第3話 光がつくる影、影から見た光

               6



「お帰りなさいませ、ユウト様。」

「ただいま、カエデさん。」

 ユウトが今住んでいる所は、カイヅカ家が所有していた別宅だ。過去に全焼してしまった邸宅は、ここからそう離れてはおらず、様々な用途でここは使われていた。

 例えば、子供がまだ小さく、元気に外を駆けずり回って遊ばせたい時は、急な来客などがいたら迷惑になるので別宅に連れて行ったりした。年末の大掃除の時の子供達の避難所であったり、家全般の雑事をこなす召使いが間借りしたりと、別宅の割には頻繁に使われている印象だ。

 別宅と言っているのだから、元ある邸宅よりも小規模になるのだが、それでもカイヅカ家の別宅は一般家庭の十倍以上の土地を有する。ユウトは鮮明には覚えていないが、燃えて今はない邸宅は途方もなく広かったに違いない。

 カエデはユウトの荷物を預かり、ユウトが靴を脱ぎ終わるまでじっと立って待っている。

 どうしてピンポイントのタイミングで玄関にいるのかというと、広大な庭を挟んだ正門が開くと、家の中のブザーがなる仕組みなのだ。インターフォンが鳴ってから誰か来た!、といった事態を防ぐことができ、また逆に、この時玄関に来られない人は、ブザーが聞こえない場所にいるか別の作業中で手が離せないかどちらかの状況だとわかる。家が広い分、こういった決まり事を設定しておけば、ある程度誰がどうしているのかが分かりやすくなるのだ。

「学校はいかがでしたか?」

「……いつも通り、だったかな。」

 この言葉が、ユウト本人を指して発せられていないことを、カエデは十分に理解している。

 靴を脱ぎ終えたのを見計らって、

「この後はどうされますか?」

「うーん。カエデさんはこの後空いてる?」

「はい……私は大丈夫ですが…………」

「じゃあ、これから散歩でもどうですか?」 



 春先の暖かい風が、微かに冷たさを帯びてくる十五時過ぎ。ユウトとカエデは、この地域では有名な桜並木の通りを歩いていた。

「毎年思うんだ。こんなにも綺麗な桜が家の近くに咲いているなんて、僕は幸せだなって。」

「そうですね。私たちは花見に出かけたことがありませんし、たまには外に桜を見に行くのはどうでしょうか。」

「うん、いいね。新鮮な気分で桜を楽しめそう。」

 堅苦しい制服を着替え、動きやすいズボンとシャツに着替えていたユウト。カエデは大きめのワンピースを着用しており、スカートの裾が風に煽られて隣を歩くユウトに触れる度に、申し訳ありません、と小声で謝り手で抑えた。大丈夫、と笑顔を返す度に、自分がつくづく平和で幸せなのだど認識する。

「………………ユウト様、どうかされましたか。」

 二人で上を見上げ歩いていると、カエデがそんな事を聞いてきた。

「きっと、……きっと、幸せなんてものは、こんな風にそこら中に転がっているものの筈なんだ。…………でも、世界には悲しみが満ちていて…………誰もがこの景色を純粋に楽しめる様に、……そう、出来たらなっ……て。」

 ふと広げた手の平に、桜の花びらが一枚、誘われたかのようにヒラヒラ落ちてきた。

 幸せ、というのは、単純に事象だけで完結するものではない。サッカーをしている時に幸せを感じる人が、辛いことがあって苦しい時期にサッカーをやったとして、果たしていつものように心地よくサッカーが出来るだろうか。

 寧ろ幸せというのは、事象よりも本人の心の余裕が大切なのだ。

 いじめが発生したクラスに幸せと呼べる出来事を沢山用意しようと、いじめた人といじめられた人が共存するクラスでは、必ずいじめらた人は幸せを享受できない。

 前を向くと、多くの人が行き交っている。しかし、その全員が楽しそうに桜を眺めている訳ではない。

「どうやったらできるのかな……。」

 人を変えることは容易ではない。特に貴族に生まれた人達は、人格形成に重要な期間を一般人とは共有できない価値観の中で育つ。教育を満足に受けられなかった人達には、正しく知識を教え導くことが出来るが、彼らは教養がある分、時間と共に凝り固まった思想を丸ごと変えるのは困難と言える。

