第55話 旅の終わり。そして、それぞれの明日

 3月31日、朝。

 黒木モータースにて、スタンドに立てられた1台の金色のカートマシンを、同じ色をした髪の毛を持つ少女が丁寧に磨いている。


「ヨシ! キレイになりマシタ」

 ぴかぴかになったホタル号を見て、彼女は満足そうに額の汗をぬぐう。

「ってか、出発の日にそんな汚れ仕事やんなくてもいいのに。ほら、雑巾ウエス寄こしなさい」

  そう言ってベガから油に汚れた雑巾を奪い取る星奈。周囲にはカート部の一同が、彼女の旅立ちを見送るべく集まっていた。


 そう。彼女、ベガ・ステラ・天川は今日まもなく、アメリカへ向けての帰国の旅に出発するのだ。


「アハハ、ヤッパ『ナゴリオシイ』デスカラ」

「ホタル号の引継ぎは任せて下さい、これからもバンバン走らせますから」

 ガンちゃんの頼もしい言葉に、ベガは少し寂しそうな顔ながらも「ウンウン」と笑顔を見せる。


「じゃあホタル号、いつかマタ一緒に走りまショウ!」

 そう言ってハンドルに軽くキスすると、集まってくれた皆に向かって居住まいを正し、彼女らしく両手を広げてお別れの挨拶をする。

「ミナサン、この一年ホンットーにエキサイティングでシタ! ベリーベリーサンキューデスッ!」


 応えて全員が拍手を送る。それが収まると今度は一人一人が彼女の前に進み出て、それぞれの贈る言葉を投げかける。


「美人はモータースポーツに必用な華だ、キミのおかげでプロ気分が味わえたよ」

「アハハ黒木部長。ソレ、セナやミカに失礼デショ? デモ、アリガトウ」

 そう返して黒木とがっちり握手を交わす。

「海の向こうから来たライバルさん、また張り合いましょ」

「ってコトはセナ、大学行ってもカート続けるんデスネ、今度は負けマセン」

 自分をカートの世界に導いた先輩と、コツコツコツと拳を当て合う。


「いやーベガパイセンのおかげで楽しい一年でした♪」

「ワタシモ、ミカのジャパニーズビューティにはカンドーしまシタヨ」

 金髪碧眼アメリカン美少女と和風おかっぱ美少女が、笑顔でハグを交わす。

「本当、言っちゃ悪いけど、特別感が凄かったですよ」

「OH、そんな事言ってタラ、コクサイジンにはナレマセーンヨ、ガンちゃん」

 少しは先輩らしい言葉を送りながら、背の低い少年と握手を交わす。


「一年間よく頑張ったわね、日本での経験を貴方の人生にしっかりと生かすのよ」

「オブ・コース、もちろんデス!」

「俺のアフロにあっさり対応したのは君ぐらいだよ、一年間がんばったな!」

「ジツを言うと、カナーリ驚いたんですけどネェ」

 吉野先生と、黒木コーチと、別れの挨拶と握手を交わす。


 最後に有田 依瑠夏あらた いるかが、迷いのない表情でベガの前に進み出て、ぐっ、と拳を突き出して、作ったような笑顔を見せる。

「また、いつか、必ず!」

「モチロンデス!」

 ゴッ、と音を立てて拳を重ねた後、お互いが見つめ合って……


 イルカが手を下ろしたその瞬間、ベガは一気にイルカの首に抱きついてキスをする。

「ん!? んむッ!!?」

 不意打ちを食らったイルカが困惑し、それでもベガの体をしっかりハグし返すと、そのままキスしたまま固まっていた……が。

「はい、ここまでっ!」

 イルカが慌ててベガを引きはがず。まさにその時周囲の全員がスマホのカメラを構え、シャッターを切ろうとした瞬間だった。


「えー、あと1秒続けてたら、いい絵が撮れたのにー」

「それが嫌だから止めたんだよ!」

「ワタシは別にイイですけどネー」

「はい本人公認ね。んじゃもう一回お願い」

「吉野先生までなに言ってんすかあぁぁぁぁ!」


 最後の最後までドタバタで、そして笑いの絶えなかった美郷学園カート部一同。

 彼女、ベガ・ステラ・天川は、卒業した黒木や星奈と同じく、今日そこから飛び立っていった。


  ◇        ◇        ◇


 白雲和尚の運転するワゴン車で空港に向かいながら、ベガはただただ慟哭し、涙をさめざめと流していた。隣に座る三ツ江夫人がそんな彼女を穏やかな目で見ながら、ハンカチで頬の涙を拭いている。

