第2話 動き始めた運命
1
カーテンを開ける。
肌寒さが残る早朝、ほんのり差し込む光は感覚的な温かさを覚えさせる。
広大な芝生の庭。大きく質素で漆黒な門。街路樹に溢れた何気ない一本道。遠くにそびえるタンタロス山はいつ見ても美しい形をしている。
いつもの朝であって、しかし彼の思考はいつもの朝では無いのかもしれない。
区切りという側面では、特別であることは間違いない。それなのにその実感を伴っていないのは、彼が目的のために本当はどうすべきなのかを知らないからだ。
窓を開けずにじっと外を見る横顔は、決して晴れてはいなかったが、
トントン、とノック音が聞こえた。
「はい。」
キィ、と静かに扉が開くと、真っ黒な髪を肩下まで伸ばした女性が立っていた。スラリとした細身で、全てを包み込んでくれるような穏やかで落ち着きのある佇まいだ。
彼女の名前はイチノセ・カエデ。ユウトの五歳年上で、血は繋がっていないがこの家に一緒に住む家族だ。
「おはようございます、ユウト様。」
「おはよう、カエデさん。」
彼女は両手をお腹の前で合わせて、小さくだが丁寧なお辞儀をした後に部屋へ入った。
口調や所作から主従関係が垣間見えるが、実際カエデはユウトに対して気さくな態度で、ユウトからは年上に対する敬いが含まれている。一言では言い表せない間柄ということだ。
ユウトはまだ寝巻きだというのに、カエデは既に質素な無地のワンピースに着替えている。昔からの習性なのだろう。
足音なく滑らかにユウトの隣に来ると、
「外を眺めていたんですか?」
肯定も否定もなく、彼女が入室した時に和らいだ表情はまた曇っていた。
「『夢への第一歩を踏み出した時、その人は興奮ではなく不安や恐怖に支配されている』。」
それはどこかの小説で読んだことのある
不安や恐怖という強くネガティブな表現は、今のユウトには当てはまらない。しかし、迷いがあるとカエデは感じていた。
「私たちは、常にユウト様と共にいます。」
一歩前に出たカエデは、両開きの窓をゆっくりと開けた。
フワッとした朝冷の春風が、二人の髪を優しく撫でる。
「例え、この世界の誰もが理解しなくても、この世界の誰もが非難を浴びせようとも、これから先どんなことが起きようとも、私たちは、いつまでもユウト様のお傍におります。だから、どうかお心のままに。」
「……ありがとう、カエデさん。」
誰かが隣にいてくれる、それだけで救われることもあるのだと、今のユウトは知っている。
ささやかに微笑む彼女は、まさにこの部屋へ入り込んでくる朝日のようだった。
「そろそろ降りよう。下でカオルさんが待ってる。」
「はい。」
「おはようございます、カオルさん。」
居間へ入ると、ユウトからキッチンで料理をしているカオルに声をかける。後から続いてカエデも入ってくる。
絢爛なシャンデリア、赤く細やかな装飾が施されたカーペット、家庭用とは思えない巨大なテレビが壁に埋まっている。椅子や食卓、ソファ、小机、内装、全てに手の込んだ職人の技を肌で感じる。また、居間の広さだけでも、マンションのワンルームの広さの数倍もある。
一人には余りあるキッチンにいたカオルは、手を洗いながらこちらに笑いかけて、
「おはようございます、ユウト様。」
カエデよりもより軽快で、様と付けているがまるで母親が子供を呼ぶ時のような遠慮のなさというか、親しみの深さが伺える。
それもそのはず。
カオルはカエデの母親であり、ユウトの育ての親なのだ。
血は繋がってなくとも、四歳の頃からここで三人一緒に暮らしている。ユウト本人は、カオルのことを本当の母親、カエデのことを本当の姉のように感じている。
様子を見る限り、朝食の準備はまだのようだ。後ろにいたカエデはキッチンへ向かってカオルの手伝いを始めた。
こういう時手伝おうとすると、待っていて下さいと追っ払われるのがオチだ。ここは素直に役割分担の精神を働かせる。例えば、一生返しきれないと感じる程の恩を受けたとしよう。なのに相手からお礼は何も要らないと言われたら、自分なら相手が本当に何も望んでいなかったとしても何かせずにはいられないだろう。平和的かつ双方にわだかまりなく解決する方法は、相手側が何かしらの見返りや条件を与えることだ。もちろん方便で、ほんの簡単なことでもいいし、一時的な軽いものでもいい。恩を受けた側が少しでも満足できる形に譲歩するのだ。要するに、相手の立場になって考えることが大事なのだ。ここで自分がカオルやカエデの手伝いをすると、向こうが申し訳なく感じてしまうかもしれない。であれば、ここは素直に彼女達に任せ、他の場面で彼女達の手伝いをすればよいのだ。
(ケースバイケース、か。)
とりあえずソファに移動したユウトは、ふとこの言葉について考え始めた。言うほど簡単に使っていい言葉ではないのかもしれない。何故なら、意味が場面ごとに多様すぎて、一意的な意味を見出すのが難しいからだ。単純なものこそ意外と多面的で、複雑なものこそ本質は明解だったりする。そこを注意深く思考しながら………
と、こんな風に時間を無駄にしたおかげか、いつの間にか食卓には朝食が揃っていた。
ニュースでも見ようとしていたのだが、仕方ない、食後に携帯端末を確認しよう。
彼女達はユウトが座らないと座ろうとしない。別にいいよといくら言っても聞かないため、普段から彼女達よりも先に動く習慣がついてしまった。
「いただきます。」
朝食を終え、家を出る準備に取り掛かる。
今日は入学式。
指定された制服を一分のズレもなく着ていく。無駄に装飾が多く金色が目立つその制服は、学校側の威厳を体現しているかのようだ。
人を見た目で判断するな、ととある登場人物は言った。しかし、例えば明らかに清潔感にかけていたり身だしなみが整っていなかった場合、そのように判断をされてしまう当人が悪い。外見とは内面を見られる前の印象付けのようなもので、内面を色濃く表す。高いスーツに高級時計を付けていればお金持ちだと判断し、ボロボロの服を着ていれば貧乏だと判断する。実際がどうかはさておき、概ね外見からの第一印象は正解だ。
そういった側面から考えると、新入生に品の高い制服を着させること自体に意味があるのだが、それにしても今年で十九かそこらの男女に着せる服とは到底思えない仕上がりだ。
これを当たり前と捉えるか、華々しく感じるか。
きっとこれから通うことになる学校では、それが如実に意味を持つことになる。
クローゼットを閉めて、目線を横に移す。収納のための横長の棚の上には、何枚かの写真が簡素な額縁に入れられている。
「…………いってきます、母さん、父さん。」
近くに立てかけてあった、細長い
ユウトは、基本的にこの竹刀袋を離さず携帯している。
玄関へ向かうと、母娘並んで姿勢よく少し離れた所に立っていた。
普段からこうではない。
誰かにとって今日という日が平凡そのものだったとしても、彼女達にとって、今日はユウトの入学式以外にも別の意味を持つということだ。
カオルはユウトの晴れ姿を見ると、少しだけ目元が緩んだようだ。外見上はほとんど変化してないが、目線の動きや間などの機微で相手の心情を慮ることが出来るのは、紛れもなく彼らが家族である証拠だ。
「ユウト様、どうかお気を付けて。」
先にカオルがお辞儀をしながらそう言った。
「ユウト様、いってらっしゃいませ。」
続けてカエデも同様にそう言った。
二人は多くは語らない。心の弱音など絶対に吐かないだろう。仕事柄、そして普段の習慣に起因するとも考えられるが、ユウトは短い言葉に込められた何重もの想いを充分に汲み取った。
だから、ユウトは知らなければならない。
三人の運命を決定的に変えた、
「必ず、あの日の真相を見つけてみせるよ。」
2
「人間は弱い、それはもう昔の話だ。およそ想像出来る事象を体現してしまう絶対的な力。再現してしまう圧倒的な魔法。持たざる人間は弱者なのか? 否! 我々は知恵と共にこの文明を築き上げた! もう一度言おう。人間は弱い、それはもう昔の話だ!