 答えは、まだ分からない。

「……………………無理はしないで…………」

 カエデが足を止め、掻き消えそうな細い声でそう呟いた。

 ユウトは振り返ると、カエデは少しだけ俯いていた。

 普段の敬語ではなく、カイヅカ・ユウトという一人の人間に対しての言葉だった。

 その声が、果たしてユウトにしっかりと聞こえていたかは分からない。

 でも、ユウトはにっこりと笑って、また前を向いて歩き始めた。


 キュッと唇を固く結んで、言葉を飲み込んだ。

 小走りで隣まで駆け寄り、また同じ歩幅で歩き始める。

 カエデもまた、答えを見い出せていない。



               7



 中学や高校でよくある事だが、入学したての一年生目は、比較的基礎的な科目が多く並ぶ。

 例に漏れず、ここエーデルシックザール軍事学校でも、初年は四年間の在学期間の基礎を育てる期間である。

 異なる点と言えば、基礎の半分は座学で、残りの半分は軍事にまつわる技能科目。

 つまりは…………



「ハァ、ハァ、ハァ、なあ、なんで俺たち、初日からこんなに走ってんだ?」

「黙って、ハァ、走れよ。」

「やっべ……ハァ、ハァ、……腹が…………脇腹が――――」

 そんなボヤきがナギトの耳に届く。

 一年次には選択科目がなく、全員が科目を履修することになる。前年度とは異なり、学生を三つのクラスに分けたことで、一年生全員が同時に授業を受けるのではなくクラス単位で行動する様になった。

 そんな訳で、Aクラス最初の授業は、『基礎体力科目』と題した『持久走』であった。

 授業に関する連絡事項は、一人一台渡された端末から確認できる。予め訓練服に着替えてグランドに集まるよう指示があったが、まさか走らされるとは誰も思っていなかった。

 ちなみに訓練服とは、所謂体操服のようなもので、実技では基本実際の軍服と同じ素材の訓練服を身に付ける決まりだ。

「あ、あの野郎、ハァ……ハァ……ぜってー、ゆるさん。」

「………聞かれ、るぞ。」

「……うっ………朝食ったハンバーグが………」

 あの野郎、というのは、この科目のAクラス担当になった、オリヴィエ・アリーナ。堅苦しい軍服を身に纏い、鋭い眼差しでこちらを観察している。

 教師陣の大半は、何かしら人類軍に関わっている人、もしくは関わっていた人である。アリーナもその一人であり、師団長を経験していることから、一学年の軍事訓練総括責任者として多くの科目の担当を請け負っていた。

 風貌通りに無愛想。

 授業開始時刻に集まって、いきなりグランドを走れの一言を投下。それ以降、それとなく集団を形成して一緒に走っている。

 ひたすらに。

 それも、もう三十分以上。

 まだですか? なんて聞けば、もっと走りたいか? と返されそうで誰も聞くに聞けない状況だ。終わりが見えないため、段々と集団を形成してペースを落としていった。みんなでやれば怖くない、を体現したかのような状態に、これが集団行動の心理なのかとぼんやり考えているナギト。

 先程から背後でブツブツ文句を言っているのは、

 (確か……アージウス・アイン、ヴァルバラ・ボナパルド、ザムエル・カルラッタ……だったかな。)

 彼ら三人は一緒に話していることが多く、仲がいい印象だ。まだ初日だというのに、もう友達が出来たのだろうか。

 (二人は一緒の出身領だったけど、一人は違かったような……)

 それ以前に、こんなに気品高い学校に友達と一緒に入学しようとは普通思わないし、難しい。貴族間の仲良しは少なく、本当に腹を割って話せる仲を築いていればそれは希少だ。しかし、記憶の限りでは三人は一般領民。普通の学校ならまだしも、貴族や家門の者が多い学校において、すぐに友達関係を構築するのは想像以上に凄いことなのだろうか。

「………まあ、でも、あの二人を見てると、何か……な。」

「確かに。」

 ザムエルは、朝食を戻しそうになって徐々に会話に参加しなくなったが、比較的余裕のあるアージウスとヴァルバラは、遠くを見てそう呟いた。

 会話を聞いていたナギトも、自然と流れに従って前を見た。きっとナギトだけじゃなくて、会話を聞いていた他の人も同じようにしていた。

 自分達の集団を置き去りにしてぐんぐんと離れていく二つの人影。

 サイアド・ハックとカイヅカ・ユウトだ。

 


