人に声を掛けられる』の意味として、ちやほやされるイメージを抱いた。

 コンクールで賞を取った人の周りをクラスメイト達が囲うような、和気あいあいとした風景。

 だが実際は違う。周囲の視線は冷ややかで、声を掛けてくる人は決まって好奇心か真意を見定めに来ただけ。二人の思っているようなイメージとはズレている。カイヅカ家が貴族や家門の中で疎まれ嫌われていた証拠だ。

「二人は僕を昼食に誘ってくれた。でも僕は食堂で食べないから、代わりに二人の昼食を買った。これでおあいこ。ね? 遠慮はしないで。」

 二人はそれでも渋っている。その心理を、ユウトは理解出来ている。まだ出会って短い。同じクラスメイトとはいえ、元家門を名乗る自分との見えない溝は深い。

 だからユウトは、袋を二人の前に置いて、自分のバックから弁当箱を取り出し、早速食べ始めた。

「「…………」」

 二人は目を合わせた。逆に頂いたものを頂戴しないのも失礼に当たるのではないか。そんな事を考え始めて、再びユウトに視線を戻すと、

「「!!」」

 驚くくらい爽やかに、ユウトは微笑んでいた。つい、こちらの緊張が解れてしまうくらいに。

 二人は袋に手を伸ばした。

「ユウト君のお弁当は、自分で作ってるのですか?」

 三人でモグモグと食べ始めて間もなく、アリスがそんな質問をした。

「ううん。僕のかぞ………あ、そうか。」

 家族、と言いかけて、ユウトは一人勝手に納得した。

 ユウトの家族は、全員十五年前に死んだ。二人の中では、ユウトは一人で暮らしていると思っているのだ。

 (それもそうか。)

 あまり暗い話に持ち込みたくないユウトは、

「僕はね、カイヅカ家の邸宅で働いていたメイドさんの親子と一緒に暮らしていてね。その人に学校のある日はお弁当を作ってもらってるんだ。」

「そうだったのですね。そのメイドさんはどのような人なのですか?」

「うーん、そうだね………」

 聞かれてみて、意外にも彼女達を表す言葉がパッと出てこないことに気付く。

「あの……メイド服とかは着てるんですか?」

「え?」

 悩むユウトに対して、小声かつ早口でそんな事を聞いてきた。

「………はぁ、リクト君。」

「いいじゃん。気になったんだから。」

 彼女を前にして、抑えられない欲望。思春期男子にとって、メイドさんは憧れの一つ。

「滅多な事がないと着ないかな。」

 火事の一件以前は、カオルはお仕事としてカイヅカ邸に従事していた。その時の服装は所謂メイド服と決まっていたが、火事以降は着る機会がめっぽう減った。

「……そうですか。」

 リクトはガクンと肩を落とした。アリスももう一度大きな溜息をついた。

「今度カエデさんに言えば来てくれるかも。ちょっと言ってみるね。」

「ちょっとユウト君! 本気にしないで下さい!」

 同じ年との交流が少なかったユウトは、冗談と本気の境が分かりづらい。アリスに言われてもまだ意味が分からず、キョトンとしている。このままだと写真とか撮って送ってきそうだと思ったアリスは、別の話題にすり替える。

「ユウト君は、どうしてここの鍵を持っているのですか?」

 口に含んだおかずを飲み込み、

「それはね……」

 ガラガラ、と音楽室の扉がゆっくりと開いた。

「今日も来ているのかね、ユウト君。おや? 今日はお友達も一緒かね?」

 入ってきたのは、非常勤講師のバッハ。

 誰? みたいな顔して、リクトとアリスは固まった。

 入ってきたおじさんがどの立場の人か分からなくて、反応に困った様子だった。

「私は音楽の講師、ダンテ・バッハです。非常勤ですけどね。」

「「こんにちは。」」

 立って挨拶をしようとした二人を、手を挙げて制止した。

「いいよ。昼食の最中に申し訳ない。明かりが見えて、てっきりユウト君しかいないと思ってしまって。」

 バッハも片手にビニール袋を持っていた。昼食がまだなのだ。

「私もご一緒しても?」

 二人が頷くのを確認して、ユウトの隣に座った。

「それで、さっきの話の続きだけどね。」

「おや、どんな話をしていたんだい?」

「僕がどうして音楽室の鍵を持っているのかって話です、バッハさん。」

「成程。それは確かに気になるだろうね。」

 バッハは袋からパンとサラダ、それとお湯を注いで作るスープを取り出した。年齢に見合ったバランスの取れた昼食。若者が購買で買ったらこうはならないだろう。

 バッハは基本音楽室の隣の居室におり、昼食前に職員達の会議に出席するために一度離れる。その間に三人がやって来たのだが、会議に向かう前に事前にポットにお湯を沸かしていた。ポットからノータイムで熱々のお湯を注ぐ。

「彼はちょっとした有名人ですからね。学校の中に一つや二つ、心を落ち着かせる場所があってもいいと思って、彼にここの鍵を渡したのです。ああ、勿論合鍵ですよ。普段は職員室に保管されています。」