力強いスピーチだった。
入学式が始まって間もなく、校長のフシミ・サイが登壇し、新入生を鼓舞するような演説をこなした。五十前後の年齢ながら若々しく見えるが、強面で角度のついた眉と眼力からは、自分に絶対のプライドや自信を抱える気概、気迫を感じる。
盛大な拍手の中、それを無表情に眺めるユウトの姿があった。
登壇していたサイが降りると、司会進行役の男が落ち着いたな口調で話を進める。
「改めまして、新入生の皆様。ようこそ、エーデルシックザール軍事学校へ。ここからは簡単な学校紹介と学校の制度についてご説明致します。」
今日は入学式と同時に、午後は学校に向かいオリエンテーションが行われる予定だ。
「十四年前、フシミ家が新たに七家門に迎えられてからというもの、カイヅカ領改めフシミ領は瞬く間に飛躍的な進歩を遂げました。そして十年前、最先端の軍事研究兼教育施設としてエーデルシックザール軍事学校は創立されました。現界有数の講師や設備を用意し、人類軍へのコネクションは勿論、多数の業界、有名大手企業などとも繋がりがあり、企業への就職実績も昨年ナンバーワンを獲得しました。軍事学校と一般教育機関、両方の性質を併せ持つのも我が校の特徴の一つであり、七家門ご出身の御子息、御息女も多く在籍していらっしゃいます。また、今年で十周年を迎えるエーデルシックザールは、今年度から新制度を設けることとしました。小中高の教育機関などでも見られるクラス制度です。我が校では当初、入学者が限られていたためこの制度は設けられておらず、各々が自由に学べる環境をご用意していました。しかし、軍事学校としての本質を考慮すると、規律が整い統制の取れた集団生活が求められます。入学条件の緩和によって徐々に入学者が増え続けるだろうと考え、入学者を複数のクラスに分け、クラス別と個人別に成績を評価するシステムを導入することとなりました。時には仲間と協力し、時にはその仲間と切磋琢磨して競い高め合う。そして、最終成績は卒業後にも影響を及ぼすこともあります。十分にご注意の上、各自必要な情報を押さえておくようよろしくお願い致します。つきましては、お手元に配布しております資料の四ページをご覧ください――――」
その後も、マイクを持った男はステージ上のスクリーンに説明を映しながら丁寧に話を続けた。
彼の言うことは、嘘ではないし極限まで美化している訳ではないが、一つ重要なことが抜け落ちていてそれは意図的だ。
規律が整い統制の取れた集団生活、これは七家門出身の特権階級や一部の金持ちには当てはまらない。
この学校への入学には、多額のお金が必要になる。その費用が一般的には到底払えないからこそ、開校初年度の入学者はたったの二十人前後。全員が七家門出身か名のある貴族家系の出身だった。
今まで親のお金でその地位を獲得した子供に、更なる上の地位を築く足がかりとしてこの学校は創られた。知名度が伸び始めると次第に入学に必要な金額は下がり、身分調査も甘くなった。
要は学力があり金さえ積めば一般人でも入校できるようになったのだが、目的は見え透いている。最たるものが、今年からのクラス制度。先程の説明にあった統制の取れた集団生活というのは、入学条件の緩和によってギリギリ入ることのできた人達に向けられた言葉で、当然一部の者はそんなことなく好き放題がまかり通る。成績がクラス別に振られるということは、いかに下の者を有効活用してクラス全体の評価を上げることが出来るのかという、上の者としての力を育てる目的があるのだ。
仲間と協力し、というのは聞こえのいい言葉で、切磋琢磨するのは特に七家門出身者同士だろう。七家門は不仲であり、常に自分の家門だけの利益や他の家門の揚げ足を取る事に躍起になることは日常的だ。わざわざ個人とは別にクラス評価を設け、果てには卒業時にその代の最優秀学生を決めるという。評価に拘るのは、それだけわかりやすい表示が欲しいのだ。
その駒としての下々。
(…………。)
顔は極力動かさず、目だけを動かして周囲の様子を窺う。
最大の問題は、上の者が幅を利かせることでも、下の者が不自由を強いられることでもない。
3
午前の入学式が終了した。
行われていたのは、エーデルシックザールの校内敷地ではなく外部の式典会場だ。距離はそこまで離れておらず、徒歩で十分程度なため多くの人がそのまま学校へ移動し、校内の食堂を利用した。
エーデルシックザール軍事学校。超エリート校であるこの学校は、大半がフシミ領とは別の領からやって来た人であるため、校内の一角には大層な造りの寮があり、寮生は九十パーセントを超える。
そのせいか、式典会場の喧騒はそのまま学校へ流れ込む形となった。
ユウトは地元出身者であり、家も歩いて三十分と決して遠くないため、午後のオリエンテーションまで家で時間を潰すことは可能だった。しかしユウトは、その人混みに紛れるように学校へ足を向けた。
ユウトの第一印象は、お城、だった。
近づかなくとも、そちらへ目を向ければ容易に学校を確認できる。
校舎は数十階建てで、学び舎としてなら不必要な装飾や造形で非常に手の込んだデザイン。建物自体が重要な文化財だと言われても遜色ないレベルだ。初見でこの建物が学び舎だと見抜ける人は多くない。
校舎の周囲に広く敷地を取っており、エーデルシックザールはテーマパーク以上の異常な土地面積を有する。それは、学校の敷地内に、購買と称して多数のジャンルのお店が軒を連ねているからだ。雑貨、日用品、アパレル、本屋、飲食店等々、学校から一歩も外に出ずとも生活が十分に送れるようになっている。しかもどの店舗も高級かもしくは一級クラスの豪華なもので、値段のみならず内装や店員の質にも拘っている。これは、寮に住む上流階層の人達に向けたサービスを想定しているためである。
学校外にも、付近には軒並み高級店が並んでいる。まるで学校を中心に一個の町が形成されているようだ。寮に暮らすお金持ちの子供にあやかっている側面もあるが、フシミ家が裏で手を回し、不自由なく暮らせるよう配慮しているのだ。
フシミ家は、現界三百年の歴史の中では七家門加入が非常に最近であり、そもそも七家門なる制度が成立してから家門が変わったのはこれが初めてのことである。実力でのし上がったというよりは
正門は大変賑わっていた。
これは、今日行われていた新入生の入学式の関係でも学内イベントがある訳でもなく、学校とは無関係なただの一般人が正門を行き交っていたのだ。
学校の敷地を囲う外壁は分厚く高く、外からは到底中の様子は見えないようになっている。そして正門から入った後も、正門から真正面校舎までの幅広い一本道には外壁同様の壁で仕切られており、校舎以外の校内の様子は確認できない。ここまでの対策を講じているのも関わらず、関係のない一般人が校舎に自由に出入りしているという矛盾には、幾つか理由がある。
一つ目は、正門から入ってから校舎までの一本道に、多数の赤外線カメラや金属探知センサ等の多様な監視装置を配置しており、どんなに人混みに紛れようとこれらから逃れることができないからだ。学校関係者や学生であっても校内に持ち込める荷物には制限があり、一般人についてはより厳しい制限が設けられている。センサにかかった場合は、道中に設置された荷物検査場で詳しく調べられ、多くの場合入館が断られる。開校してから十年、一人の犯罪者の侵入も許さなかった実績から、一般人を受け入れるだけの自信があるのだとわかる。
もう一つの理由は、印象操作である。これは領内と領外で事情が異なるが、目的は一致している。ここは元はカイヅカ領であり、農業中心の旧世代的な生活様式が基本だった。所謂田舎そのものだった。それがフシミ領に変わってからというもの、急速に他の領と同レベルの文明都市へと変貌を開始した。既に過去の農村は殆ど見る影なく消え去り、残ったのは途方に暮れた領民の虚しい怒りと数少ない田畑だった。七家門は他の領に手出しをしないが、それはお互いに付け入る隙を見せないからで、常に誰かが狙っている。内輪の火種など示しがつかず、フシミ領のシンボルとまで言われるエーデルシックザールをオープンな学校とすることで、ある程度圧政的な印象を緩和させたいのだ。領外については、自分達の懐の深さとそれを実行するだけの技術と自信があることを示したいのだろう。
しかし、幾らそのような思惑があろうと、全ての公開には限界がある。そもそもここは七家門出身者が多く在籍しており、軍事機密も多い。印象良く捉えさせようと全てをオープンにしてしまったら、安全面の観点から非常に良くない。だから、一般人が立ち入りできるのは校舎の一階と二階のみである。