 およそ十分前。

 手元の大きめな端末をジッと見つめるアリーナ。

 見ていたのは、A組のクラス名簿だ。端末の画面には、ある学生の情報と顔写真が載せてあった。

「学籍番号七番!」

「……ハ、ハイッ!」

 固まって走っていた集団がアリーナの前を通り過ぎるタイミングで、ある学生の番号が呼ばれた。

 該当番号のハックは、慌てて教師の前に駆けつけようとした。

 ハックが来る前に、アリーナは喋り始めた。

「お前はもっと早く走れ。」

「……………はい。」

 言いたげな気持ちを必死に押し殺し、ハックは俯きながら集団を追い越して行った。

 ハックが特別遅れていたからでも、何か悪いことをした罰だからでもない。

 理由はたった一つ。

 肌の色。

 下民出身のハックがみんなと同じレベルでいることを、アリーナは許さなかった。

 ここにいさせてあげてるんだから、もっと死ぬ気でやれ。

 そういう威圧的な態度を感じたハックは、いつもの事だとグッと歯を食いしばって、文句を一つも言うことなく従った。

 ハックが学校生活で気を付けていることは、目立たず集団の輪を乱さないことだ。

 ただでさえ何もしてなくとも、言われようのない誹謗中傷や暴力を交えたいじめを受けるのに、それ以上浮いた行動をしてしまえば余計に酷くなるだけだ。

 自分からは喋らず、能動的な行動をせず、自分の考えを話さず。

 これが、短い人生で得た彼の処世術であった。

 そのため、今の状況は芳しくない。一人だけ先走ることで、今度は同級生からあれこれ言われてしまう。

 でもそんな事を挙げればキリがない。板挟みにされようと文句は言えない。黙って言うことに従い、ひたすらに謝り続ける。

 それが、現実だ。

 俯きながら無心に走り続けていると、斜め後ろくらいに、自分のペースとは異なる足音のリズムが聞こえることに気付く。

 少しだけ目を移すと、

「!!」

 意外と真近くに、ユウトがいた。

 目が合うと、苦しながらもにっこりと微笑み、顎でクイッと前を向くよう合図した。

 ペースを落とすと、またアリーナに何か言われてしまうため、言う通りに前を向く。

 どうして一緒に走るの? と思う反面、これ以上着いてきて欲しくないと思った。

 ペースをさらに上げて走った。

 自分の息遣いで、ユウトの足音が聞こえないように。



 

「結局着いて行けなくて、ヘコヘコとこんな所を辛そ〜うに走ってる、カイヅカ・ユウトさーま。アッハッハ! 滑稽滑稽!」

 嘲りながら、シンジロウがユウトを抜き去る。

 一部の女子達もクスクスと笑っている。

 結局、ユウトはハックに着いていくどころか、途中でバテてノロノロと走っていた。

 (流石に無理だったか………)

 その時、ブザー音がグランドに鳴り響いた。

 終了の合図だ。

 散らばっていたA組の学生が、アリーナの前に集まる。

 どんなに辛くても、姿勢正しく教官の話を聞くのが軍人のマナーだ。

「軍人とは、上の命令を忠実にこなす遂行能力が求められる。今のように、いきなり命令だけ下ることもあるだろう。しかし、軍人である以上、それは絶対だ。それを知ってもらうために、君たちには走り続けてもらった。次回からはこんな事はないので、その点は安心して欲しい。」

 皆の緊張が安堵で解けた。

十分じゅっぷん早いが、今回の授業はここまでとする。あとは自由に過ごすといい。」

 ついぞその仏頂面を崩すことなく、アリーナは校舎に戻っていった。

 開放感からか、一気に騒がしくなる一方、ユウトは木陰に移動し、タオルを頭からスッポリと被った。

 意識と呼吸が薄く、気を緩めば吐き気が支配しそうだ。

 木に背中を預けてぐったりしてると、カサッと誰かが近くに歩いてきた。

 その人は、暫く何も話さなかった。ユウトが自分の気のせいかと片付けてしまう直前、彼は小さく言い放った。

「もう、僕に関わらないで下さい。」

 そこで初めて、目の前の人物がサイアド・ハックだと知った。

 ユウトは、何も言わなかった。何も反応しなかった。

 ハックは少し経って、その場を離れた。

 (………やっぱり、難しいな……………)



 (これで、………これでいいんだ。)

 ハックは、ユウトに背を向けて歩き始めた時、そんな事を考えていた。

 ハックは、ユウトを今まで出会った中で最高の善人だと感じていた。ほんの短い時間しか触れ合っていないが、そう確信していた。しかし、だからこそ、自分のような下劣な人種と一緒にいては、彼に不利益になる。

 それに、ユウトはカイヅカであることを伏せて生きてきた。実際、その事実はハックが思うよりも凄まじいもので、昨日の自己紹介の一件を誰かが共通ネットワーク上に投稿したのだ。すると瞬く間に拡散され、今や巷の話題はカイヅカの生き残り『カイヅカ・ユウト』で持ちきりだ。

 何か事情があって今まで名前を偽って生きてきたのだろう。そして、今再びカイヅカの名前を名乗り始めたのには理由がある。それが何かはハックでは想像もできないが、必ず自分の存在は邪魔だ。それだけは絶対だ。