 スープを一口、隣を見ると、ユウトのお弁当に反応した。

 今日もまた美味しそうですね、とバッハが言うと、食べますか? とユウトは自身の弁当を勧めた。

 その後もユウトとバッハは他愛のない会話をしていたが、以前リクトとアリスは緊張しているようだ。

 状況を察したバッハは、自身の身の上話を始めた。

「私はここの講師をしてますが、代々この領地で暮らしてきた音楽一族なんですよ。」

「そうなのですか?」

 フシミ家がこの領地の統治を始めてからというもの、外部からあらゆる技術や人的資源を領地に取り入れたことで、多くのフシミ領民は職を失った。領地外の貴族、家門向けに設立されたエーデルシックザールでは、当然教師陣の質は教育機関最高峰であり、そうなると自ずとフシミ領民以外が赴任する。

 非常勤かつ需要が薄い音楽講師であっても、フシミ領民が選ばれることは珍しい。

 また、リクトやアリスが知る由もない事だが、フシミ・サイが直々に推薦したりすれば講師になるのは容易だが、バッハとサイには特に繋がりはない。

 バッハが音楽に深く精通している事を示す一方、音楽を嗜むフシミ領民が少なくなった事も表している。

「バッハ先生はどちらにお住まいですか?」

「私はここの付近に住んでますが………そう言えば、お二人のお名前をまだ聞いていませんでしたね。」

「僕の名前は、タナカ・リクトです。」

「私は、アリス・ルージュです。」

「これからもよろしくして頂けると、しがない老人の楽しみが増えるというもの。それと、リクト君はここの領民ですよね。どちら出身なのですか?」

「僕は東の海岸沿い、ツクモ町出身です。」

「成程、漁師町の生まれでしたか。」

 他の領地だと人々が固まって町を形成し、町が幾つも隣接するとまとめて別の名前を付けたりするが、かつてのカイヅカ領ではそういう事が少なかった。それは、農業が主要だったためだ。

 カイヅカ領地は、七家門の中で最も小さい。その上東南方向は海に面しており、農業に適した土地ではなかった。しかし、領民が土地に対して少なかった事から、海に近いところに幾つかの漁師町が形成され、内陸部では一人一人が広大な土地を有し農業に励んだ。田畑が広がる中にポツンと家が建っている、そんな光景は珍しくなく、町と言える規模の集落は多く存在しない。現界全体の地図では、カイヅカ領だけ余白が目立ってしまう様だ。

「週末、リクト君に町を案内してもらうんです。アリスさんもご一緒してくれます。」

「そうですか。それはいい勉強になりますよ。」

 以前カフェで話した時、ユウトの希望あってそういう約束をしていたのだ。

 

 昼食を食べ終わり、リクトとアリスは午後からの講義に備えて早めに教室へ戻ろうとしたが、

「ユウト君、少しいいですか?」

 バッハがユウトを引き止めた。

「ごめん、先に行ってて。」

「わかりました。」

「バッハ先生、失礼します。」

 リクトは頷き、アリスは一礼して音楽室を去った。

 扉が閉まったのを確認して、

「二人は、あの事をご存知なのですか?」

「いえ。まだ家族以外にはバッハさんにしか明かしていないです。」

「そうですか。ホッとしました。」

「どうしてですか?」

 本当に分かっていないユウトを見て、呆れた意味合いを込めた笑みを見せる。

 察したユウトは、扉から離れながら弁解した。

「僕は、そもそも秘密にしようなんてさほど意識していません。ただ、自分から積極的に話すことでもないと思ってます。」

 この質素でパッとしない音楽室で、唯一厳かな雰囲気を帯びるグランドピアノ。表層の漆黒は傷一つなく滑らかで、近づけた手の平を綺麗に映し出す。

「集団を成して生活してる以上、上下の関係は必ず存在し、普通と特別の違いも浮き彫りになります。ですが、それは特別ではなくて一種の個性だと認識しています。自分から見せびらかすつもりはありませんが、絶対的な秘密だとも考えていません。」

「その考えは、万人の持つものではないですよ。」

 バッハはユウトを諭そうとしているのではない。ただ、ユウトにこういう視点もあるのだと再確認させているのだ。

「はい。だから僕は考えています。どうしたら、皆がこの思想を共有してくれるのかを。」

「君が背負わなくてもいいんですよ。それは我々大人達の負債なのですから。」

「それでも、僕は変えたいです。」

「どうして?」

 まるでユウトを調律しているかのように、バッハは受け答えをしていく。

「僕は………」

 下に視線を向けると、ピアノの表面に反射した自分の目と合った。

 向こう側の自分が問いかけてくる。

 それは鋭くて冷たく、そして真意を突いた眼差しだ。

「僕は……」

 その先を、ユウトが話すことはなかった。


 