一階には受付と学校紹介のエントランスフロア、二階は食堂フロアとなっており、ほぼ全員の目的が食堂だ。
食堂と言うと少し庶民的なイメージがあるが、超エリート校の食堂では、一般大学の食堂とはまるで相貌が異なる。まず、食堂とは名ばかりのバイキング形式だ。注文して料理が出てくるシステムではない。在籍学生なら学生証の提示だけで全てのサービスが無料であり、来訪者は入口で入場料を払うだけで食べ放題だ。ただし、一人当たりの料金が三万とお高いことからも、ただのバイキングでないことは容易に理解出来る。ずらりと高級料理が温・湿度管理されたショーケースに置かれており、一流シェフが最低でも一人は滞留している。料理の見た目と味を知れば、寧ろ三万円は妥当性があると感じざるおえない。座席も長テーブルに椅子がずらりと並んでいるのではなく、二人テーブルか四人テーブルが幾つも用意されており、外のテラスエリアも晴れの日は開放される。
ユウトは、一階のエントランスを端から端まで眺め歩いた。二階へ上がると、食堂に行かずにさらに階段を上る。
三階の入口には改札のようなゲートが多く用意されていて、ここからは学生か教員、学校関係者しか入れない。入るのに必要な学生証は、事前に各自へ配送されており、ユウトは制服の胸ポケットから取り出した。
「そちらのパネルにタッチして、前に進んで下さい。」
警備員のおじさんが、ユウトが行動する前に話しかけてくれた。特段手順が分からない素振りは無かったのだが、新入生の制服を着ているからだろう。ユウトが学生証を取り出したタイミングで教えてくれたのだ。
「ありがとうございます。」
ニッコリと笑顔で返すと、腰元に設置された真っ黒のパネルに学生証をかざした。
「その紫色の手持ちは何でしょうか?」
「これは金属ではないので大丈夫です。」
ピー、と電子音が鳴り、行く手を拒むように降りていたバーがゆっくりと上がった。
「随分とお早いですが、食堂には行かれたのですか?」
警備員のおじさんは、そうユウトに問いかけた。無理もない。今の時間は、入学式が終わってから何もせずに真っ直ぐここへやって来たと思える時間だ。恐らくここに勤めて長いのだろう。新入生が真っ先に食堂に向かうことを知っているからこそ、食堂を利用しなかったユウトが気になったのだ。
おじさんの話し方はとても優しく、たったの二言で彼が良い人だとユウトは直感した。
「少し先に、校内を見て回りたいんです。」
これは嘘ではない。
「校内マップはお持ちですか?」
「いえ、大丈夫です。時には冒険も楽しいものです。」
そうまで言われてしまったら、おじさんもそれ以上何も言えなかった。本人も特に困った様子はなかった。
「ありがとうございます。」
再度お礼を述べて、ユウトはゲートを通過した。
五階までは全て講義で使う講義室となっている。許容人数や机・椅子の配置が異なるなどの差異があれど、基本同じ構造だ。教室を目一杯使えば四、五十人程度は入るスペースだが、ゆとりを持たせ二、三十人程度がだいたいの許容人数になる。学校の性質上、在籍学生の数が少ないことは創設側の意図であり、新クラス制度で各クラスの人数が二十人前後だということを考えると、この学校での想定される基本単位は二十人なのだろう。
普通の学校よりも幅広い廊下。骨董品や獣の彫刻などの置物が所々に陳列されていたり壁に飾られており、毎日手入れがされているであろう赤い絨毯が敷き詰められている。各階の移動はエレベーターが基本で、階段は端に二か所しかないのに対して、エレベーターは各フロアに五か所設置されている。それも、荷物運搬用のエレベーター並みの大きさだ。もちろん、乗り心地や内装は素晴らしいの一言に尽きる。
三階はくまなく歩き回ったが、それ以降の四階と五階が粗方同じ造りだと分かると、サッと目を通して次のフロアに向かった。
六階も同じ造りに思えたが、教室数は少なくどれも大きな部屋だった。どうやら講義ではなく、集会やイベントに使うための大部屋のようだ。収容規模はおよそ百人。五つある内の二つ部屋には何も置かれていない、まっさらな空間が広がっている。どんな用途にも活用できるようあえて何も置いていないのだ。残りの二つはまたガラリと印象が変わり、まるでコンサート会場のような雰囲気と厳かさを漂わせている。ここには座席がびっしりと備え付けてあり、試しに触ってみるとゆっくりと手が沈み込む。座らずとも分かる、満足感と安心感。特別なイベント用の部屋なのだろう。
最後の一部屋は、柔道場と剣道場を兼ねた部屋だった。こんな室内にあったら、上下の階や同フロアに音が響くのではないかと疑ったが、それはいずれ分かることだろう。
上の階に上がる。エレベーターの扉が開くと、異様な暗さと静けさが支配していた。
七階は射撃訓練場だった。入口がロックされていて中には入れないが、横に長い構造、人一人分のスペースを空けて仕切りが配置されており、腰あたりの高さに仕切りから机が伸びていて、ゴーグルやヘッドホンのような耳あてが置かれている。遠くには何も無い空間が広がっており、しかし天井面や床を見ると、複雑にレールが敷かれていたり明らかに何かが飛び出てきそうな空洞があったりする。ここまで知れば、素人目でもここがどういう場所なのか想像がつく。
(一旦一番上の階まで行ってみよう。)
毎回エレベーターで移動するのにも着かれたユウトは、最上階までエレベーターで行き階段で一階ずつ降りて来ようと考えた。
二十一階の最上階はラウンジとなっており、高所からの光景は絶景と聞く。言われてみれば、ここまで高い所から地元を眺めたことはなかった。目的とは逸れるが、楽しみな気持ちが増した。早速エレベーターに乗りボタンを押した。
しかし、最上階へ辿り着く前に、エレベーターの扉は開いた。
目の前に現れたのは、ユウトよりも一回り以上大きな体躯。窮屈そうな軍服を纏い、袖から漏れた腕はとても太く逞しいものだった。
「? 君は新入生か? どうしてこんなところにいる。」
ユウトを見たその男は怪訝な眼差しを向けながら、そしてユウトを逃がさないように入口を自身の体で塞ぎながらエレベーターに乗り込む。
エレベーターの扉が閉まり、男がボタンを押さなかったため最上階へ動き始めた。
(あまり人には会いたくなかったけど……)
実際、ユウトは正門側の入口から遠い側のエレベーターを使っており、これは最も使用率の少ないエレベーターだと考えてのことだ。
しかもよりにもよって大人とは。見た目からして一般教諭ではなく、軍事教官だろう。新入生が着用する制服を身に着けており、午後のオリエンテーションが行われる九階を通り過ぎている。時間帯も気になる点だろう。まだオリエンテーションまで時間がある。
「さて、私の質問に答えてもらおうか。」
密室空間で、男は威圧的にユウトを端に追い込む。一人で乗っていた時は開放感を味わっていたというのに、今はとてもこの空間が狭く感じる。
「僕はただ校内を見て回っていただけですが…………何か問題がございましたでしょうか?」
やんわりと笑って反抗的ではないことを示す。ユウト自身、どうしてここまで怖い剣幕で問い詰められているのか不思議なのだ。
「学生証を見せてもらおうか。」
「……はい、わかりました。」
胸ポケットから学生証を取り出して男に渡す。
内心、ユウトは焦っていた。問題はここにいることではなく、ここに
取り上げるように学生証を受け取った男は、早速名前欄に目を移す。
「カイヅカ…………ふむ。」
男の眉間に皺が寄ったのを、ユウトは見逃さなかった。やはり今の状況は芳しくない。
男は後ろを振り返り、エレベーターの階層ボタンを見る。ユウトがどこへ向かっていたのかを確認したのだ。
もう一度ユウトを吟味する。背中に背負う、竹刀が入っていそうな包みも気になっている。
「もう一度問おう。どうして君がこんなところにいるのかな?」
今度の質問は、先の質問とは含まれている内容が異なる。
要するにこう聞いているのだ。カイヅカの人間がこんなところで何をしているのか、と。
リーン、と独特な電子音とともにエレベーターの扉が開いた。ラウンジに着いたのだ。
男は目線でユウトに出るよう伝えた。ユウトは逆らうことなくエレベーターの外に出る。
高塔の展望台のように、それはもう壮大な光景が広がっていた。外に出るスペースも確保されており、固定型の望遠鏡なんかも置かれている。遠くの山々、地平線までも一望できる。