 (………………)

 ハックが抱く気持ちは、ユウトへの一種の恩返し、だけではなかった。

 ユウトを心配する一方、ユウトの行動がハックの心に籠った感情を抱かせた。

 これまでの人生、家族や村の人以外に優しくされた記憶がない。だから、優しさなんてものは他の人に求めるものではない。そう生きてきた十八年と半年。既に、冷たく接せられ顔をぶたれるのに慣れてしまった。エーデルシックザールに入学が決まった時、ハックは全ての自我を捨て去ることを誓った。貴族や家門出身の子供達が多く在籍するのであれば、これまでのが可愛く思えるような過酷な日々が待っているだろう。一々反応する心は、無い方が自分のためになる。人並みの人生も、クラスメイトと楽しく笑ってお喋りする思い出も、全ての明るいものを諦め、その上でのし上がるしかない。

 そうするしかないんだって。そう決めたのだ。

 そして初めて学校内に入った時、やっぱり上級生に目を付けられて、酷く蹴られたものだ。

 光が指したのはこの時だ。

 同時にこうも思った。

 絶対に途中で切れるとわかっている、蜘蛛の糸だと。

 前を向いたって、どうせいつかは下を向くことになる。だとしたら、初めから前を向くことを知らなければ良かった。

 ユウトに対する感謝や自分と同等に扱われてしまわないだろうかという心配と同時に、これ以上ユウトと関わる恐怖を覚えた。

 家族を助けられるのは自分だけなんだ。村の希望になれるのは自分だけなんだ。

 そう思うしかなかった。そう思わないとやってられなかった。

 そんな思いが感情を歪曲させ、ユウトに対して表と裏の感情を抱く様になってしまったのだ。



 ユウトの元を離れるハック。

 その一部始終を、ナギトは遠くから眺めていた。



               8



 日が傾き、間もなく夕日が空を燈色に染めようかという帰り道。

 ユウトは疲れた様子であった。

 肩にかけている竹刀袋も、今はとても重たく感じる。

 一限から全力疾走をして精力尽きたのが原因だ。それ以降の講義に身が入らなかったことを、今になって悔いている。

 (…………)

 結局、あれ以降ハックは目も合わしてくれなかった。

 ユウトは、世間の流行や歳の近い人との関わり方に疎い側面がある。

 以前バッハに言われた言葉を思い出した。

 相手の事情というものをもう少し考慮しなければならないと、反省した。

「はぁー。」

「溜め息ですか?」

「ん?」

 後ろから声をかけられた。

 状況的に、今この声の主の周りで溜め息をついたのは自分だけだろう。つまり、この声は自分に向けられたものだ。

 後ろを振り返ると、一組の男女がいた。

 見覚えのある人物だ。

「あ、え〜と、確か、タナカ・リクト君と、アリス・ルージュさん?」



               *



 エーデルシックザール軍事学校。フシミ領の真ん中辺りに位置する。

 十数年前までここはカイヅカ領であり、フシミ領になってからそれまで盛んであった農業は廃れていった。綺麗に舗装された道路、交通インフラに合わせた住宅街の形成、都市部にはアンジェシカ領のような近代的な建物が集中した。その殆どが他の領から移り住んできた人達で、カイヅカ領の頃からここに住む人達は、職を失くし、辺境の集合住宅に集められては安い賃金と最低限の生活を営んでいた。

 それまで、人と人の距離はとても身近であったという。地域の人はみんな家族みたいなもので、家にはふらっと立ち寄った老若男女が交流を楽しんだ。

 今ではカフェやレストランといった、誰かと腰を落ち着かせて話したりする場所が多く存在するが、見知らぬ誰かとの交流の場所や機会というのは、次第に時代の流れの中に忘れ去られていった。


「申し訳ございません、こんな安い店で。」

「全然気にしてないし、そんなにかしこまらなくても、ね?」

 同じクラスのリクトとアリスに声を掛けられたユウトは、話があるということなので郊外のカフェに立ち寄った。都市部のカフェは相場が高く、富裕層向けのお洒落なお店しかないためリクトは質素な内装のここを選んだのだが、ユウトを気にして断りをいれたのだ。