「ベガちゃん、そう悲しむことは無い。この町をよく見てごらん」

 和尚がそう言うのに応えて、なんとか涙をぬぐって、通り過ぎていく家々を目で追う。

「もう君の知らない町じゃ。当然住んでる人も、そこでの生活も、君の知らん世界じゃよ、それは分かるな?」

「……ハイ」

「これからアメリカまで、君はそんな世界をずっと見るじゃろう。様々な場所で暮らす人々、街並み、習慣、仕事、生活。それらは全て人間の営みじゃ」

 そこで一度言葉を切ると、やや神妙な声で言葉を続ける和尚。


「つまりそれが、君と美郷村との『距離』なんじゃよ。もし君の実家と美郷村以外が全て砂漠や廃墟なら、いくら離れていても隣近所と変わりゃせん」

「……ッ、グスッ」

 それはベガにとっては残酷な言葉だ。別れたイルカと、そしてカート部のみんなとの『遠さ』を、はっきりと示された気がして。

「これからも通過する街並みを、飛行機で超えて行く場所や国を、そこにいる人々をしっかりと認識するがええ。世界の広さをよく知る事じゃ」

 そう、世界の広さ、人の多さがそのまま彼女とみんなの距離の差なのだ。そのあまりに膨大な遠さ、多さ、広さが、ベガには『もう会えない』という絶望を感じさせる。

 

「じゃからこそ、その中で彼らと繋いだ『縁』は大きいのじゃよ」

その白雲の言葉に「……エ?」と顔を上げる。

「世界何億人という人の星の中、君と皆は奇跡的に出会うた。その縁は世界が広がれば広がるほどに、より奇跡の度合いが増すものじゃ」

「ソレって……」

「そうじゃ。世界の広さを知るほどに、彼らとの出会いは君に取って宝物となる。じゃから世の中を広く見て、そんな中で彼らと出会えた運命を、その『縁』をよく噛みしめるとええ」


 確かにそうだ。世界が広くなればなるほど、そんな中で出会った人たちとのつながりはより大切な、そして貴重な物になる。


 世界を知れば知るほど、彼らとの出会いもまた大きく、大切な物となって行く――



 徳島阿波踊り空港。搭乗手続きを済ませたベガが、一年間お世話になった白雲夫妻にお別れをする。

「日本のテンプルでの生活、それもまたトクベツデシタ、いい『縁』がデキマシタ」

「おお、分かって来たじゃないか」

「ありがとうね。あなたがいた日々は、私たちにとっても宝物でした」

「ソレは私もデスヨ……ホタル号モ、そして、ケイさんモ!」


 三ツ江夫人とハグを交わし、笑顔を作って税関をくぐるベガ。

「またのう、いつでも来なさい」

「シーユー、アゲインッ!」


 ――最後は笑顔で、彼女は飛行機の中に消えて行った。


  ◇        ◇        ◇


 そこからのベガの旅は空虚な物だった。飛行機で羽田まで飛ぶ時も、そこからサンフランシスコまでの13時間余りも、どこか心にぽっかりと穴が開いたような気分に囚われていた。

「タシカニ……世界は広いデスネ」

 和尚に言われた通り、世界はとても広かった。そしてそこにも大勢の人がいる事を考えたら、あの田舎の村での出会いはますます濃く、貴重な物となって行く気がしていた。


 そして、彼女にとってはもう一つ、大切な物を見つけていた。

(ダディ、マム、マギ……モウスグ、帰りマス)

 そう。多すぎるこの世界にあって、彼女が紡いでいる『縁』。それは何も旅先の出会いだけじゃない。彼女の根本となる生まれ育った場所、そして家族。それもまたベガが持つ縁の姿なのだ。


 やがてカリフォルニア国際空港に到着、出迎えに来ていた家族にベガが飛びつきハグして再会を喜んだのは言うまでも無い。


 そのまま懐かしの実家に帰った彼女は、時差の睡眠不足もあってシャワーも浴びずに、下着姿のままベッドに飛び込んで眠りに落ちて行った。


  ◇        ◇        ◇


 どのくらい長い時間眠っていただろうか。ベッドで目を覚ましたベガが、懐かしの自分の部屋を見回して、ようやく家に帰って来た事を実感していた。

「……ア、ソッカ。もうココは」

 変わらないベッド、懐かしい柄のカーテン、壁にかかったサーフィンボード、そして、部屋の持つ独特のにおい。

 部屋をぐるり見回して、改めてベガはつぶやく。

「……タダイマ」


 ググゥ~

 同時に腹の虫が盛大に音を立てた。ちょっと照れつつ誰も聞いていなかったことに安堵して、壁にかかっている時計を見る。

「午後4時半、エーット、時差も計算シテ、何時間眠って……マ、イイカ」


 食べ物を探すべく階段を降りる際中、下の居間で弟を見つけて声をかける。

「ネェ、マギ。何か食べるもの無い?」(注:英語です)

「あ、ねーちゃんおはよーって、なんて恰好してんだよ!」(注:これも英語です)

 そういえばブラとパンツのままだった。まぁ家だからいいかと開き直って手すりにもたれかかり下を見る。と、なんか父も母も何やら今をせわしなく動き回っている。


「何してるの?」(注:英語ですよ)

「OH、ベガ、立派に育って」(注:英語ですってば)

「あらあらあら、なんてはしたない」(注:英語(略))