「ここから見る景色は綺麗だと聞いたものですから。」
ユウトの回答に、男は頷きも再度問いただすこともしない。ただ、真意を見定めるかのような鋭い視線を固定している。
するとそんな時、
「やあ、久しぶりだね。」
年齢を感じる男の声が二人の間を通り抜けた。
現れた、というよりは、元々ラウンジにいた老いた男性がこちらに向かってゆっくり歩いてくる。
六十は過ぎているだろうが、姿勢正しく歩いてくる様は若々しい。物腰柔らかそうなにっこり顔は、この男性の性格が滲み出ていることをよく表している。
「私のことを覚えているかね? ユウト君。」
老人がユウトの名を口にしたことに、男は驚いた様子だった。
ユウトも内心驚いている。何故なら、この老人のことを全く知らないからだ。
平静を保てたのは、老人がユウトと男の間に割って入ったタイミングで、老人が男に見えない角度とタイミングでユウトに軽くウインクをしたからだ。
老人はユウトの両肩に手を置き、再会を喜んでいる様に装う。その間、ユウトは老人から目を離さなかった。そして、老人もユウトから目を離さなかった。
ユウトは直感した。この老人の真意はどうあれ、敵意はないと。
「バッハ先生、彼とお知り合いなのですか?」
男は思わず老人に質問をした。
これは幸運だ。ユウトは老人の名前すら知らないのだから、これ以上傍観されていたらボロが出る危険があったのだ。
「そうですよ、彼とは以前会ったことがあってね。まあ、彼が覚えているかは別問題だがね。」
「……いえ、お久しぶりです。バッハ先生。その節はお世話になりました。」
「いやいや、ご家族は元気かね?」
「ええ。おかげさまで。」
慎重に言葉は選んだつもりだったが、どうやら男を上手く騙せたようだ。
「すまないが、彼と久しぶりに話をしたいのだがね、よろしいかな?」
「……はい。」
男はユウトに学生証を返した。
「色々と申し訳なかった。これからの学校生活、十分に楽しんでくれたまえ。」
「ありがとうございます。」
ユウトは軽く会釈で返すと、バッハと名乗る老人と共にエレベーターに乗った。
「先ほどは、大変助かりました。」
「いいんですよ。お気になさらず。」
屈強な男を残し二人がエレベーターに乗り込んだ後、バッハが八階のボタンを押したため、すぐさまエレベーターは動き始めた。
「どうして僕のことをご存知なのでしょうか。」
別に敵意がある訳でなく、純粋にそのことが知りたかったのだ。
「私の名前はダンテ・バッハ。この学校で音楽教師をしています。非常勤ですがね。」
可愛らしく笑ったバッハを見て、ユウトは自分の過ちに気付いた。
「失礼しました。まずお名前を伺うべきでした。」
助けてもらったというのに、こちらの勝手な質問を先に通すのは道理に反している。
「頭をお上げ下さい。ユウト様。」
「様はよして下さい。」
バッと頭を上げたユウトの顔を見て、どこか思いふけったような表情になったバッハは、
「わかりました。私も悪ふさげが過ぎました。ではさっきみたいに、ユウト君、でいいかな?」
「はい。ありがとうございます。」
エレベーターが止まり、八階に到着した。七階から一気に最上階を目指したユウトは、まだこの階に足を踏み入れたことがない。
バッハは先に降り、躊躇いもなく歩き始める。どこかへ向かっているのだろうか?
「最初の質問に答える前に、君はもう少しご自分のことをしっかりと認識すべきです。君が知らなくても、相手が君の顔と名前を知っていることは、何ら不思議な事ではないのですよ。」
「……。」
反論の言いようもない。確かに、その点の認識はズレていた。
「けど、私が君のことを知っているのは、それだけが理由ではありません。」
バッハはその続きを話す前に、足を止めた。
目的地に辿り着いたのだ。
上に目を向けると、『音楽室』と書かれていた。
鍵を取り出して開錠すると、ユウトに入るよう促した。
音楽室特有の防音壁によって、耳に触る空気が重苦しくもあり、またどこか清廉さを感じる。
思った以上にこじんまりとした部屋で、大人数で大合唱は出来なさそうだ。
「音楽室とは名ばかりでね、実際音楽の講義はないのです。じゃあどうして、と思うでしょ? 逆に質問しますが、小中高関係なく、どの学校にも音楽室というのは設けられているのですよ。カリキュラムに関係なく。何故だかわかりますか?」
「…………。」
言われてみれば、自分が通っていた高校では、音楽の授業などなかったのだが、音楽室があった記憶はある。当然のように疑っていなかった事実に、何か理由があるのだろうか。
「音楽というのは、古来から軍事と関わりがあったのです。」
「……確かに、現代のような電子機器や無線技術がなかった時代では、編隊の号令や合図を音で伝達していたとされています。」
「そうです。号令や合図以外にも、軍事パレードなどの催しで必ず音楽は必要となります。自分たちの行為を正当化し、盛り上げ扇動し、民を洗脳し、まるで正義かのように見せるのに、音楽はうってつけのカモフラージュになるのです。」
「そうかもしれませんが、それは行使する側の都合であって音楽そのものに善悪も優劣もありません。」
ユウトはキッパリと自分の意見を述べた。
バッハは少し驚いたようで、ユウトを振り返った。
「僕は音楽が好きです。それは、大きな可能性を秘めているからです。メロディーは演奏側の意図に関係なく、聞き手の心を揺さぶります。どんなに演奏側に伝えたいメッセージがあったとしても、その意思を聞き手が汲み取るかはわからないし、別の解釈をしてしまうかもしれません。これはまるで一種の言語、コミュニケーションツールだと思います。投げかけた言葉に表と裏の意味があり、相手がどう受け取ったかがわからないのと同じことです。しかし、音楽の素晴らしい点は、言葉に音楽を乗せることで言葉に七色の意思を付与できることです。不思議と、音楽に乗せられた歌詞は人々の心に深く浸透し、心を動かします。これは、鋭い刃よりも、突き刺す弾丸よりも強力な手段なのだと、僕は思います。確かに恣意的に悪用される側面は否定できませんが、秘めたる大きな可能性に、僕は希望にも似た感情を抱いています。」
胸に手を置き、一歩バッハに詰め寄り、ユウトは音楽について私見を語った。
悲しい、と思ったのだ。きっと音楽に身を捧げたであろうこの人が、あんな風に音楽を評価してしまう現実に。
しかし、言い終わってから少しだけ後悔の気持ちを抱いた。自分の気持ちをはっきりと述べることはもちろん大切だが、これではバッハの気持ちを否定しているように捉えられてもおかしくない。
「……やはり、君はアヤコ様のご子息なのですね。」
だが予想に反して、バッハが見せた感情は、懐古であった。
「母を知っているのですか!?」
アヤコとは、ユウトの母、カイヅカ・アヤコの名前だった。
「私の家は古くからずっとカイヅカ領で暮らしていて、音楽一家でした。父と同じ道を選び、様々な場所で音楽を教えていましたが、そんなある時、私の評判を聞いたアヤコ様が、直々に私の家にやって来たのでした。周りのお世話役やボディーガードまでも振り切って、転がるように訪れてきた天真爛漫な少女のことは、今でも鮮明に覚えています。アヤコ様が十五歳の頃でした。」
バッハは、あの時のアヤコの面影をユウトに重ねていた。
「そこから数年の間、私はアヤコ様にピアノやヴァイオリンを教えていたのですが、実際は楽しくおしゃべりしている時間の方が長かったんです。妻には早くに先立たれて子供がいなかったものですから、私もつい楽しくて、お陰でアヤコ様の腕は全くと言っていい程上達しませんでした。アヤコ様がいらっしゃらなくなってから、しばらくは手紙のやり取りが続いて、最後にお会いになったのはアヤコ様の結婚祝いの式典の時でした。入退場の音楽を演奏してほしいとお誘いを頂いた時は、それはもう嬉しかった。…………そして十五年前のあの日、火事が起こった。」
そう、十五年前のあの日、カイヅカ家は火事に襲われ、ユウトを除いた全ての親族が死んだ。当然、その中にユウトの母、アヤコも含まれる。
「火事前後の
バッハの表情は、段々と険しくなっていった。怒りではなく、ユウトを諭すような表情だった。
「真相の認知の有無に関わらず、この一件を黙認し騒ぎを起こさない代わりに今の自由を手に入れた、これが私の見立てです。」
「………………。」
ユウトの表情から、バッハは自分の考えが的外れでないと悟る。