 ユウトとしては、変にこじゃれたお店よりもシンプルな方が好みだ。

 あまり人に聞かれたく内容だということは、リクトの神妙な面持ちから察することができる。現に、リクトは他のお客さんがいない隅の方へ足を運んだ。

 カオルやカエデとの暮らしの弊害か、席に着くや真っ先にソファに腰を落としてしまった。リクトとアリスは、ユウトが座ったことを確認してから順に座った。

「飲み物は、リクト君と同じものでいいよ。」

 ユウトなりの気遣いもあるが、こういうお店に立ち寄った経験が乏しく、何を注文するのがベターなのかを知らないから先手を打ったのだ。

 三人のコーヒーが机に並んでから、リクトが座った状態のまま背筋を伸ばした。

「この度はわざわざお時間をありがとうございます、ユウト様。」

「同い年で様はよしておくれよ。」

「いやしかし……」

 リクトは、渋々頷いた。ありがとう、とお礼を述べた。

「ところで、お話というのは?」

「はい……単刀直入に言わせて頂きますが、…………」

 言い渋っているリクトを、構わないという風に目線で促す。

「ユウト様、いや、ユウト君は、どうしてこの学校に来られたのですか? それも、カイヅカ・ユウトとして。」

「…………。」

 質問自体は想定していた範囲内だが、リクトの眼差しが、冷やかしや興味本位でなく、明確な目的のために質問しているのだと語っている。

「…………でもまた、どうしてそんなことを聞くのかな?」

「……私は、昨日ユウト君が、カイヅカ家の人間が生きていることを知って、天にも浮かれる気分でした。あなたが、この領地を変えてくれるって!」

 リクトは興奮した勢いで、思い切り机に両手をバンッとついて身を乗り出してきた。

 希望、開放、歓喜。純粋な感情に支配された瞳が、ユウトに刺さる。

「ちょっと、リクト君。」

 隣に座るアリスが、リクトの服の端を軽く引っ張った。

「あ!…………いや、その…………申し訳ございませんでした。」

 大きな物音に、店員さんやお客さんがこちらを見ていた。

 視線が集まっていることに気付いたリクトは、恥ずかしそうに座った。

 落ち着いてから、彼は詳しい経緯を語り始めた。

「…………私の家は、古くから代々カイヅカ領の漁師をやっています。漁港の近くに形成された住宅街、そこに私の実家があります。内陸とは違う、海の潮と蒸気を含んだ風が、幼い頃から私は好きでした。…………ご存知の通り、カイヅカ領では、農業に次いで漁業が盛んでした。現界にある七つの領地の内、海に面していないメーク領、スターライド領を除き、ソー領、トーマス領、アンジェシカ領、そしてハルバート領。どの領地にも劣らぬ漁獲量を誇っており、漁師町は毎日活気に包まれていました。全てが崩れ去ったきっかけは、十五年前。カイヅカ家が滅んだあの日です。」

 リクトは、話す度に段々と視線が俯いていった。

「フシミ家が七家門に加わってから、この領地の何もかもが変わりました。田畑は消え、都市部には近代的な建物が立ち並び、離れた地域には、他の領地からやって来た多くの企業が工場を構えました。漁業にも影響はありました。フシミ家が大部分の漁を規制したのです。領地の方針として、他の領地で主流になりつつある養殖を積極的に取り入れ、私達漁師を一方的にあしらいました。当時組合の会長をやっていた父と、その他数名は漁の許可を貰いましたが、それ以外の人達は次々と辞めていきました。」 

 父の漁師仲間によく遊んでもらったことを思い出すリクト。裕福な生活ではなかったが、笑顔に溢れた町並みが崩れ去る様が今でも脳裏に焼き付いている。

 笑顔ではなく淀んだ暗い感情が漂う漁港。怒号が行き交うのは当たり前になり、みんな離れていった。

 加えて、父のように漁師として存続できる人達を憎しみながら町を去っていった。あんなにも仲が良かった仲間が、最後は罵詈雑言を吐き捨てた。

 きっと彼らも、理解はしていたはずだ。本当に悪いのは父ではない。父がフシミの関係者と何度も協議を重ねていたことは周知だ。それでも、誰かに憎しみをぶつけることでしかやっていけなかったのだ。

 リクトは一つ間を置いた。決心を固めるように。

 そして、顔を上げてユウトの目を真っ直ぐに見つめた。

「私達だけではありません。農業関係者もそうであり、その他の業界も、フシミ家が外から人や企業を多く招き入れたせいで、沢山の人が職を失いました! 今までの風景が次々と置換されていく様を見て、父はこう言いました。カイヅカ領からフシミ領に変わったのではない、ここは他所の属領になったのだと! カイヅカ領民の多くは、安い賃金で酷使され、困窮の中差別を受け、日々苦しんでいます! 私ごときが知った風なことを言っていることは、重々承知しています。ですが、きっと! 元カイヅカ領民達は望んでいます! もう一度、もう一度ユウト様が!…………」