 娘の下着姿を見た父は感動の涙を流して妻に頭を叩かれる。そんな彼らも弟と一緒に部屋の掃除をしたり、家財を移動したりとなにかと忙しそうだ。


「大切なお客さんが来るんだよ、いいから早く服着てきて!」(英語以下略)

 マギに怒鳴られて納得するベガ。ここは何も彼女だけの家じゃない、みんなそれぞれの事情があるものだ。お客さんなら父のビジネス相手か、あるいは弟の進学に関する事柄だろうか。


 リンゴーン、というチャイムの音がして全員が「来た」と反応する。母が玄関へと向かい、ドアを開けて来客者を家に招き入れる。

 隠れるタイミングを失ったベガは、せめてお客を一目見てから2階へ避難するつもりであった……が、その客人を見た瞬間、彼女は階段に設置された女神像のように、動かぬカタマリと化してしまっていた。


「初めまして。今日から一年間お世話になります、イルカ・アラタです」


 深々と頭を下げるその青年を見て、ベガは硬直したままで思わず声を吐き出す。

「エ、エエエエエーッ??? イルカ、どーしてココニ!」

「よ、ベガ。今日から一年間……って、おま、何て恰好ぶはっ!」


 あーあーあー、という呆れ顔をして、ふたりの再会を見守る家族。すこし間を置いた後、全員が大笑いしていた。

「はしたない娘ですいませんねぇ」(注:日本語)

「HAHAHA、責任は取って貰うよミスターイルカ!」(これも日本語)

「あんな感じの姉なんで、ハナヨメキョーイクお願いしますよ」(同じく)


  ◇        ◇        ◇


 イルカは日本にいた時、ベガにどうやってサプライズを仕掛けるかで悩んでいた。思いついたのは彼女のためにレースを企画する事だったが、その案はカートランドの大谷社長に相談した途端、あれよあれよと話が進んでいき、実質イルカの手をはなれてしまった。


(ベガによりサプライズを……意表を突く、彼女以上の行動を……なら)


 彼女以上の行動は無理でも、彼女の行動を真似てはどうか。つまり自分も彼女のいるアメリカに一年間ホームステイする。それなら十分なサプライズになるし、何よりまた一年ベガと一緒に居られる。


 彼女がした経験を、自分も負けずに積んでいく。彼女に相応しい男になるために。


 その決意をして早速行動に入った。とはいえせいぜい来年以降の話になると思っていたのだが、周囲の協力もあってトントン拍子で話は進み、実質帰るベガを追いかける形で留学する事になってしまった。


「一年間もあんな美人がフリーなわけないだろ、行け行け!」

「思い立ったら吉日ですよイルカパイセン」

「英語の成績良くないからねぇ、思い切っていってらっしゃい」

「ウチの実家が投資してくれるみたいですよ」

「しっかりと向こうでラーメン文化広めて来い」

『HAHAHAHA,ミスターイルカならいつでもウェルカム』


そんな感じでイルカの背中を押しまくる一同の、ひとつだけ共通した要求があった。


「「もちろん、ベガにはその時までナイショな♪」」


  ◇        ◇        ◇


「いやー俺、イルカって名前の割にカナヅチだし、泳ぎとかサーフィンとか教えてもらおうと思ってな」

 下着姿のベガから視線を逸らし、頭を掻きながらそんな言葉を発するイルカ。それには構わず、とん、とん、とんと階段を降りてくる音がする。

「英語の成績ワリーしなぁ、本場で暮らしたらよくなるかもって……って、ベガ?」

 聞く耳もたないと言った感じで階段を降り、ずんずんとイルカに迫るベガ。

「か、顔が怖いって……目に光ハイライトが無いから、ちょ、ちょっと!」


 ずいっ、とイルカの目の前まで迫り、光の無い目をやや伏せたまま口角を釣り上げて、おどろおどろしい声で発するベガ。


「イイタイコトハ、ソレダケデスカ?」


 ぞっ、とした悪寒を感じたイルカが(しまった、セリフ間違ったか?)と冷や汗を流し、壁際に追い詰められながらも次の台詞を考える。それを間違えたら、たぶん色々と終わる……


「も、もちろんお前に会いに来たんだよ。ほら、別れる時に約束――」

 イルカは最後まで言う事が出来なかった。ベガに飛びつかれて背中のカベに激突したから。そして右側にぐいつ、と首投げされて、床にどさりと押し倒される。


「その言葉ヲ……待ってマシタッ!」

 歓喜の声と共に、彼を押し倒したまま足をぱたぱたさせるベガ。


 終わったと思っていた夢の一年間。その一番濃いものが、日常に戻ってもくっついてきてくれた。

 遥か遠い所で繋いだ『縁』が、その手をこぼれずに今、自分の所にある。


 そんな幸せをかみしめて、下着姿で彼を押し倒したまま、彼女、ベガ・ステラ・天川は、愛しの彼に、太平洋という天の川を渡って来てくれた彦星に、心からの言葉を伝える。


「I Love You! I won’t let you go!」


 それがイルカの、アメリカで最初に勉強する英語になった――

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