「先ほどの男の名前は、オリヴィエ・アリーナ。この学校の校長であり、今のフシミ家の当主でもあるフシミ・サイの手の者です。どうして彼が、君がカイヅカの人間だと知る前からしつこく聞いていたのかというと、この学校は七家門出身者が多く、また七家門の要人がここを訪れることも珍しくありません。つまり、スパイまがいの学生を送り込んで、お互いの腹の探り合いが行われているのです。そしてこの学校では、子供達の評価が家の評価に影響し、特に七家門はお互いの威厳のためにも子供には期待と責任を懸けています。もちろん、どんなに汚い手段も厭うことはありません。」
バッハはユウトに近寄り、両肩を強く握った。
「君は、ここにいてはいけない。フシミ・サイは、君にあらゆる嫌がらせや妨害行為を繰り返すことでしょう。いや、そんな程度で済めばいいけれど、そんな程度では済まないことが起こるかもしれない。フシミにとって、カイヅカの存在がどうなのか真意はわかりませんが、快く思っていないのは確かです。ただでさえ君は周囲から目を引く対象なのだから、何かが起きてからでは手遅れなのですよ! 軍人になりたい訳でもないのでしょうに。」
バッハは、初対面の人間に、ここまで親身になって忠告までしてくれる。そしてユウトが軍人になる気がないことを言い当てているのは、カイヅカ家の人間の人となりをよく理解しているからだ。
「バッハさん。本当に、ありがとうございます。でも、大丈夫です。」
「?」
「僕は、僕には、どうしてもやらなくてはいけないことがあるのです……僕は、ここまで育ててくれた家族のために、真実を知らなければなりません。僕だけでなく、彼女達の人生もあの日を境に狂ってしまった。もしかしたらそれ以外にも影響を被った人がいるのかもしれない。そんな人達がもう望んでいなくても、それで現実が変わる訳でもないけれど、過去に一片のわだかまりも抱かないまま、前を向いて生きて欲しいのです。それがきっと、僕の目指す未来に繋がるはずだから。」
「……未来……?」
ユウトは一歩後ろに下がり、肩に下げた竹刀袋を服を脱ぐように頭から外して、結び目を
誠意には誠意をもって返礼する。彼には自身の秘密を話してもよいと、ユウトは思った。
これが、バッハのいうユウトがここにいてはならない理由なのだが、ユウトはそれでも自分のこの性質を恨んだことは一度もない。
袋から出てきたのは…………
「僕の目的は――――」
4
私の名前は、ナギト・メーク。
七家門メーク家の次男として生を受けた。今年度から晴れて、かの有名なエーデルシックザール軍事学校へ入学する事となった。
メーク家は、七家門の中でも建築に精通しており、魔界との境界に高壁を気付いたのもメーク家の先祖である。
高壁に接した領土を所有・統治しており、海に面するフシミ領とはハルバート領を挟んで隣だ。
建築や不動産と言えば、どこか怖いイメージを抱く人が何故か一定数いるが、メーク家は至って穏やかな家系だ。現在の七家門の中では穏健派の筆頭であり、かつてはカイヅカ家とも唯一関わりがあったらしい。かつてのカイヅカ家は、とても七家門のイメージとは程遠く、金や政治、権力に全く興味がなく前時代的な生活をしていて、他の七家門から疎まれていたのだが、メーク家とだけは細く親交が続いていた。
その影響か、フシミ家が代わりに台頭してからも親交は残っており、フシミ領の都市開発のために兄がフシミ領で暮らしている。おかげというべきか、学校の寮に移り住むことなく、兄夫婦の自宅から通うことになっている。
特に当たり障りのない入学式。
午後のオリエンテーションまで時間があるため、試しに学校の食堂を利用することにした。
想像の斜め上を行く品揃いと味の品質に、こんなものを学生証の提示だけで毎日利用できるのなら、弁当を持ってくるなんて人はいないだろうと考えた。
今日は絶好の晴天。突き抜けるような青空は、見ているだけで清々しい。
テラスでコーヒーをゆっくりと楽しみ、少し早めに教室へ移動することにした。
こういう時気さくに話せる友人というものがいれば、と思ってしまう。七家門出身者の大半は、驕り威張り他人を対等に見ようとしない差別主義者ばかりだ。これは過去から脈々と受け継がれてきた伝統に近く、今更これをどうこうできる問題ではない。私が彼らと違う、とは言いづらいが、どちらにせよ七家門の存在は一般人にとっては絶大だ。どんなに双方が努力しても、埋まらない溝が存在してしまう。今までがそうだった。必ず向こうが私に気を使ってしまう。無理もないと思う。私が本当は腹黒い存在で、七家門に逆らった瞬間に一家全員が殺される可能性だってあるのだから。そんなイメージを植え付けた、我々七家門の業とでも言うべきだろうか。
オリエンテーションが行われるのは九階。校舎の壁面をなぞるように廊下が広がっており、満遍なく四箇所エレベーターが敷設されている。また中央を分断するように伸びた廊下にもエレベーターが見え、計五つのエレベーターが校舎の主な移動手段だ。
一クラス二十人前後と聞いていたが、思いのほか広い教室がマップ上このフロアに五つある。新入生は三クラスであるため、二つは空き教室ということになる。
各教室の入口上部には、その教室の番号が振られた標識のような小さい看板が埋め込まれている。
91、92、93…………、初めの『9』は階層、次の『1〜5』の数は部屋番号をそれぞれ表しているのだろう。
ここで、オリエンテーションが行われるのが九階とは聞いていたが、肝心のどの教室かを知らないことに気付いた。パンフレットを見返すが、特に記載はない。掲示物も見当たらない。向こうの手配ミスだろうか。
とりあえず、全ての教室を見て回ることにした。
既に三十分前ということもあって、パラパラと教室には学生が座っていた。順当にいけば91講義室がAクラス、92講義室がBクラスのはずだ。念の為94講義室も覗いてみよう、そう考えた。
案の定、91から93には学生が居たが、94講義室は無人だった。ついでに95講義室も見てみることにした。
正門から入って一番近いエレベーターから移動すれば、最も遠くに位置する95講義室。アクセスの悪さからあまり使われないどだろうと考えたが、予想に反して何やら物音が聞こえてきた。
それは、物音ではなくて、人の声だった。
「オラッ!」
「ハハッ!」
「何とか言ってみろよ!」
そして、鈍い音。
連続して聞こえてくる。
下卑た笑み、耳障りな笑い声。
ドアから教室内を覗かなくとも分かる。
誰かが誰かを虐めているのだ。
珍しい光景ではない。特にここのような貴族の人間が多い場所では、所構わずこうだ。彼らにとって下の者を虐げるのは、息をするのと同じことだ。
見ていて気分が悪い。よく平気な顔して他人を傷つけることが出来る。自分が同じ七家門として同列に考えられるのが、恥ずかしいし心外だと思う。
そう思って、そう考えて、私は踵を返して立ち去ろうとした。
その時、誰かがふわりと音もなく、自分の真横を通り過ぎた。
真後ろに他の人がいた事にも驚きだが、きっとそんなことよりも別に驚いていることがあることを、少し後になって気付いた。
教室の扉にかける彼の手には、一切の迷いも躊躇もなくて、まるで背を向けた自分へのメッセージのように感じた。
これは素晴らしいことでも珍しいことでもなくて、当たり前のことなのだと。
ガランッ! と彼が力強く教室の扉を開け放った。
視線が一点に集まり静寂が訪れ、すぐに均衡は崩れた。
「誰だよ、お前。」
威嚇するような鋭い言葉が飛んだ。
しかし、それを無視して彼は教室をスタスタと歩く。
呆けていた私は、遅れて教室を覗く。
彼は、紫色の細長い竹刀袋を肩にかけていた。野球部がバットを持ち運ぶ時のケースに似ていると感じた。
彼の奥には、うずくまる男とそれを囲むように三人の男。上級生が新入生を虐めているようだ。
三人の男の内の一人が彼に近づく。恐らく威嚇した人物だろう。
「何見てんだよ! 何か文句でも――」
横を通り過ぎる。初めから誰もいなかったみたいに。
誰もが呆気に取られた。一番は彼に近づいた男だった。きっと虐めていた三人組は、いわゆる上流階級の出身だ。彼らは自分達の言うことを聞かない人に、今まで遭遇したことがないのだろう。自分達が下々と違うと教えられ、何でも言えば何でも聞いてくれる環境で育ってきた。だから、自分達が誰かを虐めてるなんて認識もないし、それを他の誰かが止めるなんてこと、初めての経験なのだ。
うずくまっていた男は、よく見ると肌が茶黒系の『色付き』だった。
