第26話 オイテイカレル

「5位のマシン発見! って、あれベガちゃんか……悪りぃけど手加減はしないぜ!」


 現在6番手のイルカが、前を走る金色のマシンを視界に捕らえてそう吐き出す。自分でも訳が分からないほどにペースアップしている今、このハイテンションな状態を途切れさせたくはなかった。


 新たに得た3コーナーでのテクニックは、彼の走りを画期的に飛躍させていたのだ。

 ひとつのコーナーをより速くクリアできるようになったという事は、必然次のコーナーへの進入速度が上がるという事だ。もちろん『今まで通り』に走るなら、より手前で多めにブレーキをかけないと曲がりきることは出来ない。


 が、イルカも別にこのサーキットを極めているわけではない。なので今までに経験の無い速さで突っ込むという事は、より早いコーナーリングの世界を経験できるという事、今までの自分の限界を超えるキッカケを掴めるという事に他ならない。


 そして、そのコーナーの腕が上がれば、また次のコーナーで新たなチャレンジが出来るという事だ。吸収力の高い若者である彼はそれに次々と対応して、ラップタイムをどんどん縮め続けていたのだ。


 ひとつのコーナーで得た『必殺技』とでも言うべきコーナリングが、全体の走りそのものを大きく引き上げていく。それはレースの世界では、決して珍しい事ではない――


  ◇        ◇        ◇



 ベガが、イルカがコントロールラインを通過する。スタッフが指を二本立てて「あと2周」のサインを出し、二人がそれに答えてチョキを係員に示す。


「イルカ先輩……ハンパねぇ!」

「ベガパイセン、持たないねこれは」


 サインボードを掲げていたガンちゃんと美香が、1コーナーに消えていく二人を見て思わずこぼす。二人のタイム差はもうほぼトップと周回遅れほどもある。さすがに同一周回なので青旗は振られないだろうが、残り二周ベガがイルカを抑え切るのは不可能だろう。


「あんの野郎、どうなってやがる……」

 彼らの隣で国分寺高校の斎藤が、仲間にサインボードを掲げながらそう嘆く。この6周あまりでイルカは国分寺高の選手5人をゴボウ抜きにしているのだから無理もないだろう。

 今まで後塵を拝したことはなかった、自分と同じラーメン屋のライバルに、一気にはるか遠くの先までぶっちぎられた気持ちになっていた。


  ◇        ◇        ◇


(イルカ……キテるっ!)


 1コーナーの出口で、後ろにぴったりと張り付かれているのを確認したベガが、全身をぎゅっと縮めて身震いしながら、それでもなんとかレコードラインを通って2コーナーへと突っ込んでいく。

 彼女を支配していたのはレースの緊張でもなく、長丁場の酷暑レースからくる披露でもない。初入賞を守るためのチームメイトとの攻防のプレッシャーでも、ない。


「イルカに、追いかけられてイル、っ!」


 が、全力で自分を追いかけてきている。そんな状況に体が熱くなる、心が躍り上がる。


 最初は単に名前が、自分の「ベガ」に対して「アルタイル」に近いからというだけだった。日本の七夕の神話になぞらえたらカップルになるカナ? なんて軽い気持ちで。

 だが一度そう意識してしまうと、恋を知らなかった彼女にとってはイルカが特別な存在に思えてきていたのだ。先日のバーベキューでは彼を追いかけまわしてハグした時から、その思いは一層強くなっていた。


 若さゆえの思い込みの恋心。それを今、彼が自分を全力で追いかけてきているというシチュエーションが、激しく彼女の心を刺激していた。


(イルカ……モット、モット近くにキテッ!)


 3コーナーを抜け、裏側のコーナー区間に入る。イルカのマシンはもう各コーナーでベガにノーズをかけるほどに接近し、オーバーテイクも時間の問題かと思われた。


(マダ、マダ抜いちゃダメッ、もっと、もっと一緒に走りタイ!)


 インをつかれてもアウトからかぶせ込み、身を乗り出して抜かれるのを防ぎにかかる。二人のペースの違いを考えたら、一度前に出したらもう再逆転は不可能だろう。


(ベガちゃん必死だな! まぁ5位入賞がかかってっからなぁ。でも、手加減はしない!)


 イルカはそんなベガの乙女心を知ることもなく、彼女とのバトルに集中していた。コーナー区間で抜くのは無理だと察した彼は、最終コーナーのラインをやや大回りに取って、立ち上がり加速を重視して彼女のスリップストリームに入っていく。



「ファイナルラップっ!」


 美郷学園の一同がピットに張り付いて、塊となって1コーナーへと突っ込んでいくチームメイト二人を首を振って追いかけ見届ける。さぁ、どうなる……!?



 ――ギュッギュギャァァァッ――


 二人のブレーキ音が二重奏となって響く。並んでコーナーに飛び込んだ2台が、糸を縫うようにして交錯して、縦になって出てくる。


 前にいたのは……漆黒の、イルカのマシンだった。


「抜いたあぁぁっ!」

「これで7台抜きかよ、なんて、ヤツだ!」



「抜かれタ……デモ、マダマダ。今度ワタシが追いかけまわしますヨ!」


 彼の背中を見て、ベガはまた今までと違う高揚感に囚われていた。順位も入賞も頭にはない、ただ彼と、イルカと……走り続けたい、と。


 そんな彼女の『想い』は、ふたつ先のコーナーであえなく壊れることになる。


 ――ギュインッ――


 3コーナーでイルカはリアを振り出し、見事なドリフトを決めてベガの視界から消える。彼がこのレースで得た必殺技が、二人の距離を大きく引き離す――


(マ、待って……行っちゃダメダヨ、待ってヨーっ!)