 そこで初めて、リクトは気付いた。

 ユウトが、悲しんだ顔をしていることに。

 あ、と何とも情けない声が漏れた。

 リクトは、本当の意味でユウトのことを考えていなかった。

 見ていなかった。

 悲劇のヒロインを演じているつもりはなかったが、リクトが辛い目に遭ってユウトが遭っていないみたいな口振りだった。

 本心でなくとも、そう捉えられる自己中心的な発言だった。

 途端に興奮が引いていく。

「も、もうし――」

「リクト君。」

 謝ろうとしたリクトの発言を、ユウトは遮った。

 首を横に数回振る。否定ではなく容認を表していた。

 (彼も……あの日から人生が狂ってしまった人の一人。)

 ユウトは、今リクトが話したフシミ領の現状を全て把握している。それも、言葉や数字だけの表面上なものではなく、実際に目で見て理解している。

 しかし、リクトが初めてだった。

 カイヅカの人間である自分に、こうまでハッキリと話してくれたのは。

 フシミ領になる前からここに住んでいる人達の多くが、今のフシミを恨み、かつてのような平穏な生活を渇望していることは列記とした事実であり、加えてカイヅカの人間に生き残りがいた事が知れ渡った今、ユウトが領主になって欲しいと望む声は止まないだろう。

「僕は、事故のあった日から先日まで別の人間として生きてきた。それはカイヅカの責任から逃げた訳ではなくて、ただ考える時間が欲しかったんだ。」

「せき、にん………」

 リクトの中で、自責の念が強くなった。

 普段から感情的な性格ではない彼がここまで口にしてしまったのは、それだけ家族や町への想いが強かったからだ。一般領民である彼らにこの事態を変える術はなく、そんな時に唯一フシミに対抗できる人物が、しかも同じクラスに現れた。感情を抑え込めるほどリクトは長く生きていなかった。

 リクトの言いたかった事に間違いはないが、決してユウトを追い詰めようなどと考えてはいなかった。しかし本質的には、自分達よりも生まれ持った血筋や権力が違うのだからそれ相応の責務を果たせ、と言っているのと同じだ。

 まるで全ての責任を、彼一人の肩に乗せているようだ。

「たまたまお金持ちの家に生まれたから。たまたま家門の家に生まれたから。たまたま普通の家に生まれたから。」

 ユウトはカイヅカ家に生まれたというだけで、当時の政には一切関わっていない。四歳の子供の選択で領地の運命が変わるなら、それは酷な話だ。

 仮にユウトの親または親族が原因だったにせよ、それを子供のユウトに押し付けるのは間違っているはずだ。実際はフシミが原因な訳で、カイヅカは今の状況とは関係がない。カイヅカが滅んだ後の出来事なのだから。

 それでも、全てを包み込んで、ユウトは笑った。

「そんな風に、生まれによって人生が左右されることが、僕で最後になればいいのにね。」

「……………………………」

「でも、ありがとう。そうやって誰かを想えることは、とても素晴らしいことだと思うよ。」

「………ユウト君………」

 ユウトだって、今まで辛い思いを沢山してきたはずだ。家族全員が死んでいるのだから、当然だ。

 そんな事を感じさせないどころか、こちらを気遣って笑ってくれた。

 自分の悲劇を持ち上げず、他者の痛みを分かち合う。

 リクトは、ユウトの態度に心を打たれた。

「ところでリクト君。」

「…………あ、はい。」

 ぼーっとしていて、反応が少し遅れた。

「この後、いやこの後でなくていいんだけれど、是非君の町を訪れたいんだ。案内をお願いできるかな?」

「……………」

 正真正銘、リクトは固まってしまった。

 てっきりもう見切りを付けられてしまったと考えていたのだ。それ程無礼な発言をしてしまったと後悔していた。しかし、それはリクトの思い込みでしかなく、やはり心のどこかでユウトのことを、自分のような存在が話すことすらおこがましい高貴な存在、と認識していた。だから、過剰に敬うような発言や謙譲的精神が働いてしまった。

「リクト君?」

 七家門や貴族の人達は、傲慢で欲張りで自分勝手で一般人を視界にすら入れないケダモノのような存在。

 それは、リクトだけでなく、恐らく一般領民の大半の認識だろう。

 リクトの中で、何かが弾けた。

 ユウトは、彼らとは違う。

 生まれが恵まれていたって、自分達庶民に寄り添い、一緒に考えてくれる人がいるんだ、と。

「僕で良ければ、喜んで。」

 リクトは深々と頭を下げた。


               *



「ところで、二人はどういう関係なのかな?」

 聞き損じていたことを確認する。

 二人が同時に頬を赤らめて反対方向へ俯いた時点で、もう何も言うことはなかった。 



                 9



 ユウトが、リクトとアリスに声をかけられ一緒に歩いている時。

 サイアド・ハックは、彼らとは反対方向に向かって一人で歩いていた。

 気持ちは暗かった。

 楽しそうにお喋りしている女性二人組みが、前から歩いてきた。決して入ることも作ることも出来ない、友人の輪。羨む感情など、初めから存在しない。

 女性達がハックに気付くと、怯えたように隣を小走りで抜けていった。

「……………。」

 もう痛まない。

 痛む心は、残っていない。



 