色付きと呼ばれる人種は少数だが存在し、魔人に近い肌や性質を持つことから現界では忌み嫌われ、彼らの全てが差別を経験している。それでも自分達の生活のために苦渋を呑んでいるのが現状だ。だからうずくまる彼は、何も抵抗しなかった。加えて、黒人が上流階級へ登ることは不可能であり、この学校への入学も奇跡に近い。両親への負担ははかりしえず、借金も多いだろう。
だから、彼はうずくまることしか出来ない。少しでも他の人に色目で見られてしまえば、既に着けられた濡れ衣がどう広がるかは想像に易い。蹴られたって罵声を浴びせられたって、反抗などできるはずがない。
彼の元に歩み寄り、紫の竹刀袋を背負った男は膝を床に付けて彼の背中にポンと優しく手を置いた。その手は、彼の知る暴力や蔑みに染められた冷たいものじゃなかった。誰かを抱きしめ誰かの手と固く握り締め合う、そんな温もりに満ちていた。その事に気付いたのか、最初はビクッと驚いていたが、すぐに顔を上げた。
こちらからでは、二人の表情は見えなかった。
二人は呼吸を合わせたかのように立ち上がった。黒人の彼は、とても大きな体の持ち主で、身長が二メートルを超えるのも珍しくないのが黒人の特徴の一つだ。
「さあ、行こう。」
そう言って、彼の手を取って教室を去る。
いじめていた三人の目の前を通り過ぎ、そして私の前を通り過ぎていった。
彼の目を、一生忘れることはないだろう。
一瞥した時の私に向けた眼差しは、確かに、虐めていた三人へ向けられたものと同じだった。
見ている、介入しない、心の中で否定する。
どれも、うずくまっている彼にとっては、等しく悪なのだと。
そう、私に告げているようだった。
5
同じ教室に二十名の新入生が集まったが、特段騒がしい様子はない。二、三人で話しているグループは少しばかりいるが、基本的には各々一定間隔を空けて座っている。
貴族間での仲良しこよしは、大体表面的なものでしかなく、彼らは自分達の利益のためには他者を蹴落とすことを躊躇しない生き物だ。特定の家族同士で仲がいいことはあるが、ランダムで振り分けられた教室に集まった二十人がいきなり仲良くなるなんてことは、この界隈ではまず有り得ない。今楽しそうにオリエンテーションまでの時間をおしゃべりで潰しているのは、入学以前に家同士で繋がりがあった者達か、入学条件緩和に伴って入学してきた庶民達だろう。
特に、この学校では何より個人成績が重要だ。いくらクラス成績が良くとも、個人主義・非集団主義の彼らにとって、やはり個人の成績の方が気になるだろう。それに家の威信もかかっている。
ピッ、という電子音に続いて、ウィーンと教室の扉が開いた。
話していたグループも着席して静かになった。
「こんにちは。私はこのAクラスを担当することになった、フィアー・クローネだ。」
淡々とそう告げるフィアーは、ピシッとした黒スーツに身を包み、目は細く冷酷そうな一面が垣間見える。スラッとした長身だが、黙って書類を教卓に並べる姿は、静かなようで近寄り難い雰囲気を纏う。初対面の人に、無機質で無関心、そういう印象を植え付けさせる人物だ。
「これから端末と資料を配ります。」
それだけ述べて、前の席に座る学生達に、適当な個数と枚数の端末と資料を渡していく。
前方から流れてきたのは、現界に普及している携帯端末と同じもの、それに加えて冊子状の資料だ。
「資料に端末の起動及び初期設定について、端末を用いた学校運営システムの詳細が載っています。各自目を通しておくように。」
パラパラとページをめくる音が聞こえる中、フィアーはテキパキと私物をまとめ、両手に持った。
「本日のオリエンテーションは以上です。周りのクラスはまだ終わっていないので、迷惑のないように。」
「ちょ、先生。これで終わりですか?」
後方から男子学生の質問が飛ぶ。
フィアーは足を止めると、正面を振り向くことなく、
「ええ。そうですが何か?」
「あの……なんか、こう、色々と説明とか…………」
苦笑いしながら質問していたが、対してフィアーは目もくれない。
「せんせー。」
今度は別の男子学生が声を上げた。にやけながら、
「彼ら庶民は何か指示がないと動けないんですよ。勘弁してあげて下さい。」
クスクスクス、と小さな笑いがちらほらと起こる。
「そのようですね。くれぐれも、私に迷惑がかからないように。」
フィアーの口調は、先程の男子学生に対するものとは異なっていた。
教室の扉が閉まると、最後にフィアーに話しかけた男子学生が声を上げた。
「このまま解散でもいいが、どうだろう、ここは自己紹介といかないか?」
スッと立ち上がると、優雅に壇上へ上がり中央まで進んでみんなの方を向く。
「当然、言い出した者が先に述べるべき、と言いたいところだが、まあ、俺の紹介は不要さ。そう思うだろ?」
クラスに集まった他の者の意向など気にも留めず、言いたいことを口にしていく。
そしてクラス全体をゆっくりと見渡し、表情を伺う。
「ああ、そこの君、そうそう、さっき先生に質問した君さ。」
「…………?」
どうして彼を指したのかというと、彼は壇上に上がった男子学生のことを知らなさそうな顔をしていたからだ。
急に出てきた男子に急に指名されたため、困惑した表情を返す。
「君は、僕のこと知ってる?」
「……いえ、存じませんが……」
若干不満が溜まってしまうのも、彼目線ではしょうがないことだ。自信ありげで鼻につく初対面の同級生に、俺の名前は?、と聞かれてもそれは知りようもないことで、このやりとりの不毛さに嫌気が指してきたのだ。
「うんうん、まあいいさ。」
回答が何であろうと、まるでどうでもいいかのような適当な様子も、より一層彼の気分を損ねた。露骨に顔には出していないが、明らかに今の状況を快く思っていなかった。
そんな彼の様子をよそに、再びみんなの方を向く。
「俺の名前は、フシミ・シンジロウ。この一年間、どうぞよろしく。」
教室内がざわつく。
しかしよく見てみると、一部の者達は一切驚いた様子はない。
この二分した状況こそが、シンジロウがこんなことをしている理由なのだ。
「ご存知の通り、このフシミ領を治めるフシミ家の者であり、この学校の校長、フシミ・サイの息子である訳だが……どうやらそんなことも知らない人がいたようだ。」
やれやれと大きなため息をこぼす。
「さっきの君、名前は?」
丁寧な言葉使いの裏には、先刻とは異なる威圧感が込められていた。
シンジロウの名前を聞いて、一気に血の気が引いて真っ青な表情の彼は、椅子を大きく揺らしながら立ち上がる。
「わ、私の名前はタナカ・リクトです! 先程は大変ご無礼を! フシミ・シンジロウ様!!」
机に擦りつける勢いで頭を下げる。
シンジロウが口を開くたったの二秒間が、リクトには百倍の時間に感じていたことだろう。
「おやおや、僕の領民だったのか。いや~これは申し訳ない。君が俺を知らないってことは、俺の努力不足ってことだよな。うんうん。」
「い、いえ! 決してそのようなことは!」
シンジロウはにっこりと笑っているが、内心は笑ってなどいない。
そのことが、逆にリクトに恐怖を植え込んだ。
「座れ。」
急に低い声音が響いた。
リクトがゆっくりと面を上げると、真顔で睨むシンジロウが映った。
咲いた花が萎んでいくように、彼は小さく、そして音を立てないように着席した。
「この学校は、より大きな発展のため、今年度から入学者数を従来のおよそ三倍まで増やした。今後ますます増えていくことだろう。」
シンジロウは壇上をゆっくりと右へ左へ歩き始めた。
「そうなると、当然一般領民達が多く入ってくる。これはいい。問題なのは、彼らが勘違いしていることだ。いいか、
今年度は七家門の内、ソー家以外六つの家門から一人ずつ入学している。
現状クラスは三つあり、この六人は二人ずつ別のクラスに配属された。主に彼らを中心としてクラスをコントロールし、個人成績とは別にクラス順位を競い合う。一般領民出身の彼らは、いわば上の階級の人達の持ち駒なのだ。
「そのためには、まず互いの身分の違いをはっきりさせなくちゃあな。彼のように勘違いをしたままだと、甚だ気分が悪い。だから、ここで自己紹介を行うのさ。わかってもらえたかな?」
元々エーデルシックザール軍事学校は、いわば貴族の人達しか入校できない仕組みであったため、入学者は十余名程度と少なかった。入学者を増やしたところで、上流階級出身の入校者が増える訳ではなく、そのほとんどが一般領民出身の者達だ。そのため、クラスを構成している二十人の構成としては、半分以上が一般領民なのだ。