 遠ざかっていくイルカの、『彦星』の背中を見て、ベガの心にあった何かが、ぷっつりと、切れた。



 ズザザザザァァァ……


 4コーナーを曲がり切れずにダートに飛び出すベガ。タイヤバリアに軽く接触して停止した時点で、ようやく彼女は自分がレースをしていたことを思い出す。


「ア……終わって、シマイ、マシタ……」


 再び押し掛けして走り出す気力はもう無かった。リタイアを示すサインである両手を上げて、通過していくカートをうつろな目で見送っていく。


(モット……モット一緒にイタカッタデス)



 カートから降りて立ち上がったベガは、そこでようやく自分がめまいがするほどに疲労している事、足がガクガクして立てなくなっている事、そしてレーシングスーツの中の体が、目も当てられないほどにずぶ濡れになっているのに気付いた。


 その場にしゃがみ込むベガ。疲労と脱水症状は自覚している。でも、それでもなお、追いかけられていた時の高揚感と、抜かれて一気に離れていった時の喪失感のほうが彼女の意識を支配していた。


(行っちゃ……いやデスヨ)


 しゃがみこんで顔を伏せる彼女の頬に、ぽつ、と一粒の水滴が落ちてきた。


  ◇        ◇        ◇


「行かせるかあぁぁぁぁっ!」

「往生際が悪いよ、岩熊ぁっ!」


 トップ争いは最終コーナーまで続いていた。MSBの岩熊は予選からの全開走行でエンジンの出力がタレ続ける中、懸命に椿山の追撃を抑えていたが、ついに最終コーナーで破綻が来てしまった。

 並走してストレートに入った瞬間、バキン!という音と共に激しいスキール音が鳴り響いた、岩熊のエンジンがついに焼き付いたのだ。


 チェッカーが振られた。

 優勝、椿山 戸波つばきやま となみ(チームカタツムリ)


 十分な実力を持ちながら、なかなかこのフレッシュマンクラスを抜け出せなかった彼が、ようやく優勝を果たしてオープンクラスへの進出を決めたのだ。



 そして後続車の2台がチェッカーを受ける。その2台目の深紅のマシンを見届けた美郷学園の一同が思わず歓喜の声を上げる!


「いやったぁーっ! 星奈先輩3位表彰台ー」

「土壇場でやりやがった!」

「なんつータナボタだよ、持ってるなぁマジ!」


 3、4位争いをしていた星奈だが、どうしても前のマシンを抜くことが出来なかった。しかし2位の岩熊が最後の最後にエンジンブロー、なんとゴールラインの1m手前でストップしており、僅差で3位に繰り上がってフィニッシュを迎えることが出来たのだ。


 少し間をおいてイルカも4位入賞。が、その後に来るはずのベガは4コーナー出口でマシンを止めていた。

 MSBの岩熊と美郷学園のベガ、土壇場での2台のリタイアは、美郷学園カート部にとって明暗分かれる形となった。


 次々にゴールインする各マシン。猛暑の疲労と完走の達成感を多くの者が味わう中、サーキットに、ぽつ、ぽつ、と水滴が落ち始めた。


「え、雨?」

「やっば、いつの間にか空、真っ暗!」


 山の真っただ中にあるこの阿波カートランド、天気が変わりやすいのは山地ならではだ。

 ほどなく雨足は激しさを増し、たちまち土砂降りの大雨に代わって行った。


「うひゃぁ、こら大変だ。おい、電気工具しまえ!」

「カートにカバーかけろー!」

「レインタイヤ出せ! オープンクラスはウェットレースになるぞー!」


 一気にパニックになるピット。コーススタッフがオイル旗(路面が滑りやすい)を振り、スピーカーが『ウイニングランは中止します、完走者は車検場にカートで集まって下さい』とアナウンスする。


 完走した15台のカートが、焼けたエンジンやマフラーに当たる雨を水蒸気に変えて、白い煙を立ち昇らせながら車検場に向かう。

 が、コースでただひとつ、その場から動かないカートと、その脇でしゃがみこむドライバーの姿があった。



「おい、ベガちゃん何をやってる!」


 観客席から部長の黒木が飛び出す。ピットの連中は突然の雨の対応に追われて彼女が動けないことに気づいていない。まさか、熱中症にでもなったか?


 コースを横切ってベガの元にたどり着く黒木。ピット側もようやく彼女の異変に気付いて、ガンちゃんがカートスタンドとペットボトルを持ってこっちに向かってくる。


「おい! 大丈夫か、気分が悪いのか?」


 うずくまっているベガに声をかける。すでに彼女はヘルメットを脱いでおり、その金髪は雨に打たれてずぶ濡れになっている。


「頑張ったな、今回も完走だ。入賞も見えてきたじゃないか」


 彼女の肩にポンと手を置いてそう励ます黒木。が、そんな彼女が顔を上げた時、黒木は思わず言葉を失った。


 彼女は大粒の涙をぽろぽろと流しながら、顔をくしゃくしゃにしてこう訴えた。


「ワタシ、ワタシ……もっと速くなりたいデスッ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る