「この世界には、人間の他に、魔人・天人てんじんと呼ばれる種族が存在します。彼らは、種族は違えど我々と同じ『ヒト』です。時期は不明ですが、進化の過程で人間・魔人・天人に枝分かれしたのです。そのために身体的特徴は似ており、種族固有の特徴と言われるものも厳密には固有でなく、少なからず誰もが保有しています。その一例が、通称色付きと呼ばれ差別を受けてきた人種です。彼らは生まれながらに肌の色が褐色系ですが、この特徴は魔人に色濃く反映されたものです。身体が他の人より大きく力強い点もそうです。しかし、人間には魔人ほど強く受け継がれなかったため、人間よりも多少身体能力に優れている程度です。魔力についても同様です。天人は魔力を多く保有し、独自の術式を通じて魔法という現象を引き起こします。人間も魔人も少なからず魔力を宿していますが、魔法を使うのは論外であり、本人が魔力を認識することすら叶いません。このように、今は住む世界を区分け交流を断絶している三種族は、ただ単にそれぞれが肉体、魔力、知力に特化して進化したに過ぎず、種族的構造の根幹は共通しています。魔人を人を食う鬼のように、天人を怪しい術を扱う妖怪のように、まるで我々とは異なる怪物なのだと囃し立て洗脳している人間達を見て、私はこう思います。我々人間の方が怪物のようだと。この認識を改めない限り、我々の世界に蔓延る差別の連鎖を止めることなど到底できません。」




 かつてそう言った歴史学者は、人知れず表舞台から姿を消した。

 この世界に存在する三種族の住む区域を分け、それぞれを現界、魔界、天界と呼ぶようになって三百年。

 私達は、長い間差別を受けてきた。

 七家門や議会の制度が確立する前は、忌み嫌われながらも人里離れた地域で暮らしていたらしい。それが変わったのが、住む地域がハルバート家の領地になってからだ。

 人間社会の発展に大きな影響を及ぼした通称七家門が台頭し、彼らは現界を七つに分割しそれぞれでの統治を始めた。

 色付き達が暮らす地域は、ハルバート領の辺境でカイヅカ領の近くに位置した。 

 社会的な地位が低く、かつ図体が大きい黒人に目をつけたハルバート家は、我々を人的資源として過酷な労役に課した。

 まるで奴隷のようだった。

 ハルバート家は、武器に関する産業で七家門となった。

 鉄などの鉱石の採掘、運搬、加工、生産。武器を作るためには、大きな力が必要な場面も多々ある。鉱山の奥深くや地下の燃料資源発掘地点などは、長時間の労働が健康被害に繋がる危険な仕事だ。その他、小さな事故が人死に繋がることも珍しくない。

 それら危険な作業を、我々の人種に任せたのだ。 

 毎日汗や泥、煤や血に塗れて得られた賃金は雀の涙。休憩時間は最低限より少ないギリギリのラインでしか与えられず、逆らったり逃亡したりすると容赦なく銃で打たれるか首を跳ねられて殺される。虫ケラ程度の命の価値。

 ある時期、複数の団体がハルバート領を離れ、カイヅカ領へ移り住んだ。私はその子孫にあたる。

 当時のカイヅカの家主は、彼らを暖かく迎えて下さり、尚且つハルバート領での非人道的な扱いをある程度抑止してくれた。

 しかし、歴史的に見ても、我々の人種は差別から逃れたことがない。

 (そう………………僕がやらなくちゃ。)


 駅に到着すると、次の電車まで時間があったため、ホームの端っこで立って待つことにした。

 電車は七家門の一つ、トーマス家が独占している。そのために、電車の交通代はかなり高く設定されており、一般的に利用されない。ただし、どうしても利用しなければならない人や場面は一定数存在し、それ故に電車という交通手段は廃れないのだ。

 ハックの集落は、ここの都市部から電車で二時間半も離れた場所に位置する。

 乗車するのは最前方か最後方の車両と決まっている。

 誰かが同じ車両に乗り合わせていれば、席がガラ空きでも座らずに立っている。ハルバート領では、他の人が誰もいなくても車掌に見つかれば座ることは許されない。カイヅカ領ではそんな事はないが、基本的には立って大半の時間を過ごすことが多い。