実際、シンジロウの話を普通に聞いている者は片手で数える程度で、物腰低くシンジロウの機嫌を損ねないようにして聞いている者が大半だ。
「よし、それじゃあ早速、学籍番号の順にその場に立って、自己紹介をしてもらおうか。」
シンジロウは壇上にいるまま、クラスメートの自己紹介が始まった。
「学籍番号一番、アリス・ルージュです。メーク領出身です。宜しくお願い致します。」
シンジロウの話を聞いた後であるため、声が震えており、逃げるように着席した。
「二番、アバン・イグーシオ。よろしくお願いします。」
「おや、イグーシオ家のアバンくんじゃありませんか。お父上の事業は常々聞いております。スターライドの方と同じクラスではないのは、こちらとしても大変心苦しいですが、これからどうぞよろしくお願いします。」
ぼそぼそと一方的に喋って、ぺこりとそれとなくお辞儀をした後アバンは座った。
イグーシオ家は、七家門の一つスターライド家の出身者が経営する一つの企業において、重要なプロジェクトを幾つも大成功に導いたことで有名となった一家だ。スターライド家とは親交が深く、良家の中では彼らに関心を持つ者も少なくない。
シンジロウが反応して挨拶までしたのは、イグーシオが貴族家庭の出身者だからに他ならない。学籍番号一番のアリスは、メーク領出身の一般領民であるため、何も反応しなかったのだ。
フシミ家は、七家門と言えどまだ日が浅く、横の関係を多く獲得するのは家門出身者であれば当然の責務である。フシミ・サイがこの学校を設立し、フシミ・シンジロウがこの学校に入学した理由の一つでもある。
会話が終わった頃を見計らって、次の学生がその場に起立して、自己紹介を再開した。
名前、出身領、簡単な挨拶を済ませると、若干の間を置いて着席し、さらに間を置いて次の学生が立った。
シンジロウは、微笑みを絶やすことなく自己紹介を聞いている。表情を変えない点が、かえって彼らに薄気味悪さを植え付けた。
立つタイミング、座るタイミング、礼儀作法、言葉遣い、自己紹介の内容。一つでも粗相があれば地雷となって己が身に降り掛かるだろう。特に、先程のシンジロウの話が舞い上がっていた新入生気分というのを一掃し、緊張と恐怖が彼らの心を支配していた。シンジロウだけでなく、自分の一つ前に自己紹介をした学生とも、言葉を介さない意思疎通が芽生え、互いに座るタイミングと立つタイミングを共有していた。
しかし、この独特な雰囲気を壊した者がいた。
「学籍番号五番、アンジェシカ領出身のエミリア・スカーレットよ。せいぜい私達を楽しませる事ね。」
エミリアは閉じた扇子を片手に持ち、腕を組みながら高らかにそう言った。
たったの一言で、彼女の言葉に込められた高慢な自信と蔑みが伝播した。そしてこれは、壇上のシンジロウと他の同じ階級の学生に向けられた言葉ではない。
「スカーレット家のエミリアさん。お久しぶりです。」
「こちらこそ、ご無沙汰しております。エミリア・スカーレットです。以前お会いした頃からお変わりないようで。またお会いできたこと、そして同じクラスメイトとして一年間共に過ごせること、大変嬉しく思っております。」
シンジロウが話しかけると、エミリアは改まって礼を尽くした。勿論扇子は机に置き、両手で軽くスカートの端を持ち上げる仕草を見せた。入校式用に用意された制服は、男女で多少の違いはあれど、スカートではなくズボン仕様は共通だ。一連の所作は、彼女が公の場やパーティーなどで見せるものだろう。
シンジロウが会話を持ちかけた、それに応えるような上品な礼儀。これだけで、エミリアが一般領民とはかけ離れた存在なのだと理解できる。
「ご両親やご姉妹はお変わりないですか?」
「はい。私がこの学校に入学できたこと、大変喜ばしく感じておられました。シンジロウ様と同じクラスだと知れば、舞い上がってご近所に言い回ってしまうかもしれません。」
「ハハ、ご婦人ならやりそうな事です。今度はご家族揃ってお会いできる日を楽しみに待っています。」
「はい、喜んで。…………ところで、」
不自然にそこで言葉を区切ると、明らかにエミリアの目つきが変わった。シンジロウと会話をする前、それよりももっと侮蔑を込めた眼差しを、シンジロウとは別に向けた。
そう、群衆に対するものではなく、特定の個人に対する眼差しだった。
「お父様のご意向は素晴らしいものですが、あのような下劣な人種と同じ空間にいるなんて、いささか理解に苦しみますわ。」
凍るような冷たい声だった。
前方左端の席に座っていた色付きの彼は、体をビクッと跳ね上げると、恐る恐る後方の声の主を覗く。
「……!!」
目が合った瞬間、顔を正面に戻して伏せた。
誰かに対しての言葉じゃなくて、自分に向けられた言葉だった。
「チッ。」
彼女の舌打ちは、静かな教室に大きく響いた。
扇子をバサッと開き口元を隠すと、通路の階段を一段、また一段と下る。
その音は、徐々に彼に迫る。
そして、止まった。
「謝りなさいよ。」
彼は俯いたままだったが、その頭上から無慈悲に告げる。
誰からもその表情は見えないが、言い淀んでいるようにも見えた。
「ほら、謝りなさいよ。」
「…………も、申し訳、ございませんでした。」
視線を上げることなく、彼は謝った。
「何が。」
「…………わ、私が、目、目を、合わせてしまった、ことに、です。」
「…………。」
返答の代わりと言わんばかりに、コンコンと片足の爪先を床に打つ。
意図を全く理解していない彼は、沈黙を続ける。
痺れを切らしたエミリアは、呆れるように大きな溜息をついて、
「それが謝る態度?」
もう一度床を鳴らす。
「…………。」
今度の沈黙は、意味を理解した後のそれだった。
目が合っただけ、ただそれだけで、どうして額を床につけて頭を垂れる必要があるのだろうか?
この問いは、本質的には無意味だ。何故なら、事実がそこにあるだけで、意味など最初から存在しないからだ。
これが、彼らの現実なのだ。
「…………はい。」
本当に小さな声だった。
きっと周りの数人にしか聞こえなかった、体躯とは真逆のか弱くか細い、小さな泣き言のような悲鳴。
彼は、ゆっくりと席を後ろにずらしながら――
「ねえ。」
トントン、と、彼の肩を誰かが優しく叩いた。
何気ない一言は、張り詰めた緊張空間を異様に波打った。
全員の視線が、彼の後ろに座る学生に集中した。
「次は僕の番だよ。」
彼は音もなくスっと立ち上がった。
(彼は……)
教室の対角線上の反対側に座るナギト・メークは、今立ち上がった男に見覚えがあった。
何を隠そう、つい先程出会ったばかりなのだから。
「君の学籍番号は、僕の次でしょ?」
「…………え……?」
今のこの空気や雰囲気を全く意に介さない質問が、かえって彼の理解を苦しめた。
「さっき君の名前を聞いたからね。渡された端末の初期設定を済ませると、クラスの名簿が見れるよ。ほら。」
端末に映る在籍学生一覧を見せる。
「え…………あ…………――」
最初はより困惑な表情を強めたが、端末を見た後の彼の表情は、一気に驚愕へと変わった。
遡ること数十分前。
いじめられていた自分を助けれてくれた後、彼に名前を聞かれた。
「君の名前は?」
「わ、私の名前は……サイアド・ハック……です。」
「クラスは?」
「……A組です……。」
「お、僕と同じだね。一緒に教室に行こうよ。」
ハックは、そう言って自分を促す彼から、目を離せなかった。
だって、こんなにも優しく問いかけてくれる人を知らなかったから。私達に掛けられる言葉は、いつも差別的な言葉か命令のどちらかだった。
だって、こんなにも私の目を真っ直ぐに見つめて話をしてくれる人を、村の人以外で知らなかったから。いじめずに優しく接してくれる人は今までもいた。しかし、私を見る目は同じ目線になかった。
まるで、人生で一度見れれば奇跡と言われる程の絶景を目の当たりにしたかのように呆ける私を見て、彼は笑った。
ふと、思い出したのだ。
彼の名前を聞いていなかった、と。
それは意図せずして叶えられた。
本人からクラス名簿を見せられることで。
サイアド・ハック。それが私の名前。
その一つ前に記された、名前を、私は見た。
「……ねえ、あんた誰?」
エミリアは見開いた両目で、ギロっと彼を睨みつける。自分を無視して話を進められることに苛立ちを募らせていた。
そんな彼女をよそ目に、彼は自己紹介を始めた。
「学籍番号六番、カイヅカ・ユウトです。どうぞよろしく。」
(カイヅカ!?)