               *



「ただいま。」

「おかえり! ナギ!」

「兄さん!? 帰ってたんですか?」

 ナギト・メークは、玄関の扉を開けると、二階から降りてきた兄とばったり鉢合わせた。

 今の時刻は夕方六時。普段は七時を超えるはずだ。

「今日は早く上がってきた。なぜって……」

 ナギトをリビングへ誘導すると、

「………」

 目を見開いた。

 豪勢な料理が決して狭くない食卓を埋め尽くす。

「今日はナギの入学祝いだ!」

 リビングの入口で突っ立ったままのナギを押し込んで自分も入る。

「ちょっと遅めですけどね。」

 今度は、キッチンから女性の声が聞こえた。

「ステファニーさん、こんなに……申し訳ないです。」

「もう、謝んなよナギ。前も言っただろ? 俺たちはたまたま仕事で学校の近くに住んでただけで、お前のためにこっちに来たんじゃないだから。」

「そうですよ、ナギト君。私達が好きでやってることですから、ナギト君がこの家に住むことに対して気病むことはないのです。」

「………はい。ありがとうございます。」

 そう答える以外、選択肢は無い。

 私は、少しこういうのが苦手だ。してもらえている身分で言えたことではないが、どう反応したらいいのか分からない。

 私ことナギト・メークは、エーデルシックザール軍事学校の寮に入らなかった。

 メーク家の領地は、大陸の中央に位置し、現界の最も北、魔界と天界両方に隣接する。三百年前の種族間の大戦を経て、メーク家が人間社会防衛の為に界域の境界に高い壁を築いた。

 フシミ領は隣の隣に位置するため、本来なら入寮するのだが、偶然にも兄クラウン・メークが仕事でフシミ領にいた。学校のギリギリ徒歩圏内で、かつ兄が長期間フシミ領に滞在することから、兄の家に居候する話が上がった。本人の意見としては、兄に迷惑をかけたくなく入寮を希望したのだが、兄が強引に親を説得して、なし崩し的に今、ここにいる。

「ささ、腹減ったし早速……」

「ちょっと! まだ手洗ってないでしょ! あなたもよ! 何しれっと席に座ろうとしてるのよ!」

「え? 兄さんも今帰ってきたの?」

「あ、はは、わりぃ。今すぐに!」

 クラウンはナギトの背中を押してそそくさリビングを退散した。

 この家には私と兄以外に、兄の妻ステファニーさんが住んでいる。元々夫婦二人で暮らす予定が、僕みたいな邪魔者が入り込んで申し訳ない。

「はいじゃあ、みんな揃っていただきます!」

 帰宅からものの数分で、三人が食卓を囲った。

「う〜ん、うめ〜!」

「ほらほら、ナギト君も沢山食べて。」

「はい、喜んで。」

 どれも美味しいものばかりだ。本当に兄さんは、素敵な奥さんを頂いた。


 クラウン・メーク。二十五歳。

 ナギト・メークの兄にして、メーク家現家主の長男である。


 私と兄さんの関係はとても良好だ。しかし、私は本音の部分で兄さんを好きになれない。

 兄さんは成人した時点で、自分は家を継がないと父に明言していた。

『何だと!?』

『だーかーら、俺はメーク家の家主にはならないって! 俺よりかナギの方がよっぽど優秀さ!』

『はぁ。まったく……。』

 兄さんは自由奔放だった。とても七家門出身者には見えない。やりたい事をやりたいようにやり、言いたいことを好きに言う、そういう人だった。

 幼い頃は、兄のそういう部分が強さに感じて憧れていたが、外の世界を学ぶにつれて、私は自重と責任ある行動が必要だと知った。次第に兄を見る気持ちが変化していった。嫌いになったとかそういう事ではないのだが、良い方向でないことは確かだ。分かりやすく言えば、無責任だと感じるようになった。兄といれば楽しいし、私に未知な体験や知識を教えてくれる。とても新鮮だった。だけどそれは、クラウンとナギト、肩書きを外した兄と弟の間のお話だ。いっその事家を出てくれれば良かったものの、メーク家と絶縁する所か、メーク家の仕事を率先して請け負っている次第。実際、今フシミ領にいるのもメーク家に舞い込んだ依頼に関係している。

 私が次期当主として日々を過ごす中、兄さんは自由に生きている。当主になることが嫌という訳ではなく、だからといって兄さんにやって欲しいのかと言われればそうでもない。現状に特段の不満がある訳でもない。なのに何故か、心の奥底にモヤッとした気持ちが燻っている。

 私は思った。これは決して出してはいけないものだと。

 鍵をかけて、その事実はなかったのだと、自分自身を騙して、今日も僕は笑う。

 笑うとは、楽しいということ。それは正しい。私は今、兄とステファニーさんと美味しい夕飯を食べて、楽しい。

 しかし、笑う理由はそれ以外にもある。笑うことで、忘れる事が出来る。笑っている時は、楽しいのだと錯覚させてくれる。

 私がなぜ笑うのかは、私にも分からない。

「じゃあ兄さん、先寝るね。」

 そう言って、二人より早めに自室へ向かう。一時間程度勉強して、睡魔に身を任せるように電気を消す。

 目を閉じると、微かな風の音、車が通り過ぎる音、自分の体が布団のシーツを擦る音。それらと同じくらい鮮明に、学校での出来事の数々が脳裏をよぎる。決まって、そこには彼がいる。

 カイヅカ・ユウト。

 最近は、鍵が緩くなっている気がする。

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