 最寄り駅に着くと、既に空は暗くなっていた。

 駅に停めてある自転車に乗り、さらに三十分。

 ようやく集落に到着した。

 都市部とはかけ離れた文明遅れの街並み。コンクリートではなくレンガ造りの家が立ち並び、舗装された道路は無い。小さな集落の主な移動手段は自転車かオートバイで、車を持っている人はほとんどいない。

 夕飯時で、誰もが自宅にいそうに思えるが、

「サード! おかえり!!」

 遠目でもわかるくらいにはにかんだおばさんが、ハックを見つけた途端手を振ってきてくれた。

 あの人は市場で野菜を売っている人だ。

 にっこりと微笑み、ぺこりとお辞儀で返す。次電車を押しているため、手を振れないのが残念だ。

 おばさんの声が余程響いたのだろうか。通りの窓や扉がバタバタと開き、

「帰ったか!!」

「おかえり!!」

「今日はどうだったよ! サード!!」

 街の人が次々とハックに声をかけてくれる。

 ちなみに『サード』というのは、幼い頃に滑舌が悪くて自分の名前が上手く言えず、『さいあど』を『さーど』と言っていたことに由来する。

 ハックの帰りを知ると、ただハックに一声掛けるためだけに、多くの人が顔を見せた。逆にハックが見えなくなると、またそれぞれの日常に戻っていった。 

 まるで英雄の凱旋のような光景は、この街ではごくごく日常な風景だ。



 サイアド・ハックは、この小さな街の英雄なのだ。



                *



「ただいま。」

「おかえり。夕飯出来てるよ。」

 短い旅路を経て自宅へ到着したハック。エプロンを着た母親がパタパタと忙しそうにしていた。

 靴を脱いでリビングへ入ると、

「あ! お兄ちゃんだ!」

「おかえりー!」

「おかえりー!」

 弟妹達が、食事の最中だったがハックを見るやパッと笑った。

 ハックには弟が二人と妹が一人おり、次男は高校生、次女は中学生、三男はまだ小学低学年だ。

 小さなちゃぶ台を一緒に囲み、ラップをかけてあった夕飯を食べる。

 弟妹達の学校の話を聞きながら、食事を早めに済ませたハック。余りを分けると、ワーッと美味しそうに食べ始めた。

 純粋無垢な笑顔を見て安心そうな表情を浮かべると、食器洗いと部屋の片付けをし始めた。

「ママがやるから休んでなさいよ。」

「大丈夫。洗濯物も僕がやっておくから。」

「そう、いつもありがとう。」

 ハックの父親は、四年前に事故で亡くなった。

 都会だと、母親が仕事に従事せず家事だけを行う家庭もあると聞いたことがあるが、この街では無縁の話だ。

 子供を三人抱えている一人親、しかも人種差別の筆頭となる黒人であるハックの母親は、きっとハックの想像以上に身を削って子供を育てているに違いない。

 長男として、この家の男柱として。

 サイアド・ハックは、母親と同じように我が身を削って弟妹達を守らなければならない。

「ねえねえお兄ちゃん! また学校のお話をして!」

「僕も聞きたーい! お城みたいなおっきい学校にかよってるんだよね!」

 彼らは、ハックの学校でのお話を聞くのが大好きなのだ。

 まだ街から出たことのない弟妹達は、こことは異なる煌びやかで輝かしい世界のお話を、目をキラキラさせながらいつも楽しみにしている。

「そうだね、今日はこーんなに大きな桜の木を見て帰ってきたんだ。」

「ええー、うそだー。」

「嘘じゃないよ。もうこーんなにこーんなにおっきい桜の木がいーぱい道にずらーっと並んでるんだ。」 

 体で目一杯表現すると、弟妹達も真似して両腕を大きく広げた。

 しばらく三人で楽しくはしゃぎ合っていた。


 夜も深け、家族が寝静まった後も、ハックはまだ起きていた。

 自室の机の小さなランプだけを付け、今日の授業の復習をしていた。ノートや教科書をめくる音が、ゆっくりと、ゆっくりとハックの耳を撫でる。

 ハックは誰よりも遅く寝て、学校までの距離が遠いために誰よりも早く起きる。彼の一日は忙しなく通り過ぎるかのようだが、その生活に充足感を覚えているのも確かだった。

 頑張れば頑張るほど、弟妹達の将来が明るくなるから?

 自分が大成すれば母親の負担も減るから?

 この街の、我々の人種の未来がよりよく明るいものになるから?

 確かにそうかもしれない。

 でも、そう思いたいのは誰?

 思い込んでいるのは、誰?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る