ナギトは思わず立ち上がりそうになった。
その気持ちは他のクラスメイトも同じなようで、シンジロウが自己紹介をした時よりも教室がどよめいた。
カイヅカ家。
十数年前までは七家門の一つであり、カイヅカ邸宅全焼事故によって没落してしまったのだ。しかし、没落という表現は適切ではない。一家全員が火事によって死亡したのだ。途絶えた、滅びた、という表現の方が適当だろう。
カイヅカ家は、七家門の中で異質な存在だった。
七家門とはとても思えない程、庶民的だったのだ。
支配や差別とは無縁の温厚さと懐の深さを兼ね備え、領民と同じ目線に立った統治を行っていた。また、文明の発展に殆ど興味を示さず、前時代的な生活圏がカイヅカ領では築かれていた。
(カイヅカ家の人間は、全員死んだと聞かされています。まさか生き残りがいたとは。)
火事以降、カイヅカ領の統治を引き継いだのが、元々カイヅカ家とは密接な関係にあったフシミ家だった。
「…………はっ、カイヅカって、まさかあの
衝撃で呆けていたエミリアは、すぐに表情を変えて、ユウトを嘲った。
上流階級の水面下の争いは熾烈だ。没落した家は、弱肉強食の世界の餌でしかない。とことん食い尽くされるのが常だ。一度落ちてから再び過去の地位を得ようとするのは、彼らからしてみれば雲をつかむような滑稽な話だ。
「さあ、次は君の番だよ。」
ユウトは隣で騒ぐエミリアを完全に無視し、ハックに促す。
二人の間に、他者の存在は無かった。
ユウトはハックを見つめ、ハックはユウトを見つめた。
誰も犯すことのできない瞬間だった。
「僕の名前は……サイアド・ハック…………です。」
「改めてこれからよろしく、ハック君。」
「…………」
ハックは、呆然とユウトの顔を眺め続けた。
この時、ハックを支配していた感情が喜びだと言うことを、本人は認識していなかった。
ただ無意識の内に、この光景を、彼の姿を、目に焼き付けておこうとしたのかもしれない。
無視し続けられるエミリアの顔はみるみる歪んでいき、溜まった怒りや苛立ちを一気に爆発させる直前。
パァン!
壇上のシンジロウが大きく一回手を叩いた。
三人を渦巻き騒がしくしていたクラス中が静まった。
「エミリアさん。ここは一度落ち着いて頂きませんか?」
「……………………ええ、そうね。お恥ずかしい所をお見せしました、シンジロウ様。」
平静を取り戻し、華麗にお辞儀をすると自席へ戻った。
最後にキッと鋭くユウトを睨みつけたが、そこですら目をくれもしない彼に、内心苛立ちを募らせたのだった。
「これはこれは、カイヅカ・ユウト様。ご機嫌麗しゅうございましたか?」
「お世辞にすらならない挨拶はいいよ、フシミ・シンジロウ。」
「…………この学校に入学希望を出された時は、正直驚きましたよ。貴方のことは父から聞いています。難を逃れた貴方に新たな戸籍を渡したと。それを捨ててまで今更その名前を名乗るのは、一体全体どういうことなのでしょうか?」
「………………」
「………………」
ユウトとシンジロウは、どういう心境か、お互いから視線を外さない。
探っているのだ。真意を。
「……お父様に、これからお世話になると伝えて下さい。いずれはお会いしたいとも。」
「…………わかりました。…………ところで、貴方は何時から
「ああ、さっき知り合ったんだ。」
ハックが、思わず手を伸ばし、声を出しそうになる。
その質問に対して肯定をしてはいけない。特に、ユウトのような身分の高い者は。自分のような色付きと知り合いと分かれば、それだけで品位を落とす。
この世界には上の者がいて、下の者がいる。上は下を有効に使い、自治領を繁栄させる。その恩恵を下は感じながら一生を終える。これがこの世界の有り様で、常識だ。
変えようのない、絶対的な事実だ。
ユウトは、恐らくはこの後のシンジロウの反応を予測したのだろう。静まり返った教室を歩き、階段を降りていく。
ユウトの回答に、一瞬キョトンとしたシンジロウは吹き出した。
「ハッハッハ、そうでしたそうでした。貴方はあのカイヅカでした。七家門としてのプライドを忘れ、統治も教導も怠り、まるで一日中眠っているかのような、七家門の恥さらし。」
最後の言葉を冷徹に、そして吐き捨てるように言い放った時、丁度ユウトは壇上に上がっていた。
食い入るように、ナギトはユウトを凝視していた。
二人は対峙する。少なくとも、片方はそう思っている。
「カイヅカ・ユウト。地位も力も何もかもを失ったお前が、今更デカイ面しようたってそんな虫のいい話はないぞ。お前はただの一般人で、俺は七家門のフシミ・シンジロウだ。」
今までの取ってつけたかのような敬語すら失い、剥き出しの侮蔑をユウトに向けるシンジロウ。
かつてフシミ家はカイヅカ家に仕えていた。確かに、カイヅカ家が没落したのが十五年前で、当時二人は四歳だった。ユウトとシンジロウは直接会った記憶はなく、シンジロウがカイヅカ家に仕えていた記憶もない。
しかしユウトは、そんな事微塵も考えていない。
ただ一言、言いたい事を伝えに来ただけだ。
「上だけ見ていても、下だけ見ていても、いつか転んでしまう。そんな風に人間はできていないんだ。……シンジロウ、人は前を向いて歩く生き物なんだ。」
「………………は?」
眉をひそめハテナマークを浮かべては、やれやれといったため息を見せつけるようにこぼした。
きっとこの教室にいる誰もが、その意味を理解していなかった。
ユウトは踵を返して壇上から降りた。最後に見せたユウトの表情が、一体どんな感情から現れたのかを、シンジロウは予想すらできない。
ただ、わざわざ変な事を言いに来ただけの一般人という認識で、七家門でも疎まれていた理由がわかった気でいた。
ユウトは自席に戻ると、何事もなかったかのように座った。
続いて、慌てた様子でハックが着席した。
七家門という絶対的な存在。
いくら元は七家門の人間だったとはいえ、今は何の権力もないユウトが、アンジェシカ領の貴族であるエミリアや現七家門の一人であるシンジロウに対して、上も下もない一クラスメイトのように接していたことが、この教室にいる全ての人に何かしらの
その後も自己紹介は続けられたが、ハックの耳には入ってこない。
自己紹介が再開されてすぐのことだった。ユウトの事が気になったハックは、恐る恐る後ろを振り向いた。
ハックの行動に、ユウトは気付かなかった。理由は単純。横を向いていたのだ。
人によっては一生に一度も叶わない愚行を犯したユウトは、呑気に空を羽ばたく白鳥を眺めていた。と、最初は思ったが、髪の影に隠れた瞳には、怒りや哀しみ、葛藤を混ぜ込んだ例えようのない複雑な感情が籠っていた。
ハックは、益々カイヅカ・ユウトという人間の事を不思議に感じたのだった。
彼、そして彼らが、カイヅカ・ユウトの事を理解できるようになるのは、まだずっと先のこと。
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